雨後、体は熱を求めて
「ただいまー」
「あら、おかえりなさいまし。今日は一段とバサバサ音立ててましたわね」
「雨で濡れて羽が重いんだよっ! お母さんも翼人ならわかるでしょ!」
「わたくし、雨の中を飛んだことないから、わからないですわ」
「どれだけ温室育ちなの……」
テラは母親の貴族っぷりに呆れる。たまに"素"で『パンがなければお菓子を食べればいいですわ』とか言い出すから困る。
母は宮殿生活ではほとんど飛んでなかったそうなので、翼人として一体、どういう生活を過ごしていたのか娘は疑問で仕方なかった。確かに身分の高い翼人は、飛ばないのがステータスではあるが……。
テラは母親が持ってきたタオルで翼を拭きながら、風呂場に直行する。
父親の姿は見当たらなかったので、まだ帰宅していないのだろう。仕事が多いと遅くなったり、泊まり込みになることもあった。
教養あるはずなのに素っ頓狂なことを言い出す母に対して、スラム街出身で無学の父親の方がよっぽどしっかりとしていた。
「はぁ……今日はいつもより疲れたな……」
テラはボタンを外して制服を脱ぐ。ようやく抑圧から開放されたような気分だ。
白いワイシャツは襟から中に水が入り着心地が最悪だった。テラは肌に貼りついたシャツを脱ぎ捨て、スカートを放り投げて下着姿になる。いつもは制服に隠されている胸の膨らみが露わになった。
彼女は下着も脱いで柔肌を露わにした。決して豊かな方ではないが、なだらかな曲線を描いている。
テラは風呂場に入ってギョッとした。中にアヴィスがいて、彼女は入浴していたからだ。
「やぁやぁテラ君。いらっしゃい」
「あれ、なんでアヴィスさんがいるんですか……?」
「ん? そりゃこの家の居候だからねぇ。うっかり風呂に入らず、酸い体臭など漂わせていたら家を追い出されるだろう?」
「いや、そうですけど……アヴィスさんもお母さんも、外に出ないから毎日お風呂に入らなくてもいいとおもうんだけどな」
「何を言う! 君の母上みたいな貴族出身が湯浴みをしなかったら、政治問題だぞ? 私はともかく」
「あ、アヴィスさんのことは否定しないんだ」
「――そうだ! たまにはその翼を、元翼人の私『自ら』手入れしてあげよう!」
アヴィスは彼女は黒髪を絞って水滴を払うと、そう言いながらなぜか嬉しそうに湯船から出る。
病的に細い太もも、くびれた腰回り、豊満な胸――そして背中にある痛々しい翼のつけ根。背骨を挟んで二つ。それが、彼女が翼人だった証拠だった。彼女の身体に翼があったことの証明は、それしか残されていない。『経験』を除いては。
「じゃ、お願いしまーす! やった! 面倒ごとが一個減ったよ!」
「翼人が、自分の翼を手入れするのが面倒などと……確かに面積があるし、揚力を得るために複雑な形状をしているが……ぶつぶつ」
テラはタイルの上に腰かける。大きな翼を傘のように広げて、それをアヴィスが丁寧に特別な洗剤で作った泡で洗っていく。
その途中、彼女の目に留まった箇所があった。アヴィスは思わず深緑の瞳を開き「あ……」と声をこぼす。それは黒装束と戦ったときに受けた傷だ。盾に使った羽根は、そこだけ羅列が抜け落ちている。
「……この傷はどうしたんだい?」
「あっ、それは今日取っ組み合いになったときの傷です。演習、だったんですが……知らずに本気で戦っちゃいました」
「そうか……それは悲しいな……裂傷と線傷、硬い羽軸にまで傷が及んでいる。短く鋭利な刃物で傷つけられた傷だ。かなり強い力を受けたようだが、訓練だったんだね。無事でなによりだ」
アヴィスは低い声でそう呟く。
緑の瞳を下げて、少し物悲しそうな顔をした。テラの翼を梳かす手が少し弱まった気がした。
「これからは、あんな風に戦ったりしないといけないのかな……」
「争いを避けられないこともあるからねぇ」
「そう、ですよね……」
「私も何度も戦ったよ。幸い、人殺しになることはなかったけどねぇ」
テラが今担当している地区は、王都内でも――イザヴェル王国の中でも比較的治安がいい場所だ。
だが王都ウルドのスラム街や、王国の端にある村々の治安はあまり良くないと聞く。さらに国外ともなればもっと恐ろしい危険に晒されることになるだろう。渡航を原則として禁止している島国の存在を聞いたこともある。
「海外か……アヴィスさん、また外国の話してくださいよ!」
「もちろんだとも。そうだね――あれは確か、言葉も通じない南の島へ渡ったときだったかねぇ。余りにも暑いもんだから、水が欲しくて原住民に身振り手振りで必死になって伝えたら、『顔ぐらいある大きな幼虫』を持ってこられたときがあってね。流石に絶望したよ」
「食べたんですか……?」
「食べたよ」
「うえぇ……」
「食べたよ。ミルキィで、意外と美味しかったよ」「食べたよ。案外イケるよ」「食べたよ?」
「わかりましたわかりましたから! もう言わなくていいです!」
テラはまさしく苦虫を噛み潰したような、なんとも言えない表情になる。
「……今でも翼があったら海外に行きますか?」
アヴィスの返事は、一拍子置いてからだった。
「どうだろうねぇ。今はすっかり、ここに落ち着いてしまってるから」
テラの脳裏で、今日の午後、エリカと話した内容が想起される。
『黄金郷』。彼女は確かにそう言った。それはきっと妖美で、儚く、輝かしい夢だ。
確かに国外には憧れるが、テラは今日の一件からどことなく恐怖心も持っていた。どっちがどっちを上回るか、だ。
「怖いけど、でもやっぱり行ってみたいな……」
「いつか行ってみるといい。様々な智見を得られるよ。……さて、翼を洗い終えたから、仕上げに羽根の成長を促進する魔法を使ってあげよう」
「あっ、ありがとうございます! そんな魔法、どこで誰から教わったんです?」
「ん? どこだったかなぁ? 昔、酔狂な人間から教わったのさ」
アヴィスは話をはぐらかす。
「えー、酔狂な人って誰ですか?」
「んー、誰だったかなぁ? テラ君に魔法を習得されて、私がテラ君の『下位互換』になるのは嫌だからねぇ」
「私、大魔法使いになれるかも!?」
「ふふふ。その可能性は大いにあるよ? 未来は無限大だからね」
翼を洗い終えたテラは、アヴィスと小さな湯船につかりながら、色んな話に花を咲かせるのだった。