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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第一章 魔法使いと黒の騎士
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3)深淵の呼び声

 黒い手が伸びてくる。

 意識だけがある体を、無数の手がつかんで引きずろうとする。暗いほうへ、寒いほうへ。

 目は開かず、口も動かず。息をしているかもわからない。このままではいけない、そんな焦燥感がありながら、指先で抵抗することすら許されない。

 アルグレッドは記憶を辿り、状況を理解しようとする。だが、泥沼の底にいるような重苦しさが、思考を鈍らせた。呼吸ができているのだろうか。それとも本当に今まさに、窒息しかけているのだろうか。

 そうだ、と、思い出す。重傷の弓術士(ナタリー)魔術師(ヤン)を守るため、自分は狭い部屋で待っていた。トートとフォレイルが助けを連れてくると信じて。

 だが扉を開いたのは、黒い塊だった。腕ほどの太さの縄を寄り集めて、人の大きさにしたような。抵抗も許されず絡めとられ――


(そうだ)


 確かに、トートとフォレイルは戻ってきていた。

 殺さなければ(・・・・・・)と思った。

 痛む肉体など棄てればいい、仲間もそうしなければと、突き動かされて、剣を振った。


「バカだよな、お前」


 は、とアルグレッドは目を開く。

 開かれた視界に、クリフが立っていた。暗く寒い大穴から伸びた手を、クリフは片足で踏みつけている。

 漂白された景色には、クリフと自分だけがいた。自分は両手足に枷をつけられて、その枷の鎖が、空中の穴につながっていた。

 クリフの杖が触れると、鎖は容易く断ち切られた。灰のように、枷が崩れ落ちる。底なしにも見えた大穴は、薄いガラスのように亀裂が走り、砕けて消えた。

 見下ろしてくる、金色の瞳が眩しい。憎々しげに鼻で笑うその動作は、よく知ったクリフそのものだった。


「あとはてめぇで起きろ」


 一陣の風が、二人の間に吹き抜ける。クリフの姿が、散る花弁のように解けるさまを見た。思わず手を伸ばして、もうすっかり五体が自由になっていると知る。

 一歩を踏み出した瞬間、ずんと体が重くなった。


「……アル?」


 灰色の世界で、赤毛が揺れていた。三角で内側に白い毛のある、猫の耳だ。輪郭を確かめるように指でなぞると、逃げるように耳が跳ねた。


「トート」


 肯定するように、赤毛の少女は何度も頷いた。


「クリフ……クリフォードのやつは?」


 体を起こして、傷の痛みに顔を顰める。トートはアルグレッドの背に手を添える。


「あいつは……。アル、あいつが来てるの、知ってるの?」

「ん……あー、そう……だな。何でだ?」

「あたしに言われても」


 目を覚ます寸前、クリフに会ったような気がする。だが思い出そうとすると、濃霧で遮られた景色のように霞んでしまった。

 そもそも、いつ自分は助けられたのだろうか。部屋の様子は、自分たちが籠城していた場所とは違う。弓術士や魔術師の姿もない。


「アル、あいつ帰ってくるまで寝てていいよ」

「は? まさか一人でうろついてんのか」

「ううん、双剣士追っかけて」

「双剣……」

「真っ黒で、仮面つけてる変な……男か女かも知らないけど」


 トートに視線を向けられ、フォレイルも首を横に振った。


「あいつか」

「知ってるの?」

「ちょっとな。ナタリーとヤンは?」

「それが……」


 トートは、自分たちが突入してから現在までの状況を、かいつまんで説明する。襲撃については言葉を濁したが、アルグレッドは何かを悟っているようだった。握りしめた右手で、革手袋がぎちぎちと鳴る。

 黙って話を聞いていたアルグレッドは、ゆっくりと吸った息を、倍の時間をかけて吐き出した。


「悪かった」


 拳を床に押し付け、アルグレッドは頭を下げる。


「救助なんて無茶を頼んで」

「言い出したのはあたしでしょ。それに、あたしたち誰も、【八重塔遺跡ルイン・ヴェステージア】に挑むことに反対しなかった。あの時退却の命令がなかったら、全滅だってあり得たのに」


 だが、とアルグレッドは唇を噛む。どこに挑み、どの程度で引き返すかは全て、リーダーである自分に一任されていた。ならば、パーティ全員の実力と状態を正しく把握するのも仕事のうちだ。


「俺の判断ミスだ」

「へーぇ、結構ご立派なこと言うんだね」


 乱暴にドアを開き、ロアルが顔を出した。弾かれたように顔をあげ、アルグレッドは眉間に皺を寄せる。


「仮面……それ!」

「この赤ちゃん(ヴァーヴァ)がナタリーだっけ? もう一人はクリフが運んでる。これで外まで案内したら依頼完遂、だね?」


 肩に担いでいたナタリーを降ろし、「はあやれやれ」とロアルはしゃがむ。その後ろにいたクリフも、おぶっていた男をその隣に並べた。


「どこに……」

「いい感じの協力者が見つかってね。道案内してもらったんだ」

「嘘! こんな場所で、誰が」

「彼と話したのはクリフだよ。クリフに聞けば?」


 トートがクリフを見る。クリフはアルグレッドから外套をひったくり、埃を払った。


「……ユーレイ」

「は?」

「ああ、いや、何でもない。飯にしようぜ」


 器を人数分用意し、クリフはトートから玉杓子を受け取る。鍋の中では、粥が沸騰してぐつぐつと揺れていた。


「ユーレイかあ。クリフは、人って死んだらどこに行くと思う?」

「それは学術的なアレか、思想的なアレか?」

「ただの雑談」


 鍋の上に手をかざすと、キラキラと白い光が粥の中に落ちた。ロアルはクリフの隣にしゃがみ、鍋を覗き込む。


「魔術師としては、魂も魔力だし、それが肉体から離れたところで、だけどな。【亡霊(マッドラム)】になることも、現代じゃそうそうねえし」

「ロマンないなあ」


 くるくると回す指先に従って玉杓子が動く。トートは鍋を覗き込み、「魔女みたい」と呟いた。


「ご飯食べたら出発。三人を外に置いてきたら、引き続きこの階層を探索しよう。いい?」

「分かったわ」


 フォレイルも黙って頷き、「よし」とロアルはアルグレッドに粥を差し出した。




 穴の底面に届く日の光が、目に痛い。薄暗いダンジョン内とは対照的に、内廊下と柱は陽の光に薄灰色に照らされていた。杖の上に立ち、クリフはひと足さきに地上へ飛ぶ。


「仮面野郎」

「ロアル」

「……お前。お前、なんでこのダンジョンに挑戦したんだ」

「べぇつにぃ? 冒険者ならロマンを求めたっていいじゃないさ。歴史の果てに消えてしまった大国の遺産。失われた技術。ワクワクするよね」

「棒読みでよく言う」

「あはは!」


 日の光をフードで遮り、ロアルは下を向く。アルグレッドは不満げに唇を曲げた。


「俺はお前にとって、不都合なはずだ」

「そうだね。君はクリフを冒険から引き剥がし、ボクは冒険に引き摺り込む。君とボクは永遠に和解できないだろうさ」


 アルグレッドが視線を向けると、黒い石の瞳が真っ直ぐにアルグレッドを見ていた。つやりとした表面に、驚いた顔が映る。


「本当にお望みなら、返すけど?」

「はっ。まるでお前に言われたら、大人しくクリフが言うこと聞くみたいな言い草だ」

「お兄さんの言うことなら聞くだろ。クリフは賢い人間だよ」


 降りてきたクリフを出迎え、ロアルは日の下に駆け出す。クリフはロアルを影へ追いやりながら、昇降機を指差した。開けっぱなしだった扉の向こう側に、ぴたりと収まる大きさの箱が現れる。


「……お兄さん?」


 トートに見上げられ、ハッとしてアルグレッドは首を振る。


「仮面お前! お前、それっ」

「見てれば分かるよ。そっくりなんだもん。ねー」


 話を振られたクリフは、意味が分からないと言いたげに首を傾げた。




 昇降機を見送り、四人は再びダンジョンに戻る。目標を達成したためか、無事出られたという実績のためか、トートの足取りは随分と軽かった。


「仮面、あんたの指示通りに進むけど、どっちに行きたい?」

「下」

「行けるなら行きたいわよ、あたしだって」


 ほぼ完成した地図をもう一度開き、トートはその空白地帯を指差す。


「あんたの仮説通り床が回ってるにしたって、隠せるのはここしかないわ」

「んー……それはそうなんだけど」


 地図を借り、ロアルは口元に指を当てた。


「これまでどれくらいの冒険者が潜ってるってデータとかある?」

「流石にねえが……帰還割合が出るってことは、十人や二十人じゃないだろうな」

「その遺体って回収されてる?」

「ないわよ。ギルドにそんな余裕あるわけないじゃない」

「じゃ、どこにあるんだい?」


 足を止め、ロアルは三人を振り返る。両手を広げると、改めて、チリ一つないダンジョン内が目に入った。

 ゆるく湾曲してどこまでも続くような回廊。無機質な灰色の壁と床、灯りのない天井に、鉄のドア。クリフたちには馴染みがなかったが、灰色の建材は、焼成コンクリートという。かつて栄華を誇った文明の構造物は、数百年を経た現在でも、この【八重塔遺跡】のように地下にさえあれば原型をとどめていることが多い。

 だが堅牢な金庫の中でも肉が腐るように、冒険者が命懸けで敷居を超えた先では、すでに経年劣化で財宝が塵となっていたなどというのも、珍しくもない話である。

 つまり、どれほど立派なダンジョンであろうと廃墟である以上、そこに『退廃』があるということだ。人が出入りしなければ施設は保たれず、時に魔物が棲みつき、閉じられた空間の中で独自の世界を築いていく。実際、トートがこれまで通過してきた【八重塔遺跡】の第五階層までは、入り込んだ冒険者の痕跡や小動物だけでなく、数百年閉じられていたがための澱みがあった。


「先に言っておくと、その地図の空白地帯。そこに、先ほどボクとクリフは踏み込んでいる。赤ちゃん(ヴァーヴァ)と魔術師君を助けにね。そこにも遺体があったわけじゃない」

「……そう。嘘かホントか、ユーレイに案内してもらったってアレ? じゃ聞くけど」


 トートは腕を組み、つま先をイライラと上下させた。


「あんた、何を知ってるの」

「答え合わせは一番最後、がルールだろう?」

「あっそう。ダンジョン内で協力するのも、ルールだと思うけど?」

「…………魔法使い君!」

「クリフォード!」


 じろりと顔を向けられ、クリフは呆れたようなため息をついた。


「トートが正しい」

「君も大概順応性が高いね」


 やれやれと首を振り、ロアルはランプを受け取った。


「分かったよ、歩きながら話そう。信じるかどうかは別。けれどボクは、嘘は言わない。それだけは……そうだな。聖レミエルの導に誓おう」


 トートはロアルの隣に立ち、両耳をぴんと立てた。


「ここはヴェルグストートの軍事基地だって言っただろう?」


 四人分の足音が一定の速度で反響する。ランプで長く伸びた影が黒々と、灰色の壁を這った。


「大戦以前、この大陸はそのヴェルグストート帝国がほとんどを支配していた。魔術機工学はその頃隆盛を迎えた技術だ。魔法と科学、その両方の特性を持っていてね。そりゃあもう、君たちだって、あったら欲しいと言うだろうね。

 けれどそれは諸刃の剣だった。クリフ、君なら知っているかな。魔法を使った人間の魂がどうなるか。概念(オド)を操る魔法は、神秘という建前で人々から遠ざけられるべきだった。その距離を、かの帝国は見誤ったのさ。

 例えば、星の果てに住む顔も知らない誰かと友人になれると思うかい。世界で一番高い山のその上、星がボクたちを手放してくれる場所まで行ける船があると思うかい。……あったんだ。そんなスケールの大きい話が。その技術の結晶が、この遺跡を動かしているんだ」

「……それ、死体がないのと何の関係があるの?」

「結論を急ぐんじゃないよ。ヤマネコ娘はせっかちだね」


 むっとして、トートは口を閉じた。


「この遺跡は現在も動いている。魔術機工学は常に大量の魔力を欲する。そして、この世界で最もエネルギー効率のいい魔力源は?」


 トートの目がクリフに向く。クリフは苦々しい顔になった。


「人間」

「その通り。魂も肉体も、全て分解して魔力に還元できるからね」


 つまり。その先の言葉を、ロアルは続けなかった。だがトートは俯き、口元に手を当てている。尾が垂れ下がり、先端が床をこすっていた。


 ロアルが足を止め、ランプを掲げた。浮かび上がった扉は、クリフの足であっさりと開いた。

 暗い部屋だった。湿気のある空気が、むうっと流れ出てくる。トートは思わず口元を覆い、一歩退いた。これまでの通路の空気が、異様に乾燥していたのだと実感する。

 部屋に入ろうとしたクリフにランプを預け、ロアルは暗闇へと踏み込んでいく。ただでさえ黒いロアルの後ろ姿は、あっという間に闇に紛れてしまった。


「ここに二人が?」

「さっきは俺も入るなって言われたんだ。あいつが二人とも連れ出してきた」

「灯りがつくよ! 三人とも、覚悟はいいね」


 飛んできた声に、クリフはトートを下がらせた。反対にフォレイルが前に立つ。

 じじっ、と、虫の羽のような音がした。白い光の点が、天井にちらちらと現れる。点と点の間に線が引かれ、線に囲まれた部分が発光した。

 無機質な白い光に、広い部屋が照らされる。


「……何……」


 眩しさに顔を顰めたクリフは、そのまま言葉を失った。


「この遺跡の心臓部だよ。魂のない執事、人類の友。【機械仕掛けの神(キッカラヴァリト)】……君たちの言葉で言うなら」


 見えていなかった床は、少し進んだ先で陥没していた。劣化して割れたというよりは、溶け落ちたような断面だ。下の階層と吹き抜けになった部屋の中心に、巨大なそれは鎮座していた。


自動計算機(コンピューター)


 高さは、抜けた床の下からクリフが見上げる天井に届くほど。外見は、黒い結晶の集合体のようだった。大きさは、大人五人が手を繋げば囲えるほどだろうか。結晶の表面は、幾つもの色が混ざり合いながらゆっくりと流れている。

 ぞわ、とクリフは這い上がる悪寒に身震いする。頬を獣の舌で舐められたような気味悪さだった。かちかちと鳴る音で、隣でトートが震えていることに気づく。

 広い部屋の壁は、一定間隔で並ぶ扉で埋め尽くされていた。それ以外のものは無いか、あっても陥没した床下だろう。開いた扉のひとつにつかまって、ロアルはひらひらと三人に手を振る。


「足元、気を付けなよ。魔力回帰(エステヴェウス)でぐずぐずだ」

「……何、これ」


 総毛だったまま、ふらりとトートは結晶に近づく。トートの顔が、結晶の面に映った。石の床に足が沈む。


「触るな!」


 背後から叫ばれ、びくりと身を縮める。トートを引き寄せ、クリフは杖を結晶へ向けた。放たれた光が、結晶の表面に当たって弾ける。


「賢明。ヤマネコ娘とタンク君はそこを動かない方がいい」


 ロアルが、足元の小さな瓦礫を放った。放物線を描いた小石は、結晶の表面に触れたかと思うと、白煙を残して蒸発する。空中に取り残された砂粒すらも、落ちる音はしなかった。

 クリフの警告が遅れていれば、自分の指先がああなっていた。一瞬で消えた小石に、トートの顔から血の気が引く。


「魔法使い君。これ、魔力結晶だろう?」

「多分な。絶対触るな」


 ロアルは爪先で床を蹴り、クリフの隣に戻ってくる。


「さっきの……なんとかってやつがこれなの?」

「ううん、あれは合成樹脂と金属。部屋全部がそうではあるけど、本体はたぶん、これの中にあるんだ」


 双剣の切先が、結晶をこする。削れた粉が、きらきらと落ちた。クリフはもう一度「触るな」とロアルを引き剥がす。


「なるほど……帰れなかった冒険者は全員、糧にされたってことか」

「だからさ、魔法使い君。この結晶、消して?」

「……スーッ……」


 額に手を当て、天井を仰ぐ。ゆっくりと吸った息を吐き出して、クリフはロアルを見下ろした。ロアルは両手を合わせ、小首を傾げて見せる。


「媚びんな気持ち悪い」

「わーシンプルな悪口。できる?」

「どれくらい面倒くさいか分かって言ってんのか」


 魔力結晶とは、文字通り、本来不可視である魔力が凝縮した物質だ。空気中の水蒸気が、冷やせば氷となるように。では、氷を水蒸気にするには? 単純に考えれば、氷を火に放り込めばいい。問題は、その炎を熾す火種も薪も、魔術師自身であるということだ。


「追加で言うと、魔力って単純に言っても魔術師が扱うのは二種類あってだな」

「うんうん、よくわからないけど大変なんだね。それで、できるの?」


 できるならやれ。表情は分からなくとも、ロアルがそう言わんとしていることはひしひしと伝わってきた。


「……できるかできないか、ならできる。やりたいかってなるとマジでやりたくねえ」


 言いつつも、クリフは腰のポーチから小瓶を取り出した。ガラス瓶には、橙色の液体が半分ほど入っている。


「結晶……結晶……ただの魔素(オド)ならともかく結晶……原素子(マナ)との化合物だよな……混合魔力結晶の還元率は……」


 ぶつぶつと呟きながら、クリフは小瓶の中身を杖の水晶に一滴垂らした。淡く光る水晶が、杖の軌跡を空中に残す。


「……そっちでフォレイルに隠れてろ」

「やったね!」

「ちなみに、キッカラってやつは水ぶっ掛けたらどうなる?」

「死んじゃうねえ」

「めんどくせえなあもう」


 三人が廊下の反対側まで離れたのを見て、クリフは杖を垂直にした。


「分かったよ、リーダー。やってやるよ」


 引き攣った口元を笑わせる。背中を、冷たい汗が流れるのが分かった。




 目を閉じて、息を吸って、瞼を持ち上げる。禍々しい鉱石は、悠然とそこに佇んでいる。触れれば生き物の魂を引き摺り込み、肉体を砂に換える、そんな力を持った危険な物質。

 いったいどれほどの命が、吸われていったのだろう。


「……【我、世界の理を塗り替える者】」


 空中に描いた魔法陣を、指先で頭上に持ち上げる。天使の輪のようなそれは、右に左にと不規則に回転した。


「【逆巻け、逆巻け、万象の素】【名は音、音は意、意は御霊】【石は指、指は標、標は石】【解け、解け、オドの縛り】――――【魔力還元(お返し申す)】!」


 杖の先端が、結晶に触れる。甲高い、しかし澄んだ(ベル)のような金属音が鳴った。

 硬い結晶の正面が、水面のように揺らめいた。その奥で何かが渦巻いたかと思うと、鋭い光となって杖を逆流する。クリフの腕を伝ったそれは、そのまま首、顔へと這い上がる。

 目を細め、眉間の皺を深めてクリフは腰を落とす。結晶はガタガタと揺れ、生じた隙間から赤黒い何かが噴き出している。部屋の中は風が吹き荒れ、その風の道を赤黒い霧がかたどっていた。開きっぱなしだった扉のひとつが、勢いよく閉まる。トートはフォレイルの袖をつかみ、身を縮めた。


 魔力を、肉体を通すことで変質させる。魔術師の基礎中の基礎だ。水がダメだと言うのならば、風へ。そうして少しでも結びつきを弱めれば、鉱石の形は保てなくなる。はずだ。


「……クリフ……」


 耳元で唸る風で、心配げな声はかき消された。


「――――がはっ!」


 自分の体が倒れかけて、ようやく息を止めていたことに気づく。高濃度の魔力が、魔力回路を高速で駆け巡っては放出される。裏側のもう一つの心臓、魔力炉が、バクバクと悲鳴をあげていた。

 二重になった視界では、結晶がほんの少しばかり形を変えていた。花開くように、その内側にしまい込んでいたものの先端を覗かせている。


(ああ、くそ)


 自分はもう倒れそうだというのに、変化はこんなにもじれったい。

 たとえば自分が、名だたる賢者であれば。ロアルの望むまま、結晶を消すことだってできただろう。自分がこんなにも苦しんでいるのに結果が出ないのは、その方法を知らないからだ。きっと。

 魔術師にとって、無知とは、最大の罪である。

 脈打つの心臓がうるさい。体は悲鳴を上げているのに、思考ばかりは、嫌にクリアで。鼻の裏側を伝う液体の感触も、弱さの証明のようで嫌だった。

 分かっている。魔力結晶の分解は簡単なことではない。簡単だと思いたいだけだ。自分を無能だと嘲りたいだけだ。役立たずで誰かの足枷になるのが自分なのだと、納得してしまえば楽だから。玉石の自分は玉になり得ない方なのだと諦められるから。

 できない。

 それが、できない。


「う……るっ……せぇええええええええ!」


 手の甲を額に押し当て、俯いた顔を上向かせる。怒鳴り声で思考を途切れさせる。鼻血が口に入って、嫌な味がした。


「魔力はぁ! 魔術師に従う! モン、だろぉがあああーっ!」


 杖を振る。握力がなくなった手から、大ぶりの杖がすっぽ抜けた。気づけば指先まで、びっしりと文字が浮かび上がっている。肉体に刻まれた、獲得魔術の術式だ。

 見えないものをつかむように、両手を突き出した。吹き荒れる風の狭間。溶け落ちた床と結晶の間で、クリフの両手は確かにそれを捉える。結びついた魔力同士の、わずかな綻び。人間の目には映らない、知覚外の次元。


『待っていた』


 刹那――確かにクリフは、自分の魂がその世界に触れるのを見た。




 ガラスを砕くような音がした。瞬間、痛いほどの光が部屋からあふれ出し、クリフの影が壁まで届く。ロアルはフォレイルの腕をすり抜け、逆光の中のクリフに駆け寄った。

 仰向けに倒れたクリフは、後頭部をロアルに受け止められた。放り出された杖は光を失い、皮膚には見慣れない文字が白く浮かび上がっている。


「……すごい」


 部屋の中央を陣取っていた結晶は、砕けて空中を漂っていた。大きさは頭大からこぶし大まで様々で、すべてが同じ方向にゆっくりと流れている。それはさながら、宝石で作られた衛星のようだった。

 空中に浮かんでいた石が、支えを失ったように落下する。床の上でさらに小さく砕けたそれは、既に結晶の輝きを失っていた。クリフの体から石ころを払いのけ、廊下に引っ張り出す。まだらに白くなったクリフの呼吸を確かめ、トートはその熱い息にぱっと手を引いた。

 一呼吸ごとに文字は薄まり、やがて皮膚の色に同化する。


「ちょっと、ゆすらないで。脈測ってるんだから」

「俺が、運ぼうか」

「そうね。あんたは部屋の中確かめてきなさいよ。あんたの命令でしょ」


 トートに指差され、ロアルはこくんと頷いた。

 結晶が消えた場所には、黒々とした球体があった。碗を二つ合わせたような形で、上半分には縦にも継ぎ目がある。その隙間から、白い煙が細々と滲み、球の表面を伝っていた。球の表面には銀色のプレートがある。


「セントラル……こん……こん……」


 黒ずんだ文字を読むのを諦め、ロアルは球体をノックした。重い空洞音が返ってくる。


「やっぱりこれ操縦席(コックピット)だな」


 床にしゃがみ、球体の下を覗き込む。柱で支えられてはいるのだろうが、球体の下は、無数の管が絡み合っていた。それは抜けた床下へつながり、そこから四方八方へと伸びている。管の太さはおおよそロアルの腕ほどで、劣化して色が抜けているのか、どれもこれも灰色に近い似たり寄ったりな配色だった。


演算機(データマスキ)の部屋か……誰が操作してるんだ?」


 床下へ降りようと、柔らかい縁に手をかける。と、握った床が、そのままの形でぶつんと千切れた。


「あ」


 ロアルはそのまま、頭から落下する。派手な音に、トートは耳を後ろに向けて首を縮めた。


「何してんの?」

「アイツが落ちたみたいだ」

「ほっとこう。布もう一枚ちょうだい」


 クリフの首の下に鞄を入れ、頭を反らせて気道を確保する。その状態で、首と額に水を含ませた布を押し当てた。体の火照りは落ち着いたが、まだ呼吸が浅い。。


「……トート」


 フォレイルに裾を引かれ、トートはうなずく。二人は立ち上がると、来た道を睨んで身構えた。震えが足から背、首へと伝播し、トートはぶんぶんと首を振る。


 漆黒の怪物が、迫ってきていた。

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