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情熱を内に秘めたエメラルド  作者: 小織 舞(こおり まい)
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三話

 私がハークスリー家にやってきてから、おばあ様の体調は快方に向かっていった。往診に来てくださったドクターの言葉なので間違いない。食事の量が増えていき、ラジオを聞いたり、読書をしたりと、生活を楽しむことに意欲的になったのだと。


 リクライニングベッドを起こしておしゃべりをしたり、少しずつだけれど歩いたり、車椅子で庭に出たりと、長い間動かしていなかった体の錆を取るべく頑張っていらっしゃる。リチャードもおばあ様のリハビリのために専門のスタッフを雇ってくれたりして、具体的にどうとは言えないものの、何かが変わっていっている気がした。


 一番大きな変化は、今まで個々に済ませていたという夕食を私も含めた三人で摂るようになったことだ。おばあ様の提案に、私は最初反対した。リチャードはアマンダと食事をしたいに違いないと思ったからだ。


「おばあ様、リチャードは仕事があるのですから、無茶を言っては良くないですわ」

「何を言うの、ジョルジェット、仕事より家庭を優先するのが当然のことですよ。それができない社会になってしまったら、私たちの国民性は失われてしまうでしょう。こういう男は結婚前にきちんとしつけておくのが大切ですよ」

「エリザベス、僕にも責任と言う物がある。何万という社員を抱えているんですよ。彼らを蔑ろにはできない」

「あらまあ、蔑ろにしろだなんて、そんなことは言っていませんよ。何より、上が休まねば下はもっと休めません。屁理屈はいらないわ、リチャード、あなたが優先するべき物は何かしら?」

「……何よりもまず、陛下への忠誠心ですよ。当然でしょう?」

「まったく、この子は!」


 おばあ様の厳しい声に険悪な雰囲気になるかと思いきや、私がおろおろしている内に二人は笑っていた。ホッとするというか、呆れるというか……そういえばいつも二人はこんな風に喧嘩腰で談笑していたことを思い出す。最初にこういった場面に出くわしたとき、私は泣き出してしまったものだった。懐かしさがこみ上げてきて、胸に刺さる。涙を拭こうと背を向けたら、リチャードが優しく私の肩を抱いた。


「そういうことだから、上手く頼む」


 髪の毛にキスが落とされる気配がして、彼は立ち去っていった。おばあ様の前でだけは礼儀正しく優しいリチャード。私のことを内心では尻軽だと軽蔑しているに決まっているのに、従順で貞淑な婚約者を演じさせる彼。冷ややかな作り物だと知っていながら、彼に微笑みを向けられるだけでまるで小娘みたいにのぼせあがってしまうなんて、あなたは本当にばかね、ジョルジェット。


おばあ様の回復と共に始まった三人での夕食は、温かさとたわいないおしゃべり、そして笑い声に満ちていた。それでも、なぜかしら。一人きりの寂しい夕食の方が私にはお似合いのようだった。私の食欲は落ちていくばかりで、夜ごと悪夢にうなされた。出てくる場面は決まって、リチャードに別れを告げたときの夕暮れのボタニカルガーデンでのこと。


『ごめんなさい、リチャード。私、お金のない貴方とは一緒にいられないわ。貧乏な暮らしには耐えられないの』


 実際の私はこう言い捨てて、ショックを受けているリチャードを置き去りにした。でも、夢の中では続きがあるのだ。リチャードは私を捕まえて、無理やりキスをする。それは愛のない、冷たいキスだ。


『君は最低な女だ、ジョルジェット。高慢ちきな嘘つき女め、恥を知れ!』


 そう言い放つ彼は、過去の傷つきやすい青年ではなく、現在の黒衣の紳士なのだった。


 夢見が悪いせいか、体重が落ちてきた。はからずも減量に成功したものの、一番減ってほしいバストがあまり変わっていないように思う。もっとヨガの時間を増やすべきかも知れない。そんな私の変化に一番最初に気が付いたのは、皮肉にもリチャードだった。彼は朝食の席でいきなり、おばあ様のドクターに診察してもらえと言った。そして私の反論を全て無視して会社へと向かってしまった。


「こんなに痩せてしまって……リチャードが心配するのも当たり前だわ。ごめんなさいね、気が付かなくて。もうずいぶんと目が薄くなってしまって、ちゃんと見えないのよ」

「そんな、おばあ様のせいじゃありません。私はもうこどもじゃないんですから。それにほら、私はちょっと太めだから、痩せた方がいいんですよ」

「馬鹿おっしゃい。確かにあなたの胸は慎ましやかとは言えないけれど、他の部分はむしろ細すぎるくらいでしたよ、昔からね。ともかく、リチャードの言う通り一度診てもらって、病院で検査が必要か相談しましょう」

「はい、おばあ様」


 結果はやはり異常なし。ただし、あまりにも食べられなかったり眠れない場合は薬に頼ることも必要だと言われた。そんなことより、ドクターと二人きりで話せるまたとないチャンスを得たので、ずっと気になっていたことを聞く。


「ドクター、エリザベスのことなんですけれど、聞きたいことがあるんです。もちろん、答えられる範囲で構わないので」

「いいですとも、どうぞ」

「あの、エリザベスは、どこが悪いんでしょう。リチャードは記憶に混乱があって、その……体の具合も相当悪いと言っていて……」


 おばあ様は確かに私のことをリチャードの婚約者だと思い込んでいらっしゃる。けれど、その他はリチャードから聞いて覚悟していたことに比べてはるかに良い状態を保っている。カロリーや塩分を控えた食事も適量を食べ、車椅子を乗りこなし、短い距離なら歩きさえする。薬だって、確かに多くを服用してはいるものの、彼女ほどの年齢であればそう不思議なほどではないと思う。実際、ビタミン剤や嚥下(えんか)を助けるため薬だと聞いている。


 ドクターは終始にこやかだった。彼の話によると、おばあ様は足を骨折してから退院後、ケア施設で暮らすことになったそうだ。薄情にも聞こえるけれど、確かにこの屋敷はどちらかと言えば湿気がこもりがちで傷ついた足には良くないだろうし、おばあ様の部屋は二階にある。日当たりの良くて同年代の入居者がいるホームは快適だったようだ。それが、リチャードの婚約話が持ち上がった頃から、段々と具合が悪くなっていったらしい。生きる気力が減ってしまっていたんだろうね、とドクターは微笑んだ。


 一時期は緊急入院もして、本当に危なかったそうだ。リチャードはドクターに頼み込んで自宅療養に切り替えた。けれど、それが却って良くなかったのか、おばあ様は私のことばかり口にするようになり、私を探して無理に歩き回ろうとしたこともあったのだという。


「こうして、あなたが帰ってきて、エリザベスは本当に嬉しいんだね。あんなに元気になって、お迎えはまだまだ先だな」

「良かった。……ところで、ホームで何かあったんでしょうか」

「さて、わしには分からんよ。とにかく、あなたはまず、きちんと食事を摂ること、そしてストレスの原因を取り除くことだな。これ以上はわしの領分を越える」

「ありがとうございました、ドクター」


 その後、ドクターはおばあ様がお茶をしている間に、私は先ほど聞いたことについて考えていた。特に、私を探してずっと名前を呼び続けていたというおばあ様のことを考えると、涙が浮かんでくる。リチャードはおばあ様のために私の居場所を探したのだろうか、いえ、違うはずだ。だって、マリエールを訪れた彼の驚きに嘘はなかったように思われたからだ。


 ところで、ひとつ引っ掛かることがある。リチャードはおばあ様の記憶に混乱があるから、婚約者のアマンダを受け入れられずにいるのだと言っていた。そして、おばあ様の容態が悪く、自分の屋敷で最期を看取ってやりたいと。それが、ドクターの話では屋敷に帰ってきてから私のことを探し始め、リチャードの婚約者だと言い始めたとなっている。これは、どこか順番がおかしいような気がする。リチャードと話さなければならないと思った。夕食の後、書斎にこもる彼を追い、書斎のドアにすべりこんだ。


「……ジョルジェット」

「ごめんなさい。でも、どうしても確かめたいことがあって」


 咎めるように私の名を呼ぶリチャード。その眼差しは心なしか厳しさが解けているように思えた。今ならきっと、皮肉やなじり合いなしに、きちんと話せるのじゃないかしら。


 リチャードは執務机から立ち上がり、私を椅子のある場所へ導いた。そっと腰に当てられた手に意識が集中してしまう。リチャードは私に寄り添い、そっと吐き出すように言った。


「僕も君に聞いて確かめたいことがある。僕の疑問と、君の疑問と、どちらから解決するべきだろうか」

「……分からないわ」


 くっきりとした眉の下の、長い睫毛に縁取られた深いエメラルドグリーンの瞳が私を覗き込む。心臓がまるで小鳥のように跳ねた。吸い込まれてしまいそうな森の湖畔の色、そこで溺れてしまっても良いと、昔はそう、本気で思っていた。


「レディファーストだ、君の疑問から先に聞こうかな」


 リチャードはそう言いながら、私の方へ身を屈めた。キスされると思った。夢でのことが思い出されて、思わず体が固くなった。それは彼には明確な拒絶と映ったのだろう、リチャードはそっと適切な距離を取った。


「それで? 僕に聞きたいこととは?」

「あ……」


 冷淡な声に涙が滲む。悟られないように、さらに視線を下げた。


 リチャードにドクターとの会話をかいつまんで話し、おばあ様の具合が悪くなった原因が、ホームでの出来事にあるのではないかという私の推測を伝えた。


「ホームは何も問題ない、とても良い所だ。まさか君はホームの職員がエリザベスに何かしたとでも?」

「いいえ、違うわ。違うのよ……ただ、おばあ様の体調が崩れだしたのは、貴方が婚約者を連れて来はじめた頃だと聞いて……」

「アマンダか。それこそ、君には全く関係ないことだ」

「……そうよね。ごめんなさい」


 さっきから冷えていた心臓が、さらに氷漬けになったような気分だった。人間はこんなにも冷たさを感じることができるのか。今すぐ彼の足にすがりついて謝罪を、赦しを求めたい気持ちを抑え、私は礼儀として彼の疑問にも答えるつもりがあることを示した。


「それで、貴方が私に尋ねたいことって、何かしら。何でも聞いてちょうだい。できる限り答えるわ」

「もう必要なくなった。答えは出たよ」

「……そう。お役に立てなくてごめんなさい。気を悪くさせて、申し訳なかったわ」


 それだけ言うのが精一杯で、私は書斎を飛び出した。引き留める声はなかった。そんなことがあってからしばらく、私たちの関係はすっかりビジネスライクなものに戻っていた。ほんの少しだけ表に出ていた親密さも影を潜め、おばあ様が心配そうな表情になるほど、リチャードはよそよそしかった。クリスマスを前にして、仕事が忙しいからと夕食までに戻らない日が段々と目立ち始めた。


 おばあ様を不安にさせるなんて、私は偽者の婚約者として失格だ。それなのに、リチャードはこのお芝居を続けようとしているのだ。私はどうしたら良いか分からなくなっていた。


 そんなクリスマスの三日前のこと、おばあ様がデパートに買い物に行こうと言い出した。ツリーも部屋の飾り付けも、ケーキの手配も既に整っている。私はおばあ様に訳を尋ねた。


「気晴らしよ。ツリーのオーナメントを増やしたいの。リネンもレースも、お値打ちになっているでしょうし。そうだわ、新しいティーセットを一緒に見ましょうよ」

「はぁ、そうですね。あ、でも車が……」

「ウィリアムに頼んでありますよ。あの子は喜んで車を出すと言ってくれました。本当に優しい子ね!」


 リチャードと同じ歳で私より上のウィリアムが「あの子」扱いされているのはおかしな感じがするけれど、人懐っこい笑顔のリチャードの秘書には、確かに「あの子」という表現が似合っていた。


「リチャードがよく許してくれましたね」

「許可なんて取っていないわ。ウィリアムは、こんな時のために部下を育てているんですよ、なんて笑って引き受けてくれたわ」

「あら……」


 リチャードのしかめ面を思い浮かべて、思わず笑いがこぼれてしまった。おばあ様は一瞬、驚いた顔をなさって、柔らかい微笑みを私に向けた。


「そうそう、笑顔が一番よ、ジョルジェット」


 その言葉は、初めてのデートの時のリチャードの言葉に重なって、私の目許を熱くさせた。






 デパートは戦場だった。車椅子では通路を通るのが精々で、私とおばあ様は遠くから売り場を眺めるだけ、主に活躍していたのはウィリアムだった。高そうなスーツをしわくちゃにしながら、リネンのワゴンや婦人服の一角で奮闘するウィリアム。彼には可哀想だけど、私は笑ってしまった。だって、彼ったらとても良い笑顔で勝ち取ったレースを振り回してこちらに合図するんですもの。きっと本当はアイスホッケーのスティックを握っているのが似合いの体で。


 有意義な疲労感にぼんやりしながら帰宅したのは一時過ぎだった。ウィリアムが車を置いてくる間に、私はおばあ様の車椅子を押して玄関に立った。きちんと施錠して出てきたはずなのに、鍵が開いている。ロビーのドアが開いており、二階への階段が見えていた。


「リチャードが戻っているのかしら」

「ジョルジェット、ウィリアムに見てもらいましょう」

「いえ、ちょっと確認してきます。すぐに戻りますね」

「だめよ、ジョルジェット! ウィリアム、ウィリアーム!」


 口ではリチャードかもしれないと言いながら、私の中には妙な確信があった。リチャードではない。ただ、泥棒とも思えなかった。もしかしたら、アマンダが来ているのかもしれない……私はドクターの話を聞いてから、ある種の嫌な想像を抱いていた。


 アマンダが、おばあ様に何かしたのじゃないかと。アマンダのせいでおばあ様は体調を崩し、心身ともに傷ついてしまったのではないかと疑っていたのだ。それにリチャード、彼もまた、アマンダを疑ったことがあるのじゃないかしら、と……。


 二階に上がると、おばあ様の部屋のドアが少しだけ開いていた。ここも私がきちんと閉めてきたのだ、開いているはずがない。招かれざる客がいるのだ。私は部屋のドアを開け放った。


「あなたは……!」


 やはり、あの日マリエールを訪れていたアマンダだった。おばあ様の宝石箱を手にしている。


「泥棒! おばあ様の宝石に手を出さないで!」

「なんですって、泥棒はお前じゃないの!! わたしはただ、正当な婚約者として指輪を受け取りに来ただけよ。あの邪魔なババアがいつまでたっても渡してくれないから!」

「なんてこと……!」

「この泥棒猫、お前がいる場所は本来ならわたしのものだったのよ! それを後から来て居座って!」

「な、何を言うの。私は別に……」

「お前たちさえいなければ、わたしは……!」


 憎々しげなアマンダの表情に、背筋が粟立った。いけない、おばあ様が危ない。私はよろめく足を懸命に動かし、階段へ向かった。


「おばあ様!」

「待ちなさい、泥棒猫!」


 アマンダが追いかけてくる。私たちは階段のそばで揉み合いになり、そして、足が床を離れた。何も支えがない不安、浮遊感。頭から一気に血が下がり、叫びだしたいのに声が出ない。肩に痛みを覚えて、そこで何もかもが途切れてしまった。

★エリザベス女王陛下への忠誠と、同名のエリザベスへの恭順を込めたリチャードの英国風ジョーク。ちょっときわどくて聞いていると肝が冷える。

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