俺のクソな日常
その甲斐があったのか、次の日のまどかさんは周囲にきょろきょろと視線を回していた。
「柏木さん。おはようございます」
「高坂さん……」
おはようございますと、まどかさんも挨拶を返してくれた。
その日以来、僕達は毎朝目礼を交わすようになった。
俺だけが彼女を見ていたのが、彼女も俺を認識してくれるようになったんだ。
しかし、人生というのは無常なもので、俺の予想通りクソ姉貴の奴の原稿は遅々として進まなかった。
おかげで俺はまどかさんを誘う時間もなく、仕事が終わればダッシュで家に帰るという日が続いた。
姉は5年前から完全デジタルに移行した。
だから、部屋は綺麗なもんだ。昔は絵具やらトーンやらが散乱して、転がったデザインナイフの刃や丸ペンが俺の足裏を攻撃してきたものだ。
「次このページのベタとトーンの処理お願い。あとこっちのレイヤー処理しといて」
姉に言われるがまま、下部レイヤーに書かれた指示通り処理をしていく。
中学からベタだトーンだ効果線だとやらされてたんだ。デジタルになってもお手の物だ。
って、26の男が何やってんだよ情けない。
でも俺は何故か姉に逆らえない。俺が見捨てるとこいつの味方いないんだよな――って、旦那はどうした。
「旦那はさあ、素人すぎてソフトの使い方から教えないといけないのよ。それだったらあんたを使う方がいいでしょ。イベント終わったらお小遣い上げるから」
「旦那もお前の趣味容認してんだから、暇なときに教えて手伝わせりゃいいじゃん」
「駄目よ。敏明さんは仕事もしてるんだし」
俺も仕事してるんだがな。
本当こいつクソだわ。
12月最初の水曜日。
努力の甲斐あって、やっと土曜には入稿できるんじゃないかってところまで持って行けたのは奇跡だと思っている。
それでも俺が仕事している間にあのクソがちゃんとノルマをこなしていたらだがな。
地下鉄の駅を出て右に曲がると、そんな荒んだ心は嘘のように浄化された。
まどかさんが笑顔で挨拶してくれたからだ。
だめだ。俺まどかさんの事好きだわ。
告ろう。
「柏木さん」
俺は足を止めて、通り過ぎたばかりのまどかさんの背中に声をかけた。
「はい」
すぐにまどかさんは振り返ってくれた。
俺達の距離は5歩ほど。
俺と付き合ってくださいって言おうとして、今日はまどかさんの会社と打ち合わせをする予定があった事を思い出した。
あかん。ここで告ってフラれたら、この後辛すぎる。
「あ、いえ。今日は御社にお伺いする予定なので、よろしくお願いしますねって言いたくて」
「そうでしたね。お待ちしていますね。じゃ」
サラサラの髪を揺らして会釈すると、まどかさんは颯爽と歩き出した。
俺は少しの間その後姿を見送ったけど、まどかさんは振り向くことはなかった。
「高坂さんはクリスマスはどうするんですかぁ?」
会社に着くと、後輩の加賀沙織が近寄ってきた。
そうか、もう12月だったな。あのクソのせいでクリスマスよりイベントの事しか考えてなかったわ。
「俺は特に予定してないな。今のところ」
「えー。高坂さんイケメンなのにシングルベルですかぁ」
加賀さんは胸の前でぶりっこのように肘を曲げて頬に手を当てた。発達過剰なバストが両腕に挟まれて存在感をアピールしてる。彼女は俺の2つ下で、胸を強調する服ばかり着ている。スタイルがいいんだろうけど、そんなにアピールされても男はヤル事しか考えないんだよ。もう少し恥じらいがないと恋愛感情はもてないもんだ。
「せっかくのクリスマスに一人とか可哀想だから、私が付き合ってあげましょうかぁ?」
俺の顔に顔を近付けて上目遣いで胸を強調させながらそう言う彼女は、可愛いんだけど前述の理由から魅力的とは感じない。
「なんで俺が君とクリスマスを過ごす必要があるんだ?」
って言いたい。でも下手に言うとセクハラだなんだと言われかねないからな。
「可哀想で悪かったな。同情で付き合ってもらうほど寂しくはないから遠慮しておくよ」
「え。可哀想ってのは冗談で――」
「おい、高坂」
加賀さんが慌てて何か言おうとしたのを、佐藤さんが遮った。ありがとう佐藤さん。
「ラグザシステムさんだけど」
佐藤さんの席に行くと、佐藤さんは申し訳なさそうに俺を見た。
「別件のクライアントさんの説明に同行するのすっかり忘れててさ。ま、契約書渡すのと検収方法の確認だけなんで、お前ひとりでも大丈夫だろ」
あー。はいはい。大丈夫だし、むしろ大歓迎っすよ。




