菓子先輩のおいしいレシピ①
十月。秋晴れの良き日に、浅木先生と柿崎先生は結婚式を挙げた。身内だけのこぢんまりとした式だったようで、私たちは参列はできなかったのだが、あとから写真をたくさん見せてもらった。お腹に負担をかけないようなふわっとしたウエディングドレスを着た柿崎先生はすごく綺麗で、白いフロックコートを着た浅木先生は本物の王子さまみたいだった。
本当に、お似合いの夫婦。柿崎先生は産休に入るまで、旧姓のまま仕事するらしい。元気な赤ちゃんを産んで欲しいなと思う。
菓子先輩が部活を引退してからひとつの季節が過ぎ、もうすぐ冬休みになる。最初のうちは活動日にちょくちょく顔を出していた菓子先輩も、受験戦争本番の十二月になるとまったく調理室を訪れなくなった。
少し寂しいが、その頃には私も菓子先輩のいない生活に慣れ、移動教室の時に遠くで先輩を見かけても、以前のように泣きたい気持ちになることもなくなった。
菓子先輩がいなくなっても私の高校生活は続くのだから、ちゃんと一人でも大丈夫にならないといけない。名前だけだけど調理部の部長もまかされ、自信もついてきたころ。
今までの高校生活を揺るがすような、大きな出来事に私は直面することになる。
*
「菓子先輩が、倒れた!?」
耳を疑うような一報が入ったのは、三学期が始まってしばらくたったころだった。
椅子を思い切り蹴飛ばして立ち上がった私に、クラス中の注目が集まっていた。けれど、そんなことは気にならないくらい私は動揺していた。
「ちょ、ちょっとこむぎちゃん落ち着いて。あっちで話そう」
なんとか冷静さを保っているみくりちゃんが、私の手を引いて廊下のはじっこに連れて行く。
「菓子先輩が……どうして……」
「三年生のクラスの階がざわざわしていたから、通りがかったバレー部の先輩に聞いてみたの。そうしたら、百瀬先輩が授業中に急に倒れて、保健の先生の車で病院に運ばれたって……」
心臓の音がうるさくて、頭がつぶれそうだった。手がつめたい。震えが止まらない。
「びょういん……病院に行かなきゃ!」
「まだどこの病院かも分からないし、先生に訊かないとどんな病状かも……。待って、こむぎちゃん!」
みくりちゃんの制止する声も聞かず、私は走り出していた。廊下を全力疾走していたら先生に注意されそうになったけど、私の顔を見たら何も言わずに通してくれた。よっぽどひどい顔をしていたらしい。もう、呼吸をするので精一杯で、何も考えられなかった。ただ足だけが、もつれながらも走るのをやめなかった。
菓子先輩を拒食症だと疑い始めたころ、ずっとごはんを食べなかったらどうなるのか調べたことがある。そして私でも知っているような外国の有名歌手が、若くして拒食症で亡くなっていると知った。正直そのときは、調べたことを後悔した。怖くてたまらなかったけれど、菓子先輩はこの人とは違う、こんなことにはきっとならないと思い込もうとしていた。
でも、でも。
もしかしたら、菓子先輩が死んでしまうかもしれない。私の前からいなくなってしまうかもしれない。
こんなことなら嫌われてもいいから、強引に事情を聞き出せば良かった。毎日無理やりにでもごはんを食べさせれば良かった。
取り返しのつかない後悔が襲う。その重さとつめたさに、心が押しつぶされそうだった。
「柿崎先生!」
職員室の扉を開けて大声で呼んだ私に、先生たちが非難の目を向ける。柿崎先生はぎょっとした顔をして、こちらに駆け寄ってきてくれた。
「小鳥遊さん、どうしたの? もうすぐ授業始まるわよ。早く教室に戻らないと……」
他の先生方をちらちらと伺いながら、小声で私を職員室の外に押し出す。
「菓子先輩は無事なんですか!? どこの病院に運ばれたんですか?」
先生の言葉をさえぎって、つかみかかりそうな勢いで訊ねる私に、柿崎先生は目をみはり、ふうっと息を吐いた。
「そっか、一年生のほうまで話が伝わっちゃったのね」
柿崎先生は私を気遣うような表情になって、大きくなり始めたお腹をさすった。
「小鳥遊さんは部活の後輩だし、隠していても仕方ないから伝えるわね。さっき保健の先生から電話があって、命に別状はないって。貧血と栄養失調だったから、点滴を受けてから家に送り届けるって言っていたわ。センター試験も終わったばかりだし、きっと根をつめすぎちゃったのね」
「命に……別状はない……」
力が抜けて廊下にへたりこんでしまった。
「次の授業で百瀬さんのクラスには知らせる予定だったんだけどね。悪いタイミングで話を聞いちゃったのね」
柿崎先生が背中を支えながら起こしてくれる。ほっとしたら、身重の先生に何てことをしてしまったんだ、と気付いてさーっと血の気が引いた。
「ご、ごめんなさい、柿崎先生。私、気が動転してしまって」
「いいのよ。大好きな先輩のことだものね……。でも小鳥遊さん、あなたを心配して駆け付けてくれた子が一人いるわよ」
先生の視線の方向に目をやると、みくりちゃんが肩で息をしながら私たちの様子を伺っていた。
「みくりちゃん……」
「こむぎちゃん……。足速すぎだよ。運動部の私でも追いつけないんだもん……」
火事場の馬鹿力というやつだろうか。むしろ普段は走るのは苦手なんだけれど。
授業開始のチャイムが鳴る。柿崎先生には早く教室に戻るよう言われたけれど、まだ気持ちが落ち着かなくてみくりちゃんと階段に座り込んだ。
「百瀬先輩、大事にならなくて良かったね」
「うん……」
今回は大丈夫だったけれど、次は? また倒れるようなことがあったら? 菓子先輩の問題は何も解決していない。私はそのたびにずっと、心配して後悔して、を繰り返すの?
「みくりちゃん、前に私の力じゃどうにもならないことでも菓子先輩を助けたいのかって訊いたよね」
いつの間にか、力いっぱい手のひらを握りしめていた。噛みしめた唇もじんじん痛む。
「うん」
みくりちゃんが心配そうに私を見ている。
「助けたいよ……! 私じゃ何もできないようなことでも、助けたいよ……! 何もできないならせめて、ずっと菓子先輩のそばにいたいよ……!」
苦しくて苦しくて、絞り出すように叫んだそれはほとんど悲鳴だった。子供みたいな駄々をこねてるって分かってる。でも、何もしないで菓子先輩を失うなら、泣いても嫌われても可能性にしがみついていたほうがずっといい。
「こむぎちゃんはもう、決めたんだね」
「うん」
もう迷わない。後戻りもしない。
「決めたことなら、私も全力で応援するし、力になるよ。何かあったら相談して欲しい。きっと柚木さんもそう思ってるよ」
「みくりちゃん、ありがとう」
瞳の上に張った涙の膜がこぼれ落ちそうだったけれど、ぐっと堪える。思えば泣いてばっかりの一年だった。そのたびに菓子先輩や友達に助けられて、今の私がある。
だから今は泣かない。今度は私が菓子先輩を助けるって決めたから、そのときまで嬉し涙をとっておくんだ。
「でも、まず何をするか決まっているの?」
「うん。心当たりがあるの」
菓子先輩の事情を知っていそうな人物。パズルのピースのひとつめの場所。
次に私が向かう先は決まっていた。




