第一章(5)
『レイ、大丈夫か?』
「うるさい、大丈夫だ」
フードから聞いてくるビナーに応えつつも、レイは顔を顰めて体を傾けた。
右も左も人・人・人。後ろも前も人・人・人。そして悔しいことに、見上げる先にも人の頭。前がまったく見えない。
視界が開けない状況では前から来る人を避けられず、レイはその度に肩をぶつけていた。よろめくことはないが、それでもあまり気持ちの良いものではない。さらに目の前にいる男が大柄で遅いため、イライラは重なるばかりだ。
「ビナー、本当にこっちの方向か?」
『うむ……む~』
「おい」
肩に乗りながら首を傾げたビナー。仕種は可愛いが、今の状況に耐えかねているレイはこめかみが引きつった。できることならすぐに例の混血児を見つけて帰りたいのだ。
『そ、そう言われてもっ、何だかこう、同じような気配が近くにあって……』
これ見よがしに溜息を吐くと、ビナーは泣きそうな声を上げた。尻尾も耳も垂れてしまっている。レイは仕方がない、と彼を腕に抱き直した。
「悪かった。同じようなってことは、二人いるのか?」
レイの腕の中は心地良いのか、ビナーは嬉しそうに定位置を決める。そうして、くんくんと空気中を嗅ぐように鼻を鳴らした。
『それがよく分からぬ。でもこの近くだぞ』
「近くって……っと」
立ち止まって首をめぐらせた時、向かい側から歩いてきた男にぶつかられた。その反動であれよあれよという間に端の方へ流されてしまう。
『わわっ』
「ビナー!」
落としそうになった彼をすくい上げ、レイは自分から壁際に寄った。ここまで多いなら、端を歩いた方が得策だとようやく気づいたのだ。帰りに反対側の端を通れば良い。
いったん体制を整えるため、路地の傍による。
息を一つついたその時、冷やりとした感触がレイの足を這った。
「っ!?」
反射的に銃を抜いて真下に向ける。だが、凍りついていたのは相手ではなく自分だった。
茶色い地面に広がっているのは、まるで海草のような髪。おそらく濃い青であろうその髪は、泥や埃にまみれぐしゃぐしゃになっていた。来ているコートのような物も、汚れすぎて元の色は分からない。
そして、そんなゴミにも似た巨大な塊から伸びるのは、細く白い、体温を感じない手。
「……っ、……あ…………」
掠れたような、息が抜けているような声が塊から漏れる。レイが銃を構えたまま凝視していると、ゆっくりと頭が持ち上がっていく。
「っ!」
『きゃあぁぁぁぁぁぁ!』
逸早く叫んだのは腕に抱えたビナーだった。海草のような髪の合間から見える澱んだ瞳に、戦う時以上に戦慄が背筋を駆け上る。幽霊ではないが君が悪いことに変わりはない。
一発撃ちこんで離れようかと思った時、塊がぱさぱさに乾いた唇を動かしていた。不明瞭な声の中に、何やら懇願するような響きが聞こえる。
「お、おい?」
掴まれた足を軽く引きつつ問いかければ、それは少し目を潤ませたようだった。そして、
「……、めて…………」
「何だって?」
危害は加えられない。そう考えて膝を折れば、小さいがハッキリとした呟きを耳が拾う。
「わ、たし……を、止めて……」
「…………………は?」
感じた恐怖とは違う意味不明の言葉に、レイは呆然として見下ろす。だが、言い切ったことに安堵したのか、掴んでいた手から力が抜け落ちた。
「あ、おい!」
恐怖心が吹き飛んでしまえば、触ることに躊躇いはなかった。ビナーを降ろし慌てて抱き上げると、予想以上に冷たく軽い。
「おい、大丈夫か? おい!」
完全に気を失っているそれは、よく見れば人間の少女だった。レイと同い年ぐらいだろうか。長い髪も、ちゃんとすれば整っている顔立ちもボロボロだ。
服は一度濡れて乾いたようでごわごわしているし、靴はどれほど歩き続けたのか、つま先の方に穴まで開いている。全体的な身なりはさほど貧しいというわけでもないのに、どうしてこんな所で倒れているのか。
それに、左肩のあたりが赤く濡れている。レイはその肩を見て目を細めた。
「銃痕、か……?」
服の破れ方と肩の傷口。すでに血が止まり少し化膿しかけているが、その傷跡は銃を使い慣れたレイにとって見覚えのあるものだ。
「かなり衰弱してるな……うちの医療所に連れて行った方が良いか?」
顔色は白いを通り越して青い。唇を見れば、何日も水分を取っていないことが分かる。
「ビナー、一度帰……どうした?」
『レイ……こいつ、なつかしい臭いがする』
「何だって?」
叫び声をあげたはずのビナーは、戸惑うように少女を嗅いで目を丸くしている。彼も、目的の人物がまさか幽霊みたいな女だとは思わなかったのだろう。
レイも、この薄汚れた少女が目的の混血児には見えなかった。見かけは普通の人間だ。角が生えていたり、硬質化していたりなど、皮膚におかしいところは見受けられない。
「間違いないのか?」
『間違いないぞ! この気配が感じてた一つだ。それに……!』
言いかけたビナーは、何かに反応するように振り向いた。そして、おぼつかない足取りのまま人混みの中へ駆けて行く。
「ビナー! 待て、どうしたんだ!」
『もう一つするぞ!』
止まろうとしないビナーに一つ舌打ちして、レイは少女を抱えた。立ち上がろうとした刹那、通りを行きかう足の隙間から反対側の路地に辿り着いたビナーが見える。
彼の小さく黒い頭を、しゃがみ込んだ誰かがなでていた。
ふと、その人物と目が合う。
赤い、夕日色の髪と目をした青年だった。彼がゆっくりと立ち上がる。レイもつられたように足が動いた。
間には多くの人がいるのに、なぜか、その青年の姿はハッキリと見える。
この大勢の中にいて消えない、だが、一瞬でも目を離せばすぐにでも消えてしまいそうな異質な存在感。
ビナーが急かすように人混みを戻ってくる。それでも、レイは青年から目が逸らせなかった。そして、気づく。
(あいつ……気配が、ない)
押さえ込んでいるのではない。消しているのでもない。ごく自然隊にそこにいながら、彼には気配がないのだ。
戦闘や暗殺に慣れたレイですら、必ず微弱に持つ気配そのものが、ない。だからこそ、目を離せばすぐに見つけられなくなる。
知らず、冷や汗が一つ頬を伝い落ちた。抱えている少女の重みだけが、今が夢ではなく現実だと教えてくれる。
一歩も動けないでいる中、青年はレイの驚きを見透かしたように薄く笑った。そして、身を翻して路地の中へと入っていく。
『おい、レイ。あいつだ! アレがもう一人の……何してるんだ、行ってしまうぞ!』
ようやくレイの元に辿り着いたビナーが、きゃんきゃんと吼えながら促す。しかしレイは動かなかった。いや、動けなかった。
アジェスタやヴァーミリオンのような強者と対峙した時は、緊張と好奇心があった。どこまで自分の力は通用するのか、と。だが今感じているのは、それとはまた似て非なる感覚。恐怖と歓喜が入り混じった、不可思議な高揚感。
戦ってみたい、と思った。
『レイ!』
「大丈夫だ……たぶん、もう一度会える」
必ず再会する。そんな確信がレイにはあった。おそらくあの青年もそう感じたのだろう。去り際、彼は薄く笑った口元でこう呟いたのだから。
――『またね』
雑踏が何もなかったかのようにざわめいている。
これが、どこかに属すレイと、〈どこにも属さぬ者〉ゼロとの、初めての邂逅だった。