定位置
普通とは
午前六時三十分。スマートフォンのアラームが電子音を奏でると同時に、私は瞼を開ける。
室温は一八度、湿度は四五パーセント。私の皮膚感覚が正しければ、昨日よりも湿度が二パーセントほど上昇している。
布団を剥ぎ、フローリングに足を下ろす。足裏の角質層が冷たい床材に触れ、私の意識は覚醒レベルへと引き上げられる。
コップ一杯の常温の水を飲む。液体が食道を通過し、胃袋という袋状の器官に落下していく重みを感じる。私の肉体というハードウェアは、今日も異常なく再起動した。
私は部屋の中央へ移動する。
このワンルームマンションは、西新宿の雑居ビル街の隙間に埋もれるように建っている。築四十五年の鉄筋コンクリート造。広さは二十平米。
私の生活圏は、この四角い箱の中に集約されている。
私は部屋の東側の壁、クローゼットとユニットバスの扉の間に立つ。
フローリングの板目、壁から数えて六枚目。そこに右足の親指を合わせる。左足は肩幅に開く。背筋を伸ばし、顎を引く。両腕は体側に沿って自然に垂らす。
視線の先、床から百五十五センチメートルの高さに、それはある。
黒い、隆起だ。
大きさは大人の掌ほど。形状は不規則な楕円形で、壁紙の内側から何かが押し出そうとしているように盛り上がっている。
色は単調な黒ではない。アスファルトの断面のような灰色、乾いた血のような暗褐色、そして深海のような濃紺が混ざり合い、照明の加減でぬらりと光を反射する。
表面は微細な凹凸に覆われている。遠目には焦げたハンバーグのようにも見えるし、密集した蟻の群れのようにも見える。
私はその隆起を直視する。
恐怖も、嫌悪も、疑問もない。
私の部屋にエアコンの送風口があるように、コンセントの差込口があるように、そこには黒い隆起がある。それはこの部屋の構造物の一部であり、私の生活を構成する「部品」の一つだ。
一歩近づく。壁から三十センチメートル。
鼻先を近づける。匂いを確認する。
今日は、雨上がりの濡れたコンクリートと、古い図書館の奥にある埃っぽい紙の匂いが混ざっている。微かに、甘い腐敗臭のようなものも感じるが、それは不快なものではない。熟れすぎた果実のような、生命活動の余韻を感じさせる香りだ。
「おはよう」
私は声帯を震わせ、空気を振動させる。
黒い隆起は沈黙している。
私は右手を伸ばし、人差し指の腹でその表面に触れる。
ざらりとした感触。しかし、指に力を入れると、低反発素材のようにゆっくりと沈み込む。
硬質でありながら、柔軟性を持つ。無機物でありながら、有機的な温かさを孕んでいる。
指先を通じて、微かな振動が伝わってくる。
ト、ト、ト、ト。
規則正しいリズム。それは壁の奥を流れる配管の水流かもしれないし、電気配線のノイズかもしれない。あるいは、このマンションという巨大な生物の脈動かもしれない。
そのリズムが私の指先から血管を通り、心臓へと到達する。私の鼓動が、壁のリズムと同期していく。
一分間、私はその接続を確認する。
身体の重心が安定し、世界との境界線が明確になる。
これで「調整」は完了だ。
私は指を離す。指先には、黒い煤のような粉がわずかに付着していた。私はそれを親指と擦り合わせ、皮膚に馴染ませる。
七時四十五分。私は部屋を出る。
鍵を閉め、ドアの表面を確認する。金属製のドアノブは冷たく、無機質だ。部屋の中の隆起とは対照的だ。
駅までの道のり、私は「通勤する人々」の群れに混ざる。
皆、同じような色のコートを着て、同じような歩幅で歩いている。私もその列に加わり、速度を合わせる。信号が赤になれば止まり、青になれば進む。
私たちは巨大な工場のベルトコンベアに乗せられた部品のように、正確に移動する。
電車が来る。ドアが開く。私は身体を滑り込ませる。
車内は、様々な有機物の匂いで充満している。整髪料、柔軟剤、汗、口臭、コーヒー、排気ガス。それらが混ざり合い、独自の「朝の空気」を形成している。
私は吊り革を掴み、浅く呼吸をする。酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する。この反復運動だけが、私が生きていることの証明だ。
職場は、中規模の物流会社の事務センターだ。
私の業務は、全国から送られてくる配送伝票の数字を、専用の端末に入力することだ。
九時。始業のチャイムが鳴る。
私はモニターに向かい、キーボードに指を置く。
「4091」「2205」「11」。
数字は意味を持たない記号だ。私はそれを網膜で捉え、脳の信号処理を経て、指先の運動に変換する。
カチャカチャ、ッターン。カチャカチャ、ッターン。
私の指は、正確な機械のアームのように動く。
隣の席の派遣社員の女性が、ハンドクリームを塗る匂いが漂ってくる。ローズの香り。彼女は一時間に一度、必ずハンドクリームを塗り、その直後に深いため息をつく。それは彼女なりの「調整」なのだろう。
私はその匂いを感知しても、指の動きを止めない。
私は今、高度なデータ処理装置として機能している。個人の感情や思考は、このプロセスにおいて不要なノイズでしかない。
十二時。昼休憩。
私は休憩室の隅の席で、コンビニエンスストアで購入したおにぎりと春雨スープを摂取する。
「鶏五目」と「明太子」。昨日と同じ組み合わせだ。
カロリー、塩分、タンパク質の量は計算済みであり、私の肉体を維持するために最適な燃料だ。味覚的な快楽は求めていない。
周囲では、数人の女性社員が円卓を囲んで音声データを交換し合っている。
「ねえ、聞いた? 営業の佐藤さん、結婚するんだって」
「えー、嘘。相手誰?」
「取引先の人らしいよ。なんか、すごいお金持ちなんだって」
「いいなあ。私も早く寿退社したい」
彼女たちは「結婚」「恋愛」「金銭」というトピックについて、感情というエネルギーを乗せてボールを投げ合っている。
私はスープを啜りながら、その会話を環境音として処理する。
彼女たちにとっての「正常」は、他者と関係性を結び、社会的な契約を増やすことにあるらしい。
私にとっての「正常」は、あの部屋の壁の前に立ち、黒い隆起と波長を合わせることだ。
どちらが優れているわけではない。ただ、プログラムの種類が違うだけだ。
「村田さんは? 最近どう?」
不意に、ボールが私に投げられた。
私は咀嚼していた米を飲み込み、顔を上げる。
「どう、とは?」
「いや、なんかいい話ないのかなって。彼氏とか」
彼女たちの目は、獲物を探す肉食獣のように輝いている。私の中に「共感」や「羨望」という反応を探しているのだ。
私は口角を十五度上げ、困ったような表情を作る。
「特にないですね。毎日、家と会社の往復だけで」
「えー、もったいない。村田さん、肌綺麗だし、身なりもちゃんとしてるのに」
「そうですよ。今度、合コン組みましょうか?」
彼女たちは私を「こちらの世界」に引きずり込もうとする。
私は丁重に断りの言葉を並べる。
「いえ、趣味の時間が忙しいので」
「趣味って?」
「……観葉植物の世話とか」
嘘ではない。あの黒い隆起は、植物に近い性質を持っている気がするからだ。
「へえ、意外。地味だね」
彼女たちは興味を失い、また別の話題へと移っていった。
私は残りのスープを飲み干す。温かい液体が胃に収まり、私の内部温度を安定させる。
一八時三十分。退社。
夜の街は、昼間とは違う種類の光に満ちている。ネオン、街灯、車のヘッドライト。
私はスーパーマーケットに立ち寄り、夕食の材料を購入する。
豆腐、納豆、カット野菜。
無機質なプラスチック容器に入ったそれらの食品は、私の生活の清潔さを保証してくれる。
一九時十五分。帰宅。
マンションのエントランスで、管理人の老人とすれ違う。
「こんばんは」
「ああ、お帰り」
老人は箒でエントランスのタイルを掃いている。カサ、カサ、という乾いた音が耳に残る。
私は三階へ上がり、三〇二号室のドアを開ける。
部屋に入った瞬間、空気が変わる。
外の世界の喧騒が遮断され、濃密な静寂が私を包み込む。
古い紙と湿った土の匂い。
私は靴を脱ぎ、鞄を置く。コートをハンガーにかける。
そして、手洗いうがいをするよりも先に、定位置に立つ。
壁から三十センチメートル。
照明をつけない薄暗い部屋の中で、黒い隆起は昼間よりも存在感を増している。
輪郭がぼやけ、壁全体が歪んでいるようにも見える。
私は目を凝らす。
隆起の下部に、新しい膨らみができているのが見えた。小指の先ほどの、小さな突起。
成長している。
私はその事実に、深い納得感を覚える。
この部屋は生きている。新陳代謝を繰り返している。
その時、インターホンが鳴った。
このような時間に訪問者の予定はない。
私はモニターを確認する。
妹の真美だった。
彼女は隣県に住んでおり、二児の母だ。事前に連絡はなかった。
私は一瞬、居留守を使おうかと計算したが、真美がドアノブに手をかけているのが見えた。鍵はかかっているが、気配を悟られるのは時間の問題だ。
私は観念して解錠し、ドアを開ける。
「お姉ちゃん、いるんでしょ? 電気ついてないけど」
真美は大きなトートバッグを抱えて立っていた。
「今、帰ったところだから」
「もう、電話くらい出てよ。近くまで来たから、お裾分け持ってきたの」
真美は強引に玄関に入り込み、靴を脱ぐ。
彼女からは、ミルクとベビーパウダー、そして生活感のある洗剤の匂いがした。
私の部屋の匂いとは異質な、圧倒的な「家庭」の匂いだ。
「相変わらず、暗い部屋ねえ。また電球切れてるんじゃない?」
真美は勝手にリビングの照明スイッチを入れた。
蛍光灯の白い光が、部屋の隅々までを暴き出す。
私は目を細める。光の下では、私の部屋はただの古びたワンルームに見える。
「これ、実家から送ってきた野菜と、私が作った煮物。タッパーに入ってるから」
真美はローテーブルに荷物を広げる。
「ありがとう」
「ちゃんと食べてる? お姉ちゃん、痩せすぎじゃない?」
「適正体重よ。BMIは19を維持している」
「そういう数字の話じゃなくてさ。健康的かどうかってこと」
真美は部屋を見回し、ため息をついた。
「本当に何もないわね。テレビも小さいし、ソファもないし。修行僧みたいな生活」
「必要ないから」
「彩りがないのよ、彩りが。……ん?」
真美の視線が止まった。
東側の壁。クローゼットの横。
あの黒い隆起の場所だ。
私は心拍数がわずかに上昇するのを感知した。
「何あれ」
真美が指差す。
「何が?」
「壁。なんか黒いのがついてる」
真美は立ち上がり、壁に近づいていく。
私はそれを止める権利を持たない。彼女は土足で私の聖域に踏み込む「部外者」だが、親族という社会的パスを持っている。
真美は隆起の前に立ち、顔をしかめた。
「うわ、汚い。何これ、カビ?」
「違うわ。ただの、壁の模様よ」
「模様って。こんな立体的な模様があるわけないでしょ。すごい膨らんでるじゃない」
真美は顔を近づけ、しげしげと観察する。
「これ、中が腐ってるんじゃない? 水漏れとかして、壁紙の中でカビが増殖してるのよ。絶対そう」
「管理会社には話してある。構造上の問題はないそうだ」
私は嘘をついた。
「嘘でしょ。こんなの放置してたら、胞子が飛んで病気になっちゃうよ。子供とか連れてこれないじゃん」
真美はティッシュを取り出し、恐る恐る隆起の端を突いた。
むにゅ、という感触が、見ていた私にも伝わってきた気がした。
真美は「ひっ」と短い悲鳴を上げて手を引っ込めた。
「何これ! 柔らかいんだけど! 気持ち悪っ!」
「湿気を吸っているだけよ」
「絶対違うって! なんか、生き物みたいで嫌だ。お姉ちゃん、よくこんなの平気でいられるね」
真美はティッシュをゴミ箱に捨て、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
「早く引っ越しなよ。ここ、なんか空気が淀んでるし。運気下がるよ」
「検討するわ」
「絶対してないでしょ、その顔」
真美は時計を見た。
「あ、もうこんな時間。旦那のご飯作らなきゃ。じゃあね、煮物、早めに食べてよ」
彼女は嵐のように言葉を捲し立て、玄関へと向かった。
ドアが閉まり、ロックの音が響く。
部屋に再び、静寂が戻る。
しかし、空気は乱されていた。真美の残していった「家庭」の匂いと、彼女が放出した「生理的嫌悪」というエネルギーが、部屋の中に漂っている。
私はすぐに換気扇を回し、窓を少し開ける。
外の冷たい風を取り込み、部屋の空気を希釈する。
そして、私はまた定位置に立つ。
照明を消す。
闇の中で、黒い隆起は静かに呼吸していた。
真美に突かれた部分が、少し赤く充血しているように見える。
私はその部分を、指の腹で優しく撫でる。
温かい。
さっきよりも温度が上がっている。三十七度五分。微熱の温度だ。
妹という異物の接触によって、炎症を起こしているのかもしれない。
あるいは、妹の放出した過剰な生命エネルギーを吸収して、活性化しているのかもしれない。
「大丈夫」
私は呟く。
誰に対しての言葉でもない。ただの音としての確認だ。
私は隆起に頬を寄せる。
ひんやりとした壁紙の感触と、温かく湿った隆起の感触が同時に肌に伝わる。
ドクン、ドクン、という脈動が、耳の奥に直接響いてくる。
その音は、私の心音よりも力強く、深い。
私は目を閉じる。
自分の身体の輪郭が溶け出し、壁の中に浸透していくイメージを持つ。
私の血管と、壁の配管が繋がる。
私の神経と、壁の電気配線が繋がる。
私の細胞と、黒い隆起の組織が混ざり合う。
私はこの部屋の一部であり、この部屋は私の一部だ。
妹が何と言おうと、同僚が何と言おうと、ここが私の世界の全てであり、正常な座標軸だ。
それ以外のことは、些末なノイズに過ぎない。
私は一五分ほど、その姿勢のまま動かなかった。
やがて、隆起の熱が少し下がり、いつもの平熱に戻ったのを確認して、私は身体を離した。
右の頬には、隆起の形に合わせた跡がついているだろう。
それは勲章のようなものだ。私がこの部屋に適合しているという証明だ。
私はシャワーを浴び、歯を磨く。
鏡に映った自分の顔は、のっぺりとしていて特徴がない。
しかし、右頬にうっすらと黒い煤のようなものが付着していた。
私はそれを洗い流さず、そのままにしておくことにした。
二三時。就寝の時間だ。
ベッドに潜り込み、毛布を引き上げる。
冷蔵庫のモーター音が、ブーンと低い唸りを上げている。
上の階の住人が歩く足音が、遠い雷のように響く。
壁の黒い隆起が、闇の中でじっと私を見下ろしている気配を感じる。
明日は水曜日。
六時三十分に起き、水を飲み、壁の前に立つ。
四〇九一の配送伝票を入力し、春雨スープを飲む。
その完璧なルーチンが待っている。
私は安らかな気持ちで目を閉じた。
壁の脈動が、私の子守唄だった。
意識が薄れていく中で、私は自分が黒い粘液状のものに包まれ、ゆっくりと硬化していく夢を見た。
それはとても、幸福な夢だった。




