スラム街
「えー急ではあるが、アイリス君が明日から海外便の担当になった」
『スペス郵便局』の控室。朝礼中、所長はメガネを直しながらそんな言葉を切り出した。
「よって他の人は担当地区が広がるが、何とか頑張ってほしい。無論こちらも求人はかけて配達員を増やすつもりだ……アイリス君、何か言うことはあるかね?」
「はい。えっと、辞めるわけではありませんが、海外便担当として精一杯頑張りますのでどうかよろしくお願いします! もし向こうの方が待遇よかったら、もう帰ってこないかもしれません!」
アイリスは背を正しながらそんなことを言う。
「あははは。行かないでーアイリスちゃん!」
「はっはっは。テラはそんな呑気なこと言ってると、あっという間に婚期も逃すよ」
所長を含め、アイリスとテラのやり取りにみんながどっと笑う。
「アイリス君には、早速明日から海外に行ってもらう。それじゃ、みんな今日の仕事に取りかかってくれ」
その場は解散となり、各々が仕事に取りかかる中、ロッカーの前で準備していたテラの元にアイリスがやってくる。
「テラ、今日仕事終わりに『トラットリア』で食事でもしない?」
「私? もちろん、いいよ!」
「じゃ、仕事終わりに! 奢りだから楽しみにしてて」
「わーい奢りだ! じゃあまた、あとでね!」
アイリスと食事するのは久しぶりだった。
テラは声をかけてもらえたのが嬉しくて、声音を高らかにして、早くも仕事終わりを想像してワクワクしていた。
彼女は予備の制服(昨日着ていたものは洗濯中)を取り出し、羽織る。真新しいパリッとした襟に首を通すとどこか気持ちもしゃんとする。ボタンを閉め、袖を直してから台に置かれた担当分の荷物を手にする。件数は……普通だ。
「テラちゃん、ちょっといいかしら?」
テラが荷物をしまっていると、後ろから声をかけられる。副所長だった。彼女は困った顔をしており、心優しいテラが放っておけるはずがない。
「どうしました?」
「私の担当の荷物を一件、引き受けてもらえないかしら?」
「あ、いいですよ! 荷物、貰いますね」
「これなんだけど……ちょっと様子が変なのよ」
彼女から手渡されたのは一枚の封筒だった。住所はスラム街のほど近くにある集合住宅、シトラタワー。いや、スラムの外縁にある、と言った方が正しいか。
そして宛名の横には『必ず手渡しで渡すこと』と『なるべく若い子に配達させること』と乱暴に一筆書かれていた。
――郵便は基本対面で渡すものだ。これ自体は不思議なことではない。特に『スペス郵便局』ではそれを徹底している。
だが二文目が気にかかった。わざわざこんなことを書くのは、相当な物好き、悪く言えばスケベ野郎だろう。裏心が透けて見えた。
「若い子に配達、ですか?」
「そうなのよ。私、確かに美人だけど若くはないじゃない? だから私が行って苦情を言われるよりも、一番若いテラちゃんに任せたいのよ」
「なるほどですね……わかりました」
「って、今のは一言フォロー入れるところよテラちゃん!? 『副所長もまだまだお若いですよ』って! どうして『なるほどですね』って納得しちゃうのよ!?」
「あっ、ごめんなさい! 気配りできなくて……」
「まあいいわ。くれぐれも気をつけてね!」
テラは苦笑いしつつ、受け取った配達鞄に封筒を入れる。それから副所長に挨拶してから郵便局の扉を開いた。
昨日とは打って変わって、今日は雲ひとつない快晴だ。
彼女は思いきり透明で澄み渡った空気を肺に吸い込む。アヴィスの手でしっかりと手入れされた翼は朝日に煌めいていた。
「よしっ!」
靴底で思いきり地面を蹴飛ばし、宙に浮く。
パン生地を焼く香ばしい匂いが空に漂っていた。彼女にとってはウルドの朝を彷彿とさせる名香だ。
「まずは問題の封筒を運んじゃおうか」
テラは一番遠くにある配達先を目標に定めた。王宮の上空を迂回しながら東へと向かっていく。途中空でアイリスとすれ違って手を振った。
綺麗に区画整理されていた城下町の均整さが、通り過ぎるたびに次第に失われ始める。家屋は乱雑に並び、汚れて赤色を失ったレンガ造りや、やはり汚れた石造りの建屋が目立つようになる。どこか不気味な霧が立ち込めていた。
――朝日を受けてもなお輝くことのない街。そこが王都ウルドの暗部、スラム街だった。
「スラムに来るの久ぶりかも……前は子供たちに無理矢理飴を売りつけられて、その飴食べてお腹壊したっけな……」
スラムは当然、貧民や犯罪者の巣窟だ。そこで生まれ育った子供たちは、生活するために文字通り『必死』で生きていた。だから盗みを働いたり、外部から来た者に何かを高額で売りつけたりして生計を立てているのだ。
テラの父親もこのスラムの出身だという。あまり口には出さないが、ここで壮絶な過去を送っていたらしい。
――テラは徐々に高度を下げて飛ぶ。
見つけた。目的地のシトラタワーだ。汚れた古い石造りの建物で、寒々しい印象を受ける。何度か旋回したのちに、ゆっくり翼を畳みながら屋上に降りる。痛いくらいの静寂が出迎えた。
テラは着地してしばらくは獣耳をそばだてていたが、異常がないので静かに動き出す。古びた扉をノックした。