気まぐれ猫とあったかスープ②
「じゃあ、急いであたため直しちゃうわね。適当に座って待っててね」
調理室に着くと、先輩は三角巾と割烹着を身に付け、てきぱきと動き始める。もうこの先輩に逆らう気がなくなっていた私は、おとなしく適当な席に腰を下ろした。
さっきまでお人形のような美少女だった先輩は、髪をシュシュでまとめて割烹着を着ただけで、雰囲気が様変わりしていた。
なんだろう、定食屋のおばさん……のような親しみやすい感じで、近所のおばあちゃん……みたいな優しい感じ。でももっと身近であたたかな――。
「もうすぐできるからね~。あ、お弁当もそこのレンジであたため直しましょうか?」
あっこれは、お母さんだ。世話焼きで、嫌味がなくて、ちょっと強引だけど従っちゃう感じ。思わず割烹着の背中に抱きつきたくなるくらい、お母さんだ――。
私がぼうっとしている間に百瀬先輩はテーブルセッティングを終えていた。ギンガムチェックの可愛いランチョンマットに、あたためてくれたお弁当箱とスープ用スプーンが並んでいる。
「はい、熱いから気を付けてね」
先輩はお鍋からスープを注ぐと、大きめのスープカップを私の前に置いた。おいしそうな赤いスープからは、湯気が立ちあがっている。
「ミネストローネよ。あったかいうちにめしあがれ」
「い、いただきます……」
「良かったあ。先輩たちが卒業しちゃって、今部員が私だけなの。誰か味見してくれる人が欲しくって。ありがとう、こむぎちゃん」
笑顔でお礼を言う百瀬先輩は、あまのじゃく族いじっぱり科の私とは違う人種みたい。ほんわか村の住人なのかな。
スプーンをゆっくりミネストローネに沈める。具がたくさん入っていて、スープと言うより煮込み料理みたいだ。ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、あとこれは……なんかの豆?
苦手なセロリが入っていないのがありがたかった。ふーふーしてから口に運ぶと、トマトの甘味と酸味が口いっぱいに広がった。
「……おいしい!」
「本当? 良かったあ」
「はい。トマトの味がすごく濃い……」
私の好みはけっこううるさくて、酸味が強すぎてもダメ、水っぽすぎてもダメ。たぶん今までの人生で一番おいしいミネストローネ。
「私、給食のミネストローネは薄くてあまり好きじゃなかったんですけど、これは本当においしいです。あとこの豆もおいしい……」
「ひよこ豆なの。ほくほくしておいしいでしょ? あと、使うトマト缶に合わせて水の量や味付けを変えるのが水っぽくならないポイントよ。イタリア産のホールトマトが、甘味も味も濃くてオススメなの」
一口食べたあとは勢いがついて、そのまま夢中で全部食べてしまった。お弁当と一緒に食べるよう計らってくれたのに、お弁当にはまだ手をつけていない。
お腹が落ち着いて冷静になると、先輩は私が非常階段にいた理由を何も聞かないことに気付いた。聞かれていたらきっと、こんなに安心してこの場所にいられなかったと思う。
気を使ってくれた? 興味がないだけ? それとも――。
「あの、百瀬先輩、どうして――」
顔をあげると、先輩はあさっての方向を向いていた。向かいに座っているのに、顔だけ必死にそっぽを向いているから首が痛そうだ。
「あ、あの、どうしたんですか?」
「ほら、猫って食べるところを人間に見られるの嫌じゃない? こむぎちゃん、すごく猫っぽいから、もしかしてそうなのかなって」
「私は猫ですかっ!」
へなへなと気が抜けてしまった。先輩は、私がそんな理由で非常階段にいたと思っているのか。
「私は食べてるところ見ないから、いつでもお弁当食べにきていいのよ。明日はミルクスープにする予定なの。こむぎちゃん、明日も味見してくれる?」
私はその言葉には答えられなかった。黙りこんだ私に、先輩は二杯目のミネストローネを注いでくれた。お弁当とそれを無言で食べ終わると、
「帰ります」
私はお礼も言えずに立ちあがってしまった。
「こむぎちゃん!」
百瀬先輩の声だけが追ってくる。
「放課後、調理室の扉はいつでも開いているからね」
その言葉を背中で聞いて、後ろ手で扉を閉める。
悲しくないのにあふれてきた涙を、この人に見られたくなかった。
*
二日目。変わらず非常階段でお弁当を食べていた私を、百瀬先輩が当たり前のように迎えに来た。ミルクスープは優しい味でおいしかった。クラムチャウダーに似ているけれど、もっと軽めでいくらでも飲めちゃう感じ。味付けに味噌を加えるとまろやかになるそうだ。
三日目。自分から調理室に行ってみた。先輩は嬉しそうな顔で迎えてくれた。今日はオニオングラタンスープだった。フランスパンにスープがしみしみでチーズがとろとろで、すごくおいしかった。玉ねぎは、前日の夜に何時間もかけて炒めたそうだ。部活でこんなに手のかかるものを作るのかと驚いた。百瀬先輩は、部活というよりほとんど趣味のようなものだから、と微笑っていた。
四日目。放課後になると先輩が教室まで迎えに来た。なんでクラスが分かったのか尋ねると、一組からしらみつぶしに探していったらしい。メニューは豚汁だった。たしかにこれもスープだけど。豆腐が包丁を使わず手で崩してあって私好みだった。今日もおいしかった。
五日目。朝登校すると、なぜか百瀬先輩が教室の前で待っていた。
「朝からどうしたんですか!?」
先輩の容姿は目立つので、通りがかる生徒がみんなちらちらと見ていく。
「こむぎちゃんに渡すものがあって。はいこれ」
やたら大きい、魔法瓶のようなものを渡された。
「何ですか、これ」
「スープジャーなの。中にスープが入っているから、お昼休みに食べて欲しいの」
「放課後じゃダメなんですか?」
「朝早く起きて作ったのよ~。どうしても放課後までに感想が聞きたいの! 放課後は違うものを用意しておくから、絶対食べてね! あっ、中身はカレー風味のスープよ!」
「えっ、ちょっと……!」
引き留める間もなく先輩は去って行ってしまった。先輩に気付いた一年生が道をあけるので、廊下が割れた海のようになっていく。百瀬先輩はモーゼだったのか、とその光景をぼんやり見送った。
昼休み。机の上に置かれた、やたら存在感のあるスープジャーとにらめっこしていた。
絶対食べてねと言われた手前、いつもみたいにどこかに逃げることもできない。もう、ひとりぼっちのごはんでもいいやと腹をくくって、スープジャーに手を伸ばす。
なぜか二段に分かれている。不審に思いつつも蓋を開けると、濃厚なスパイスの香りが周り中に広がった。
この、インドを感じさせるスパイシーなターメリック色のスープ。トッピングしてある揚げ野菜。そして下の段に入っていた白いご飯……。
これ、カレー風味のスープじゃなくて、スープカレーじゃん!!
私は心の中で、百瀬先輩に思いっきりハリセンでツッコミを入れていた。
カレーの匂いというのは、どうしてこうも強烈に鼻をくすぐるのだろう。まわりの席の子たちが、目を丸くしてこちらを見てくる。
私がいたたまれなくなって顔を赤くすると、
「それ、朝三年の先輩が渡してたお弁当だよね? わあ、すごくおいしそう! これってカレー?」
以前声をかけてくれた気さくな子が、興味津々と言った顔で近寄ってくる。
「あっ、たぶんスープカレーだと思う……。あの、ごめんね、カレーの匂いすごくて……」
私が身を縮めながら答えると、その子もまわりもほっとした笑顔になった。
「そんなの、気にしなくていいのに~! 私、スープカレーって食べたことないんだ。良かったら一緒にお弁当食べようよ! 味見させて欲しいな。……あっ、えっと、迷惑じゃなかったらだけど……」
最後の言葉だけ遠慮がちに言ったその子を見て、私は気付いた。
どうして自分だけが被害者だと思っていたんだろう? 今まで声をかけてくれた子たちだって、勇気を出して話しかけてくれたんだ。自分だけがこわくて、他の人は当たり前にできているんだと思っていた。そうじゃないんだ。それなのに、私は――。
「も、もちろん……! ありがとう、すごく嬉しい」
勇気を出して今まで言えなかった言葉を伝えると、目の前の子――御厨さんは驚いた顔をして、
「小鳥遊さん、かわいいっ」
私を抱き締めた。
「えっ、えっ!?」
突然のことにびっくりしていると、
「みくりちゃん、良かったね、願いがかなって」
「小鳥遊さんと仲良くしたいって、入学式からずっと言ってたもんね」
御厨さんの仲良しの子たちが、お弁当を持って周りに集まってくる。
「えっ、そうだったの?」
「うん。だって小鳥遊さん、ミステリアスなところが気まぐれな猫みたいでかわいくて。話しかけてもそっけないから、嫌われてるのかなって思ってたんだけど……」
「そんなことない! すごく嬉しかったのに、私人見知りで緊張してて、いつもうまく話せなくて……ごめんね」
「そうだったんだ。じゃあ先輩に感謝しないとだね! こうやってきっかけをくれたんだもん」
「ねえねえ、早くお弁当食べようよ~。おいしそうな匂いでもう、お腹がなりそう」
みんなが周りの机をくっつけ始めた。どうしよう、こんなに嬉しいお昼休みは人生はじめて。
「小鳥遊さん、なんか目が赤くない?」
「えっと、スパイスの香りが目にしみてっ」
あったかいスープカレーとみんなの笑顔。楽しいおしゃべり。今日のお弁当の味を、きっと私は一生忘れない。
放課後になったらすぐに調理室に行って、菓子先輩に今までのお礼を言おう。今日のスープカレーの感想と、友達ができたこと。そして料理部に入りたいということ。
先輩はどんな顔してくれるかな。お母さんが子どもをほめるときみたいな笑顔で、「こむぎちゃん、料理部にようこそ」って、言ってくれるかな。