一話
聖アンナ・ボタニカルガーデンの裏手、通称「アウター通り」と呼ばれる場所に私の勤める店はある。専門学校を出てもう八年、スタッフの中でも上から数えた方が早い。『マリエール』はちょっと変わった店で、男女両方の衣服や小物を扱っている。かといってただの小売業ではない。洋服のサイズ直しや補修も行うけれど、主な仕事は持ち込まれた品に刺繍を入れること。
「ジョルジェット、さっきのカレ、絶対あなたに気があるわよ。今度デートに誘ってみたら」
「まさか。そういうのじゃないわよ、きっと。それに、私より彼の方が若いわ」
「あら、気にすることなんてないわ。遊ぶだけなら若いコの方がいいに決まってるもの」
「メラニーったら」
ショーウィンドー越しに会釈して去っていく配送業者の若い男の子に手を振りながら、濃い金のソバージュを揺らして私をからかうメラニー。私だって、彼の熱っぽい視線に気づかなかったわけではないのだけれど。
「なぁに、まだ昔の男を引きずってるとか?」
「そういう気になれないのよ。ただそれだけ」
「ふぅん。なら、例の情熱的すぎる大家さんのことはどうする気? ボーイフレンドでも作れば諦めるかもしれないじゃない」
「それは、まぁ、そうなんだけど」
私は届いた荷物を奥へ運ぶことでこの話を終わらせようとした。メラニーはさらに何か言おうとしたようだったけれど、それを遮るようにドアベルがお客様の来訪を告げた。私も少し遅れて店舗へ戻る。
一目で上流階級に属すると分かる男女の二人連れだった。まず目に入ったのはJohn Lobbであろう高級革靴。いいえ、違う。本当は咄嗟に目を伏せることで逃げたのだ。誰よりも厳しい彼の視線から。
リチャード・ハークスリー、どうして彼がここに……。紳士らしく片眉を上げるだけに留めていたけれど、彼もまた私を見て驚いていたはずだ。豊かなダークブラウンの髪は昔と変わらずきちんと整えられ、仕立ての良いスーツに身を包んでいる。背はずいぶんと伸びたようだ。そして、以前よりも深くなった眉間のしわは、重責を担う立場ゆえだろうか。
メラニーが接客している間、奥で紅茶の用意をしていた。交わされる会話から、二人は婚約中で来年の初夏に行われるセレモニーのためにウェディング・ベールを求めてきたのだと知った。まるで、真っ白い大理石のキッチン・テーブルで煙草の火をねじ消されたような気分……でも、私には彼を責める権利なんてない。
深呼吸をしてトレーを運ぶ。リチャードは腰掛けたまま私がカップを供するのを見ていた。私の左手の薬指に気付いただろうか。多分、そうに違いない。彼の勘違いを正そうと唇が動きかけたけれど、意志の力で封じ込んだ。だって、言い訳にしか聞こえないもの。彼にまだ未練があるだなんて絶対に思われたくなかった。
彼と婚約者は数十分で店を後にした。カタログで型を選んでもらい、刺繍のパターンを、それからどこまで刺繍を入れるのかなどを打ち合わせた。世界に一つだけの、彼女のためのベール。仕上がりに不満がなければ後は納品のときにもう一度顔を合わすだけで済むだろう。自信に満ち溢れた力強い彼女の視線にさらされると、身がぎゅっと縮こまる思いがする。そう何度もお目にかかりたい人物ではなかった。悪いとは思うけれども。
午後の来客は彼らだけだったので帰宅は実にスムーズだった。メラニーに閉店を任せて帰路に着く。途中で何かお惣菜でも買おうかと足を止めかけたけれど、今は早く帰ってワインを開けたかった。泣きたい夜にはチョコレートとワインとお気に入りのDVDがあれば、もうそれだけでいい。そう思っていたのに、フラットの入り口には私の帰宅を阻むように人影があった。
(ジョン・ダーレル……!)
まさか待ち伏せまでされるだなんて思わなかった。私は咄嗟に方向を変えて彼から姿を隠そうとしたのだけれど、その努力は空しく、立ち去る前に彼は私に気付いてしまった。
「やぁ、おかえり、ジョルジェット!」
「はぁい、ジョン。こんなところでどうしたの?」
平静を装い、努めて明るい声を出す。このフラットの大家であるダーレル氏は、私より年上でもうすぐ四十にさしかかる画家だ。年中油絵の具にまみれたエプロンを締め、もじゃもじゃの黒い髭と髪の毛に囲まれた顔の中で笑いを振り撒いている。今は小綺麗な白地に青のストライプが入ったコットンシャツに、ダメージジーンズ、履き古したカンバス地のローファーという出で立ちだった。
彼は私に好意を示してくれる。それはとてもストレートで、段々と大胆になってきている。曖昧な態度を取る私がいけないのだ、それは分かっている。柔らかい言葉で躱しても分かってもらえないなら、強い言葉で拒否するべきだとメラニーは言う。けれど、彼は良いひとだし、たとえ友人以上になるつもりがなくてもひどく傷つけたくはない。
それに、他より家賃が安くて居心地の良いフラットを逃したくないという打算もあった。ジョンに対して強く出られないのは、やましい気持ちがあるからだ。
「ちょうど良かった。一緒に夕食でもどうかと思って、君の部屋を訪ねたところだったんだ」
「まぁ、ジョン……その、嬉しいわ、でも……」
「今日こそは付き合ってもらうよ。君はいつも忙しすぎる!」
「きゃっ!」
ジョンは大股でやって来ると、私の肩を抱き寄せた。今までこんなに近い距離を彼に許したことはなかった。耳をかすめる髭の感触に、ぞわりと悪寒を感じて反射的に悲鳴が漏れた。突き飛ばしそうになった両手だけは意志の力で止める。
「ジョルジェット、君だって僕の気持ちを分かってるんだろう……?」
「だめ、ジョン!」
あろうことか、ジョンは私にキスをしようとしたのだ! 平手を食らわすべきか、それとも突き飛ばすべきか。ぎゅっと目を閉じて身を捩りながら考えを巡らせた。
「その手を離せ!」
低く鋭い声がした。私もジョンもハッとして姿勢を正す。不機嫌なドーベルマンのように私たちを睨み付けていたのは、驚くべきことに、リチャード・ハークスリーだった。彼の出現に驚かされたのは、今日だけでこれで二度目だ。
リチャードは、彼の威厳にぴったりな重そうな黒のウールコートを身に纏っていた。ダークグリーンのマフラー、見事な細工のステッキ……シルクハットさえあれば、十九世紀の映画から抜け出てきた英国紳士に見える。リチャードが一歩こちらへ踏み出すと、ジョンは一歩下がった。きっと、彼の持つ、人を殴るのにうってつけのステッキを警戒しているんだわ。
「それで? 彼は君の恋人か何かか、ジョルジェット」
リチャードの声色は厳しい。彼の歯軋りさえ聞こえてきそうだった。まるで私の兄か父親のような口振りに反発を覚えないわけではなかった。けれど、今の私にとって彼はまるで天の援けだった。
「……彼とはそういった関係じゃないわ」
ジョンの視線を感じながらも、私は震えて掠れそうになる声を何とか絞り出す。ジョンは傷ついた顔をしているだろう。それを見るのが忍びなくて、私はリチャードだけを真っ直ぐに見つめた。
「そういうことならば、悪いが席を外してくれ」
「なっ、あんた、何なんだいったい……。ジョルジェット……?」
「ごめんなさい、ジョン。けど、今は……」
私の言葉に、ジョンは舌打ちを隠さなかった。荒々しく去っていく背中を見送りながら、抑えきれないため息が漏れた。
「助けてやったというのに、礼もないのか」
「……助かりました、ありがとうございます。でも、もう少し穏便にできなかったの?」
「穏便にだと! そんな風だから恋人でも何でもない男につきまとわれ、あまつさえ襲われそうになっていたんだろうが!」
「襲われ、って、そんな……」
「他にどう表現をするんだ。さあ、さっさと部屋に戻って荷物をまとめるんだ。ここの契約は破棄する」
「なんですって?」
あまりに急でとんでもないことを言い出したリチャードに抗議しようとしたけれど、腕を捕まれてフラットのドアの前まで連れてこられてしまった。
「いきなり何を言い出すの、離してちょうだい。だいいち、貴方どうやってこの場所を……」
「店にいた金髪の女性従業員に聞いたら、丁寧に教えてくれた。さっきの男のことも」
「メラニー!」
私はここにはいない友人の顔を思い浮かべて思わず大きな声を出していた。いったいどこまで喋ってしまったんだろうか、あの少しお節介で面倒見のよい彼女は。
「こんな場所で騒ぐんじゃない。さあ、鍵を開けるんだ」
どちらが騒いでいたのかと問い質したい気持ちを飲み込み、私はフラットの玄関を開けた。そこまでひどい散らかし方はしていないものの、来客予定のなかった部屋だ、片付ける時間が欲しかった。
「リチャード、悪いけれど少し時間をちょうだい。ねぇ、ここで待っていて」
「…………」
窮屈そうなリチャードを玄関に残し、私はスリッパに履き替えて足早に奥へ進んだ。2LDKの本当に狭いフラットだ。彼の持つ屋敷に比べたら、犬小屋ほどに感じられるだろう。そもそもこんな安っぽいフラットが並ぶ通りにいるようなひとではないのだ。
私は鞄をダイニングキッチンの椅子に置くと、まずはお湯を沸かす準備をした。部屋を見回して、クッションを整えたり、表に出ていた雑多な品をとりあえずバスケットに入れていく。
「一人で暮らしているのか」
「きゃっ!」
振り向くと、玄関に置いてきたはずのリチャードがすぐ後ろに立っていた。天井に頭をぶつけるんじゃないかと思うほど背の高い彼に覗き込まれると、妙な緊張感が生まれる。
「本当に必要な品だけを鞄に詰めるんだ、ジョルジェット。君には僕と一緒に来てもらう。入り用な物があればすぐに整えよう」
「まだそんなことを。私は行きません! 貴方にそんな権利ないわ。気が変わりました、お茶でもどうかと思ったけれど、もう、帰ってちょうだい」
聞こえていなかったはずはないのに、リチャードは黙ったまま立ち尽くしていた。てっきり大きな声を出されるかと思ったけれど、それもない。
「リチャー……」
「話が前後したことはすまなく思う。だが、君には僕と一緒に来る義務があるはずだ」
「え?」
「僕の祖母の体調が思わしくない。もう、長くないと医者には言われている」
「まぁ、そんな……。おばあ様が……?」
心臓をぎゅっと掴まれたような痛みを感じた。あんなに優しかったおばあ様が、そんなに具合が悪いなんて知らなかった。私はあのことがあってからハークスリー家に関する情報をシャットアウトしてしまっていたし、向こうから知らせようにも私たち家族は引っ越しを繰り返していた。お互いのことなど、知り得るべくもない。今日の再会も狙ってのことではなかったはず。
「……最期は家で看取ってやりたいが、記憶にも混乱があって、僕の婚約者を受け入れてくれない。祖母はまだ、君が僕の婚約者だと思い込んでいるんだ」
「それって」
「僕が式を挙げるまでの間、君には僕の婚約者として祖母の側に居て欲しい」
ぼんやりしていた私の耳に、その言葉はやけに冷ややかに響いた。
彼は、今、何と……?
「式には彼女は参加しない、だから直前までで構わない。ハネムーンから帰ってきたら、理由をつけて二人を会わせないようにするし、それに……」
「騙すの? あの優しいおばあ様を?」
「ジョルジェット……」
「ひどいわ、そんなのって、あんまりよ!」
「ジョルジェット」
「最低だわ、リチャード・ハークスリー。おばあ様の具合が悪いからって、こんなの、不誠実よ!」
「僕はただ、祖母をこれ以上失望させたくないだけだ!」
私たちは二人とも、互いに睨みあったまま動かなかった。こんなことは間違っている、それを彼に分かって欲しかった。思いを込めて彼の暗い緑の目を覗き込んだ。やがて、リチャードの方から視線を外した。
「ジョルジェット・プリチャード、君は僕の祖母に恩があるだろう。今こそ、それを返してもらいたい」
「でも、リチャード」
「そもそも、君が、全部ぶち壊したんじゃないのか」
「!!」
苦々しく吐き出された言葉こそが、私を凍りつかせた。
「……わかったわ。今、支度する」
寝室のドアを後ろ手で閉め、しばらく背を預けていた。涙を流してしまわぬよう、ぎゅっと瞼で塞き止める。リチャードの言う通り、彼の信頼を裏切ってぶち壊しにしたのは私だ。傷つく権利なんて、私にはない……。
あの時の彼の表情は、今も脳裏に焼き付いている。まだ若かった。私も、彼も。一言一句に至るまで、しっかりと覚えている……私は「駆け落ちしよう」と言ってくれた彼を手酷く振ったのだ。
『ごめんなさい、リチャード。私、お金のない貴方とは一緒にいられないわ。貧乏な暮らしには耐えられないの』




