迷える子羊と大きなハンバーガー①
さっきから何回、廊下を往復しただろう。調理室前の廊下をうろうろしている私を、通りがかった生徒が不審な目で見て行く。
料理部に入ろうと決心したはいいが、いざ調理室を目の前にすると、なかなか自分から扉を開けることができなかった。
菓子先輩にとっては一時の親切で、そこまで深く関わるつもりはなかったかもしれない。もし迷惑そうな顔をされたら、私――。
「あらっ、こむぎちゃん?」
ガラッと扉の開く音がして、割烹着姿の菓子先輩が調理室から出てきた。
「ちょうど今から迎えに行こうと思っていたの。いいタイミングだったわあ」
「あっ、あの」
「今日も味見しに来てくれたんでしょ? そうそう、カレースープの味はどうだったかしら」
「ええと、そうじゃなくて……」
顔を赤くしながら黙り込んだ私を見て、菓子先輩が顔を曇らせる。
「どうしたの? もしかして口に合わなかった?」
「ち、違います。その、にゅ、入部がしたくて……!」
「えっ、本当?」
「は、はい。一応、入部届も書いて持ってきました」
「……こむぎちゃん!」
菓子先輩はぷるぷる震えながら私の両手を握ったかと思うと、手をつないだままくるくる回り始めた。
「やった、やったわー!」
「わ、わっ」
「さっそく、顧問の柿崎先生に提出しに行きましょ!」
一緒に回される形になった私が「ちょっと早まっただろうか」と思ったのは言うまでもない。
柿崎先生に入部届を提出し、晴れて料理部の一員となった私を、菓子先輩はとても喜んでくれた。このまま部員が集まらなかったら、廃部になるところだったらしい。
「昔はとっても活気のある部活だったんだけど。ここ数年でめっきり部員も減ってしまって、三年生は私ひとり。去年は新入部員が誰もいなかったの」
「放課後においしいものが食べられるなら、みんな喜んで入りそうな気がするんですけど」
「やっぱり、自分で作るのが大変だからじゃないかしら。それにほら、和菓子や甘いものが食べたい人は、茶道部に入ってしまうし」
「ああ、なるほど~……」
料理部っていかにも女子高らしい部活だと思うけれど、最近はそういうのも流行らないのかもしれない。
「私は食いしん坊なので、自分で作る手間はかかっても、おいしいごはんが食べられたほうが嬉しいです」
料理は家でたまにするくらいだけど、嫌いじゃない。作れるのはカレーとか肉じゃがとか、簡単なのをお母さんに教わったくらいだから、これからレパートリーを増やしていけたらいいな。
「こむぎちゃん……お嫁さんにしたいわあ」
「何言ってるんですか……」
この先輩はほんわか村の住人だから、他人の良いところしか見えないのかもしれない。
「私なんてダメですよ。可愛げがないし、モテたことすらないですもん」
「こむぎちゃんは可愛いわ。簡単に懐かないところも猫みたいでいいのよね~」
今は菓子先輩に対して、わりと、いやけっこう懐いているんだけど、そう言うのも照れくさくて黙っていた。
「じゃあ記念すべき第一回目の部活は、歓迎会にしましょうか。私のお気に入りのお店に連れて行ってあげる」
「え、私あんまりお小遣い持ってないんですけど……」
「大丈夫、リーズナブルなお店だし、ちょっとばかりコネがあるの」
*
学校から少し歩いた先にある、通称ピーチ通りの一角にそのお店はあった。桃園高校の近くだからピーチ通り。本当は桃園ショッピングセンターと言うらしいけど、ショッピングセンターというより商店街だし、うちの生徒はみんな通称で呼んでいる。
かわいい雑貨屋さんや、おしゃれなカフェが立ち並んでいて、放課後の人気スポットだ。昨日までは、私には縁のないところだと思っていたのになあ。
「こむぎちゃん、もしかして、ピーチ通りに来るの初めて?」
そわそわと辺りを見回している私を見て、菓子先輩が尋ねた。
「は、はい……。ずっと行ってみたかったんですけど、一人で行くのもむなしくて……」
「じゃあ今日はいっぱい堪能しましょ! まだ時間も早いし、入りたいお店があったら言ってね」
「じゃあ、そこの雑貨屋さん……」
ガラス張りのウインドウにアンティーク調のアクセサリーや小物がディスプレイされていて、とても素敵だった。
「私もこういう雰囲気のお店大好き! こむぎちゃんとは趣味が合うわぁ」
そのお店では、菓子先輩とおそろいでシュシュを買った。私の髪はボブだけど、高校では髪を伸ばすのが目標。菓子先輩は、「後輩とおそろいのものを買うの、夢だったのよね~」とご機嫌だった。
文房具屋さんや本屋さんをひやかしたあと、目的地に向かった。角砂糖みたいなこぢんまりとしたそのお店は、外に出ている看板がなかったら見逃してしまいそうな控えめな佇まいで、装飾と言ったらドアベルと黒板に書かれたメニューくらいなのが素朴で好感が持てた。
「かわいい雰囲気のお店ですね。えーっと名前は、ぺいる・ぐりーん……? レストラン? カフェかな」
黒板に書かれたメニューを見て菓子先輩にたずねる。軽食やスイーツが多かった。
「pale‐greenね。う~ん、どちらかというとカフェだけど、ディナーはしっかりしたごはんも出すし、どれもおいしいのよ」
こんにちは、と声をかけながら菓子先輩が中に入る。私はまだ治っていない人見知りが発症してしまって、借りてきた猫のように菓子先輩の背中に隠れていた。
「あれ、菓子ちゃん、いらっしゃい。……と、もう一人は、お友達?」
「浅木先生、お久しぶりです。ふふ、実は新入部員なんです」
「えっ、本当!?」
聞こえてきたのが若い男性の声だったので、私はますます身を固くしてしまった。菓子先輩とやたら親しげなこの人は何者なんだろう。側まで近寄ってくる音がする。
「はじめまして、浅木真汐です」
挨拶をされてしまったので、観念して菓子先輩の後ろから顔を出す。
「小鳥遊こむぎです……」
「こむぎちゃん、浅木先生は以前料理部の顧問をしてくださっていたのよ。今は教師を退職されてこのお店を経営しているの」
私の耳に菓子先輩の説明は届いていなかった。というのもこの浅木先生が、私の好みど真ん中のイケメンだったからである。塩顔で優しそうで声も甘めという、こんな理想通りの王子様が現実にいたのか、という気持ちと、ああ自分は年上が好きだったのか……という妙に納得した思いが交錯していた。どうりで初恋がまだだったわけだ。
「こむぎちゃん、びっくりさせようと思って内緒にしていてごめんね? 大丈夫?」
「は、はい……!」
「教師は数年でやめてしまって、父から店を引き継いだからね。先生って呼んでもらえるほど大したことはしていないんだよね」
「何をおっしゃってるんですか! 先生が新採でいらっしゃった年は、部員の数が過去最高だったじゃないですか。私が二年に上がるときに退職されてから、なぜか部員は減ってしまいましたが……」
「なんでだろうね……」
「やっぱり先生の指導が良かったからじゃないでしょうか。なんたって今はプロですし」
私には分かる。やめてしまった部員は全員、浅木先生目当てだったに違いない。
「菓子先輩のごはんだってすごくおいしいのに……」
私が不満に思ってぼそっとつぶやくと、
「こむぎちゃん!」
菓子先輩が感極まった様子で抱きついてきた。
「ほんとにこむぎちゃんはかわいいわぁ……。浅木先生もそう思いますよね?」
「うんうん。慕ってくれる後輩が入部してくれて本当に良かったねえ」
浅木先生も嬉しそうに頷いている。
「くるしい……」
私は、飼い主に抱き締められて身動きが取れない猫ってこんな気持ちなんだな、と気が遠くなりながら実感していた。
「こむぎちゃん、大丈夫!? しっかりして」
ぴくりとも動かなくなった私を心配して、菓子先輩が肩をゆする。
「だいじょうぶです……。まさか抱き締められながら頸動脈を締められるなんて思いませんでした」
「ご、ごめんなさい」
カウンター席もあったのだけど、浅木先生は私を気遣って奥のソファ席に案内してくれた。夕方の早い時間だから、他のお客さんはいなかった。
「小鳥遊さん、入部一日目で災難だったね。懲りずに菓子ちゃんと仲良くしてあげてくれるかな。これは僕からのお詫び」
浅木先生がオレンジフロートを私の目の前に置いてくれる。オレンジジュースの上にバニラアイスが、縁からこぼれんばかりに乗っている。
「あ、ありがとうございます」
昨日の私とは違う、今日の私。お礼だって恥ずかしがらずにちゃんと言える。どもらずに言えるようになるには、もう少し時間がかかりそうだけど。
浅木先生の台詞を聞いて、菓子先輩が横からにゅっと顔を出す。
「なんで先生が私のかわりにお詫びするんですか?」
「せっかくつかまえた新入部員を逃しちゃ大変だと思って」
「もう……」
気さくに会話する二人を見て、ふと思う。いくら元顧問と部員と言っても、気安すぎではないだろうか。浅木先生は菓子先輩のこと、名前で呼ぶし。まさか、まさか。
「あのう、菓子先輩、もしかして先輩と浅木先生って、付き合っていたりしますか……?」
浅木先生が席から離れてから、菓子先輩におそるおそる聞いてみた。
「何言ってるの、こむぎちゃん。そんなわけないでしょう」
「だってすごく仲が良いし」
「あの先生は誰にでも気さくなだけよ。それに学校にいたころはもうちょっと先生らしい感じだったのよ? 今は客商売だから、ちょっと印象が違うみたい。それにほら、私はお得意さまだし」
「そんなにしょっちゅう来ているんですか?」
「料理のアドバイスが欲しい時とか、たまにね。そんなに私と浅木先生のこと、気になるの? ……こむぎちゃん、もしかして」
菓子先輩の目が好奇心旺盛にきらきらと光る。私はこの目を知っている。これは、他人の恋バナを見つけたときの女子の目だ。
「ちがいます! 全然ちがいます! 菓子先輩が考えているようなことはまったく、ないですから!」
「そうなの……。ざんね~ん……」
世話好きの菓子先輩のことだ。余計なおせっかいをいろいろ焼かれ、それが浅木先生にばれ、私が丁重にお断りされる――ところまで目に見えた。この気持ちは菓子先輩には決して見つからないように、大事に大事に育てていかなければ。
「じゃあ、気を取り直してメニューを見ましょうか。こむぎちゃん、何でも好きなものを頼んでね。今日は歓迎会だし、さっきのお詫びに私がおごるわ」
「えっでも、悪いですよ」
学校はアルバイト禁止だから、先輩だってお小遣いが苦しいのは同じはずなのに。
「大丈夫だから気にしないで」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
もしかして先輩の家はお金持ちなのだろうか。桃園高校は公立だけど歴史のある女子高なので、良いおうちの子も多いって聞いたことがある。そういえば菓子先輩は、話し方も古風なお嬢様っぽいし。
「ご注文は決まったかな?」
ジャストタイミングで浅木先生がオーダーを取りに来てくれた。白シャツにギャルソンエプロンという出で立ちも私の心をくすぐる。
「私はこの、クラブハウスサンドをお願いします」
「私はアールグレイをストレートで」
「菓子先輩、飲み物だけですか?」
「ええ。家で夕飯を食べないと怒られてしまうの」
「菓子ちゃん」
厳しいおうちなのかなと思っていると、浅木先生が急に硬い声を出した。
「サンドイッチなら食べられるだろ? どうせ家でもあまり食べないんだから、ちゃんと食べなさい」
「……はい……」
「……かぼちゃサラダサンドと、ポテトサラダサンド、どっちがいい?」
「ポテトサラダに決まっているじゃないですか」
「だよね。じゃあ作ってくるから。小鳥遊さんも、少し待っててね」
私に向けた言葉は、変わらず優しい声だった。さっきの様子はなんだったのだろう。口調は厳しかったのに、浅木先生はいたわるような視線を菓子先輩に向けていた――。
「もしかして菓子先輩、ダイエットしているとかですか?」
「違うのよ。本当に、人よりちょっと小食なだけなの。先生は心配しすぎなのよ」
「でも……。そういえばスープのときも、菓子先輩は自分では全然食べていなかったですよね」
「自分で作ったものを人に食べてもらうのが好きなの。こむぎちゃんも心配しなくていいのよ」
菓子先輩はにっこり微笑む。その笑顔はいつもと同じ穏やかなものだったけれど、「もうこの話はここで終わり」という突き放した冷たさがある気がして……。
まだ人との距離の取り方がよく分からない私は、菓子先輩にそれ以上を尋ねることができなかった。