婚約破棄を告げられた日、私は静かに「キャラ交換」と唱えた
婚約破棄を告げられた日、私は静かに「キャラ交換」と唱えた
胸の奥が熱湯を注がれたように煮えくり返り、膝の上で麻のスカートを握りしめた拳の爪が、手のひらに深く食い込む。目の前の丸テーブルには、昼に煮直して表面に薄い膜が張った油揚げの味噌汁と、身を半分残したまま脂の白く固まったアジの開きが載った長皿が放置されている。三年間も仕立て直しながら履いている色褪せた靴下の親指の穴を見つめながら、今朝干したばかりのシーツが急な西日で生乾きの匂いを立てていることを思い出す。
「エレナ、君のような地味で自己主張のない女との結婚生活なんて、退屈で息が詰まるんだよ」
ユリウスはそう言い放つと、銀色のカフスをこれ見よがしに指先でいじり、窓辺に置かれた紫色のリンドウの花瓶を邪険に肘で押しやった。
胃の底からせり上がる苦い苛立ちに視界が赤く染まり、テーブルの端にあった使い古しの帳面へ目を落とす。表紙の角が手垢で黒く丸まり、昨晩の買い出しで書き殴った白ネギの値段が、斜めの筆跡のまま乾いている。こんな男のために毎日ぬか床をかき混ぜていたのかと思うと爪先まで震えが止まらなくなり、立ち上がって湯呑みを床へ叩きつけたい衝動を噛み殺した。
「私、お出かけ用のレースの襟巻きをユリウスの部屋に忘れたかもしれないわ、あれ高かったのよ」
思わず的外れな文句を口走ってしまった私を、ユリウスは鼻で笑い、仕立てのいい紺色のジャケットを撫で下ろす。
「そんな安物の端切れの話をしているんじゃない。君はいつも肝心な時にピントが狂っているんだ。だから捨てられるんだよ」
頭の中で何かが限界を超えて弾け飛び、親指の爪を強く噛みながら、濡れた雑巾のような重い息を吐き出す。部屋の隅の竹籠からは、昨夜から水に浸けたままだった大根の皮が微かにすえた匂いを放ち、秋風が障子をガタガタと揺らしている。これ以上、この薄情な男の都合の良い控えめな婚約者のふりをして耐え忍ぶ筋合いはどこにもない。
「……キャラ交換」
唇の端を歪めて低く呟いた私の言葉に、ユリウスは眉を寄せて怪訝そうに顔を近づけてくる。
「は? 何をブツブツ言っているんだ。頭までおかしくなったのか」
全身の血が激しく沸騰して背筋を駆け抜け、足元の擦り切れたスリッパを脱ぎ捨てて両足でしっかりと畳を踏みしめる。いつもなら伏せていた目をすっと吊り上げると、夕暮れの薄暗い光の中に、ユリウスが履いている泥のついた革靴がはっきりと見える。相手が怯むまで徹底的に言葉で打ちのめしてやろうという冷たい考えが、胸の中を黒く満たしていく。
「耳まで腐ったのかしら、この役立たずの穀つぶしが。だいたいあなたのそのジャケット、裏地に私の小遣いで買った安布が使われているのを忘れたわけ?」
予想もしなかった私の怒声に、ユリウスは鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をして二歩後ずさる。
「な、なんだその下品な口の利き方は! いつもの従順なエレナはどこへ行ったんだ!」
喉の奥がカラカラに渇いていくのを感じながらも、腰に手を当ててずいと一歩前へ踏み込む。鼻先を掠めたのは、彼が別の女と会ってきた証拠である甘ったるい百合の香油の匂いと、さっき蹴飛ばしかけたアジの生臭さだ。もう二度とこの男のために台所に立って火を起こすことも、すり減った靴底を気にして歩くこともないと確信する。
「従順なエレナは死にましたー、残念でしたね! ついでに言うと、今朝あなたが飲んだお茶の茶葉、湿気てカビが生えかけてた一番安いやつだからお腹壊しても知らないわよ!」
勢い余って余計な嘘まで口から飛び出したが、ユリウスは青ざめて自分の腹を押さえ、引き攣った声をあげた。
「お、お前……毒を盛ったのか……!? なんて恐ろしい女だ!」
胸のすくような痛快さに思わず吹き出しそうになりながら、テーブルの上のリンドウを一輪引き抜いて指先で弄ぶ。紫色の花びらは少し萎れかけているが、茎を折ると青臭い新鮮な汁が指に滲んで、夕方の冷たい空気に混ざり合う。この男のくだらない顔をこれ以上眺めているくらいなら、早く冷めた味噌汁を捨てて新しい鍋を火にかけたいという思いが頭を占領する。
「毒なわけないでしょうが、ただの湿気た茶葉よ! さっさとその薄汚い靴で私の家から出ていって、二度と敷居を跨がないでちょうだい!」
叫びながら背中を力任せに押すと、ユリウスは情けない悲鳴をあげて玄関の段差に足を取られ、派手に尻餅をつく。
「覚えていろよ、後悔しても絶対に許してやらないからな!」
捨て台詞を残して逃げていく背中を見送りながら、指に残ったリンドウの苦い匂いを嗅ぎ、大きく息を吸い込んだ。
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肺の底に溜まった泥のような澱みを一気に吐き出し、私は玄関の上がりかまちに仁王立ちして、土間に転がったユリウスを見下ろす。開け放たれた引き戸の外からは、近所の路地で焼いている秋刀魚の煙と、湿った夕暮れの土埃が混ざった匂いが吹き込んできて、私の乱れた前髪を撫でた。下駄箱の上には、彼が脱ぎ捨てた泥だらけの革靴から落ちた小石と、今朝届いたきり開けてもいない町内会の回覧板が虚しく転がっている。
「覚えていろよですって? 笑わせんじゃないわよ、このすっとこどっこい! おとといきやがれってんだ!」
私の腹の底からの怒声は夕餉時の路地へ高らかに響き渡り、ユリウスは尻を擦りながら、まるで化け物でも見るかのように目を丸くして引き攣った。
「す、すっとこ……!? 貴族の令嬢ともあろう者が、なんて野蛮で品の欠片もない暴言を……!」
こめかみの血管がちぎれそうなほどの熱が頭頂部へ突き抜け、私は土間に揃えてあった自分の木履をつま先で引っ掛けて履いた。軒下には、昼下がりに取り込み損ねて冷たい夜気を含み始めた木綿のふきんが三枚、物干し竿の端で情けなく垂れ下がっている。身を粉にして尽くしてきた三年間を「品の欠片もない」の一言で片付けられた屈辱に、両の拳が白くなるほど爪を立てた。
「お前が毎日タダ飯食らいながら偉そうに飲んでた味噌汁の出汁、煮干しの頭もワタも取らずにぶち込んでたんだからね! 安酒のツマミに焼いたアジの骨だって、喉に刺さればいいと思いながら出してたんだよ!」
売り言葉に買い言葉で、日頃のしょうもない鬱憤までどさくさに紛れて叫び散らした私を見て、ユリウスは蒼白な顔をますます引き攣らせ、カフスを片方落としたことにも気づかずに膝を震わせた。
「ひ、開き直りおったな……! お前のような悪妻、こちらから願い下げだ! 慰謝料の一文たりとも払うものか!」
胸のすくような解放感と荒々しい高揚が全身の皮膚を粟立たせ、私はたたき落とされた銀のカフスを踏みつけるように一歩踏み出した。鼻を突いたのは、ユリウスの襟元から漂う気取った香油と、土間に置かれた漬物樽から漏れるすっぱい糠の匂いだ。この男のためにすり減らした時間も、靴下の穴を繕った夜も、すべてが馬鹿らしく吹き飛んでいく。
「慰謝料だあ? 誰がお前の汚い金なんか欲しがるかい! 塩でも撒いてとっとと失せろ、二度とこの家の敷居を跨ぐんじゃないよ!」
手近にあった塩壺の蓋を跳ね上げ、粗塩を一掴み投げつけると、ユリウスは情けない悲鳴をあげて夜の帳の中へと転がるように逃げていった。
胸の奥を激しく揺らしていた炎がふっと収まり、私は荒い息のまま、静まり返った玄関先でぽつりと立ち尽くす。冷え込んできた秋風が首筋を撫で、手にはすり潰したリンドウの青臭い苦味と、粗塩のざらついた感触だけが冷ややかに残っていた。呆気にとられながらも、部屋に戻って冷めきった味噌汁を鍋ごと流しにぶちまけ、今夜はとびきり辛い酒でも開けてやろうと決めた。
「……ふん、せいせいしたわ」
誰もいなくなった土間に向かって小さく吐き捨てると、私は力任せに引き戸をガラガラと閉め、内側からしっかりと閂を下ろした。




