一匹狼の親孝行サンド①
六月の雨が、コンクリートを鈍色に濡らしていた。半袖のブラウスから出た腕に、湿度の高いひんやりした空気が絡みついてくる。
非常階段に腰かけたお尻も冷えてきて、スカートの下に掌を押し込んだ。
「う~……寒い」
膝に乗せたお弁当もすっかり湿っぽくなってしまって、なかなか口に運べない。
「明日からは、おにぎりにしてもらおうかなぁ……。そしたらお昼休みでも、人気のない場所でささっと食べられるかも……」
なんだか前にも同じような光景を見たような気がする。以前は入学直後の四月で、まだ真新しい制服に着られてしまっていた頃。今は少し女子高生らしさも出てきて、衣替えした夏服にもなじんできたけれど、なんだか以前よりもずっと寂しくて、切ない。
きっと、一度友達ができた幸せを味わってしまったからなんだろうなあ……。数日前までの、なんの不安もなく希望に満ち溢れていた私を思い出す。たった数日前なのに、ちがう私みたい。あんな幸せな、普通の女子高生みたいな生活が夢だったように思える。
「もうあの頃には戻れないのかな。そもそも、ここ一か月の生活が、私には不相応な幸せすぎたのかも。だからきっと、バチが当たったんだ……」
四月とひとつだけ違うのは、私が料理部に入っていることと、菓子先輩がいること。放課後の部活の時間を思うと、一日が耐えられる。
でも、前みたいに菓子先輩に助けてもらえることを期待しちゃいけない。本当は気付いてもらいたいのかもしれない。でも、こんなみじめな自分を知られたくない、菓子先輩に幻滅されたくない。菓子先輩の前では、いい後輩でいたい。あの、ふんわりした甘いお菓子みたいな先輩には、いつだって何も心配せず笑っていて欲しい――。
「あら?」
「えっ」
ガチャ、という音が聞こえて振り返ると、鞄を抱えた菓子先輩がドアの前に立っていた。
「ちょうど今から部活に行くところだったの。会えて良かったわ、一緒に行きましょ?」
偶然通りかかった、みたいな雰囲気で話しているけれど、この非常階段は調理室とはまったく逆方向だ。
「どうして……」
私はまったく手をつけていないお弁当箱を見られたくなくて、さっと蓋をしめた。
かわいがっている後輩がまた一人ぼっちになっているなんて、菓子先輩はきっと幻滅しただろうな。
「なんだか前にも同じようなことがあったわね、こむぎちゃん」
しゃがみこんで目線を合わせてくれた菓子先輩に目をやると、いつも通りのほほんとした笑顔で、ドキドキしていた胸が少しだけ落ち着いた。
「なんで菓子先輩はこんなところに?」
「こむぎちゃん、部活の時はいつも私より先に調理室に着いて準備してくれていたでしょう? でもここ数日間、私よりも遅れて来ていたから、どうしたのかなと思って」
「それだけでここが分かったんですか?」
「猫が隠れるならどこかしらって探してみたんだけど、ビンゴだったわぁ」
菓子先輩には内緒にしておくつもりだったのに、そもそもこの人に隠し事をするなんて無理だったのかもしれない。猫がイタズラを隠しても飼い主にはバレているみたいに、菓子先輩のあったかい眼差しは、どこまで見通しているのか見当もつかないのだから。
「日直とか、掃除当番だとは思わなかったんですか?」
「うん。こむぎちゃんは、すごく分かりやすいから」
「えっ、私親には昔から、表情が乏しくて分かりづらいって言われてたんですけど」
「それは犬的な感情表現を期待しているからじゃないかしら。猫って一見分かりづらいけれど、耳とかしっぽとか瞳とか、よ~く見ているとすごく感情豊かなのよ~」
「私には、猫耳もしっぽもないですけど」
「あら、そう思っているのはこむぎちゃんだけよぉ。今度御厨さんにも聞いてみて、きっと同じことを言うと思うわ」
「みくりちゃん……は……」
放課後、何か言いたそうにしているみくりちゃんを無視して出て来てしまった。ショックをこらえているような顔が忘れられない。
「何かあったのね?」
「……」
「話してみて? その前に調理室に行きましょ。あったかいミルクティー、淹れてあげる」
知られたくない、心配かけたくないと思っていたのに。繋いだその手はやっぱりあったかくて、ほっとしたら少しだけ涙腺がゆるんでしまい、私は菓子先輩に見えないようにこっそり涙をぬぐった。
*
菓子先輩が淹れてくれたミルクティーは、身体があったまるようにショウガ入りだった。シナモンも入っているのかな? 一口飲むとチャイっぽい味がして、胃の中がぽかぽかしてきた。
「実は、みくりちゃん以外の同じグループの子とうまくいかなくなってしまって。……というか、他の子たちは最初から迷惑していたのかも」
数日前、私がトイレに入っているとき、グループの子たちが洗面台で話しているのが聞こえてきてしまったのだ。
「小鳥遊さんってさ、なんか一緒にいると気を遣っちゃわない?」
自分の名前が耳に飛び込んできて、心臓が大きく跳ねる。私が個室に入っているのには気付いていないみたいだ。どうか心臓の音が聴こえませんように、と息を潜めながら会話に耳をすませた。
「分かる。悪い人じゃないんだけど……。ノリが違うよね」
「みくりちゃんと仲がいいから一緒のグループにいるけど、正直、小鳥遊さんはもっと大人しい子のグループの方が合う気がする」
「でもさ、それみくりちゃんに言える?」
「言えないよー……。みくりちゃんは怒るだろうし、さすがに仲間はずれみたいなことはできないし」
予鈴の音が鳴る。グループの子たちは身だしなみを整え終わると、「この話はここだけの秘密にしておこうね」と言いながらさっさと教室に戻って行ってしまった。
みんなの足音を見送ったあと、全身の血の気が引いて、貧血を起こしたみたいに個室の中でうずくまってしまった。
目の前がぐるぐるする。気持ち悪い。なんだか呼吸も苦しい。
今の会話はなんだったのだろう。
グループの他の子たちも、普通にいい子たちだった。後からグループに入ってきた私のことも受け入れてくれて、みんなと同じように接してくれた。確かに、少し気を遣われているというか壁があるような気はしていたけれど、それも優しさのうちなのだと思っていた。
「本当は最初からずっと、迷惑だったんだ……。でもずっと我慢してくれていたんだ……」
“普通”で“いい子”だったからこそ、今まで優しくしてくれたし、だんだん窮屈になって愚痴も言いたくなったのだろう。そんな彼女たちを責めるなんてできない。
「一度聞いてしまったら、そのあと普通にしているなんて私にはできなくて。その日から一人で行動することにしました。お弁当の時間は、何か言われる前に教室を出るようにして」
「御厨さんは心配しているんじゃないの?」
「みくりちゃんにとっては彼女たちのほうが付き合いの長い友達なんです。板挟みになって困らせたくないから……」
「何も打ち明けていないのね?」
「はい……。でもきっと他の子たちは、自分たちの会話が聞かれていたことにうすうす気付いているかも」
「こむぎちゃんは、その子たちのことを悪くは言わないのね」
「だって、よく考えたら私……、みくりちゃんとは打ち解けて話せるようになったけれど、他の子たちには自分から話しかけたりできていなかったんです。話を振ってもらっても、緊張しちゃって少ししか返事できていなかったり。そんなんじゃ、気を遣って疲れるって言われてもしょうがないです……。もともと人に好かれる性格じゃないから、私。仕方ないです」
「こむぎちゃんはいい子よ。ただちょっと警戒心が強くて不器用なだけ。今だって、自分のことよりも御厨さんに迷惑をかけないように、って考えているでしょう? こむぎちゃんはお友達を思いやれる優しい子よ。自分で気付いていないだけ」
そんなふうに思ってくれるのは、菓子先輩が優しいからだよ、って言いたかったのに。
「……うっ……ふうぅ……っ」
嗚咽と一緒に涙があとからあとからこぼれてきて、息もできなくなってしまった。
仕方ないって諦めていても、やっぱりつらかった。みんなと仲良くなってから、ちゃんとグループに溶け込めるように、空気を読むように、自分なりに頑張ってきた。でもそれも全部無駄だったのかな。ううん、それがきっとみんなにも伝わっていたんだ――。
「こむぎちゃん、だいじょうぶよ。だいじょうぶ。我慢しないで泣いちゃいなさい。我慢すると余計苦しくなるわ」
ひっ、ひっ、としゃっくりみたいな呼吸を繰り返す私の背中を、菓子先輩のあったかい手がなでてくれる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。だれも見ていないわ……」
菓子先輩の手が、言葉が、あたたかさが、毛布にくるまれた揺りかごみたいに思えて。私は子どもみたいに大声をあげて泣いてしまったのだった。