オシドリのアフタヌーンティー③
職員室までの道のりをてくてく、みくりちゃんと歩く。いろんな部活やクラスが文化祭に向けて準備を始めているから、放課後もいつもよりにぎやか。
「なんかこうざわざわしてると、文化祭前だ~って感じするよね」
お祭りとかイベントって、始まる前の準備が一番楽しいのってなんでだろう。遠足で前の日に眠れないのと同じ理論なのかな?
「うん。クラスの出展は簡単なものになっちゃったから、こむぎちゃんに誘ってもらって良かったよ。運動部は文化祭で何もしないし」
「みくりちゃん、前に料理部には私だけがいたほうがいいって言ってたから、すんなり入部してくれてびっくりした。あ、もちろん、嬉しかったんだけど」
「こむぎちゃん、私にそれを聞きたくて誘ったでしょう」
ぎくっと身体をこわばらせたけど、みくりちゃんはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「ごめんね。怒ってない?」
「ぜんぜん。でも柚木さん、いきなり先輩と二人きりになったから、きっとあたふたしてるよ」
「悪いことしちゃったかな」
「大丈夫じゃないかなあ。どのみち慣れないといけないんだし」
一番聞きたいことが聞けないまま、職員室に着いてしまった。なんとなく入りづらい扉を「失礼します」と言いながら開ける。先生たちも忙しいらしく、近くにいた先生が私たちをちらりと一瞥しただけで終わった。
誰先生に用があるのか聞いてくれればいいのに。だから職員室は苦手なんだ。
「こむぎちゃん、調理部の顧問って柿崎先生でいいんだよね? 女の先生の」
「うん、そう」
私が入口でもじもじしている間に、みくりちゃんは座席票で柿崎先生の机を調べ、躊躇なく職員室の奥に進んで行ってしまった。これが優等生の対応なのかと感心している場合ではないので、あわてて後を追う。柿崎先生は机でなにやら書類整理をしていた。
「柿崎先生。調理部一年の御厨と小鳥遊です。文化祭の出展が決まりましたので、申込用紙を持ってきました」
みくりちゃんの声で顔を上げた柿崎先生は、若い女の先生。ショートカットに眼鏡をかけているのがボーイッシュだけど色っぽくて私は好きだ。さっぱりしていて男勝りな先生なので、生徒にも人気がある。
「ああ、百瀬さんから聞いているわ」
ふだんなら溌剌とした雰囲気の先生なのだが、今日は顔色も悪くて声もよわよわしい。
「はい。判子を押しておいたから、文化祭実行委員の人に渡してね」
これで終わりではないのか。どうして学校の提出物って判子がたくさん必要なんだろう。
「じゃあ明日クラスで、実行委員の子に渡します」
「そうね、分かったわ」
みくりちゃんが先生から申込用紙を受け取ったとき、先生の薬指でキラリと光るものがあった。
「あ……っ、指輪」
私が口に出してつぶやいてしまうと、柿崎先生はハッとして顔を赤らめた。先生の薬指には控えめなダイヤがついたリングが光っていた。飾り気のない柿崎先生が指輪をつけているなんて、もしかしてエンゲージリングかもしれない。
「婚約指輪ですか?」
「ええ。来月に挙式することになったの」
先生は若干気まずそうに、私たちと目を合わせずに答える。結婚のおめでたい話題なのに、なんだかおかしい。生徒には知られたくなかったのだろうか。
「そうなんですね。おめでとうございます」
なんでみくりちゃんはこんなに、大人みたいな対応ができるのだろう。私は心の中で先生に「余計なことを言ってごめんなさい」と謝りながら、柿崎先生の席を後にした。
職員室を出たあと、二人同時にふぅ~っと深いため息をつく。
「みくりちゃん、ごめん、私余計なこと言って」
「ううん。指輪してたってことは先生も隠してないってことだと思うし」
「でもこれで分かったよ。柿崎先生、最近顔色も悪いし前よりやつれたでしょ? きっと結婚式のためにダイエットしてるんだね」
ドレスを着るためにダイエットをする花嫁が多いと、何かで読んだ気がする。柿崎先生はそのままでも充分細いと思うけれど、そこは私には分からない女心の葛藤があるんだろう。
「……そうなのかな」
みくりちゃんはそう言って足を止める。
「こむぎちゃん、ちょっとこっち」
もう少しで調理室に着いてしまうので、みくりちゃんは階段下のスペースに私を引っ張って行った。階段下は学校内のエアポケットみたいに、廊下からも階段からも死角になっている。こうして奥の壁にぴったりくっついていれば誰にも見つからないし、内緒話にはもってこいだ。
「みくりちゃん、どうしたの」
まわりに人気はないけれど、自然とひそひそ声になってしまう。
「こむぎちゃん、柿崎先生がダイエットしてるって話、あまり他の人にしないほうがいいかも」
「え、どうして?」
「たぶんダイエットじゃないと思うんだよね……。実は前に、先生がトイレで吐いてるとこに遭遇しちゃって」
「ええっ」
「夏休み前だったかな。ちょっと職員用トイレを借りたことがあって。先生と目が合う前に逃げたから、向こうは私だって分かってないと思うけど……」
そのときのことを思い出したのか、みくりちゃんは眉間に皺を寄せて、苦いもののように唾を飲みこんだ。
「あと、二学期始まるときに支部総会があったでしょう? うちの地区の担当が柿崎先生なんだけど、父によると、柿崎先生、出てきたものをまったく食べなかったらしいんだよね」
支部総会は保護者と先生による懇親会のようなもの。地区ごとに分かれていて、年に数回、お寿司屋さんやうなぎ屋さんなどで会合がある。
「それって、もしかして、拒食症……とか?」
「分からない。でも結婚前ってマリッジブルーになったりするらしいし、先生も大変な時期なのかも」
そういえば、私にも思い当たることがある。週に一回、活動日に先生が様子を見に来てくれるのだが、以前は菓子先輩がすすめれば一緒にお茶してくれた先生が、ここのところお茶を断ってすぐに戻ってしまうようになった。でも拒食症って、お茶も飲めなくなるのだろうか? ――そうだ、菓子先輩は。
「みくりちゃん。……菓子先輩のことはどう思う?」
「それがこむぎちゃんが聞きたかったことだよね」
私は頷く。拒食症――。菓子先輩の今までの行動について考えた結果、思い当たったのがそれだった。けれど菓子先輩はお茶は普通に飲んでいるし、柿崎先生のように顔色も悪くない。
「正直、私も分からない。でも可能性としてはあると思う」
「前に料理部に入らないって言ったのはそのせいじゃないの?」
「うーん、それはまた違う理由なんだけど。こむぎちゃんは菓子先輩のそれを知ってどうしたいの?」
「もし本当に病気なら、助けたいと思う」
もちろん、そんなの当たり前だ。菓子先輩が私にしてくれたみたいに、できることがあったら助けたいし、力になりたいって思う。
「お医者さんや家族でもなかなか治せない病気でも? 自分の力でどうにもできないことでも?」
同意してくれると思ったのに、みくりちゃんは私の目をしっかり見ながら硬い声で告げた。
「それは……」
「ごめん、きついこと言っちゃって。でもそのくらいの覚悟がないと、突っ込んじゃいけないことだと思う。菓子先輩が自分から何も言ってこないなら、なおさら」
何も言えなくなってしまう。私、もっと簡単に考えていたかもしれない。話を聞いてあげれば良くなるかもって。私は菓子先輩じゃないのに。人の悩みを聞いて、おいしいものを作っただけで誰かの心を溶かす力なんてないのに。
「私、何もできないのかな」
「こむぎちゃん……」
急に口の中がしょっぱくなって、私は自分が泣いていたことに気付く。
「まだ病気って決まったわけじゃないから。もう少し様子を見よう?」
「うん……」
みくりちゃんになぐさめられながら、私はこのまま季節が止まればいいのにと思っていた。そうすれば、菓子先輩の引退も、卒業も、ずっとずっとやってこない。
菓子先輩の料理と笑顔を思い出していたら、涙はなかなか止まってくれなかった。




