ひと休み
アラームが鳴る直前で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はすっかり初夏で、横で寝息を立てている黒猫のしっぽをかすめていた。
額に白い星があるから星丸。3年以上一緒に暮らしている。
相棒の眠りを邪魔しないようアラームを止め、身体を起こすと全身が重かった。
企業の倒産が相次ぎ、中古ОA機器がお買い得なのに、どこも慎重。おかげで連日10時前には帰れないし、休日もつぶれがちだ。
営業はつらい。
でも職があるだけマシだし、忙しくなければ滑り落ちそうで自分から首を絞めるようなスケジュールを組んでしまう。
トーストとインスタントスープをテレビを見ながら流し込むと、胃のあたりに痛みが走った。
あとでまた薬を買っておこう。
くわえ歯ブラシで洗面所から出ると、星丸がベッドの下にいて、猫式正座で僕を見上げていた。
「今日は早いな。あらたまってどうした?」
半分ふざけながら問いかける僕に、
「オーニャイ」
星丸は座ったまま両前足を上げた。
まるで手招き。
誘われてかがむと、パフっ。
僕の左頬にやわらかな猫の前足があたった。
「いったいなんだよ?」
「こうたい、なのにゃ」
「星丸! オマエ、しゃべっているじゃないかっ!?」
口から歯ブラシが落ちた。
その拍子に、一気に星丸が大きくなった。
いやそれだけじゃない。同時に、足元に落ちた歯ブラシが竹箒ぐらいに巨大になった。
まてよ。急に現れた僕の背より高いあの壁はもしかして、ベッド!?
僕が縮んでいるっていうのか?
「あのね、交代っていわれたの。だからボクが孝樹のかわりに『人間やる』んにゃよ」
大きくなった星丸が僕をいたわるように言った。
「誰がそんなこと? おい、どうやったら元に戻るんだよ」
パニックになる僕に、
「誰のかわからないけどアタマの中で声がしたの。孝樹、疲れているからボクと交代って。疲れがとれたら戻れるんにゃって。
大丈夫。ちゃんと、うちのこともするし仕事もするから」
と動じた様子もない。
「でも星丸は猫じゃないか。町に出るだけでも大騒ぎだぞ?」
「孝樹は猫、ボクはちゃんと人間の姿になっているんにゃよ」
言われて見ると、星丸はさっきまでの『Tシャツ姿の僕』になっていた。
そしてわが身はと言えば、丸い肉球つきの黒い前足に…。
「ちょっと待って…」
もう何がなんだか。
「疲れているんだ、きっと」
とこぼすと、
「だからそう言っているにょに」
「これは夢だ。もう一度寝て、起きればいつもどおりの筈だ…」
僕は背より高いベッドの上に飛び乗って、毛布の下にもぐりこんだ。
「好きなだけ寝るといいと思う。疲れもとれるし、納得もできるにゃ」
布団の隙間からのぞくと、星丸は淡々と身支度をし、僕としてドアから出て行った。
あれから一か月がたつ。
僕は日々、猫としてすごしている。日向ぼっこに昼寝に散歩。もう胃も痛まない。
一方の星丸も、人間として生活をこなし、会社でも彼なりに仕事をしているようだ。
「できることを、できる範囲内で精一杯やっているだけにゃ」
7時には帰ってくるし、土日も休む。それで問題ないというから、いいのだろう。
今日の僕は、2ブロック先の塀の上で待ち合わせ。白い愛猫と交代した輸入雑貨店勤務のオンナノコと約束がある。
そう、意外と猫と交代している人間っているものだ。
他にも勤続30年のオジサン猫や、犬と交代した女子高生にもあったことがある。
ひょっとすると今人間の姿をしているのはほとんどが交代した動物だったりして。
皆、疲れがとれるまで、『交代』だ。
路地を抜けると、彼女が白いしっぽを優雅に立てて塀を伝い来るのが見えた。
今日はどこへ遊びに行こう。
空の雲を眺める屋根上か、川の流れを楽しむ橋げた下か?
誰かが『交代終わり』と告げるまで、僕はヒトを休んで猫になる。