二話
私とリチャードとの出会いは、とても平凡なものだった。父親同士が会社の共同出資者であったから、という縁で家族ぐるみでおつきあいがあったのだ。だからといって彼と特別仲が良かったようなことはなく、むしろ同じ空間にいたところで大した会話もなかった。
彼の母親は早くに家を出ていってしまい、ハークスリー家はおばあ様の手で切り盛りされていた。私はおばあ様に気に入られ、私もまた彼女と過ごす時間が心地好かった。学校に上手く馴染めず、休日を共に過ごす友達もいなかった私は、実の祖母のように良くしてくれるおばあ様にべったりだった。
おばあ様は「このままリチャードのお嫁さんになればいい」だなんて口癖のように言っていたけれど、私はそれを真に受けたりはしなかった。当時、三つ歳上だった彼とは接点もなくロマンチックな関係になれるとは到底思えなかったのだ。それに、笑わないリチャードは怖い感じがしたし(もちろん、今の方が十倍も怖い顔をしていることは内緒だ)。
私たちの関係が変わったのは、私のプロムがきっかけだった。欠席するつもりだった私に、リチャードから声をかけてくれたのだ。ちょっと太めで既製品のドレスが合わない私のために、わざわざ特別なものを用意してまで誘ってくれた。
あの時が、私の人生で一番幸せな時間だった。
プロムまでの間も私たちは時間を見つけてはデートした。図書館で、公園で、映画館で。積極的とは言えなかった私たちは、それでも精一杯に恋人同士であろうとしていた。
悪いことは重なるもので、私の母が病に倒れてしばらく、父が出資していた会社が倒産した。父は手を尽くしたのだと思う。けれどその影響は大きく、我が家は傾いてしまった。高額な治療費と私の大学進学資金の両方を捻出するのは不可能だった。私は進学を諦め、手に職をつけようと服飾の道に進むことにしたのだった。幸い、おばあ様の手ほどきによってある程度の見込みを持ってその道に臨むことができた。
そして当然のことながら、私とリチャードの関係は解消するべきだと考えた大人たちによって、私たちは引き離された。リチャードは彼の父親に反抗した。早々に諦めてしまった私とは違い、真摯に説得を繰り返した。それでも無駄と分かると、私に駆け落ちしようと言ってくれたのだ。
私は怖かった……。駆け落ちとなれば私はともかく、大学で順調に学問を修めてきた彼の今までも、大学を卒業してから選べる就職の道も、全てを台無しにしてしまうだろう。彼の才能を埋もれさせ、高卒としてブルーカラーの仲間入りなんてさせたくなかった。リチャードなら確実にMBAの学位を修めて父親の仕事をより大きくできるはずだからだ。
リチャードは頑固だから、私の説得には靡かないだろうと思った。むしろ私なんかでは言いくるめられてしまうだろうと。彼の有能さはその頃から知っていた。休学、もしくは退学になったとしても、彼ならば労働で稼いで十年以内に再挑戦し、自分だけの力でのしあがることもできたかもしれない。でも、私のせいでそんな遠回りをしてほしくなかった!
だからといって、あんなひどい言葉を投げ掛けていい理由にはならないけれど。あの頃の私はただ、リチャードが私のことなんか忘れて、道を外れずに成功を修めてほしいと願うだけだった。
ノックの音に我に返る。トランクの中には家族の写真や貴重品、仕事に必要な品々、そして絶対に必要な下着類と着替えなどを詰めている。手持ちの鞄には化粧品を入れておいた。急なことで何かを忘れたりしているかもしれない。とにかく無理やりにトランクの口を閉めて寝室を出た。
「支度はできたか」
「ええ、何とか。でも、本当は詰めた洋服の量が少なくて不安だし、冷蔵庫の中身も気になるわ」
「…………諦めろ」
「お気に入りのカップも」
「諦めろ」
リチャードはにべもなく私の恨み言を切り捨てた。彼は私のトランクと鞄を掴み、ひと足先にフラットの玄関をくぐった。私は居心地の良い、お気に入りの部屋へ別れを告げると、ドアを閉めて施錠をした。重い金属音が無情に響く。表にはリムジンが停まっており、リチャードが私に手招きをした。
市街地を抜け郊外へと、車は私を運んでいく。ハークスリーの屋敷を思い浮かべ、そこへ戻ってきているおばあ様のことを考えた。いくつになられるのだったか、確か七十は越えているはずだ。薄情な私は、こんなことになるまでずっと「きっとお元気だろう」と時々思い返すだけだった。仕事と生活に追われていたなんて言い訳だ。彼女にどう接するべきだろう……。
「余計なことは言わずに、ただ僕のそばにいればそれでいい。祖母とは適当に話を合わせておいてくれ。ただし、セレモニーや結婚生活について何か話をでっち上げたときは、きちんと知らせてほしい」
「でっち上げるとか、適当に話を合わせろとか、ずいぶんと失礼だわ」
「それはまた、申し訳なかった」
ぞっとするくらい不機嫌で丁寧な言い方だった。
「半年以上も拘束するんだ、謝礼は弾む。カードも渡すから、好きに使っていい。それから……」
「ちょっと待って、どういうことなの? 私、謝礼なんか要りません。カードも必要ないわ」
「……君は金が好きなんじゃないのか? まぁ、あの暮らしだ。充分な額の慰謝料を払えないなんて、君の元夫はよほど金に困っているようだな。もしくは……婚前契約に違反でもしたのかい?」
「私は婚前契約に違反なんかしないわ! 侮辱するのはやめてちょうだいよ!」
よほど、私に元夫なんかいないわ、と叫んでやろうかと思った。それを噛み締め、リチャードに軽蔑の視線を送った。
「……すまない。ともかく、君との関係はあくまでも契約ということにしておきたいんだ。口約束なんかでは、問題が生じたときに困るだろう」
「そうね。後になってからお金を請求され続けては、たまらないものね」
「……そうだな」
「…………」
否定してほしかった、というのは、私のわがままだ。自分でも馬鹿なことを言ったと思っているのだから。
「契約書ができたらサインします。でも、過度な謝礼は必要ないわ、口止め料なんてほしくないの。お金なんてもらわなくても、絶対におばあ様のことは他言しないし、おばあ様にも余計なことは言わない。それだけは、信じてもらえないかしら」
「いいだろう。その代わり、こちらが用意したものには文句を言わず、それをそのまま使うこと。それから、仕事は休職してもらう。君の店のオーナーとは話し合う、悪いようにはしない」
「ええっ?」
「君の正式な立場は僕の祖母の介添人ということになる。そうであれば、副業は認められない。何か質問は?」
私は気持ちの整理がつかないまま、ノロノロと口を開いた。
「今日はこれから、どうなるの?」
「帰宅したら、まずは祖母に挨拶してもらう。夕食は一人で摂ってくれ、僕は職場へ戻る。部屋は客室を使うといい。明日には専用の部屋を整えさせる」
「そう、分かったわ。ところで、部屋に残ったものを取りに行っても良い?」
「必要なものは持ってきたんだろう? 金で買えないもの以外がまだあるなら、そのように手配しよう」
「いえ、やっぱり、いいわ」
「そうか」
それきり会話は途絶えてしまった。ハークスリーの屋敷に着くまでの間、車内には重々しい沈黙が下りていたけれど、互いを傷つけるような言葉を使わずにすむなら、その方が良いと思えた。リチャードも威圧を振り撒くわけでもなく外の景色を眺めていて、なぜかしら、おかしなことに私はこの空気が嫌ではなかった。
リムジンが玄関口に横づけされると、記憶と全く変わらない建物が私を出迎えてくれた。リチャードの後ろをついて歩く。二階の廊下の奥、南側の部屋がおばあ様の居室だ。それもまた記憶通りで胸が、目許が、熱くなってくる。
ノックに応えた声は、顔を合わせていなかった年月を感じさせた。張りのなくなってしまった、弱々しい声……。リチャードの手によって開けられた扉の中へ、おずおずと足を踏み出した。
「おばあ様、お久しぶりです。ジョルジェットです」
「まぁ! ジョルジェット、いらっしゃい、待っていたのよ」
「ごめんなさい、私、長い間……」
「いいの、気にしないでちょうだい。ようやく仕事が片付いたのね。良かったわ、クリスマスに間に合って」
「……はい」
おばあ様はベッドに半身を起こした状態で迎えてくれた。痩せ細った腕や首は痛々しいほどだったけれど、笑顔だけはかつての輝きそのままだった。空白の時間をせめて少しでも埋め合わせるよう、私たちはハグとキスを繰り返した。
「さぁ、リチャード、あなたもジョルジェットにキスくらいなさいな。二人の幸せな姿を私に見せて?」
「エリザベス……」
リチャードは明らかに困った顔を見せたが、拒否はしなかった。大きな手に抱き寄せられ、身を固くしているうちにそれは終わった。瞼に落とされたキス……。それにどんな意味が込められているのかを、とうとう思い出すことはできなかった。
広い食堂で一人、夕食を摂った。通いのコックが作った料理を温め直す。トレーに載せて運び、テーブルセッティングに合わせてはみたけれど、薄暗くて寒々しい食卓は溜め息を誘うばかりで。
今日の昼過ぎまでは取り立てて変わりのない日々のひとコマだと思っていたのが、たった数時間で私の日常は変わってしまった。あの苦い別れからもう十二年も経ったのに、彼の存在を横に感じるだけで胸がドキドキした。抱き寄せられたときの温もりが、彼の息遣いが、瞼に触れた唇の感触が、私にあらぬ期待を抱かせる。彼には結婚相手がいるというのに…!
ポツンと、膝の上で揉んでいた両手に雫が落ちた。
「長すぎるわ……」
そうだ、あまりにも長すぎる。ウェディング・セレモニーの予定されている六月まで、私は果たして耐えられるのだろうか。いや、耐えなければならない。これは私の贖罪なのだから。
★瞼へのキスは、憧憬の意味。