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菓子先輩のおいしいレシピ⑦

 予想通り、朝早くにおばあちゃんが起こしに来て、私は制服に着替えて朝食の席についた。菓子先輩は、ニットにロングスカートという清楚な部屋着。まだ寝ていたほうがいいのではと勧めたのだが、何日も受験勉強を休んでしまうとさすがに心配だから、と言われた。


「あれ、菓子先輩のお父さんは? まだ帰ってきていないんですか?」


 帰りが遅い、と言っていたお父さんは居間にいなかった。朝食も三人分しか用意されていない。


「深夜に帰ってきて、今はぐっすり寝ていると思う。今日はお休みだから昼まで寝かせてあげなくちゃ」


 そうなのか、と納得して朝食に舌つづみを打つ。ごはんとお味噌汁、焼き鮭、お浸し、卵焼きというザ・日本の朝ごはんメニュー。いつも朝はパンだから、こうしてゆっくり和食を食べるのはなんだか贅沢な気分。


「こむぎさんも、今日は土曜日だから学校は休みでしょう。夕方までゆっくりしていきなさいねえ」


 おばあちゃんは朝から一仕事してきたようだ。いったい何時に起きているのだろう。


「ありがとうございます。でも、菓子先輩の勉強を邪魔しちゃうかも」

「何言ってるの。こむぎちゃんも一緒に勉強するのよ。来月には学年末試験があるでしょう?」

「ええ……。まだまだ先じゃないですか」


 勉強がしたくないから、というわけではないが、私には他にやってみたいことがあった。


「じゃあ私、台所をお借りして、お昼ごはんを作ってもいいですか?」

「えっ、こむぎちゃんが作ってくれるの? ……でも、私」


 あまり食べられないことを気にしてくれたのだろう、菓子先輩がうつむく。


「いいんです。一口だけでも食べてもらえたらと思っただけだから。あとほら、おばあちゃんにお礼もしたいし」

「……うん」

「そんな気を遣わなくてもいいんだけども、ありがとうねえ。台所も材料も、好きに使ってくれてかまわねえから」


 それは悪いのでスーパーに買い出しに行こうと思ったのだが、コンビニもスーパーも徒歩圏内にはないそうだ。「このへんはコンビニよりコイン精米機が多いから」と言われたのだけど、本当だろうか?


 午前中は、菓子先輩に付き合って少し勉強した。集中している受験生の前だと、シャーペンの音すら遠慮がちになってしまう。胃が痛くなりそうだったので早々に撤退して台所を貸してもらった。


 リビングキッチンと呼ぶより食堂と呼ぶほうがしっくりくる、ささやかなスペース。年季の入った使いやすそうな調理台。よく磨かれたシンクとコンロ。整理された大きな食器棚と冷蔵庫。

 台所ってその家の人柄が出る場所だなと思う。おばあちゃん、お母さん、菓子先輩と受け継がれてきた台所は、丁寧に使い込まれていてあたたかみがあった。お鍋あたりが付喪神になっていそう。


 私は通学鞄に入れていたエプロンを着けると、菓子先輩に貸してもらったレシピ帳を開いた。思い出のキーマカレーのページ。昨夜気付いたことだが、菓子先輩はキーマカレーを部活で一度も作っていない。あれだけ大好物で、何度も作っていたはずなのに。もしかしたら、お母さんが亡くなってから作れなくなったのかもしれない。


 菓子先輩は「最後にお母さんが作ったキーマカレーを味わいたかった」と言っていた。もし菓子先輩が、そのことをずっと後悔しているとしたら――。

 うまくいくか分からない。けど、お母さんのキーマカレーの味を再現できたら、何かが変わるんじゃないかと思った。


 とりあえず、やれることはなんでもやってみよう。

 具材は、飴色になるまで炒めた玉ねぎ、フードプロセッサーでみじん切りにした人参、ひき肉。ひよこ豆をたっぷり入れるのも忘れずに。

 味付けは、トマト缶、コンソメ、カレー粉、スパイスいろいろ。それらをぐつぐつ、しばらく煮込めばできあがり。

 手順だけ並べると簡単そうに見えるけど、これがけっこう手間がかかる。ふつうのカレーに慣れていればなおさら。それに加えて菓子先輩のお母さんはナンまで作っていたそうだし、農作業に加えて毎日の食事にも手をかけるなんてすごいと思う。家族に少しでもおいしいものを食べさせたいという愛情を感じた。


 私には、部活で料理するようになって分かったことがある。みんなとわいわい料理するぶんには楽しいけど、それが毎日強制だとつらいということ。キッチンに一人きりで作業するのはわりと孤独を感じるということ。

 家族のために毎日おいしいごはんを作るのってすごいこと。私は結婚しても面倒くさがらずにそれができるかな。今から心配してもしょうがないけれど、叶うなら浅木先生みたいな料理上手な人と結婚したい。

 お鍋からはスパイスのいい香りがしてきた。ふたを開けると、いい感じにトマトや野菜の水分が出ている。う~ん、出来上がりまでもうちょっと。


「この匂いは、カレーかな?」


 味見しようとスプーンを探していたら、寝間着姿の男の人が台所に入ってきてびっくりした。


「あっ……、お客さんだったんだね。こんな恰好ですみません」


 この優しい話し方、物静かな佇まい、にじみ出るダンディさ。間違いなく菓子先輩のお父さん。


「あ、あ、こんにちは……。昨夜は急に泊めていただいて……その……」


 急なことだったので、お玉を持ったままあたふたしてしまった。ああ、その前に自己紹介をしなければ。


「ええと、菓子先輩の料理部の後輩の、小鳥遊こむぎです」

「ああ、料理部の……。それで……」


 お父さんはふっとやわらかい微笑みを浮かべた。それがなんだか、よく知っている相手に向けるような優しい眼差しだったので、少しだけドキッとしてしまった。


「菓子からこむぎちゃんの話はよく聞いていました。ゆっくりしていってくださいね。……お客さんに作らせておいて言う台詞じゃないかもしれないけど」

「いえあの、こちらこそ台所をお借りしちゃってすみません……」


 人様のおうちでエプロンをつけながら、寝間着姿のお父さんに挨拶している状況って、冷静に考えるとめちゃくちゃ恥ずかしい。しかもこれが初対面である。


「じゃあ、顔を洗って着替えてくるよ。そのカレーは僕も食べていいのかな?」

「は、はい、もちろん。お昼ごはん用のキーマカレーなので……」

「それは楽しみだ」


 お父さんは台所の扉を閉めながら、ひとりごとみたいにつぶやいた。


「うちの台所からカレーの匂いがするのは、久しぶりだな……」



 型で抜いたごはん、ココットに入れたキーマカレー、口直し用のレタスとトマトをプレートに盛り付ける。ナンは作る時間がなかったので、残念だけど省略。

 居間で待っている三人のもとに持っていくと、「おお」と歓声があがった。


「まあ、お上手。盛り付けもきれいねえ」


 おばあちゃんが褒めてくれる。レシピ帳に描いてあったイラストそのままに盛り付けただけなのだが。


「おいしそうだ。キーマカレーは久しぶりだな」

「うん。お母さんのキーマカレーと、そっくり」


 菓子先輩がプレートを見ながらつぶやく。おばあちゃんとお父さんがはっとして、心配そうに菓子先輩を見つめる。空気が緊張して、私も固まってしまった。


「もう、そんな顔しないでよ。私なら大丈夫よ」


 菓子先輩が気丈に微笑む。その顔がなんだか泣き出しそうに見えて、私もつられそうになってしまう。こんなことをして、間違いだったらどうしよう。菓子先輩の傷をえぐるだけだったのかもしれない。

 うつむいてスカートを握りしめていると、菓子先輩が私のこぶしの上にそっと手をのせた。


「こむぎちゃん、ありがとう。ずっと自分では作れなかったから……」


 私の手に触れたまま、菓子先輩がキーマカレーを口に運ぶ。菓子先輩の手はかすかに震えていた。

 カレーを食べているとは思えない神妙な顔で、菓子先輩は咀嚼し、ごくんと飲みこんだ。その表情は変わらない。だめ……だったのだろうか?

 じっと見つめていると、菓子先輩は力なく首を横に振った。


「ごめんね」


 私が何を期待しているのか、菓子先輩に悟らせてしまった。


「……なに言ってるんですか! 一口でも食べてもらえれば嬉しいって言ったじゃないですか。菓子先輩は病み上がりなんですから、これでじゅうぶんですよ」


 私、後輩失格だ。菓子先輩に気を遣わせて、謝らせるなんて。焦っちゃだめだ。菓子先輩が自分から思い出のキーマカレーを食べられるようになった。それだけですごい進歩じゃないか。

 お父さんとおばあちゃんは「おいしい、おいしい」と言いながらぱくぱく食べている。


「あの、お口に合ったでしょうか」

「うん、すごくおいしいよ。妻の作ったものとは違ってスパイシーだけど、これはこれですごく好みだな」

「そうだねえ。わざわざ大人向けにしてくれたんだねえ。ありがとうね」

「えっ……」


 予想外の言葉に、思わず菓子先輩と顔を見合わせてしまう。目線で「そうなの?」と訊かれたので、私は「違います」と首を振った。


「あの、菓子先輩のお母さんの味とは違うんですか? これ、実はお母さんのレシピをそのまま作っただけなんです」

「そうなのかい? 何年も前の記憶だからあてにならないかもしれないけど、妻のキーマカレーはもっと甘かったと思う。辛いというより、まろやかな感じで。当時は子ども向けにそうしていたと思っていたんだけど、やっぱり作る人によって味が変わるのかな? カレーは」

「そうかもしれないねえ。おばあちゃんはこむぎさんのカレーも好きよ」


 お父さんとおばあちゃんは納得したようで、そのままぺろりと完食してくれた。それはとても嬉しいのだが、私はどうも釈然としない。

 菓子先輩に確認すると、カレー粉やトマト缶など、調味料は昔から変えていないという。例えばふつうのカレーライスを同じルーで作ったとして、作る人によって味がそこまで変わるものなのだろうか。今まで、誰が作っても同じ味になるのがカレーの強みだと思っていたけれど。

 もしそうなのだとしたら、私は菓子先輩のお母さんの味を再現することはできない――?

 進めたコマが振り出しに戻ったような気持ちがして、私は心の中で頭を抱えたのだった。

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