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菓子先輩のおいしいレシピ②

「いらっしゃいませ。ああ、こむぎちゃん、久しぶり」


 失恋の日から足が遠のいてしまったpale‐greenだけど、浅木先生は変わらず笑顔で迎えてくれた。


「すみません、部長になってから余裕がなくてあまり来れなくなって……」

「そんなこと気にしなくていいよ。新部長おめでとう。お祝いに何かサービスするから、座って」


 カウンターに座ると、浅木先生はオレンジフロートをサービスしてくれた。最初にここに来た日に出してくれた、山盛りアイスのオレンジジュース。好きだと言ったのを、ずっと浅木先生は覚えてくれている。胸の内側がきゅん、と音を立てた。

 しばらく会わないようにしていたからって、好きな気持ちは急には消せないな。


「今日はずいぶん早いね。どうかしたの?」


 それもそのはず。帰りのホームルームが終わったら、すぐに全力ダッシュしてここまでやって来たのだ。扉の前で呼吸を整えるのがちょっと大変だったけれど。

 その目的は、確実にお客さんがいない時間帯に浅木先生と話をするため。オーダーや料理で、浅木先生の逃げ場を作らせないため――。


「どうしたの? こわい顔をして」

「……浅木先生」


 私のただならぬ様子を感じてか、先生はグラスを磨く手を止めて私と向き合った。


「菓子先輩が、学校で倒れたんです」


 浅木先生が息をのむ。驚いた顔はしているけれど、「どうして」「何があったの」とは訊かないことから、私は確信した。


「貧血と栄養失調らしいです。柿崎先生はセンター試験で根をつめすぎたせいだと思っているけれど、本当は違いますよね?」

「何が違うのかな?」


 先生の笑顔がこわい。優しい口調の裏に隠された圧力に、肌がぴりぴりした。


「菓子先輩がごはんを食べない理由です。浅木先生は知っているんですよね?」


 しばらく、無言で見つめ合う時間が続いた。浅木先生の強い視線は「お前は本当にこの件に関わる覚悟なのか」と言っている気がしたから、決して目をそらさなかった。

 お店にかかっていたBGMが途切れる。静かすぎて、自分の呼吸の音と心臓の音がやけにうるさい。浅木先生には聞こえていないだろうか。

 再びBGMが流れた瞬間にふっと空気がゆるみ、先生がふーっと息を吐いた。


「ごまかしても無理そうだね。今のこむぎちゃんなら話しても大丈夫そうだ。強くなったね。最初のころは捨てられた子猫みたいだったのに」

「やっぱり猫なんですね……。今は人間になれました?」

「ご主人様を必死で守ろうとしている、一人前の猫に見えるよ」

「結局猫なんじゃないですか!」


 私も気が抜けてしまった。バニラアイスが溶けてグラスの縁を伝っていたので、あわてて手を伸ばした。


「はあ、おいしい……」


 甘味と酸味が緊張した心をほぐしてくれる。これから何を聞いても大丈夫なように、しっかりエネルギー補給をしておかねば。


「食べ終わったら話そうか。僕が知っている菓子ちゃんの事情を、こむぎちゃんに教えるよ」


 浅木先生は「準備中」の札を掛けに行ったあと、自分にもコーヒーを入れてカウンターの向かいに座った。


「ちょうど休憩したい気分だったから良かった。あ、今見たこと聞いたことは柿崎先生には内緒ね。怒ると怖いんだ、あの人」


 浅木先生が目じりをきっと上げて、柿崎先生の怒り顔のマネをする。それがよく特徴をとらえて似ていたから、思わずぷっと吹き出してしまった。――柿崎先生、ごめんなさい。

 落ち着いたら少し冷静になった。嫌われてもいいから菓子先輩を助けるんだ、なんて息巻いていたけれど。


「……勢いでここまで来てしまったんですけど、菓子先輩は私が知ることを嫌がったりしないでしょうか」


 私のしていることは、浅木先生にも菓子先輩にも迷惑をかけるだけの単なるわがままなのではないのだろうか。私がそれを知ったことで、菓子先輩が余計に悪くなることはないのだろうか。


「菓子ちゃんもきっと、こむぎちゃんに知ってもらいたいと思っているはず。知ってる? 菓子ちゃんが誰かを自分からこの店に連れてきたのは、こむぎちゃんだけなんだよ」

「え、そうなんですか?」

「うん。こむぎちゃんを連れてくるまでは、いつも一人で来ていたね。あの日は珍しいことだったから、僕も驚いたのを覚えているよ」


 もう、すごく昔に感じてしまう四月のこと。菓子先輩に抱き締められて倒れかけたのを思い出す。あのときは私もびっくりした。浅木先生とは違う意味で、だけど。


「僕に会わせるということは、何かあったときに菓子ちゃんの事情が僕から伝わるかもしれないということ。それを分かっていてこむぎちゃんを連れてきたということは、菓子ちゃん自身もそれを望んでいたのだと思う。こむぎちゃんは菓子ちゃんにとって、特別な後輩だからね」


 特別な後輩。その言葉に胸があまずっぱく痛む。


「私、ずっと菓子先輩の特別になりたかったんです。自分が菓子先輩を想うのと同じくらい、菓子先輩も自分を想ってくれたらいいのにって、ずっと思っていました。卒業して忘れられるのがさびしかった。菓子先輩の気持ちが分からなくて、すねたり、泣いたり、いろいろしました。でも今なら分かります。そんなの最初から無理だったんだって」


 浅木先生は優しい顔で私の告白をじっと聞いてくれている。その表情はやっぱり、菓子先輩にちょっと似ていた。


「だって私はこんなに菓子先輩のことが好きだから。いくら菓子先輩が私のことを特別に思ってくれていても、ぜったい私のほうが大好きだから。だから同じくらい想って欲しいなんて無理だったんです」


 菓子先輩を失う前に、気付けて良かった。菓子先輩が私をどう思っていたとしても、関係ない。私がこの気持ちだけ持っていればいい。その想いがきっと、私に勇気と強さをくれるから。


「なんだか、愛の告白みたいだね。菓子ちゃんは本当に幸せものだ」


 愛の告白。ある意味そうかもしれない。恋愛じゃないけれど、菓子先輩は私にとって一番大切な人だ。今気付いたけれど、菓子先輩と浅木先生が仲良くしていても嫉妬しなかったのは、私が浅木先生より菓子先輩のことを好きだったからなんだ。

 この先私に新しく友達ができても、好きな人や恋人ができても、きっと菓子先輩のことはずっと一番好きだろうな。


「こむぎちゃんは、菓子ちゃんの秘密についてどこまで知っているの?」


 オレンジフロートを食べ終わった私に浅木先生が訊ねた。秘密、という言葉に緊張する。


「ごはんをあまり食べないということ、お茶はふつうに飲めるということ、本人はそれをまわりに悟らせないようにしているということ……。それくらいです。料理部で作ったものは、私に食べさせるか自分の分は家に持ち帰っていました」

「そっか。それについてこむぎちゃんはどう思っていた?」

「拒食症なのかなって……。でも、自分で拒食症について調べたときに何か違和感があったんです。菓子先輩には当てはまらないことが多い気がして。それに、あんなにおいしいものが大好きな先輩が、作るのは大丈夫で食べるのだけできないって、考えると不思議なんです」


 私がもしごはんを食べるのが嫌になったら、きっと見るのも嫌だから料理部なんて入らないと思う。菓子先輩はいつも楽しそうにおいしいものを作っていて、その姿はとても幸せそうで、食べものを憎んでいたらあんな表情はできないと思う。


「そうか。こむぎちゃんの違和感は当たっているよ。菓子ちゃんは、拒食症ではない」


 ドクン……。心臓が大きく動いたせいで、足元が揺れた気がした。


「じゃあ、菓子先輩は何の病気なんですか? そもそも病気なんですか?」


 覚悟はしていたことなのにうろたえてしまう。もし私の知らないような病気や、命に関わるような病気だったら、私は菓子先輩を助けられるのだろうか。


「ストレスやショックで、突発性難聴になったり、声が出なくなったりする人がいることは知っている?」

「聞いたことがあります」


 歌手で突発性難聴になった人の話は聞いたことがあった。


「それと同じことがね、味覚にも起こるんだよ」

「そんな……、まさか」


 頭の中を嫌な想像が襲う。どうか予想が当たっていませんように、と祈る私に、浅木先生が残酷な事実を告げた。


「菓子ちゃんは味覚障害だ。三年前、ある出来事のあと、ものを食べても味を感じなくなってしまったんだ」


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