一匹狼の親孝行サンド③
その日の夜、夢を見た。アフォガードの海に溺れる夢。
泳いでも泳いでも、エスプレッソが口の中に入って苦くて、やっと陸に着いたと思ったらそれはアイスクリームで、手をかけた端から溶けて崩れていってしまうのだ。
溺れかけていると、なぜか巨大化した菓子先輩がずーんと現れ、
「こむぎちゃん、こんなに小さくなっちゃって! 今助けてあげるわね」
とティースプーンを差し伸べてくれた。
どうやら海だと思っていたのはコーヒーカップの中で、私は小さくなってしまったらしい。
ティースプーンにしがみつこうとしたら、
「先輩、そんな嘘つき助けてあげることないですよ」
と大きな柚木さんが現れた。
「そうだそうだ」
「そのまま溺れてしまえばいいんだ」
気付くと、みくりちゃんやクラスの友達もコーヒーカップのまわりを取り囲んでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。迷惑かけて、気を遣わせて、嘘もついてごめんなさい」
小さくなった私の声はみんなには届かない。
私はそのまま、熱くて冷たいアフォガードの海に、ごぼごぼと沈んでいった――。
*
『小鳥遊さん、昨日買った本読んだ?』
『うん、読み始めたよ! まだ最初のほうだけど、今回も面白そう』
『あたしも読み始めたよ。読み終わったらお互い感想教え合おう! そうそう、昨日言ってた他のオススメ作家の本、明日持って行くね』
『ありがとう! 私も柚木さんがまだ読んでないって言ってた本、持って行くね』
『ありがと。それにしても、最近はメッセージアプリばっかだから、メールのやりとりって新鮮だわ~』
『うっ……。ごめん、面倒かけて』
『謝る必要ないって。スマホの時代にあえて古いガラケーを使うのって、なんか文学的でいいじゃん。じゃ、また明日学校で』
『うん、おやすみ』
朝起きて、昨夜の柚木さんとのメールを読み返す。楽しくてついつい、寝る前まで続けてしまった。
明日学校で。その一文を読んで胸がほっこりあたたかくなる。今日は教室に行っても一人じゃないんだ。話せる人がいるってすごく心強い。……でも。
夢の内容をぼんやりと思い出す。エスプレッソの苦味や溺れたときの苦しさがあまりにもリアルで、こんな時ばかり自分の想像力がうらめしい。
――学校、行きたくないなあ。
友達がいなくても一人ぼっちでも、今まで学校を休んだことはなかった。身体だけは丈夫だから、小学校からずっと皆勤賞をもらってきた。
私は自分が弱い人間だって知っている。だから、一度逃げてしまうともう学校には戻れないって分かっていた。不登校になって、あの子はダメな人間なんだって思われるのも怖い。
結局、私はプライドばかりの、自分のことしか考えていない人間なんだ。菓子先輩や柚木さんに褒めてもらったような私に、本当になれればいいのに。
菓子先輩の優しさ、みくりちゃんの明るさ、柚木さんの強さ。自分にはないものばかり。私もそんなふうになりたい。
約束の本は鞄に入っている。なのにどうしても、それを柚木さんに渡すビジョンが思い描けなかった。
*
結局、身支度にいつもの倍以上時間がかかって、遅刻ギリギリで学校に着いた。ちらりとみくりちゃんの席を見ると、ほっとした顔でこちらを見ていた。今までは早めに登校していたから、私が休むと思って心配していたのかもしれない。
柚木さんはまだ来ていなかった。朝のあいさつができなくて、少し寂しく思っている自分がいた。早く話したいと思ったり、でもやっぱり会うのが怖いと思ったり、会えないなら会えないでがっかりしたり、自分の気持ちが勝手すぎて嫌になる。
チャイムが鳴って一時限目の授業が始まる。遅刻なのかと思ったけれど、柚木さんの席は放課後までぽっかり空いたままだった。
「こむぎちゃん、今日は元気ないわね。ちょっと休憩しましょうか」
放課後の部活の時間。今日は来週の献立を決めるミーティングの日だ。終始ぼんやりしている私を見かねて、菓子先輩が部誌に走らせていたシャーペンを置いた。
「ごめんなさい……」
「ううん、いいのよ。体調が悪いわけではないの?」
「私は大丈夫なんですけど、今日休んでいるクラスメイトがいて……。えっと、昨日初めて話した子なんですけど」
昨日の出来事をかいつまんで菓子先輩に話す。菓子先輩は「まぁ」「こむぎちゃん、すごいじゃない」といちいちリアクションを取ってくれたので、少し照れくさかった。
「昨日は元気だったんです。夜のメールでも何も言ってなかったし。急に風邪でもひいたのかなぁ……」
「心配なら、メールしてみればいいじゃない」
「でも、具合が悪くてお休みしているんだったら、迷惑じゃないですか?」
「そういう時は、心配している気持ちだけ伝えて、返事は体調が良くなってからで大丈夫です、って付け加えればいいのよ。私だったら、風邪で寝込んでいるときにこむぎちゃんからメールもらえたら嬉しいけどなぁ」
「なるほど……」
メールひとつとってもコミュニケーションスキルが必要なんだなぁ。今までメールする機会があまりなかったから気にも留めなかったけれど、これからは文章にもいろいろ気を遣わなくちゃ。
菓子先輩からのアドバイスを参考に短めのメールを送った。ひとつのミッションをクリアしたような、やり切った気分でお茶を飲んでいたら、ポケットの中の携帯電話がぶるぶると震えた。
「えっ、柚木さんから返事だ。早い……」
「こむぎちゃん、柚木さんからは何て?」
「えっと……」
まだ使い慣れないメール画面をスクロールしていく。
『心配してくれてありがと。実は母親の具合が悪くて、心配だから学校休んじゃった。もしかしたらしばらく休むかも。早く本渡したかったんだけどな~。ごめんね』
柚木さんからのメールを読んで、背筋がひやっとした。本人に何もなかったのは良かったけれど、学校をしばらく休まなきゃいけないなんて、お母さんの具合は相当悪いんじゃ……。
「菓子先輩、どうしよう……」
本当はいけないことなのかもしれないけれど、焦って菓子先輩にメール画面をそのまま見せてしまった。
「う~ん」
菓子先輩はメールを読んだあと、珍しく眉間に皺をよせて考え込んでいた。
「柚木さんのお母さまは看護師さんなのよね? だったらきっと病院にはかかっていると思うけれど……。どちらかというと柚木さんが心配だわ」
「私もちょっとメールの元気がない気がしました。お母さんの様子もこれだけじゃ分からないし、でも聞いていいのかも分からないし……」
母親思いの柚木さんのことだ、きっと心細い思いをしているだろう。でももし本当に重い病気だったら、昨日仲良くなったばかりの私が聞いていいものなのだろうか。
「だったら、お見舞いに行っちゃえばいいんじゃない?」
「えっ?」
メールの返事さえためらっている私に、この先輩は一足飛びに大胆なことを言い出す。
「きっと退屈しているだろうし、こむぎちゃんの持ってきた本を届けてあげたら喜ぶんじゃないかしら。柚木さんの家の場所は知ってるんでしょ?」
「昨日、ピーチ通りの近くのアパートだって言ってました。隣にコンビニがあるからすぐ分かるって」
でも、さすがに迷惑なんじゃ。私がぐずぐず迷っていると、菓子先輩がまたまた予想外のことを言い出した。
「メールで私も行っていいか聞いてみて?」
「えっ、菓子先輩も行くんですか?」
「ええ。何かできることがあるかもしれないし」
「そりゃあ、一人で行くよりは気が楽ですけど……」
私がこの先輩に反発しないのは、先輩が先の先まで見通しているのではないかと思うことがあるからで。のほほん思いつきで行動しているように見えて、実はすべて計算づくなのではと思うこともあって。
「昨日焼いたスコーンもお見舞いに持って行こうかしら? う~ん、そうするとクロテッドクリームとアプリコットジャムもあったほうがいいかしら。こむぎちゃん、どう思う? 柚木さんは甘いものはお好き?」
いや、私の考えすぎかもしれない。まだ了承の返事も来ていないのにうきうき準備をしている先輩を見ていると、ただ人の世話を焼きたいだけなんだろうと思えてくる。
「好きだと思いますよ。昨日もシナモンティーとアフォガードを頼んでたし。もしかしたら大人っぽい甘さのスイーツが好きなのかも」
「あら、だったらこの甘さ控えめの紅茶スコーンにしましょ」
「お見舞いだったら普通、果物とかを持って行くんじゃないんですか? 柚木さんのお母さん、病気だったらお菓子は食べられないかもしれないし」
「高校生が果物籠を持って行っても、かえって恐縮されてしまうんじゃないかしら。それよりも部活で作ったお菓子のほうが好印象だし、受け取ってもらえると思うわ。スコーンなら日持ちもするし」
いちいち納得してしまう。二人で準備をしている間に柚木さんからのメールが来た。
『小鳥遊さんと、料理部の先輩までお見舞いに来てくれるの? あたしが具合悪いわけじゃないのになんか悪いな。でも退屈してたから嬉しい。部屋番号は202号室だよ。待ってる』
迷惑そうなそぶりはない。ほっとしつつ返事をしていると、菓子先輩が後ろから画面を覗きこんできた。
「ね、大丈夫だったでしょ?」
名前はおいしそうなのに、菓子先輩はまったく食えない先輩である。