異国情緒への憧れ
レンガ造りの建物が宝石のように輝き、城下にある市場は人々の賑わいに満ち溢れていた。テラは生まれ故郷のこのウルドの景色が大好きだった。
彼女は青空を背景に、身を翻して自分の担当地区に向けてゆっくり高度を下げていく。
「まずは大衆酒場『トラットリア』だね」
テラは王都中央にある巨大な橋をくぐり、川沿いを北上していく。途中いくつもの橋脚やアーチを滑らかに躱していった。
翼人の動体視力は優れていて、知識人曰く、人間よりも一原色多く識別できるらしく、より鮮やかな世界を生きているらしい。テラはその能力を惜しみなく発揮すし、よその翼人配達員をかわして目標に向かう。
「っと、着いた!」
テラは小さな大衆酒場の前で翼を折り畳み、宙返りして翼を鳴らしつつ着地する。近くにあった色とりどりの花壇の花が大きく揺れた。
彼女は一瞬間を置いてから、厚底の革靴を鳴らしながらトラットリアへ向かう。
「ごめんください! テラです、配達に参りました!」
木製の重い扉を元気よく押し開け、テラは中の様子を窺う。
酒場はまだ営業していないようで、中は暗く、人影が見当たらない。ただ無人の椅子と机が物寂しげに影を落としている。
「……あれ? 留守かな?」
中から反応がないので、テラは店の奥を見ながら中に入る。ギギギと蝶番が音を立てた。
すると、カウンターの奥から人影がヌルりと起き上がり、ゆっくりと、こちらに向かってくるのが見えた。
「ああ、インディさん。いらっしゃいましたか!」
人影がさらに動き、カウンターの前に大柄なコック姿の男が現れた。彫りが深い顔に立派なあごひげ。その筋骨隆々な男の手には、牛の首すら切り落とせそうなほど巨大な刃物が握られている。
「テラ、だと……?」
「え。何ですか、その物騒な刃物は……」
「丁度いい。前から翼人の手羽先ってもんを食いたかったんだ」
「や、やめてください! ……いやっ、手羽先になんてなりたくない! 男たちの晩酌のつまみになんてなりたくない!」
ふるふると震えて怖がるテラを見て、屈強な男・インディはフンと鼻で笑った。
「全く。小娘、今日は間違えて牛糞持ってきてねぇだろうな?」
「あ、あう……先日は大変失礼いたしました! 今日は大丈夫です……多分」
「次間違えたら、牛糞のソテー食わせるからな!」
「絶対不味いやつ! 衛生的にも不味いやつ! そ、それはご勘弁を……!」
テラをは両手を擦って謝り、配達鞄の中からインディ宛の封筒を取り出す。反省を生かして何度も宛名と住所を確認した。間違いない。
「こちら、ノウェイ村のヘレナ様からです」
「ヘレナ姉さんから?」
薄ピンク色の可愛らしい封筒には、対して女性にしては乱雑な筆跡で宛名と住所が書かれていた。裏には赤い蝋で封印が乱暴に押されてある。
インディは手紙を受け取ると、乱暴に封筒を裂いて中身を取り出した。「中の手紙が……」とテラはあわあわする。
「そっか……ヘレナ姉さんが……」
手紙を一通り読んだインディは、その巨漢に似つかわない涙を浮かべて天を仰いだ。
テラはその差異に『全て』を察して、慌ててフォローに入る。所長いわくこれも『スペス郵便局員』の仕事だった。
「き、きっとヘレナさんもインディさんみたいな素敵な弟を持って、幸せだったと思います」
「……どうだろうな」
「血の通った姉弟同士、距離はあれどもずっと繋がってますよ!」
「フン。綺麗ごとだろそんなの」
「弊所では弔電も承っておりますので……」
「ちげぇよ! 死んでねぇよ! 結婚するんだってよ!」
インディは白目を剥き、唾を吐きながら言い捨てた。テラの獣耳がビクッと震える。
「俺以上に不器用なあの姉貴に旦那ができるなんて、信じられなくてよ!」
「おめでたでしたか! でも、姉弟そろって不器用なんですね!」
「ああ? おい小娘、お前やっぱり手羽先になりてぇみたいだな……?」
インディの覇気に気圧され、テラは冷や汗かきながら身震いし、撤退を決め込む。
「そ、それではこれで失礼しますっ! また御用の際はスペス郵便局へどうぞ!」
「おい待てよ小娘」
テラはインディに背を向けて、王都ウルドへの扉を開ける。
「……届けてくれてありがとうな」
くぐもるような彼の言葉は、しっかりとテラの獣耳に届いていた。
彼女は満面の笑顔でうなずくと、スミレ色の短髪を揺らして光の中へと消えた。
* * *
それから時は進み、テラは数件の配達を終え、短めの昼休憩に入る。
彼女は王都中心街の広場にある、時計塔の銅板屋根に腰かけていた。そこは誰にも邪魔されない眺望景観で、テラはここから行き交う人の流れを見るのが好きだった。
ウルドの中心にある、天を突き刺す尖塔――王宮は職人たちの意地を感じさせる豪華な佇まいだった。
運河にかかった橋の上を短足で鈍足な地竜がひく荷車が過ぎていく。飼いならされた魔獣たちが、荷物運びに使役されていた。
市場ではエルフやドワーフたちが、露店の先で声高に客引きをしている。
街頭を、獣耳を持つ被差別階級の亜人たちは、恰幅のいい主人に小走りでついていく。
思わずテラは亜人の父親の姿を探してしまった。見当たらない。彼女の父親は小間使いとして勤めていた。
テラの肌色の小さな手には、露店で買ったサンドイッチがあった。中身の卵とハムをかじり、口で伸びるチーズを引っ張りながら、どこか上の空で物思いにふけっていた。
「今日も朝から怒られてばっかりだなぁ……」
「途中でよその郵便局員さんと衝突して墜落するし、それで怒鳴られるし」
「また配送先間違えて苦情言われるし。ウルド、住所細かすぎじゃない……?」
「あ、あう……私、怒られたくてこの仕事してるわけじゃないのに……」
衝突の名残り、おでこにできたたんこぶを撫でながらテラはめそめそする。
彼女は残りのサンドイッチを一口で食べ、指についたパンくずを払ってから指先にスミレ色の前髪を絡める。
「――おうおう、悩んでるねぇ少女よ」
不意に上から声がかかり、テラは驚いて顔をあげる。彼女の敏感な獣耳ですら物音を察知できなかった。相当な手練れ。
尖塔の先にいつの間にか先輩のアイリスが立っていた。チェック柄のスカートの裾から見える太ももが眩しい。
「アイリスちゃん! いつの間に!」
「そりゃあ少し前よ。丁度サンドイッチを食べ終えたところくらい? 私はテラと違ってバッサバッサ音たてて飛ばないし、着地のときの静粛性は一流なんだよ、ワイングラスも揺らさないさ」
「んぐ……飛び方については何も言い返せない……」
「……また怒られたって顔してるね?」
「う、うん」
「ちょっと横失礼するよ」
アイリスは長い黒髪を靡かせながら、翼を軽く振って座る。彼女は視線を街に向けたまま、横顔でテラに語る。
「うちの郵便局にテラが入って、もう三ヶ月だね。知っての通りうちは郵便局としての規模は小さいし、もう長らく新人が入ってなかったんだ。だからテラが入ることが決まってみんな大喜びだったよ。もちろん、副所長と所長もね」
「所長も? てっきり毛嫌いされてるのかと」
「とんでもない! みんな大喜びだったんだよ。しかも『郵便局員に憧れてる』『人の想いを届けたい』なんて話聞いたから、なおさら嬉しくって。私もやる気もらったんだ」
「アイリスちゃん……」
アイリスは前髪を払って改めてテラに向き直ると、少し恥ずかし気に頬の色を染めてから言う。
「さて、少し恥ずかしい私の昔話をしておこう。私が入社して二日目の話だ。私は飛行中に街灯にぶつかって墜落した。そして箱詰めのトマトの中に落っこちて、制服を台無しにしたことがあるんだよ。副所長と八百屋の店主にコテンパンに怒られたなぁ」
「え、アイリスちゃんでもそんなミスするの?」
「もちろんだとも。それから数日後に王宮上空を飛んで、危うく衛兵の弓矢を食らいそうになってさ。逃げたんだけど、結局バレて所長共々王宮に謝りに行ったよ」
「あはは! 王宮上空を飛ぶと、不敬罪に問われるもんね!」
「あと、勢いあまって馬糞の樽に突っ込んで、手紙を最悪な臭いにしたこともあったっけな……クレームの嵐だったし、私自身も数日臭いに苦しんだよ」
アイリスは恥ずかしい話をどこか懐かしむように、金色の双眸で遠くを見つめていた。
その目線の先にはイザヴェル王国が誇る美麗な山脈、イザヴェル山脈があった。頂上には雪を蓄え、高峰ゆえに夏になってもその雪渓は溶けることはない。植物すらも生えない無骨な山だった。ここ、王都ウルドの発展は、この山の雪解け水なしに語ることはできない。
少しの間を置いてから、アイリスは桜色の唇を開いた。
「それでさ。所長に相談したんだ。私、もっと広いところで飛びたいって。建物の隙間を縫って飛ぶんじゃなくて、大きな空を飛びたいって」
アイリスがすくっと立ち上がり、大きく黒い翼を広げる。
彼女はそこでようやく顔をテラに向けて、明るく朗らかな表情で言った。思わず「え?」とテラは呟いた。
「――私ね。外国行くことにした!」
外国。つまり、イザヴェル王国と国交のある諸国に荷物を運搬する係だ。
ウルドを巡回するのとはわけが違う。飛行距離は段違いだし、天候や魔獣、地形までも脅威になる。
今までに殉職した翼人配達員は計り知れず。誰もやりたがらない、危険な任務だった。
『スペス郵便局』にも長距離配達員をする翼人はいるが、ひとりしかいない。なので海外支部共々人手が足りず、海外便が滞りがちになっていた。
「アイリスちゃん、外国、行くの……?」
「うん。ほら、うちの郵便局小さいから、ノエル先輩ひとりしか長距離配達員いないじゃん? 海外便の方が割りがいいし、所長もできれば海外遠征要員増やしたいみたいなんだよね」
「じゃあ、アイリスちゃんに会えるのも、もう少ししかないの?」
「そうなるねー。でもほら、今生の別れじゃないし。長距離配達がなければ王国にいる期間も長いから、またすぐ会えるっしょ?」
「そっかぁ……」
テラは地平線を見やる。ウルドを囲む城壁。そしてその遥か先にそびえ立つ山脈。
思えば、こんなに大層な翼を持ちながら自分はウルドの領内しか飛んだことがなかった。もったいないことをしていることに、今気がついた。
この山脈の先、一体どんな景色が広がっているのだろうか。想像もしたことがなかった。
「外国、かぁ……」
テラの心に一つの火が灯る。まるで蝋燭の火のように。
それは次第に光を増して、カンテラの灯のように、燦然と輝く。
彼女の心に異国情緒と、それを『吹聴した知識人』の顔が浮かんでいた__