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菓子先輩のおいしいレシピ⑥

 一番風呂をいただくと、すでに菓子先輩の部屋に布団が敷かれていた。


「ありがとうございます。菓子先輩が敷いてくださったんですか?」

「ううん、おばあちゃん。私は横になってろって言われちゃった」

「そうですか……。あ、パジャマとか下着とかありがとうございます」

「いえいえ。ちょうど新品があったから良かった」


 なんとパンツまでいただいてしまった。すっかり着替えのことを失念していてお風呂のときに慌ててしまったのだが、菓子先輩が「まだ使ってないから」とタンスから下着を出してくれた。レースのついた純白のパンツ。菓子先輩らしい好みだったけれど、なんだか恥ずかしい。


「次、菓子先輩が入れっておばあちゃんが言ってましたよ。昨日入れなかったからって」

「うん、じゃあいただこうかな」

「大丈夫ですか? 何か手伝いますか?」

「お風呂くらい一人で入れるわよぉ。こむぎちゃんは心配しすぎ」


 心配になって声をかけてしまったが、断られた。じゃあ一緒に入って、と言われてもそれはそれで困ったかもしれないけど。まあ、さっきおじやは全部食べていたし、きっと大丈夫だろう。


「さて……」


 菓子先輩がいない間に、やりたいことがあった。

 勝手に読むのは良くないと思いつつも、レシピ帳に手を伸ばす。シンプルな大学ノートが、「おかず」「主食」「汁物」「デザート」にインデックス分けされていた。

 なんとなく、汁物のページから目を通す。最初の日に菓子先輩が食べさせてくれたミネストローネが目についた。トマト缶によって味付けを調節することも書いてある。そして、ミルクスープ。味噌を隠し味に入れるのはお母さんが教えてくれたのか。ほかにも、豚汁、スープカレー。菓子先輩が作ってくれたそのままの料理が、レシピ帳に刻まれていた。


「やっぱり……」


 浅木先生にお母さんの話を聞いたときに感じたこと。菓子先輩はお母さんの味を再現していたのではないかということ。


 味見ができないということは、何かのレシピをそのままの分量で作らないと失敗してしまうということである。菓子先輩くらいの腕前だったら感覚でなんとかなるかもしれないが、人に食べさせるものでそんなリスキーなことはしない気がした。

 しかし、部活での菓子先輩は料理本を見てはいなかった。そうなると残りはひとつ。長年作り続けた独自のレシピを、分量まで覚えているということ。

 菓子先輩は、味覚を失うまでの年月で何度も作ったお母さんの味をガイドに、おいしいものを作っていた。


「菓子先輩……」


 お母さんのコメントに混じって、菓子先輩の落書きがまじっている。子供のころから一緒に料理をしていたのかな。

 そんなお母さんが自分と料理している最中に倒れるなんて、菓子先輩はショックとお母さんへの罪悪感で、自ら味覚を封印してしまったのだろうか。いくら菓子先輩がおいしいものを作っても、もうお母さんには食べてもらえないから――。

 

 他のページも見ていると菓子先輩の足音がしたので、レシピ帳を置いてあわてて布団の上で正座した。


「ただいま~。って、こむぎちゃん、そんなにかしこまらなくてもいいのよ」

「は、はい」


 お風呂あがりの菓子先輩は血色も良くなっていて、来たときよりも元気そうに見えた。しっとり濡れた髪を、おそろいのシュシュで束ねている。パジャマが私のものと色違いなのはどうなのだろうか。いや、菓子先輩のお気に入りなのだろうけれど、ペアルックでパンツも――と考えると顔が赤くなってきた。


「こむぎちゃん、ダメじゃない、濡れた髪をそのままにしちゃ」

「だってドライヤーがどこにあるか分からなくて」

「洗面台の下にあったのに。仕方ないわね、私が乾かしてあげる」


 菓子先輩がドライヤーを取ってきてくれて、優しい手つきで乾かしてくれた。


「髪、伸びたわね。入学したときは短かったのに」

「伸ばしたんです。大人っぽくなりたくて」


 ドライヤーの音がうるさくて、近くにいるのに大きな声で話をする。


「そんなこと気にしなくても、じゅうぶん大人の顔になったわよ、こむぎちゃんは」


 聞こえていたけど、聞こえないふりをした。菓子先輩の手はお風呂あがりでほかほかしていて、ドライヤーもあったかくて、身を任せていたらとろんと眠たくなってきた。


「こむぎちゃん、眠いの?」

「……はい、少し」

「まだ早いけど、寝ちゃいましょうか。きっと明日はおばあちゃんが朝早く起こしに来ると思うし」


 はいおしまい、と肩を叩かれたので、通学バッグからおそろいのシュシュを出す。菓子先輩と同じように束ねると、


「髪形まで、おそろいね」


 と喜んでくれた。


 ぴったり並んだお布団。修学旅行みたいだけど、ふたりきりだと自分の寝息まで聞こえてしまいそうで落ち着かない。

 暗闇の中でぼんやり光るオレンジ色の豆電球。天井を見上げると、ああ今自分は菓子先輩の部屋に泊まっているんだなあって実感した。お布団からは、かすかに樟脳のにおいがする。いつも一緒に寝ている熊のぬいぐるみが恋しいけれど、ちゃんと眠れるだろうか。


「……こむぎちゃん、起きてる?」

「……はい」


 先に寝たと思っていた菓子先輩が、内緒話するくらいの音量でぽつりとつぶやいた。


「シュシュ、まだ大事にしてくれていたのね。ありがとう」

「気にいってるから……」


 菓子先輩みたいになりたくて伸ばした髪。私の髪は茶色っぽい猫っ毛で、菓子先輩みたいなつややかな黒髪じゃないから、同じシュシュを使っても同じようにはなれなかったけれど。


 ――沈黙と、静寂。遠くで猫の鳴き声がする。

 菓子先輩が、何か言おうとして止めた気配がした。ふう、と長い息の音がして緊張が走る。


「こむぎちゃん、浅木先生に聞いたのね」


 心臓がドキッと大きく動いた。事実を知ってしまったことを、菓子先輩にいつ言おうか迷っていた。


「……どうして?」

「こむぎちゃんは分かりやすいって言ったでしょう。私がおじやを食べているとき、おばあちゃんとおんなじような顔してるんですもの。なんだか様子もおかしいし」


 自分ではポーカーフェイスができていると思っていたのに。


「こむぎちゃんの前では、ずっと頼りになる先輩でいたかったな。こんなふうに心配かけるんじゃなくて……」

「ごめんなさい。黙って聞きだしてしまって」

「いいの。隠しているのはつらかったから、今はちょっとだけ、ほっとしてるの……」


 お母さんの話をしてもいいかな、と菓子先輩が尋ねる。私が黙ってうなずくと、菓子先輩は静かな口調で語り始めた。


「私のお母さんはね、お父さんと結婚して農家に嫁いできて、おじいちゃんとおばあちゃんの農作業を手伝っていたの。もともと自然が大好きだったから苦にならなかったみたいで、いつも泥だらけになりながら楽しそうにしていたわ。私も田んぼや畑が大好きで、夏にはトマトもぎりを手伝ったり、こっそりトラクターに乗せてもらったりしたの」


 写真でみた、あの上品な美しい人が農作業と思うと意外だったが、中身が菓子先輩と思うと納得できた。


「お母さんは、うちでとれたお野菜やお米を使って、お金をかけずに手間をかけておいしいものを作る天才だったわ。私はお母さんの料理が大好きで、物心ついたときからそばでお手伝いをしていたの。家族も親戚も、近所の人もお母さんの料理が大好きで、たくさん作ってはおすそわけをしていたわ。お礼を言うほうも、言われるお母さんもとても嬉しそうな顔をしていて、私もいつかお母さんみたいに料理で人をしあわせにしたいって思ってた……」


 ぽつりぽつり。やさしい粉雪みたいに、この部屋に菓子先輩とお母さんの思い出が積もってゆく。淡く光る真っ白な、宝物みたいな思い出――。


「あの日……お母さんは私の好物のキーマカレーを作っていたの。このへんは田舎でインドカレー屋さんもなくて、私がどうしても本格的なインドカレーを食べたいってわがままを言って……。ナンも毎回手作りしてくれていたわ。パン生地を使って、フライパンでも作れるように工夫をして……」


 さっき見たレシピ帳に、キーマカレーもあった。そのページだけ他より汚れていたのは、菓子先輩の好物で何回も作っていたからなのだろう。


「辛いものを食べて胃を壊したことがあったから、ひよこ豆のたくさん入った辛すぎないキーマカレー……。コクと甘味があって、すごくおいしかった。お母さんが病院に運ばれたあと、手遅れと分かって私は一度家に帰ってきたわ。もう完成していたキーマカレーがお鍋にあって、私はそれをスプーンで一口味見してみた。まだ実感がわかなかったし、少しでもお母さんを近くに感じたかったのね。……でも、そのときもう、私の舌は何の味も感じなくなっていた」


 胸が、苦しい。知っている事実でも、菓子先輩本人の口から聞くと余計に胸が締め付けられた。


「最初は何かの間違いで、すぐ治るのかと思ったのよ。でも、お母さんのお葬式が終わっても、初七日が終わっても治らなくて。まったくごはんを食べなくなった私を心配して、お父さんが病院に連れて行ったわ。そのときに心因性の味覚障害だと言われたの……」


 どうして菓子先輩がこんな目にあわないといけないの。どうして優しい人ばかりがつらい思いをしなくちゃいけないの。人生も、運命も、不公平だ。私が世界を嘆いたって、どうにもならないのは分かっているけど。


「何度かカウンセリングにも行ったわ。お母さんが亡くなったストレスが原因なんだから、それがなくなれば自然と治るだろうって言われて……。でも、三年経った今でも、私は……。おかしいわね、もう思い出して泣くこともなくなったのに。私ってそんなにマザコンだったのかな」

「おかしくなんて、ないです。菓子先輩がマザコンなら、私だってマザコンです」


 ふふっと、弱々しく菓子先輩が笑った。こんなときだって、菓子先輩は私を気遣って笑ってくれる。泣いてくれたらいいのに。私が菓子先輩の前で何回も泣いたみたいに、菓子先輩も我慢しないで思いっきり泣いてくれたらいいのに。私じゃ菓子先輩の泣き場所にはなれないのかな。


「最後にお母さんが作ったキーマカレー、ちゃんと味わいたかったな……」


 そうつぶやいたあと、菓子先輩の声は途切れ。いつの間にか私も、深い眠りに落ちていった――。

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