菓子先輩のおいしいレシピ③
信じられなかった。信じたくなかった。自分の見ている景色が急に色を変えてしまったような、急に目の前がぐにゃりと歪むような、そんな錯覚を起こした。
「そんなことって……」
ひとつ、思い出すことがあった。あれは菓子先輩と非常階段で出会った日のこと。強引に調理室に連れて行った菓子先輩が、ミネストローネを前にして言った台詞があった。
「そういえば菓子先輩、最初に会ったときに言っていました。誰か味見をしてくれる人が欲しかったの、って……」
そのときは私に遠慮させないための口実だと思っていたけれど、今思えば。菓子先輩は、本当に自分では味見ができなかったんだ。
「家で夕飯を食べないと怒られる、って言っていたのも……」
それも嘘じゃなかった。きっと家族が心配して、少しでも夕飯を食べさせようとしていたのだろう。
「ひどい、そんなの、ひどすぎるよ……」
あんなに料理を愛している菓子先輩が。おいしいものでたくさんの人を笑顔にしてきた菓子先輩が。自分ではそのおいしさも感じることができていなかったなんて――。三年もの間、ずっと。そんなのあまりにも、ひどすぎる。
言葉を失ってしまった私に、浅木先生は三年前に起こった出来事を話してくれた。
「三年前、菓子ちゃんが中学三年のちょうど今くらいの時期、菓子ちゃんのお母さんが倒れたんだ。くも膜下出血で、突然のことだったらしい。菓子ちゃんと一緒に夕飯の支度をしているときに急に倒れたと聞いた。すぐに救急車で運ばれたけれど、間に合わなかった」
お母さんが亡くなっていたことも、私は知らなかった。いつも作った料理を持ち帰っていたのは、お父さんに食べさせるためだったのか。
一緒に夕飯を作る菓子先輩とお母さんの姿が目に浮かぶ。きっと仲の良い母娘だったのだろう。自分の目の前で大好きなお母さんが倒れたとき、菓子先輩はどんな気持ちで――。
だめだ。自分に置き換えて想像したけれど、お母さんがいなくなるなんて考えただけでつらい。
「受験の時期でつらかっただろうけれど、菓子ちゃんは無事合格して桃園高校に入学した。入学式で菓子ちゃんを見たとき、壊れてしまいそうな子だなと思ったよ。何か心に秘めたものがあるのだと思ったけれど、そのときはまだ、それが何なのかまでは分からなかった」
今のほんわかした菓子先輩からは想像できない。けれど、ガラス細工みたいな繊細な心を、やわらかいマシュマロで隠しているようなところが菓子先輩にはあった。
「菓子ちゃんは僕が顧問をしている料理部に入部してきた。入学式の日に感じた危うさはなくなっていて、ふつうの明るい女の子に思えたよ。ただ少し――食べる量が少ないのが気になっていた。もともと痩せていたから、まわりは小食という説明で納得していたけどね」
それはそうだ。何を食べても味がしなかったら、噛んで飲みこむのだって大変だろう。
「ただ、僕はそれだけじゃない気がしていた。大学の教育学部で児童心理を専攻していたから、もしかして心因性の病気が原因なんじゃないかと当たりをつけていた」
「それで詳しかったんですね……」
「ああ。でも、その年で教員をやめることは決定していたし、どこまで生徒の事情に踏み来んでいいのかずいぶん悩んだよ。結局僕は何もできないまま、桃園高校をやめてしまった」
そのときのことを思い出したのか、浅木先生はつらそうな顔をしていた。
「ずっとそのことが気がかりだったんだけど、お店をリニューアルオープンしてすぐ、菓子ちゃんが来てくれてね。そのあとも通ってきてくれるようになったんだ。これが約二年前、菓子ちゃんが二年生になってすぐのことだね」
私が入学する一年前から、二人の秘密の共有は始まっていたのか。
「僕は踏み込む決心をしたよ。菓子ちゃんの心因性の病気が僕の思っている通りだったら、カフェのマスターという立場を利用して助けになれるかもしれない。そう思ってあることを仕掛けることにしたんだ」
「あること……?」
「ああ。とってもいじわるなひっかけ問題を、菓子ちゃんに出したんだ。――こむぎちゃんは、ケークサレって分かる?」
「甘くないケーキですよね? パウンドケーキみたいな形の、おかずケーキ」
「そうだね。ナッツを入れて一見ふつうのパウンドケーキに見えるそれを、何も言わずに菓子ちゃんに出したんだ。試作品だから感想を聞かせてほしいって言ってね」
「それは……」
「だまし討ちみたいでひどいよね。でもそのときは他に方法が思いつかなかったんだ」
浅木先生が自嘲気味に微笑む。一年も一緒にいて何もできなかった私には、浅木先生のやり方を責めるなんてできない。
「菓子ちゃんは――甘さもちょうど良くておいしい、と言ったよ。僕はそれがケークサレであることを菓子ちゃんに話して、事情を問い詰めたんだ。菓子ちゃんはそのとき、自分が味覚障害だということ、お母さんの死が原因であることを打ち明けてくれたよ」
あんなに料理を愛している先輩が味覚を失うということ。大切なものを次々と失ってしまったつらさを、私は想像することしかできない。神さまはどうしてそんな残酷なことをするんだろう。
「菓子ちゃんは、何を食べても味を感じない、砂をかんでいるような気持ちになるんだと言っていた。飲み物だけは、どれも水のように感じるからふつうに飲めるのが救いです、と。家では野菜ジュースやスムージーで栄養をとっていると言っていた」
だからお茶はふつうに飲んでいたのか。自分が飲んでも紅茶の味は分からないのに、菓子先輩が高価な茶葉をいろいろ持ち込んでいたのは――もしかして私のためだったの?
おいしい料理を作るのも誰かのため。菓子先輩はいつだって、自分のためじゃなく誰かの幸せのために動いていた。私はまだ菓子先輩に、その十分の一の幸せだって返せていないよ。
「でも、飲み物で栄養をとっていたから今までは倒れなかったんですよね? どうして今回は急に……」
センター試験のために根をつめて勉強していたとしても、菓子先輩が倒れるほど栄養補給を忘れるとは考えにくい。
「実は、菓子ちゃんが一年生のこの時期にも、しばらく学校を休んだことがあってね。お母さんの一周忌だと言っていたけれど、それにしてはずいぶん長かったし、その後登校してきた菓子ちゃんはやつれているように見えた」
すべてが同じ時期、一月に起きている。菓子先輩の病気にお母さんの死が関係しているなら、今回倒れたのもきっと――。
「もしかして、そのときも今回も、お母さんが亡くなった時期だから……?」
「ああ。これは想像だけど、菓子ちゃんは命日が近付くと余計症状がひどくなるんだと思う。きっと飲み物も飲めなくなっていたんじゃないかな」
「そんな……」
もし菓子先輩が部活に来ていてくれたなら、倒れる前に気付けたかもしれないのに。いや、そんなのは言い訳だ。私がずっと菓子先輩のそばにいたなら。連絡をとっていたなら。今更何を言っても遅いけれど、こうなる前に菓子先輩を助けたかった。
「こむぎちゃん、後悔しているのは僕も同じだよ」
浅木先生に言われてはっとする。うつむいていた顔をあげると、浅木先生は泣きたいのを我慢しているような表情をしていた。きっと、私と同じ。
「菓子ちゃんの事情を知ってから、菓子ちゃんがお店に来る日は無理にでも何か食べさせるようにしていた。味がすごく濃ければどうだろう、逆に淡泊だったらどうだろう、といろいろ工夫してみたけれど、僕では菓子ちゃんは治せなかった。今だってほら、菓子ちゃんがお店に来てくれなければ、僕からは何もできないんだ」
「そんなことないです。浅木先生は……ずっと助けてくれていたのに」
今だって、妊娠している奥さんのことだって気がかりなはずなのに、こうして私を助けてくれている。浅木先生には感謝してもしきれないよ。
「こむぎちゃんは僕よりもずっと菓子ちゃんの近くにいる。僕にはできなかったことが、こむぎちゃんにならできるかもしれない」
いつの間にか時間が経っていて、扉のむこうからは帰宅する人々のにぎやかな声が聴こえてきた。もう、帰らなければ。先生もお店を開けないといけない。
「浅木先生、本当にありがとうございました」
私が財布を出すと、先生は「サービスだから」と遮って扉まで見送ってくれた。
「何かあったらいつでも連絡して」
浅木先生は扉を支えながら、携帯電話の番号とメールアドレスが書かれたメモを渡してくれた。あんなに知りたかった浅木先生のアドレスなのに、これを使うようなことがなければいいのにって思ってしまう。
「浅木先生……」
「うん?」
浅木先生の話を聞いて、ひとつ確かめたいことができた。
「私、菓子先輩の家に行ってみようと思います」




