風呂上りには冷えた牛乳を
冒険者の制度ができて十年となり、ギルドが提供するサービスも年々充実してきている。初期は登録証の発行と仕事の斡旋が主だったが、現在ではカフェや食堂はもちろんのこと、初心者への冒険の手ほどき、ギルド所属職員による研修、治療、遺体回収、金銭管理、倉庫貸し出し、乗合馬車、宿など、サービスの内容は実に多岐にわたる。そしてそのほとんどが、登録証さえ見せれば格安で利用できるのだ。基本的に金欠に陥りやすい冒険者にとって、これほど有難いことはない。
さて、そんなサービスの中で、一部の冒険者に大変ありがたがられるものが貸風呂である。
にわか景気の町ならばともかく、普通の町にギルドができると必ず反対運動が起きる。冒険者は市民権のない荒くれもの、定職に就かないろくでなしだという声がとにかく多い。冒険者は『臭い、汚い、金がない』の三拍子で、自分たちの生活が脅かされてはたまらない、なにより子供に見せたくないと言われるのである。
金がないのはどうしようもないが、せめて匂いと不潔さだけはどうにかしなければとギルドが導入したのが貸風呂だった。利用自体は任意だが、あまりに不潔な状態でギルドのカウンターを訪れると問答無用で放り込まれることもある。木製のたらいに湯と保温用の熱結石が入れられており、紅茶一杯分の値段で石鹸が買える。
「で、ここのギルドは山の温泉を引っ張ってきているから、お湯が無料なんだってさ」
意気揚々と言うロアルとは反対に、クリフは気乗りをしない顔をしていた。
ザマルへの移動の道中、立ち寄った町には大きなギルドがあった。職員からいろいろ情報を仕入れてきたらしく、ロアルはクリフとソルードに風呂を勧めてきたのだ。
「毎日湯浴びしてるだろ。俺にしては珍しく」
「そりゃ、【秘密箱】にもお風呂は作ってもらったさ? 清潔と保温は大事だからね。でも君、お湯沸かすの面倒だからっていつもシャワーで済ませるじゃない」
「あのでっけぇ風呂桶いっぱいの水、沸かすのにどんだけ時間かかると思ってんだ」
クリフは魔術で多少融通が利くとはいえ、そもそも風呂とは贅沢品である。上下水道の設備が整っているような町はまだいくつもあるわけではない。田舎では、井戸やら水源から何往復もして水を汲み、薪や炭を消費して湯を沸かす、それだけでもとんでもない手間がかかる。魔術学院の寮に入り、シャワーと湯船を知って感激したことをよく覚えている。
「いいかいクリフ。君たち現代人はあんまり湯に浸かる習慣はないのだろうけどね。ボクの時代においては、どんな田舎でも家にはお風呂があったんだよ」
「へえそりゃ豊かな時代だったことで」
「毎日とは言わないさ。けれど湯船に浸かって体を温めるのは大事なことだよ。人の体は温かいものだけど、その温度を維持するにも体力を使っているんだから」
「あーわかったわかった。でもソルが嫌がったらやめにするぜ」
水汲みをしていたソルードが、ひょいと二人の間に割り込んでくる。クリフが深刻な顔をしていたので、まじめな話だとでも思ったのだろうか。
「兄さん、おふろきらい?」
「別に嫌いじゃねえけど」
「おれはすき! 兄さんにあらってもらえるから」
クリフはロアルを見る。表情のない仮面が、勝ち誇るように上向いていた。
右手に手桶、左手にソル―ドを抱え、クリフはギルドの貸風呂に入る。自慢というのも確かなようで、ギルドの建物そのものの倍ほどの広さがあった。冒険者以外にも開放しているらしく、受付のカウンターには二種類の料金表が乗っていた。
「大人一枚、子供一枚。あと石鹸二人分」
「兄ちゃんは冒険者か? んじゃ合計で二十五ユル」
確かに安いな、とクリフは思う。ザマルの公衆浴場であれば一人でこの四倍はする。
風呂は大きく男湯と女湯に分けられており、床はタイル張りだった。滑り止めにか、表面に溝が彫られているのが芸が細かい。見上げれば、快晴の星空を天幕が横切っていた。
「お部屋いっぱい」
「冒険者の貸風呂は個室なんだよ」
中央にまっすぐな通路が、その左右に衝立で仕切られた個室がある。個室には上下が開いた戸があり、それぞれ鍵がかかっていた。受付で渡された鍵を見やり、クリフは七番と書かれた浴室に向かった。板状の鍵を差し込むと、かちゃりと戸が開く。
こぢんまりとした浴室の中央に、でんと湯船が陣取っていた。奥には荷物棚が、手前には体の洗い場と湯捨て口がある。値段から想像していたよりもはるかに整っていた。
「兄さん、着替えここ?」
「ああ。ほらばんざいしろ」
「ばんざーい」
ソル―ドを脱がせ、クリフも裸になる。手桶には石鹸のほかに、ロアルがあれもこれもと入れた小瓶があった。
「洗髪剤と精油とクリーム……何だこの硬えブラシ」
「それおれの。しっぽとか、うろこのとこそれでがっしがっしって洗うの」
「お前ほっぺはもちもちのくせに。こっちのは……垢落とすやつか」
自分は風呂に入らないというのに、ロアルはクリフとソルードの風呂事情にはうるさい。ことクリフに関しては、貴人に変装していた一件以来、ことあるごとに、髪に櫛は入れているのか、髭は剃ったのか、風呂できちんと汗と垢を落としているのかと聞いてくる。
「別に臭うほど不精にしてねえし、いいと思わないか?」
髪はいつでも櫛が通りやすく、髭もない。冒険者を名乗るにしてはずいぶん清潔なほうだろう。
「ろぉはきれいな兄さんが好きなんじゃない?」
確かに普通の人間であれば、仲間の身だしなみというのは気になるものだ。だがロアルは視覚、嗅覚、触覚のどれも持っていない。多少大雑把になるくらいは、大目に見てほしいと思うのだが。
「よし、目ぇぎゅってしろ」
「ぎゅ」
ソルードが両手で目を覆い、クリフは手桶に湯を汲む。櫛で埃を落とした髪を濡らし、洗髪剤を泡立てる。
「……泡立たねえ」
思ったよりも汚れていたらしい。これは自分も二回ほど洗わなければいけないだろうか。
髪を二度洗い、体は石鹸で。さすがにぼろぼろと垢が落ちるほどではなかったが、長い尾を洗っていると鱗の隙間から泥が落ちてきた。背中をこすると、ソルードはくすぐったそうに身じろぎをした。
「肉ついてきたな」
「んへへ。きんにく! ろぉがね、たんぱくしつ? いっぱい食べるといいって」
ソルードは両腕を掲げる。骨と皮ばかりだったころに比べれば、ずいぶん遠慮なく触れられる背中になった。それでも、似た年頃の少年少女からすれば一回り小さいが。この細腕で、クリフの家事手伝いに不便しない腕力なのだから末恐ろしい。
冷めないうちにソルードを湯船に浸ける。大人一人用の湯舟は、ソルードには十分広かった。手足と尾を伸ばし、軽くなった体をゆらゆらと揺蕩わせている。そんなソルードを視界の片隅に、クリフは手早く体を洗った。
泡を落とし、湯船に入る。手桶で被るよりも熱い湯に、ぞわりと体が震えた。足先から脚、腰、肩と、身を縮めながらなんとか全身を湯に漬ける。
「ああー……」
夜空を仰ぎ、自然とそんな声を漏らしていた。冷えた体がじんわりと温められてゆくのが感じられる。ソルードを引き寄せつつ、クリフはもう一度深呼吸をした。
冬の朝、しんと冷えた空気に頬を撫でられながら、布団の中のぬくもりを堪能する。そんな時間に似ている。時折夜風が湯気を散らし、春先の空気が首筋に触れる。その冷たさに身震いしながら、指先まで流れる血が温まるのを実感している。知らず知らず強ばっていた肩が下がり、吸った息が肺の奥まで入ってゆく。
「うああー」
クリフの真似か、ソルードも声を漏らした。
「……たまにはこういうのも悪くねえなぁ」
「……なー?」
「おねむか? 二十数えたら出よう」
「あぃ」
こくんと頷いて、ソルードは肩まで湯に漬かりなおした。
クリフとソルードが【秘密箱】に戻ってきたのは、夜もずいぶん更けてからだった。
「おかえり。いい湯だった?」
「おう、ただいま」
「いまー」
「……何持ってるんだい、二人とも」
剣の手入れをしていたロアルは、不審げに首をかしげる。まあ来い、とクリフに言われるまま家の裏手に出ると、クリフは担いでいたものを地面に置いた。
「いい風呂だったよ」
「そりゃよかったね。それで」
「久々にたっぷりの湯に漬かってなあ。頭のてっぺんから足の爪の間まで綺麗になった」
「たいへん結構。だから」
「そんで、着替えてるときに思ったんだが」
すっ、とクリフの視線がロアルに向いた。
「お前、ずいぶん風呂に入れてねえなって」
「…………」
ロアルがソルードを見ると、ソルードは持っていたものを掲げた。洗濯板である。
「ということで真夜中の洗濯大会を開催する」
「……いやぁあのぉ、ボクってば新陳代謝ないからね! ほら汗とかの分泌物も老廃物もないし汚れようがないじゃない」
「砂と埃と雨はあるだろ」
「嫌だよ君の洗濯、雑なんだもん!」
クリフが杖をつかむ。ロアルが踵を返すのと、ソルードが洗濯板をクリフに押し付けるのは同時だった。
果てしない【秘密箱】の庭を、ロアルがまっすぐに走ってゆく。クリフやソルードに配慮しない全力疾走だ。軽い体と出所不明の膂力で、その姿はあっという間に点になった。
「よっしゃ行けソル!」
「よっしゃ!」
一拍遅れて、ソルードも地面を蹴る。こちらも砂埃を舞い上げたかと思うと、瞬く間に小さくなっていった。
「さてと」
迷子防止の明かりを浮かべ、クリフはたらいに水を張る。文句を言いつつも、結局毎回洗濯はすることになる。風呂の気分だけでも味わえるように、洗剤入りの湯をたっぷり沸かしておくとしよう。




