雨の中の格闘
まずい。反射的に、テラの顔から血の気が引いて青ざめる。
心臓が早鐘を打った。命を脅かすかのような危機感が全身を駆け抜ける。
「ま、待って!」
荷物と、少年の命とを、天秤にかける必要があったかもしれないと痛感した。
――だがテラはその考えを一瞬で否定した。人の命に勝るものなどない。あってたまるか。
「お願い、待って!」
叫び、追いかける。濡れた路面に足を滑らせて転びかけた。
彼女は走りながら何度か身震いをしたあと、地面を蹴って飛び上がる。黒装束は彼女から逃れるように路地裏に突入する。
テラは少し離れたところから黒装束を追跡した。
幸いなことに、黒装束は袋小路へと入り込む。彼女は逃げ道を塞ぐように黒装束の前に着地し、正対する。
「はぁはぁ……返してください! それは大事な荷物です!」
「…………くくっ。そんなに大事な荷物なら、なぜ手放したんだ?」
「っ!」
声音でわかった。黒装束は男だ。ゆとりのある服を着てはいるが、露出した手首や首筋から鍛えられているということだけはわかる。
だが、フードを目深にかぶっているせいで面構えや表情までは読み取れなかった。
「"こういう"大事な荷物は、きちんと肌身離さず持っておかないとなぁ?」
「痛いところを突きますね……ですがそれは、お客様の荷物。さぁ、返してください!」
「そんなら、こっちも実力行使といきますかね」
黒装束の男は戦闘に備えて配達鞄のを地面に置き、懐からナイフを取り出した。雨粒が白銀の刃を滑る。
テラの心拍数が急上昇した。息が荒くなる。相手は明確な殺意を持っている。
――そして、そこまでして鞄を奪いたい理由――もしかして鞄の中身を、知っている?
テラは深呼吸しながら、腰を落として徒手格闘の構えを取る。郵便局に入った際、荷物を守るために一応対人格闘を覚えさせられていた。アイリスの指導で。とはいえ素人だ。
男は無言のまま突っ込んできた。テラは半身をずらし、直線的な刃の軌道をかわす。
そして、男の無防備な脇腹に蹴りを叩き込む。が、威力が弱くて男を倒すまでには至らない。
白刃がテラの鼻先をかすめる。テラはのけぞりながらナイフを持った腕に手刀を当てる。
敵はわずかに怯み、その隙にテラは数歩後ろに下がって距離を稼ぐ。
「へえ、やるじゃねぇか……くくく。ただの小娘だと思ったのによぉ?」
すると黒装束は一気に間合いを詰めてきた。一切の迷いがない動き。速い。
回避が間に合わず、テラはやむなく翼を展開して刃を弾く。保身の代わりに白い羽根が飛び散った。
――なんとしてでも小包を取り戻し任務を全うする。今のテラにはその考えしかなかった。
男はナイフで刺突した。
テラは身を竦めてかわすが、男の左手がテラのスミレ色の短髪を乱暴に掴んだ。そして力一杯にテラの頭を石塀に叩きつける。
「っ!」
テラは声にならない悲鳴をあげる。額が割れ、血が流れた。視界が白む。
それでも血を流しながら、死力を尽くして横に転がって次の攻撃を回避。
戦闘力では到底叶わない。瞬時にそう悟った。
――そう考えた瞬間テラは一気に弾かれるように飛び出し、地面に投げられた配達鞄を抱きかかえて、石塀を蹴って急上昇する。
「あっ、ちくしょう!」
男はテラのとっさの行動に追いつかず、彼女を見上げながら悪態をつくことしかできない。
こうしてテラは、なんとか大切な荷物の回収に成功したのだった。
――別に武力で勝つ必要はない。荷物を取り返せば勝ちなのだ。そう自分に言い聞かせ、その判断は正しかったと思った。
「はぁ、はぁ……痛い……」
流血を袖で拭いながら、テラは飛びつつ呼吸を整える。彼女の体貌は雨と泥と血で、みるも無残なものになっていた。
「あと、少し……」
彼女は鉛色に染まるウルドを飛ぶ。灰色の都市は重たげにその身を横たえていた。
次第に王宮が近づき、元老院の大理石の屋根が見え始める。古代の柱が羅列しており荘厳な造りになっている。
テラは徐々に高度を下げていき、元老院の鋼鉄の正門へと向かう。そしてドスンと着地し、手をついた。それから、槍を持って濡れながら待機している守衛に声をかけた。
「『スペス郵便局』のテラと申します! 元老院のフォグ議員宛に郵便ですっ!」
「フォグ議員宛だな。少々待たれよ」
守衛は門の中にいた衛兵に声をかける。どうやら中に取り次いでくれたらしい。
「にしても配達員。お前、顔が血だらけだが大丈夫か?」
「あ、大丈夫です! ちょっとトマトソースがかかっちゃっただけで……」
「そんなわけなかろう。簡単な処置をしてやるからこっちへ来い」
「面目ないです……」
兵士は鎧にかけたポーチから包帯を取り出すと、ぶっきらぼうにテラの額をガーゼで拭いて、それを巻いていく。ズキンと痛みが走りテラは顔をしかめた。
と同時に殺意の戦闘から解き放たれて、ようやく生きている実感が沸いていきた。安堵のため息をこぼす。
「おお。新米配達員よ、よく来たな」
処置が終わり顔を上げると、そこには白衣を着た初老の男性がいた。立派な灰色の髭を蓄えており、いかにも元老院所属の風格が見て取れた。守衛は彼に敬礼する。
「フォグ議員ですね? 荷物を預かっております」
「うむ」
テラは鞄から慎重に小包を取り出す。震える手で耐水紙を剥がしてからフォグに手渡した。
フォグは小包を受け取ると、意外なことにその場でそれを解き始める。そして中から出てきた小箱を開け、さらにその中に入っていた小さな羊皮紙を開いた。
「全く。お主の所長のやつも悪趣味よのう。こんないたいけな少女を『試す』真似をしよってからに」
「えっ?」
彼は羊皮紙を反転してテラに見せた。羊皮紙には赤い字で『合格』だけ書かれていた。
「……? これって、どういう……?」
テラは状況を飲み込めず小首を傾げる。
「なんじゃ。本当に何も聞かされておらんのか。要するに、今回の一連の配達は全部『訓練』じゃったんだよ。昨晩突然連絡があって、『うちの所員を試したいから、訓練につきあって欲しい』と言われたんじゃ」
「えっ、じゃあもしかして黒装束の人って……」
「あれはうちの衛兵じゃ。お主の配達を邪魔するように指示して、数十人体制で配置してあったのじゃ。どうも加減を知らないようで、お嬢さんに傷つけてしまったようだが……あとで重々注意しておく。悪かったのう」
ことの顛末を聞いて、へなへなとテラの力が抜けていく。
命を賭けてまで荷物を運んでいた自覚が瓦解していき、脚の力が喪失して思わず四つん這いになる。そんな様子をフォグと衛兵が気の毒そうに見ていた。
「詳しくは所長から聞くといい。それでは、気をつけて帰るんじゃぞ」
そう言われて郵便局に帰ってきたテラだったが。
「所長、どういことですか!」
力なく郵便局に帰ってきたテラは、乱暴に所長室の扉を開け、開口一番にそう言った。
「なんだ。そんなに怒ることかね。君が『外国に行きたい』って言うから、力量を図る目的で訓練をしただけだが」
「怒りますよ! 死にかけた(気でいた)んですから!」
所長はムッとした表情でテラを出迎えた。テラは身震いして雨粒を払ってから中に入る。
中には休みのはずのアイリスと副所長が並んでいて、申し訳なさそうに苦笑いしている時点でみな聞かなくともわかった。
全員雨で濡れていることを考えると合点がいく。きっと彼女らはどこかに隠れてテラの訓練を監視していたのだ。
「いやでもさ、テラが途中で男の子助けたじゃん? あれは本当にすごいと思ったよ。称賛に値すると思う」
「あれも所長の狙いどおりだったんですか?」
「いや、違う。そのことは想定外だった。その件に関してはアイリス君の言う通り誉むべきことだ。――だが結果として君は荷物を取り落としてしまった。違うかね?」
「……はい」
所長はただ怒るのではなく諭すように続けた。
「アイリス君の言う通り、君は称賛されることをやってのけた。だが郵便局員としてはまだまだ三流だ。君は配達鞄を投げ捨てた時点で職務放棄したのだよ。僕は最初に言ったはずだ。『これは国政を左右する可能性があるもの』だと」
「……はい」
「君はとっさの判断、あるいは刹那的に考えて人命救助を優先した。果たして、その『少年の命』と『国の命運を変える荷物』を天秤にかけることをしたかね?」
「…………」
「今回は何とか届けられたからいいものの、これで失敗したら全てが終わっていた可能性もあるのだよ。私はそれを教えたくて、今回の訓練を計画したんだ」
テラはうつむく。服から、髪から、翼から、雨水が垂れて足元には水たまりができていた。
そのアメジスト色の瞳には微かに涙が浮かんでいた。
「よくよく考えて欲しいんだ。君が運ぶ荷物の『意味』を。昨日海外に行きたいという君の願いを聞いて、今一度それを考えて欲しくて、急ぎ今日の訓練を実施したのだよ」
「――所長、話を遮ってすみません。そろそろテラの怪我を治療してもいいですか?」
アイリスはそう言うとテラに椅子に座すように促し、応急処置の包帯を解く。それから消毒液とガーゼを棚から取り出してテラの額を治療した。
テラは所長の顔がアイリスの体で隠れたのをいいことに、少し不満顔で頬を膨らせる。
「こほん。とにかく今回の訓練は『一応』合格だ。君は確かにやり遂げた。これからも精進するように! そうすれば海外にも行けるようになる!」
所長はバツが悪くなったのか、逃げるように視線を外し、あからさまに誤魔化すように書類に目を通し始めた。治療が終わったテラとアイリスは、所長室の扉を閉じて控室に戻った。
「私、郵便局員に向いてないのかな……?」
「所長はああ言ってたけど、私はテラのこと凄いと思うよ。だってほとんど反射的に助けに行ってたじゃん? あれってなかなかできることじゃないと思う」
「……でも、私は確かに大切な荷物を落としちゃったし」
「うん、そうだね」
アイリスはテラの獣耳を撫でながら優しい目でテラを見つめる。それから濡れたスミレ色の髪を静かに梳いてくれる。
「でも、テラ。いつかあなたにもわかるときが来る。この訓練は無駄じゃなかったって」