王都の夕刻
「所長。折り入って相談が……」
午後の配達を終えたテラは鞄をはじめとした装具を外して身軽になり、『スペス郵便局』の所長室の扉を叩いた。
「なんだね?」
所長は豪勢で柔らかそうな椅子にどっかり座り、書類の山の間でキセルをふかしていた。腹肉が膨れ上がっている。
スペス郵便局の建屋は所長のこだわりを反映したものだが、特にこの部屋はそれが強く出ていた。
壁や柱には化石のような古木をふんだんに使い、雰囲気はどこか重々しく、古石が歴史を感じさせる。魔法式の灯りが煌々と焚かれ、夜の帳を閑却するほどに明るい。
テラは少し緊張した面持ちで、机越しに所長と向き合った。
彼女は、怒られた経験から局長の前だと萎縮しがちだった。でも思い切って言った。
「わ、私。長距離配達員になりたいです!」
「ほう……?」
「私、アイリスちゃんが長距離配達員になるって聞いて、一緒に行きたくて……」
「なるほどな。それで触発された、と」
所長は引き出しから高級そうな布を取り出し、メガネを拭きながらつぶやくように言った。
「配達先を間違える、配達物を取り違える、配達時間を守らない、決められたルートで巡回しない、飛び方は三流で騒音の塊。綺麗な純白の羽根からおおよそ出るとは思えない、羽音を鳴らす君がかね?」
やや荒い語気に、テラは「ひっ!」と気圧される。
「いいかい、テラ君。今の君の能力では、外国は危険すぎる。道中には竜や巨鳥といった魔獣も沢山いるし、高山や海上、嵐の中を飛ぶこともあるだろう。追いはぎみたいな連中と戦うこともあるだろう。君の今の飛行技術と経験で、その困難を乗り越えられるかい?」
「そ、それは……」テラは言い淀む。
「君の気持ちは理解した。外国への憧れもよくわかる。だが、まだ時期尚早だよ。納得はできないだろうが、理解ができたのなら今日はもう帰りなさい」
「……すみませんでした。お先に失礼します……」
結局、テラは一つも言葉を返せずにすごすごと下がった。
静かに扉を閉めてから控室のロッカーに向かい、制服を脱ぐ。
憧れだった郵便局を象徴するグレーの制服。そしてポストのマークが刻まれた赤い腕章。
でも今はそれが自分に似合っているのか、あるいは見合っているのかわからなかった。
彼女はワイシャツの第一ボタンを外し、黒いネクタイとサスペンダーを緩める。スカートを脱ぎ、それから私服の紺色の半ズボンに履き替えた。
「……お先に失礼します」
誰もいない部屋に、つぶやきじみたテラの挨拶が染み入る。
テラは静かに扉を閉めて宵闇のウルドへと足を踏み入れる。
街灯や家々の光が点々と街路を照らしていた。石畳の道は艶々に輝き、歓楽街に向かう人々は楽しげに笑い合っていた。スペス郵便局は歓楽街の端にある。だから、テラは怒られた日など、楽しげな人の往来を恨めしく思うこともあった。
テラは満天の星空を見上げてから、溜息をひとつこぼし、地面を蹴って思いきり飛び立った。この飛翔は満点ではない。
* * *
テラの実家は、郵便局から五分ほど飛んだ場所にある。ここはギリギリ、ウルドの郊外だった。
赤レンガ造りの集合住宅で、二階建て。安い賃料の代わりに、少々古くて隙間風が吹き抜けるのが難点だが、この王都で風雨をしのげるだけでも十分だろう。
彼女は集合住宅の屋上に着地してから階段を下り、玄関に入るのが習慣だった。
「おかえりなさいまし」
ただいまを言う前に、中から声がかかる。母親だった。
テラと同じ白銀の翼。それは薄明りに照らされて仄かに輝いていた。透き通る白髪は長く、顔を始め手も太陽を知らないかのように色白だ。痩躯だが背丈はテラよりも一回り高い。彼女は白く、上品なワンピースをまとっていた。
――母は貴族出身で育ちがよく、娘のテラに対しても丁寧語を崩さない。
テラの穏やかな雰囲気はきっと母親から引き継いだものだろう。優しい性格も同じだ。しかしどうやら、生まれる途中で大事な気品さは落としてしまったようだが。テラは自嘲する。
「ただいま。って、帰ったのわかったんだ」
「それはわかりますわよ。あんなバッサバッサ飛ぶの、テラくらいしかいないですもの」
「私、そんなにバサバサ飛んでるのかなぁ……」
今日だけで何度も聞いた言葉だ。テラは紫色の目を眇めてネクタイを解き、リビングに入る。
テラの家のリビングは質素なものだ。例え母が貴族の出身であっても、家や暮らしは庶民のそれと変わりない。最低限なものだった。
赤い絨毯が敷かれ、その上にシンプルな木製のテーブルと椅子、それからソファーと本棚が並んでいるくらいだ。壁にはめられたガラス窓からは、イザヴェル王国が誇る王都の夜景が見える。
年季の入ったテーブルにはテラの、テラの大好物のシチューが置かれていた。湯気はなく、冷めている。
「おかえり、テラ」
椅子に座って新聞を読んでいた父親が顔をあげた。
テラと同じスミレ色の髪と瞳、そして獣耳。テラのそれは父親譲りだった。身長はテラより少し高いくらいで、黒いスーツに金の紋章が入ったベストを着ている。
――奴隷制度は事実上撤廃されたものの、獣耳を持つ亜人への差別は色濃く残っており、奴隷扱いは未だ変わりきらない部分があった。下賤な民族という旧態依然とした考えを持つ者も少なくない。
しかしテラの父親はその中でも頭が切れて優秀だったので、理解ある貴族の主人に仕える召使、或いは執事として優遇されていた。
「ただいま、お父さん」
「そういえば、今日飛んでるお前のこと見たぞ。カッコよかった!」
「え、どこで見られたんだろ?」
「確かテジン橋の辺りだったな。急降下してるハヤブサみたいだった!」
「あ、ああ……よその配達員さんと衝突する直前だ……もうカンカンに怒られたんだよなぁ……」
嫌なことを思い出して思わず糸目になったテラは、"最後の家族"を求めてリビングを見渡す。
すると、彼女の気を引くかのように『トントントン』と三度、何か軽いものを鳴らす音がソファーの裏から聞こえた。
テラがソファーを覗きこむと、思った通り黒髪の若い女性がソファーに横たわっていた。
「ただいま、アヴィスさん」
「やぁやぁテラ君、おかえり」
彼女はアヴィス。
痩身に黒いローブをまとっており、細い目はどこまでも深い緑をしていた。端正な顔立ちの大人の女性で、その白妙の手には分厚い古書――恐らく魔導書だ――を持っている。
彼女は事故によって翼を失った『元』翼人だった。
血縁関係こそないが、彼女はテラが幼い頃から一緒に暮らしており、まさに第二の母親といった感じだ。もっとも、居候であることに間違いはないのだが。
「ところで、また衝突したのかい? この間も鳩と正面衝突して、墜落したって言ってたじゃあないか」
「あ、あああああ! 聞こえないいいいい!」
アヴィスの指摘を受けたテラは翼で自分の顔と耳を覆い隠し、テーブルについて、切り揃えられたバゲットを手に取る。
「待ちたまえよ。今、シチューを温めてあげるから」
そう言うとアヴィスはのらりと立ち上がり、テラの隣に立って、シチュー皿に手をかざす。するとシチューは次第に湯気をあげ始め、やがて沸騰し、出来立ての姿を取り戻す。
――アヴィスは『魔法』を使える知識人だった。魔法は古びた能力で、種族を問わず大半の者が使えなくなったが、一部の種族や人間は未だに使役することができた。彼女もその一人だった。
その御業で、シチューを温めてくれたのだ。
「ありがとうアヴィスさん。魔法、やっぱり凄いね? 私も使えたらなぁ」
「便利だろう? ……しかし、テラ君はドジっ子属性が抜けないねぇ。もっともそれは天性のもの、なのかもしれないが」
「おいおい。気をつけてくれよ。大事な娘なんだから」
「本当に気をつけてくださいまし?」
「……はい。こんなダメ娘でごめんなさい」
テラの落ち込み具合を見て、両親とアヴィスは笑いながら目を合わせる。
それから父は肩を叩き、母はテラの手を握り、アヴィスはテラの翼を優しく撫でた。
「テラ。お前は僕たちの誇りだよ。スラム街で生まれ育って、逆境を乗り越えてきた僕の自慢の娘だ。例えどんな失敗しても、僕たちは味方だから」
「そうですわ。テラは、身分格差を乗り越えて結ばれた、わたくしたちの子供ですわよ? 不可能なことなんてないわ」
「テラ君は私の誇りだよ。埃じゃなくてね?」
「ほんと……?」
「「「ほんとうに」」」
テラの沈みかけていた気持ちが、温かいもので満ちていく。ついでに、温められたシチューが喉を通って体が温まる。
二人の親と、ひとりの居候と、大好物のシチューに救われた。
彼女はすくっと顔をあげると、紫水晶の瞳を輝かせて、気持ちを切り替えて大きくうなずいた。
「よし、明日からまた頑張ろう! ご飯食べるね!」
テラは勢いよくシチューにパンを浸して頬張ると、美味しさに幸せを覚えて笑う。
そんな愛娘の様子を見て、両親とアヴィスは思わず顔を見合わせる。そして同時に、小声で呟いた。
「「「うちの子、ちょろすぎる……」」」
その声は、食事に夢中のテラには届くことがなかった。