鉛の雲、気だるい午後
時は移ろい、午後になる。
雨はやみ、灰色の雲だけが取り残されていた。来雨によって気温は引き下げられ、テラはなんとも言えない、気だるい気分に襲われていた。
彼女は荷物をそっと鞄に収め、伝票を確認。三ヵ所ほど回る必要があるが、どこも行き慣れた場所なので気張る必要はない。
「それじゃ、行ってきます!」
他の人は先に出て行ってしまった。テラは誰もいない控室にそう言うと、曇天の王都に繰り出す。冷たい雨粒が軒先から獣耳に落ちた。ピクリと耳が動いた。
テラは翼を展開するとそのまま飛び上がって配達場所を目指す。
「まずはエリカさんのところかな」
配達先であるエリカの家は、ウルドの城壁正門に近い場所にあった。大きな商店が並ぶ間にある小ぢんまりしたレンガ造りの建屋だ。
テラは都を見下ろしながら滑空する。
やがて目的地を見つけ、羽ばたくのをやめてそのまま生身で一気に着地。それと同時に額の傷がズキンと痛み、この着地方法を取ったことを酷く後悔した。
「いたた……エリカさん、お届けものです!」
「……テラ?」
階段を昇って扉を叩くと、中から金髪の若い女性が現れる。彼女はエルフで、特有の長く尖った耳と高い身長を持っていた。
「あら、いらっしゃい。って、あんた怪我してるじゃない。平気なの?」
「はい! へっちゃらです……と言いたいところなんですけど、乱暴に着地したせいで滅茶苦茶痛いです……」
「もう、テラってばドジね!」
テラはえへへと苦笑いしながら、防水の配達鞄を開く。そして中から小包を取り出してエリカに渡した。
「あら、帝国のお母さんからだわ。ちょっと読んでから返事書くから、中に入ってて待ってもらえる?」
「あっ、わかりました! お邪魔します!」
エリカから許可をもらい、獣耳を震わせて水滴を振るったテラは家屋の中に入ろうとする。それを許可を出したエリカが制した。
「ちょっと待った。髪がびしょ濡れよ?」
エリカはテラの短髪に手をかざすと、手のひらから熱風を出して乾かしてくれる。獣耳が風に揺れた。
彼女もアヴィスのように魔法を使える『一部』の人間だった。
エリカは魔法を使う占い師で、部屋は金色の家財や占い道具、それから分厚い魔法関連の書物が並んでいた。
天気もあって中は薄暗く、部屋の四隅に置かれた蝋燭だけが唯一の灯りだった。朱に染められた金具たちはどことなく神聖で重厚感のある雰囲気を醸し出している。
「これでよしと。入っていいわよ」
「はい! 失礼します!」
テラは靴音を立てて部屋の中に入る。エリカは神妙な顔つきで手紙に目を通していた。
「……お母さん体調悪いんだ。命には別状はないみたいだけど」
「そうでしたか。症状が軽いといいのですが……」
「私ね。ウルドに来るときにお母さんと喧嘩別れしちゃって……やっぱりお母さん的には、いきなり娘を異国に送り出すのは反対だったみたいなの。でも無理矢理押しきっちゃって。それで、きっと心労かけちゃったんだろうなぁ」
「親心、ってやつですね。私の両親も、私が外国に住むって言ったら反対すると思います」
「やっぱりそうよね。唯一ウルドに来て後悔してることはそこかなぁ。こういう『なにかあったとき』にすぐに帰れないし」
エリカは美貌に少し悲しそうな表情を滲ませる。きっと本心から親のことを心配しているのだろう。同じ状況なら、同じ表情をするだろうとテラは思った。
「テラ、帝国に荷物を送ろうとしたらどれくらいかかる?」
「えっと、翼人の配達なら最短でも三日ですね」
「じゃあ、新鮮なケルベロスの生肉を……」
「配送中に腐ってしまいますエリカさん!」
「そう? じゃあ、じゃあこのアストロラーベ天球儀で……」
「重量オーバーです! というかそれ、私の身長より高いし、運べません!」
エリカはからかうように笑う。もてあそばれたテラはふうとため息をつき、「せめて運べるものにしてください」と手を合わせた。
「じゃあ、手紙と水晶石にするわね。便箋と封筒もらえるかしら?」
「あっ、はい!」
テラは配達鞄とは別に肩からかけてあったポーチを開き、新品の白い便箋と封筒を取り出す。
「じゃあ、手紙書いちゃうからちょっと待っててね」
そう言うとエリカはさらさらと万年筆で文字を書き連ねていく。
待つ間、テラは部屋に陳列されたくすんだ金色のまじない道具を見つめながら、質問を投げかける。
「エリカさんは、帝国出身なんですよね?」
「んーそうよ。元々は帝国民だったんだけど、向こうの景色に飽き飽きしちゃってね。冒険心っていうのかな。異国情緒に憧れて王国に来たんだ。この街、色鮮やかだから気に入ったのよ。帝国は石造りで冷たい印象で好きじゃなかったの」
「そうだったんですね……なんか、カッコいいなぁ」
「そうかしら? でも、外国はいいわよ? 新たな知見を得られるっていうか、こう、あらゆるものが新鮮なのよね」
そう言えば我が家の『知識の巨人』ことアヴィスもそんなことを言っていた、とテラは思い出した。
彼女もまた、翼があった頃は翼人配達員をやっていたらしく、大陸中に『想い』を運んで回ったと豪語していた。
「私も外国に興味あって長距離配達員に志願したんですけど、断られちゃいました……」
「あー。テラってドジっ子なところあるもんね。危なっかしいっていうか。前にうちにマンドレイク誤配達したり、めっちゃ高価な竜の牙落として割ったりしたしね。マンドレイクの鳴き声を聞いたときは軽く逝きかけたわ」
「そ、その節は大変失礼いたしましたっ!」
「いいっていいって。――でも海外は本当にいいわよ。見たことのない様式の建築物、初めて見る文化、人種、歴史、食べ物。全てが輝いて見えて、まるで『黄金郷』よ」
「黄金郷、かぁ……」
エリカは封筒を封蝋して、海外を夢見るテラに手渡す。
それから部屋の奥から水晶石を持ち出し、新聞や厚紙を使って丁寧に包装して、それもテラに手渡した。なかなかの重量だ。
エリカは駄賃の金貨を渡す。テラはそれを集金袋にしまい込んだ。
「くれぐれも、割らないように!」
テラはエリカから水晶を受け取った。それは母親へ向けたエリカの気持ちだった。
「はい! エリカさんの『想い』お預かりします! それでは!」
テラはそう言い残してエリカの家を飛び出した。空の隙間から光が差し込みつつあった。
* * *
配達を終えて郵便局に戻ると、一足先にアイリスが帰って荷物整理をしていた。
緑の黒髪は雨に濡れて艶めいていて、衣服も黒翼もびちょびちょに濡れていた。が、それでも彼女の美貌が崩れることはない。
「おかえり、テラ。いやあ参ったよ。ウルドの外に配達に行ってたら、また雨に降られちゃって。……今日の配達は大丈夫だった?」
「完璧! ひとつもミスせず配達できたよ!」
テラは鞄から集荷したものを丁寧に取り出し、伝票に書き込んでいく。
「お、いいじゃん。日ごろの努力の成果かな? ところで今のあなたの羽、鶏みたいに真っ茶色よ?」
「あ、あう……自慢の白い羽がぁ……」
テラは翼を自分の前に持ってきて、その汚れ具合に悲しむ。
思えば今日は、いつもに増して激しく荒い使い方をしていた。茶色の濁流から少年を救ったとき、『訓練』のとき格闘したとき。雨に跳ねた汚れを、羽根が吸い込んでいた。
「今日はちゃんとトリートメントしないとね。明日飛べなくなっちゃうよ?」
「あーい。面倒くさいなぁ」
翼人の翼は意外と繊細なものだ。きちんと専用の油脂を塗らないと撥水性を失って濡れると飛べなくなるし、羽根が抜けたりすると、それだけで上手く飛べなくなったりする。
ちなみにこの界隈では『羽は口ほどものを言う』と言い、翼の美しさは品格もを表すと言われていた。端的に言えば、汚れていると馬鹿にされる。
「せっかく綺麗な羽なんだから、大事にしな? 今日は手入れ大変だろうから、先に帰っていいよ」
「アイリスちゃんの羽は黒いから汚れが目立たなくていいよね。先にあがっていいの?」
「はっはっは! カラスのように黒いから汚れの心配はないのだ。いいよーお疲れ様」
「うん、じゃあお先に!」
伝票を書き終えたテラは、所長に一言声をかけてから明朗な顔で職場を後にする。
アイリスは荷物をまとめる手の代わりに、翼を振って挨拶した。
今日は制服も汚してしまったので、家に持ち帰って洗わないといけない。私服に着替えずそのまま帰宅する。
テラは雲の合間に瞬く星々に招かれて、漆黒の夜空に飛び込み、家を目指す。