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何かが変だ、と思うことはこれまでに何度もあった。
髪を梳いてもらっている時。
その髪が太陽の光で金色に輝いた時。
鏡の中に意地悪そうにつり上がった深い夜のような青い瞳を見た時。
フリルやリボンのついたフワフワのドレスに袖を通した時。
ふいに目線が嫌に地面に近いと感じた時ですらーーー。
その時々の違和感は表現しようがないうえ思い浮かんではすぐに消えていく程度だった。
そのため、気にしないままにこれまで過ごしてくることができた。
その違和感が確かなものとなり、かつその理由を知ることになったのは本当に突然のことだった。
「そうか、君の名前はエレノアというんだね。僕はリアム。リアム・ルイ・ハワードだ」
よろしく、と出された手にすぐに応えることができなかったのは、さらりとした銀糸と青空のように透き通る青い双眸を持つ、幼いながらも美しい少年の笑顔にわたくしが目を奪われたからではない。
「リアム、様?あなたが・・・」
思わず口をついたのは、向けられた言葉への単純な確認だった。
そんなわたくしの不躾な様子に焦ったのはそばにいた父だった。
「エレノア、どうした?リアム様を前にして緊張してしまったのかな?」
父は後ろからわたくしの両肩に手を置いて、心配そうに顔を覗き込んできた。
そんなわたくしたちに対して、わたくしに向かい合うように立っているリアムと名乗る少年とその後ろに控えた彼の父親が困惑顔で直立している。
特に少年は表情を不満そうに歪めるのを隠そうともせず、出していた手をゆっくり下した。
おそらく初対面の相手に対して令嬢らしい挨拶のひとつもろくにできないわたくしを気遣って、善意で出したであろうその手を取らなかったことが大いに不服だったのだろう。
「そのようだな、フローレス。急なことに驚いたのだろう」
少年の隣へと歩を進めた彼の父親は、そんな息子の様子を全く気にした様子もなく快活に笑った。
そのことで幾分かこの場の雰囲気が柔らかいものになる。
さらには気にするなとわたくしに目配せをくださった。
ああ、なんてことかしら。
この場を上手く取り繕うことができず、ただただ目の前の美しい少年を見つめるしかないわたくしを、どうか許してください。
結局、両家の父二人だけで話を進めることになり、その間わたくしたちは言葉を交わすどころか視線を交わらせることもなかった。
彼の様子がその後どうであったかも知らない。
わたくしは別室に案内され、侍女の看病の元ベッドに横になってその話が終わるのを待っていたのだから。
そうしてそれほど時間をおかずにわたくしたちは家路についた。
馬車に乗る際も別れの挨拶はしなかった。
父は馬車の中で驚かせてすまない、と繰り返し繰り返し謝罪してくださった。
けれど、謝罪するのはわたくしの方だということは重々わかっていた。
それでもこの混乱からはなかなか立ち直ることができなかったのだ。
そう、今日は初めてわたくしの婚約者とお会いする日だった。
お相手がどこのどなたであるのか、父は全く教えてくださらなかった。
「会ってからのお楽しみだよ」
そうおっしゃる父の顔は、それはもう素晴らしい笑顔で、お相手が決して悪い方ではないということだけはわかった。
まだ恋というものはよくわからないし、ただただ「仲良くできる方であればいいな」なんて思っていたのだ。
それがまさか、お相手がこの国の王子だなんて、だれが想像できるでしょう。
しかもあの「リアム・ルイ・ハワード」だなんてーーー!!
『マジック☆カルテット』
これはわたくし、いや、わたしが以前遊んでいたゲームのタイトルだ。
わたしはこの世界に生をうける前、今の世界よりもずっとずっと文明の発達した日本という国で暮らしていた。
そこでは、テレビやスマホ、パソコンといったものがあって、映像を小さな箱にうつして楽しんだり、遠くの人と話をしたり、いろいろな言葉や物を簡単に調べたりしていた。
わたしはそういった文明のなかでも、ゲーム、特に乙女ゲームが大好きだった。
乙女ゲームというのはテレビなどを使って、驚くほど美しい男性たちとの恋愛を様々な世界で疑似体験できるものだ。
意中の人物に話しかけアプローチしていくことで好感度が上がると、甘い言葉をささやいてくれたり素敵な笑顔を向けてくれたりする。
しかも一つのゲームに複数の男性がいるため、何度も繰り返しときめくことができる。
残念ながら、現実ではそういった甘い言葉をささやいてくれる男性はいなかったため、乙女ゲームがはかどって仕方がなかった。
なかでもこの『マジック☆カルテット』はわたしが初めて遊んだ乙女ゲームで、なかなかに強く大きなトラウマを植え付けてくれた代物でもある。
バッドエンドを迎えてしまうと、死ぬのだ。
攻略対象が、必ず。
頑張って攻略していても、うまく選択肢を選べない場合、高確率で死んでしまう。
初めて遊んだ時に「リアム」が死んでしまった。
あのときは本当に悲しかった。
乙女ゲームというもので人が死ぬとは思っていなかったから本当にトラウマものだった。
それでもなんとかハッピーエンドを迎えたくて、何度も何度もプレイした。
うまく分岐してハッピーエンドを迎えた時は本当に本当に感動したものだ。
その感動があって、わたしは乙女ゲームにすっかりはまってしまった。
そう、もうおわかりだろう。
わたしはその乙女ゲーム『マジック☆カルテット』の「リアム」に先ほどお会いしたのだ。
ゲームではなく現実に。しかも婚約者として。
転生、という言葉が頭をよぎる。
前の生がどのように潰えたのかは覚えていない。
ただ、今この世界で生きているのはまぎれもなく事実。
先ほどまでは目の前にいたのだ、記憶の中にある立ち姿やスチルを幼く変換した姿そのままのリアムが。
そして、わたしの、わたくしの名前はーーーー
『エレノア・フローレス』
リアムの婚約者にして、最悪の悪役令嬢の名前だった。