たとえゆっくりでも。
「かよちゃん家に来たのってめっちゃ久しぶりやんなぁ」
と、僕は言った。
「そうやねぇ」と、かよちゃんは微笑んで頷いた。「確か三ヶ月くらい前ちゃう?シゲちゃんが来たのって」
「そんな前やったけ?」と、僕は少し首を傾げながら、部屋のカレンダーに目をやった。
「…なんか大学を卒業してからはなかなかみんなに会われへんよな」
と、かよちゃんは少し寂しそうな顔をして言った。
「そうやなぁ」と、僕はカレンダーの日付にぼんやりと視線を注いだまま頷いた。
確かに大学を卒業してからはなかなかみんなに会うことはできなかった。時間がなかったり、時間があったとしても、みんなの都合が合わなかったりすることが多かった。今日彼女のアパートに来ることになったのも、街でばったり彼女と顔を会わせたからだった。
「そういえばどう?一人暮らしはじめてみて?」
と、かよちゃんはふと思いついたように明るい声で言った。
僕はその問いに微笑みながら、
「うん、なかなかいいもんやんで。やっと落ち着いてきたって感じやな」
と、答えた。
僕は先月から念願だった一人暮らしをはじめていた。まだまだ足りないものもあるし、時間があればいじりたい部分も多いのだけれど、最近になってようやく部屋としての体裁をなしてきたという感じがあった。
「頑張っていい部屋にしてな」と、かよちゃんは微笑みながらからかうように言った。
僕は曖昧に微笑んだだけで何も答えなかった。
「そういえばな」と、かよちゃんはふと素晴らしいことを思いついたように声を弾ませて言った。僕が彼女の方に視線を向けると、「さっき、ちょっとビレッジヴァンガードでお香買ってきてなぁ」と、彼女は楽しそうな口調で言いながら、手元に置いてあった白いビニール袋を手に取った。そして、そのなかに手をいれてなかから細長い箱を取り出すと、その箱を僕に手渡して、「これ、めっちゃいい香りすんねん」と、得意そうに言った。
手に取ってみると、確かに彼女の言うとおり、その箱からはとてもいい香りがした。東洋をイメージさせるような、神秘的な香り。箱には、浅黒い膚をした、彫りが深くて眉の太い男女が、宮廷のテラスのようなところでお互いに向かい合って立っている絵が描かれてあった。
もしかすると、ふたりは愛し合っているのかもしれない。僕は試しに原産国名が書いてないかどうかその箱をよく見てみたのだけれど、一本の線をくねくねとくねらせていったような文字が書いてあるだけでよくわからなかった。
それから、せっかくだし、お香を焚いてみようというはなしになって、木の板にお香を一本さして、それにライターで火をつけた。すると、部屋のなかに微かに甘さを含んだ優しい香りがふんわりと広がっていった。
その香りの回りで空気がわずかに冷たさを帯びていくような感じがあった。お香は周囲の熱を取り込んで、その変わりに香りを発しているような気がした。
僕はお香の匂いに意識を傾けながら、何となく大学生の頃の自分達の生活を思い返していた。その二度とは戻らないたくさんの時間のつらなりは、僕の意識のずっと奥の方で、淡く、やわらかな光を放って見えた。
外の通りを車が走りすぎていく音が聞こえてきて、その音が夜の気配と、少しの寂しさを部屋のなかに静かに運んできた。
「時間が経つのって早いよなぁ」と、かよちゃんが僕のとなりでしみじみとした口調で言った。「大学を卒業してからもう二年も経つんよなぁ。なんか信じられへんわ」
彼女はそう言ったあと、小さく笑った。それから、彼女はふと僕の方を振り返ると、
「しげちゃんは最近どう?仕事は順調?」
と、いくらか遠慮がちな声で尋ねてきた。
僕はその問いに苦笑しながら、「やっとちょっと慣れてきたっていう感じではあるんやけどなぁ」と、答えた。
僕は大阪の大学を卒業してから、小さなデザイン事務所に就職して働いている。デザイン事務所というと聞こえはいいのだけれど、電話の取り次ぎや、経理といった仕事ばかりで、ほとんどといっていいほどデザインの仕事はやらせてもらえていないのが実情だった。
そのうえ休日出勤や、残業が多くて、最近は今の会社を辞めようかどうしようか悩むことが多かった。僕がそのことを話すと、彼女は、「そっかー」と、自分の問題のように深刻な表情を浮かべて頷いた。
それから、彼女は顔を俯けて何秒かの間黙っていたけれど、やがて、
「…実はわたしもな、今のアルバイトを辞めようかなって思ってんねん」
と、ポツリと告げた。
僕は少し意外に思って彼女の方を振り返った。彼女とこの前話したとき、彼女は今の仕事がわりと気に入っていると話していたような気がしたからだ。
彼女は大学を卒業後、アロマテラピーの会社に就職して働いていたのだけれど、ちょっとした事情があってその会社を辞め、今は花屋さんでアルバイトをしていた。
「でも、植物を扱う仕事がしたいって言ってなかったけ?」と、僕は尋ねてみた。
すると、彼女は下を向いたまま、「そうなんやけどな」と、少し弱い声で頷いた。
「でも、わたし、今フリーターやしな、このままでいいんかなって思ってしまうねん。このままアルバイトを続けとっても正社員になれるかどうかわからんしな…ちょっと真剣に将来のこと考えなあかんなって」
「なるほどなぁ」と、僕は頷いた。彼女が悩む気持ちもわからないではないような気がした。回りの人間がどんどん将来が決まっていくなかで、自分だけが決まっていないという焦りもあるのだろうな、と僕は思った。
「じゃ、今のアルバイトを辞めて、ちゃんと就職できるところ探すん?」
と、僕は彼女の方を振り返って尋ねてみた。
すると、彼女は僕の顔をちらりと見て、でも、すぐに逃げるように目を伏せると、
「…なんかよくわからへんねん」と、言った。
そう言った彼女の声は、少し哀しそうに響いた。
「もっとちゃんとせなあかんていうのはわかってるんやけどな、でも、自分がどうしたいのかがよくわからへんねん」と、彼女は言った。「単純に就職してしまえばそれでいいっていうことでもなくてな…なんやろ、上手く言えへん…」
僕はその彼女の言葉に、曖昧に頷くことしかできなかった。彼女もどう自分の気持ちを伝えたらいいのかわからないのか、黙っていた。
気がつくと、お香は全て燃え尽きて灰になってしまっていた。その香りだけが、彼女の想いそのもののように、部屋の空間のなか頼りなく漂っていた。僕はその香りを探すように、顔を上げて、天井あたりの空間をぼんやりと眺めてみた。天井には星の形をしたステッカーがはりつけてあった。電気を消すと、淡い光を放つステッカーだ。
「…今、考えてるのはな」と、少し経ってから彼女は口を開いた。
「一度実家に帰ろうかなって思ってんねん。うちの家自営業やしな、その手伝いをしながら、ゆっくり何か自分にできることを探してみるのもいいかなって思ってな」と、彼女は言った。
そう言った彼女の言葉は、でも、彼女がちゃんと納得してその結論に辿り着いたというよりは、自分自身の気持ちに対する取り敢えずのいいわけのように聞こえた。でも、それについては何も言わないことにした。いいわけが必要なときだってあると思った。
また外の通りを車が走りすぎていく音が聞こえてきた。
それからあとは、テレビを見るともなく眺めながら、だらだらと当たり障りのないことを話して時間を過ごした。大学時代の友達が今どうしているかだとか、あのときつき合っていたふたりが別れてしまっただとか、最近行ったカフェのこととかそんなことだった。
そして、そんな話をしているうちにすぐに時間が経って、そろそろ帰らなければならない時間になった。これが大学生のときだったら時間のことなんて気にせずにゆっくりしていられたのだろうけど、僕は明日は朝早くから仕事があったし、彼女の方にしてみてもアルバイトがあった。学生の頃とは明らかに違う時間の流れがそこにはあった。
駅まで送っていくと彼女が言いだして、僕たちは駅までの短い距離を一緒に歩くことになった。夜の闇は街の明かりに照られさて少し紫がかった色合いをしていた。空気は少しひんやりとしていたけれど、でも、もう微かに夏の匂いが混ざりはじめていた。
僕は歩きながら、これから訪れる夏を想った。そして僕は何となく、昔好きだった女の子ことを思い出した。
結局は届かないままに終わった想いが、心の表面に今更のように淡く広がっていった。そしてその部分が、ほんの微かに痛んだ。
近道をしようという話になって、僕たちは途中にある小さな公園に入っていった。そこの公園を抜けていけば駅までの距離を短縮できる。
夜の公園に人影はなかった。しんしと静まりかえった公園のなかに、木々の葉のふるえる音だけが時折思い出したように響いていた。水銀灯の白っぽいような光に照らし出された木々の葉は、まだ生まれたての、やわらかい緑色をしていた。
「…ここで昔、みんなで花火したよな」と、僕のとなりで彼女が懐かしそうに言った。
僕は彼女の言葉に曖昧に微笑して頷いた。
そういえばそうだった。いつだったか、近くのコンビニで花火を買ってきて、ここでみんなで花火をしたことがあった。夏の暑い日だった。ひととおり花形の花火をやったあとで、みんなで線香花火をしているときの情景が、今見えている視界に重なるようにふうっと浮かんできてすぐに消えた。一瞬、耳元で懐かしい声が聞こえたような気がした。
「またみんなで花火したいよな」と、彼女は微笑みながら言った。
「そうやなぁ」と、僕は頷いた。
昨日降った雨のせいか、足下の地面はやわらかかった。空気にはまだ微かに雨の匂いが残っていた。水たまりがあって、その水たまりに水銀灯の光が優しく溶けていた。耳元を少し冷たい風が吹きすぎていって、それは何故か哀しい歌声のように聞こえた。木々の葉のふるえる音がそのあとを追いかけるように続いた。
「…さっきの話やけどな」と、僕は少し経ってから言った。
彼女は歩きながら僕の方を振り返った。その瞳は、微かに怯えているようにも見えた。
僕は彼女を安心させるようにできるだけ優しい表情を作った。そして、
「もっとゆっくりやってもいいんちゃう?」
と、僕は少し迷ってから言った。
「…なんか社会には早よ決めないかんみたいな雰囲気があるけどな、でも、そんな焦ったってしゃあないで。焦って上手くいくんやったらいいけどな、それでかえって自分を追いつめてしまうくらいやったらな、これでいいんやって開き直ってゆっくりやった方がいいんちゃう。さっき言ったみたいにいっぺん実家に帰るのもありやと思うし、そのままアルバイトを続けとってもいいと思うで」と、僕は言った。
「…とにかく、焦らんでもいいんちゃうって、それだけ」
そう言ってしまったあとで、僕は少し照れくさくなって笑った。すると、それにつられるようにして彼女も少し笑った。
それから、彼女は何秒間か間隔をあけて、
「…ありがとう」
と、静かな声で言った。
「シゲちゃんのおかけでちょっと気持ちが楽になった気するわ」
と、彼女はいくらか気恥ずかしそうに、それでもいくらかは救われたように微笑みながら言った。僕は何も言わずに曖昧に微笑んで頷いた。
公園内に、僕たちふたりの足音はいくらか頼りなく響いていた。闇のなかをふたりの足音は、絡まり合ったり、重なり合ったりしながら進んでいた。僕たちは暗がりのなかを、よくわからないながらも、取り敢えず前に向かって足を踏み出していっているという感じだった。
このまま歩き続けてどこへ辿り着けるのかはよくわからなかった。あるいはどこへも辿り着けないのかもしれなかった。それでも僕たちは取り敢えず前に向かって足を踏み出していくしかなかった。それくらいのことしか僕たちにできることはなかったし、それに、前へ向かって進み続けることを止めなければ、きっとそこから新しく広がっていく何かもあるはずだと思った。とにかく、何かを信じて進むことだと思った。
僕は足下に落としていた視線を、前へ向けた。すると、闇のなかに、駅の明かりなのか、白っぽい光が微かに見えはじめていた。