4)スランバー
「トート、無茶だ!」
「無茶だってやってやるの! こいつ、放しなさいよ!」
黒い水面のような体を、ブニブニと蹴飛ばす。トートは体に縄を巻きつけ、怪物に飲み込まれるクリフの腕をつかんでいた。縄の先はクリフの腕につながっているが、もう肘から先しか見えていない。
「こっ……のっ……! フォレイル、まだ!?」
「も、もう少し、」
フォレイルは盾を裏返しにして、そこで火を焚いていた。突っ込んだ薪に火を移し、フォレイルは盾ごとそれを持ち上げる。
「くうっ……怪我人から狙うなんて卑怯! 化け物のくせに!」
「できた、トート!」
フォレイルは焚き火を構え、そのまま怪物に突っ込んだ。水に焼石を投げ入れたかのような音と煙が、廊下に充満する。
「! 抜け、」
フォレイルもクリフの手をつかむ。炎に怯んだらしい怪物から、力任せにクリフを引っ張り出した。青白いクリフの顔は口が半開きで、嫌な予感がトートの頬を引き攣らせる。
「ここで死んだら呪ってやる!」
クリフを両側から支え、二人は退避の構えをとる。だが、走り出そうとしたトートの足を、怪物が捉えた。
「痛っ!」
倒れ込んだ床の感触に、血の気が引く。そして気付いた。すでに、逃げるなど不可能だったのだと。
炎で怯んだかに見えた怪物は、床から天井までを薄く覆っていた。自分たちは怪物の口内にいたのだ。
「な……に、」
黒い粘液が、皮膚を這う。瞬間、目眩に襲われてトートはその場に崩れ落ちた。受け止めたフォレイルも、蒼白な顔になっている。頭を掻きむしり、トートは悲鳴を上げる。
「いや……イヤ、イヤ、嫌嫌嫌嫌ぁ!」
知らない景色と感情が、トートに流れ込んでくる。恐慌、困憊、痛苦、焦心。ない傷が痛み、他人の死に涙する。知らない経験。知らない記憶。知らない恐怖。
「入ってこないで! あたしの中に! 見ないで、触らないで! あたしの頭に、踏み込まないで!」
同時に、自分自身の忘れていた記憶も、引きずり出される。そして同じ感情を見つけては、仲間だと囁いてくる。
「とー……と、」
頭を押さえ、フォレイルも膝をつく。
目の前にいるトートが遥かに遠く感じられ、同時に肌同士が触れ合っているようにも錯覚する。まるで、小さな虫が頭の中を食い荒らしているようだった。
それも当然――【亡霊】とは、剥き出しのまま、死ぬことも消えることも忘れてしまった人間の魂の成れの果てである。それに触れるということは、誰かの魂に触れるということだ。一人二人ならば、それは小さじ一杯程度、触れたとしても生きている人間の中に侵入するほどの力はない。
だが、それが見上げるほどの大きさに膨れ上がればどうか。肉体という器を失った魂は、寄生木を求めて生物を侵す。死体に入り込めば魔族に、生きた人間に入り込めば、
『良くて大ケガ、悪ければ廃人だ』
(……仮面、)
掻き乱される思考の端で、助けを求める。アルグレッドを助けたクリフは倒れ、ロアルはまだ駆けつけていないらしい。いや、駆けつけたところで、この怪物に剣は効かない。
心臓を直に握られている。それが、錯覚かどうかすら、今は。
「……?」
頭に何かが触れ、トートは薄目を開く。
「クリ……フォード……?」
床に座り、クリフがトートとフォレイルの頭に手をかざしていた。頭の中が、すうっと静かになっていく。トートの頬に張り付いていたものが、クリフの手へと吸い込まれていった。
倒れた二人と対照に、クリフは音もなく立ち上がった。そのまま踵を返すと、黒い怪物はクリフに従った。
「クリフォード……」
フォレイルを一瞥したクリフの瞳は冷徹で、感情が読み取れなかった。クリフは虚空を見上げ、口を開く。
「フォールマン少尉」
ぽつり、と知らない言葉をつぶやいて、クリフはそのまま離れていく。引き留めようと手を伸ばし、フォレイルはそのまま床に倒れこんだ。
揺らぐフォレイルの視界に、蒼銀の光が割り込む。
「待てよクソ犬」
双剣を抜き放って、ロアルはクリフの背に言葉を投げつける。
「奪わないでくれない?」
「………………」
足を止めたクリフはゆっくりと振り返り――笑った。今にも襲い掛かりそうなロアルを見下すような、嘲笑。
「お前も太陽が恋しいのか」
「……誰だよ。その声で分かったようなこと言わないでほしいなあ」
「まだ返さない。コレには素質がある。我々の王たる素質。生まれながらに死を従える器がある。崩壊の先の数百年、我々はコレを待っていた」
「ふーん。クリフの許可は?」
「見るがいい。我々は生きている。紙の上のインクではない。ゼロとイチの集合体でもない。今、ここに」
大仰な動作で、クリフの姿をしたナニモノかは語る。ロアルは踵を上下させ、剣先を持ち上げた。
「だから、クリフの許可は?」
「肉体を失い国を失いよりべを失い。待っていた。この八百年、待っていた」
「……あー、もしもし? 話せるのに通じないタイプの化け物なのかい、君」
ふん、と鼻を鳴らし、それは再びロアルに背を向けた。ロアルは腕を組み、「はーあ」と溜息のような声を出す。怪物はクリフの後を追い、やがてその姿は暗闇へと溶けた。
ロアルはトートを小脇に抱え、フォレイルを引きずって部屋へと戻る。部屋の中心にあった球体は、上下に開いてその内側をさらしていた。
「仮面……あの」
「ヤマネコ娘、ユーフロウ語話せる?」
首を横に振り、トートは壁に手をついて立ち上がる。ロアルは球体に手をかけ、二人を呼んだ。
「心配じゃないの?」
球によじ登り、トートはロアルの襟元をつかむ。空色の外套留はひんやりとしていて、それがなお、トートに自分の手の熱さを自覚させた。
「ねえ、あたしが言えた立場じゃないかもしれないけど。奪われたんでしょ、取り返そうとしないの!?」
「焦ってないように見える?」
仮面が振り向いて、トートはぐっと言葉を呑む。動くことのない、凝った微笑。声音は落ち着き払っている。
「……分かんないわよ」
「だよね。じゃあ黙ってろよ」
トートの手を払う。ふらついたトートは、フォレイルに受け止められた。フォレイルは不満げな顔ながら、眉間に皺を寄せて黙っている。
「クリフを救う。それは絶対。けれどボクたちは、あれへの対抗手段を知らない」
そう言うと、ロアルは球体の内部にあった椅子を回転させる。背もたれのある、大きな一本足の椅子だった。球体の内側には、その椅子以外に様々な計器のようなものが詰め込まれている。椅子の足は錆びつき、ギイギイと嫌な音が鳴った。
「ひっ」
現れたのは、瘦せこけ、骨と皮ばかりになった――おそらくは――男だった。
皮膚は緑がかった黒に変色し、目は落ちくぼんで眼球があるのかもわからない。両手首は肘置きに縛り付けられていた。半開きの口には歯が並んでいるが、幾本かは抜けて床に転がっている。身に纏うのは濃緑の軍服、左胸には、すっかり錆とカビだらけになった略綬が並んでいた。
「教えてくれるんだろう? 少尉殿」
爪が抜け落ちた指先が、かり、と肘置きを引っ搔いた。
西に傾いた日が、目に痛い。遮るもののない橙色の光が丘陵地帯を染めていた。貸テントは撤去され、太い柱のベル型テントが代わりにその場所を占拠している。周囲にはいくつかの荷馬車が並び、緑色のケープを着た人々がせっせと荷物をテントに運び込む。ケープの背には、冒険者ギルドの紋章が刺繍されていた。
空いた荷馬車には布が敷かれ、ナタリーとヤンが寝かせられた。ギルドの医療魔術師が一人傍につく。荷馬車の車輪に寄りかかって、アルグレッドはぼんやりと空を眺めていた。
テントから、一人の女が出てくる。スリットの入ったスカートを蹴とばしながら、女は大股でアルグレッドに近づいた。金属の装飾がついたフードを目深にかぶり、目元は見えない。広がった袖の中に、布の長手甲が見えた。その全てが濡羽色で、近寄りがたさを全身から醸し出している。一歩ごとに、腰に吊るされた装飾がジャラジャラと鳴った。
「ザマルの探索部隊、『鋼鴉の嘴』のスカーレットだ」
アルグレッドが立ちあがろうとすると、スカーレットは手を出してそれを制する。アルグレッドは脇腹に手を当て、頭を下げた。
「第六階層からの帰還者だと聞いている」
「正確には、帰還困難で助けられた」
「そうか。だが正気で口が動く帰還者は貴重だ。情報にも鮮度がある」
女は腰のベルトから杖を取った。指示棒程度の長さで、黒く、持ち手に水晶が埋め込まれている。
「知っていることは全て話すように」
「……王国直属が、何の権利で?」
「冒険者ギルドからの依頼だ」
「ああ……」
魔術でアルグレッドを持ち上げ、スカーレットはテントに戻る。布一枚で周囲と隔てられた空間は、十人近い大人が入ってもまだ広いほどに拡張されていた。中心の柱を囲むようにテーブルがあり、揃いのローブを纏ったメンバーが、そのテーブルを囲んでいる。アルグレッドをクッションの上に放り、スカーレットは円卓に加わった。杖が触れると、木製の柱は透き通り、その内側に黒い影が浮かぶ。
「諸君。状況確認といこう。現状得られる最も新鮮な情報源がそこにいる。脇腹の肉が少し削れている。丁重に扱うように」
名乗れ、と顎で示され、アルグレッドは眉間の皺を深めた。乱雑に投げ飛ばされたようで、傷はほとんど傷まない。それだけでも、アルグレッドの知っている魔術師たちとの技量の違いが窺い知れた。
「アルグレッド……、だ。【八重塔遺跡】に潜ったのは四日前。第四階層から道を辿り、第六階層に到達した。シャッターを開けるっていうあの……部屋には到達できていない」
「制御室」
「そう、それ」
スカーレットが手を振ると、透明な柱の内側に、橙の線で塔が浮かび上がる。細い指先に従って、塔は輪切りにされた。
「この鋼鉄のドーナツの構造は単純だ。だが第六階層ですでに十人や二十人ではない数が消えている。死んでいるんじゃない。消えている」
「黒い、化け物がいた。あれに捕まればきっと、骨も残らない」
アルグレッドは傷を押さえ、ゆるく唇を噛む。
「その傷は、それに?」
「そうだ」
「特徴は」
コーヴィスの一人が紙を取り、アルグレッドの前にしゃがむ。記憶をたどりながらぽつぽつと話すと、スカーレットは口元に手をやり、難しい顔になった。
アルグレッドにとっては、あの怪物と対峙したほんの数分は、人生で最も死を恐れたと言っても過言ではなかった。無数の手が闇の向こうから襲い来る。触れられたナタリーの左腕は皮膚が溶け、自分の脇腹は肉を失った。力任せに千切られたわけでも切り裂かれたわけでもない。自分の持つ手段では対抗できないという事実。一度逃げおおせたのが奇跡のようだ。
「リーダー、心当たりが?」
「なくはない。……剣士。お前を助けに行った奴らは、それに会ったか」
「会った。……急に、立てこもっていた部屋のカギをこじ開けて入ってきたんだ。それで、俺は……、気を、失って」
スカーレットを見上げる。ローブの奥に、琥珀色の瞳が覗いている。燃えるような、夜明けの色が混ざったそれが、アルグレッドを見据えていた。
「……意識を、奪われて……操られた」
「そうか」
指摘しないだけ、まだ温情があるのだろうか。意識を奪われたのは事実だが、襲い掛かったのはアルグレッドの意思だ。あの瞬間は確かに、それこそが自分にとって最善の行動だった。
「そのあとは? お前を正気に戻したのなら、誰かが対抗手段を知っているはずだ。お前を助けに行った魔術師か」
「……よく、覚えていない。ただ……白い……」
言葉を濁し、アルグレッドは首を横に振る。メモを取っていた女は、苛立たし気にペンで額を叩いた。
「もう情報はない? なら、」
「マッドラム」
数人が息を呑む音が重なった。アルグレッドは額から手を下ろし、もう一度スカーレットに視線を移す。
「……そうだ、あいつら、マッドラムがどうとか言っていた」
「なるほど。やはり……。幸運だったな、剣士。お前を救った魔術師はどうやらめっぽう優秀らしい。肥大化した【亡霊】の集合体など、私でも相手にしたくないというのに」
スカウトしたい。スカーレットが笑い混じりに言うと、隣の男は驚いたような顔をしていた。
「お前のパーティの魔術師か?」
「……いいや」
「では打診してみよう。名前は?」
「あいつは特化魔術もない半人前だ。紹介するほどの奴じゃない」
ローブの奥で、スカーレットはすっと目を細める。
「オーケー、僕ちゃん。我々は戦略会議に移る。夜明けとともに突入するので、もしリベンジしたければ、一度限り歓迎しよう」
杖を振り、アルグレッドは乱暴にテントから放り出される。文句を言おうとした瞬間、傷の痛みが苛立ちを上回った。地面に額を当て、歯を食いしばって声を抑える。
体を引きずって馬車に戻ると、自分の分の寝床が用意されていた。医療魔術師は、青白い顔のアルグレッドに寝床を勧める。横になると痛みは和らいだが、眠れそうにはなかった。
ぱきりと、薄いガラスが割れるような音がした。トートは両手を握る。見上げた天井に、青い亀裂が入っていた。そこから、うす平べったい光の板が降ってくる。
「なに、なに何!?」
「立体映像だろう。投影機が生きているんだ。すごいね」
床に落ちた光の板は、重なり合い、部屋全体の色を塗り替えていく。埃と汚れが積もった床は白く、穴は塞がり、壁は薄い青色に。中央の球は光を纏い、あたりが真昼のような明るさになった。
椅子の男と同じ服を着た男女が、部屋の中を歩き回っている。そのうちの一人が、険しい顔で口を開いていた。声こそ聞こえないが、怒鳴りつけていると分かる剣幕だ。
『あれが私だ』
気付くと、ロアルの隣に一人の男が立っていた。トートにも聞こえたのか、ひゅっと息を呑んで一歩下がる。片足が映像を突き抜け、トートは慌ててフォレイルにしがみついた。
「……八百年前の記録かあ」
音のない記録映像は、一見して穏やかに進んでいた。時折険しい顔は見えるが、数人が入れ替わり立ち代わり、台を操作していることは変わらない。ロアルはその映像の片隅で、いつも同じ男が机に向かっていることに気づいた。手元の動きからして、タイプライターでも打っているのだろうか。
くい、とトートがロアルの袖を引く。
「あとで説明してくれるんでしょうね」
「理解できる? ボク、クリフじゃないからさ。上手に説明できないんだよね」
むっとはしたものの、トートは黙って手を引いた。
『……話しても良いか?』
男は、ロアルを覗き込むように小首を傾げた。キチンと襟元まで正した軍服に、色素の薄い肌と髪。鋭い瞳は赤銅色だった。
「いいよ。手短にどうぞ」
男は球の縁に腰掛け、足を組む。
『では、我々の話をしよう。私はガレッド・フォールマン。……の、記憶の複製。ここは軍事格納庫、東十番エリアのイチロク。アーク暦で今から七百八十年前に閉ざされた』
「長くなる?」
『……できるだけ手短にする。ここは格納庫であると同時に、軍事転用できる魔術機工学の研究施設でもあった」
男、ガレッドが手を振ると、映像が切り替わる。周囲を囲むように紙片が浮かび、足元には巨大な魔法陣が現れた。クリフが描くものよりもシンプルで、円は一つ、図は五芒星のみである。
『戦争で最も求められる魔術とは何だと思う?』
「……ヤマネコ娘」
「え、え?」
急に話を振られ、トートはガレッドとロアルを見比べる。
「せ、戦争なんて知らないわ。でも……戦いなら、強い魔術がいいんじゃない。いっぺんにたくさん倒せる、そういうやつ」
ガレッドは目を細め、薄い唇を微笑ませた。若いその顔には、幼い子供を慈しむ老人のような雰囲気が漂っている。
『貴殿の答えは?』
「高火力広範囲攻撃は、実際のところ、無意味だ。大国が相手なら人員はいくらでも補充されるし、当時は人造兵も山ほどいた」
指を立て、ロアルは頷く。
「つまり、魔法……じゃない。魔術にカバーして欲しいのは、敵を殺す方法じゃない。味方を死なせない方法」
『そう、』
ガレッドは目を伏せる。
『我々は、不死の軍団を作ろうとしていた』
映像が揺らぎ、元の部屋へと戻っていく。ガレッドが立っている場所には、あの椅子があった。そこに座るのは、人間のような何か。その傍らに、ガレッドの映像のみが現れる。
『未来の冒険者……だったか。あれがいないうちに、頼みたいことがある』
「いいだろう、フォールマン少尉」
ガレッドに背を向け、ロアルはフードの端をつまんで俯く。
「殺すのなら得意だ。不死だろうと、生きているのなら、殺してあげる」
ロアルの背を見下ろし、ガレッドは目を細める。懐かしむような、悼むような視線だった。
『感謝する』
置いてきぼりのトートとフォレイルは、揃って顔を見合わせた。
靴音が響く。これまでとは違う広い空間がそこにあると、音の反響だけでも分かった。通り過ぎた後ろで、壁掛けのランプに青い焔が灯る。熱のない水晶灯は、床をうすぼんやりと照らした。白く積もった埃の中に、人間だったものが転がっている。ぼろきれになった服の中には、もろくなった骨がわずかに残るばかりだ。
クリフは、白い床に足跡を残しながら、その部屋の中心へと向かっていた。
「『我が国、最大の切り札』……」
視界に、黒鉄の塊が現れる。無骨なそれは、しかし、何かの生き物の足を模しているようだった。
「…………」
クリフは足を止め、しばらく、その足を見つめていた。
外套留をほどき、足に近づく。三本の爪のある足は、一つだけでクリフの胴と同じ幅があった。
ギイギイと、金属がきしむ音が降ってきた。耳障りな轟音は振動を伴い、天井からぱらぱらと小石が落ちてくる。見上げると、まっすぐな線が一本、天井を両断していた。
もうすぐ夜だろうか。
「……行こう」
暗闇の中に、足の持ち主のシルエットが浮かび上がる。
「起動」
クリフの言葉に従い、紅い光が暗闇に現れる。金属同士が擦れ合う音と、低い獣の唸り声。床から生えた無数の手が、クリフを持ち上げる。天井が半分ほど開くと、その向こう側に、橙色の空が見えた。夕暮れの弱い日差しが、内廊下に反射してクリフまで届く。
後ろ髪をひかれるように、ぐぅっと眠気がクリフを襲った。
『お前を歓迎する。我ら、魂の王』
声に後押しされ、クリフの意識はさらに沈み込む。眩しい世界から切り離され、泥沼に塗れた穴の底へ。
『待っていた』
ゆっくりと、生暖かい泥の中に引き摺り込まれる。泥は無数の手を形造り、クリフに縋り付いた。
「俺が、必要か?」
泥沼に問うと、引く力は強くなる。
「そっか……それは……」
縋る指先が、頬に触れる。
「嬉しい、な……」
口まで浸かっても息苦しさはなく。むしろ春の陽気の中にいるような居心地の良さがあった。あれほど重かった体も、痛かった頭ももう、ない。
例えば、自分が伸ばした手で誰かが救えるのならば。そんなに嬉しいことはないだろう。
打ち捨てられた、行き場のない魂たちの王。それもいいかもしれない。
目を閉じると、自分を引き留めていた光ももう見えない。
ただ、心地良かった。