17)それはまるで流星のように
「エルフの島から人間の島を支点にぐるっと右に何個か行った先に、火炎妖精のだった島がある」
ロップロップは、好奇心丸出しの冒険者に呆れたようにそう教えた。
門の隣には椅子と日よけが作られ、ご丁寧に汁果実まで植えてある。大きな葉で作られた棚に、竪琴が飾られていた。
「島の間には、通路とかあるの?」
「あるわけないだろう。イワサザイ村があったから鉄縄を張れていたんだ。魔術師がいるんだから、勝手に行け」
しっしっと手を振り、ロップロップはロアルたちを追い払う。だが、クリフの影からソルードが顔を出すと、一瞬だけそちらに目を向けた。
「わざわざあたしを雇ったってことは、それなりに楽しめるんでしょうね」
「ヤマネコ娘にはサルマンドの灰を探してもらおうかなあ」
「サルマンド?」
そう、と頷き、ロアルは目標の島を指さす。
快晴の蒼天と、そこに浮遊する島々。ソルードは目を輝かせた。
「すごい!」
「綺麗かい?」
「きれい、うん! すっごく、とても、きれい!」
杖で肩を叩き、クリフは微苦笑を浮かべる。
「今日はあの空を飛ぶんだぜ」
「きゃはーっ!」
飛び跳ね、ソルードは走り出した。「ちょっと!」とトートがその後を追う。
「君が抱っこして飛ぶのかい?」
「四人くらいなら飛行魔術のほうがいいだろ」
あっという間に走り去る二人を、やや遅れてクリフとロアルが追いかけた。トートも相当に足が速いはずなのだが、数日間我慢をしていたソルードの足はそれ以上に速い。蹴り上げられた青草の匂いが、風に乗っていた。
小さくなった冒険者たちを、ロップロップは目を細めて眺めていた。
エルフの時間は長く、それ以外のすべての生命の時間は短い。源人類はその最たるものだ。エルフたちが数百年をかけて進む命の道を、たった数十年で駆け抜ける。
抱えられるものは少なく、取りこぼすものは多く。精神はずっと未熟で、足りない、もっと欲しいと幼子のように駄々をこねる。
(だからこそ)
粗野で、幼稚で、強欲で。めまぐるしく、けたたましく、図々しく。
そのくせ、抱えられるものが少ない腕を、他人に伸ばすことを厭わない。誰かが取りこぼしたものを、拾い上げることを躊躇わない。足りないから群れ、もっと欲しいから争うくせに。
(俺は……)
目を伏せ、門を振り返る。待ち人がそこに立っていた。約束通りの時間だ。
我が物顔で居座り、村を作ったのも人間。エヴを造ったのも人間。それを終わらせたのも人間。変遷する世界から切り離されたこの浮島にも、人間は変化を持ち込んだ。
そしてきっと、これからも。
「待たせてしまったか? ひいお爺様」
「いいや。待っていたのは本当だが」
火炎妖精は去った。鍛冶妖精も滅びた。土妖精が姿を見せなくなり、妖精の時代は終わりを迎えた。その初めから終わりまで、源人類は見届け、そして増え続けていった。
一番寿命が短く、魔法すら持たなかった生命が、一体どんな歴史を紡ぐのか。
「楽しみにしていたんだ、ずっと」
隣に座ったスカーレットが、不思議そうに眉根を寄せた。この魔術師もこんな顔をできるのか、とロップロップは笑う。
交わるのは、一年でたった七日。瞬く間に過ぎ去る時間は、幾百年の自分の歴史に点在する、小さな孔のようなものだ。
願わくは、その孔を覗き込んだ時、美しいものがあるように。
『俺の事情を勝手に推しはかるな』
『じゃ教えてよ』
理由を並べればいくらでも。妻子の子孫、琥珀色の目の占い師。義務感、罪悪感、惰性。らしい理由は重ねられるが。
もう二百年ほど大人になったら、言えるだろうか。
交わす言葉は穏やかで、さざ波立つ心がゆっくりと撫でられているようだった。
爽やかな風が、草花を揺らす。風に揺れる水面が陽光を反射し、きらきらと光の粒を浮かべていた。雲一つない快晴。エルフの里にも名無しの墓標にも、光は平等に降り注ぐ。
大小十五の浮島は、いくつもの命と、その残滓を乗せている。姿を消した妖精たちも、人間たちも、そこにいたのだと、空っぽの浮島が証明し続ける。
客人を歓び、変化を緩やかに受け入れながら、エルフたちの森もそこにあり続ける。
幼い神はまた一年、この箱庭を見守り、己の内側に抱え込む。健やかにあれと願いながら。
『やあ神様。そんなに寂しいなら、僕が道を作ってあげよう。人間を、君の中に入れてみないかい? しばらくの賑やかしにはもってこいだ』
竪琴が道を紡ぎ、停滞する箱庭は、また少しの変化を受け入れる。
『その代わり、君の心に、僕の席を作っておくれ。何しろ僕も、おんなじくらい寂しいものでね』
吟遊詩人はすでに亡く、人々の村もなくなった。三百年のそのさらに前と変わらず、エルフだけが残っている。
「俺様たちは見届ける。そのために、千年、万年の先もここに在ろうさ」
一時代を築いた妖精たちの盛衰も、魔法を手に入れた人間の破滅も。ページに刻まれた文字を手繰るように、すべてを見届ける。
人が呼んだ名は、幻想種【記憶の御使い】。箱庭の通り名は【どこにもない国】。
いつかその名が寂れ、忘れ去られた未来でも、彼らはそれを覚えている。
ここは【周遊する異界】。世界に忘れ去られても、そのすべての命を祝福する、小さな神の庭である。
長かった七日間は終わりを迎えた。別れを惜しむヨナーシュに、「たった一年だ」とロップロップが手を振った。
「一年だって長いんですよ。人間には」
ロップロップは駄々っ子を見るような困り顔を浮かべ、それから笑った。
水面で羽ばたきをして、【周遊する異界】は空を仰ぐ。首を伸ばし、羽の一枚一枚で日の光を受け、細い足で水面に立つ。淡い光が、夕暮れの中、大きな水鳥を縁どっている。
夕日が、崖の向こう側へ沈む。日暮れの影が、幻想種の姿を飲み込んでゆく。
岩肌を照らす最後の光が消えるとともに、【周遊する異界】はその姿を消した。
一瞬、海面が涼やかに凪ぐ。虚空から、白い羽が一枚落ちた。羽が水面に波紋を作り、波紋の端が白波となる。
波の音が戻ってきて、誰かが、詰めていた息を吐き出した。
「夢みたいだった」
そう呟いて、クリフは肩からソルードを下ろす。ソルードはまだぽけっとして、【周遊する異界】が消えた空を見ていた。
「そうだね」
ロアルは静かに同意する。景色を映す目は持たないが、その仮面の双眸も、眩しい幻想種は捉えていた。
足音に、二人は同時に振り返る。スカーレットが片手を挙げて挨拶した。
「一休みしたら、明日からの話をしたい」
「いいよ。それじゃあごはんにしようか。みんなを呼んでこないとね」
カササギ村の人々も、ぞろぞろと自分たちの家へ向かっている。家のない元冒険者たちは、宿屋とヨナーシュの家で世話になっていた。集会所は現在、黒い布で窓が塞がれている。悼むのは自分たちの無事を喜んでから、とヨナーシュは言っていた。
生活の基盤を立て直すには、まだまだ時間がかかるだろう。大人たちは一年以上留守にしていた。老人と子供だけでは、漁も家畜の世話も最低限、壊れた道具を直す余裕すらなかったのだから。
それでも、あの大穴よりは。施しをよこす神はいなくとも、何に怯えることもない。正気を保つためにではなく、生きるために働ける。和を乱すな、エヴを怒らせるなと、気を張っていることもなくなるだろう。
だから大丈夫だと、若い村長はクリフたちに笑って見せた。
「今夜はクリフ特製の焼いたなんかの肉とヤマネコ娘が作ったスープ、あとエルフの女の子たちに貰った果物のサラダだよー!」
「ローストチキンとブラウンシチューって言え」
事態が解決したのであれば、もう部外者が居座る理由もない。スカーレットたちは明朝、カササギ村を発つことにしていた。
エルディンバルラに向かう組と、ザマルの方角へ帰る組。今夜はお互いの送別会である。【秘密箱】の庭では、九人が焚火を囲んでいた。上機嫌で配膳を終え、ロアルは空の器を持つ。
「それじゃあ、乾杯の音頭はスカーレットさんに?」
「嫌だ。お前がやれ」
「かんぱーい!」
声と一緒に、八つの器が掲げられた。少し遅れて、ソルードが両手で器を持ち上げる。
「かっぱーい?」
「乾杯」
「かんぱい!」
器からじかにシチューをすすり、ソルードは「あつい!」と悲鳴を上げた。
「あーあー、ほら顔こっちに向けて」
「うー」
トートが、絞ったハンカチでソルードの口元を拭く。
「このシチュー、お肉の代わりに魚が入っていますね」
「いいでしょ? 新鮮なのをもらえたの」
「肉もうまい。クリフォードは料理もできるんだな」
「塩振って焼いただけだぜ」
一足先にほろ酔い気分のフォレイルは、にこにこしながら体を揺らしていた。その隣で、アルグレッドもジョッキに酒を注いでいる。
「あーっ、兄貴、酒なんてどっから」
「ヨナさんにもらっちまった。波もみ熟成のとっておきだってさ」
注がれた酒は澄み切っていて、底から小さな泡が浮いてきていた。果実のような香りの奥に、つんとした酒の匂いがある。
「……結構強いやつじゃねえか」
「一口どうだ」
「いや、やめとく。兄貴もほどほどにしとけよ」
スカーレットが、コップを持って隣に来た。
「私は少し欲しい」
「いける口ですか?」
「今のところ負けなしだ」
それは、コーヴィスの中でということだろうか。アルグレッドが注ぐと、スカーレットは「いい酒だ」と微笑した。
酒盛りから少し離れたところで、ゼオルドは辟易した顔で果実水を啜っていた。その隣で、レオナルドは二杯目のシチューを空にする。
「よく食べるな」
「あはは、おいしくって。ゼオ、お酒苦手だったんだ?」
「匂いで酔う。くらくらする」
渋い顔で、ゼオルドは口と鼻を覆った。
「俺は明日、駅から早馬で港に行く。お前はクリフォードにあんまり迷惑かけるなよ」
「僕を幼児だと思ってない? 大丈夫だよ。ゼオこそ道中気を付けてね」
ぱた、と尾を上下させ、ゼオルドは両手でフードを握った。
「……帰ったら、お前さ……その……」
「うん?」
レオナルドが首をかしげる。ゼオルドは視線を泳がせ、首を横に振った。
「何でもない。ジルさんにめちゃくちゃ尋問されるだろうなって思っただけだ」
「うわぁそうだった。魔法学全部再履修させられるかも」
「あの人なら絶対、特別授業もつけてくるな」
ゼオルドがくっくと笑う。レオナルドは額に手を当て、空を仰いだ。
「良かったじゃないか。才能があって。これで王宮の連中を見返せる」
「別に見返す必要はないだろう。立場は今も昔も変わらない。クリフに迷惑が掛からないのはいいことだけど」
露骨にため息をつき、ゼオルドはレオナルドの頭をつかんで揺さぶった。
「お前、そういうところだ。本当にそういうところだぞ」
「なんだよぉ」
ゼオルドは自分の皿からレオナルドの皿へ、パンを移動させる。空になった皿を片手に立ち上がると、フードを下ろして伸びをした。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
天幕に入るゼオルドに、レオナルドは手を振った。
「おや」
器を片手に、ロアルが隣に立っていた。足音もなく現れた影に、レオナルドは肩を上下させる。
「彼はもうお休みか。王子様、一杯どう? エルフの果実酒だってさ」
「僕、お酒はあんまり……」
「そ。じゃあこれは食糧庫に入れてしまおう。楽しんでいるかい?」
「ええ、とっても。旅に出てから食べる量が倍くらいになった気がしますけど」
「あはは! 管理されてない食事は貴重だもんねえ」
ロアルはレオナルドの隣に座った。
酒盛りの三人組に、トートが果実水で混ざっている。ソルードは満腹になったからか、少し離れた場所で丸くなっていた。ソルードに外套をかけ、クリフは鍋の残りを物色している。
月のない【秘密箱】の夜空にも、星はあった。本物とは違う白銀の星の川が、不可視の天蓋を流れている。
「ねえ、王子様」
レオナルドは顔を上げる。
「一つだけ、偉そうにアドバイスさせてもらうけれど」
表情の変わらない仮面が、苦笑いを浮かべているように見えた。
「見誤っちゃいけないよ。君が、君自身が大事にすべきものを」
「……?」
「せっかく、平和な時代に生まれたんだからさ」
ロアルの言葉に、押し付けるような熱量はない。つかみどころもなく、何を伝えたいのかと問えばきっとはぐらかされてしまうだろう。
「平和、ですか」
だからレオナルドは、その言葉の輪郭をなぞることにした。
ロアルは今の時代の人間ではない。肉体を持たないこの双剣士は、不夜の王国の王宮勤めだと言っていた。エルディンバルラに残っている記録では、かの王国は、約八百年前――正確には七百八十年前の大戦を最後に、地上との交流を絶っている。その後どうなったのか、今でも国民が残っているのかすら定かではない。
確かなことは、ロアルは戦争のような、大規模な戦いを知っているということだ。
(……大戦……帝国ヴェルグストートの終末、地天戦争)
地上の八割が焼き払われ、戦争は終結した。講和はない。賠償もない。七日七晩でアークリヴァルティの文明は焼き払われ、残ったのはエルトマーレとエルディンバルラだけだった。
以来八百年、戦争は記録されていない。諍いや火種がなかったわけではない。単純に、戦争に至るほどの武力を誰も持てなかったというだけだ。
現代とてそうである。鎖国しているエルディンバルラは、常にグリッツェラーから開国要求の圧力を受けている。しかしグリッツェラーは工業の発展に忙しく、軍備に割く資源も資金もない。エルディンバルラは地の利と情報の少なさで勝り、鎖国状態を保っている。
そしてグリッツェラーの背後には、ほぼ同じ国土を治めるエストラニウスがある。ザマルをはじめ、複数の都市国家を庇護下に置き、広大な大地を着実に豊かにしている。今は農業が主産業だが、ダンジョン攻略や都市国家への研究補助を通じ、魔術機工学の再現を推し進めている。なあなあで済ませていた国境も国交も、遠からず明確な線が引かれるだろう。
同盟か、友好か、敵対か。国が国として進化をすれば、必ずその問題に行き当たる。ちょうど、幼かった子供が成長し、親以外の人物に出会った時のように。
けれどそんな国同士の話が、レオナルド個人の話と何か関係があるのだろうか。
「……?」
「ごめんよ、なんか難しい顔をさせてしまったかな。こんな楽しい夜なのに」
いいえ、とレオナルドは首を横に振る。
「考えることは好きですから」
「そうか。じゃあ問題を出してあげるから、今日はこっちを考えなさい」
ロアルは立ち上がり、大仰な仕草で空を示す。
「天を流れる川には、魚取りの男がいる。さあ、その男が使っている道具はなんでしょう?」
「なぞなぞですか?」
さてね、とごまかして、ロアルは唇の前に指を立てた。
「分からなかったら、クリフに聞いてごらん」
「はあ……」
近付いてきた時と同じように、ロアルは颯爽と去ってゆく。声が届く場所にほかの皆もいるというのに、レオナルドはぽつんと取り残されたような気分になった。
(天の川の魚……)
レオナルドは上を見る。天の川の魚取りは、あの星をつかむとでも言いたいのだろうか。
「…………」
ぱたりと仰向けに倒れる。ほどよく硬い地面が、そっとレオナルドを受け止めた。
「寝るか?」
「うわあ!」
ソルードを小脇に抱え、クリフがのぞき込んできた。
「急に出てこないでくださいよ……」
「俺の通り道にお前が倒れてきたんだよ。ほら、布団」
言いながら、クリフはレオナルドの腹にソルードを乗せてきた。
「……ちょっと重いんですけど」
「おやすみ」
「兄上ー?」
ソルードの上に、ダメ押しのように毛布が掛けられた。温かいを通り越して少し暑い。しかし、安心しきった顔で眠っているソルードを見ると、起こしてまで動くのも憚られる。
子供の体温と体を包むような重さ。満腹感も相まって、一気に眠気がやってくる。規則的なソルードの寝息と、猫のように鳴る喉も瞼を重くした。
「……はあ」
考えたいことも、悩むべきこともある。楽しい旅も今日で終わりで、明日からはまた、王子としての義務にいそしまなければいけない。
だから、今だけは。
(温かいな……)
楽しそうな声を聞きながら、レオナルドは目を閉じた。
翌朝。太陽が水平線を離れる頃、ようやくクリフは目を覚ました。
「みんな朝寝坊したねえ。朝ごはんできてるよ。ジャムはいちごでどうぞ」
「お前が焼いたのか?」
「ざぁんねん、スカーレットさん」
「よかった」
「君ね」
ロアルは布を敷いた野菜かごで、パンを配って回っていた。隣の天幕で、アルグレッドが頭痛を訴えている。ゼオルドは夜明け前に出発したらしい。きちんと畳まれた服の横で、レオナルドはまだぐっすりと眠っていた。
「クリフォード、ユークリッド。腹が膨れたらこちらに。報酬の話をしよう」
スカーレットは既に身支度を整えていた。
話はクリフの工房で行われることとなった。家の裏手、レンガ造りの小屋は、三人が入ると少々手狭だった。椅子は小さな丸椅子が一つ。壁に据付の棚は、本や道具、小瓶などがきちんと区分けされて並んでいる。天井付近には紐が渡され、束になった薬草が吊るされていた。一通りの道具は揃っているものの、どれも冒険者が持ち運びするために小型化されている。棚にはまだまだ空きがあった。
椅子をスカーレットに譲り、クリフはテーブルに腰を下ろす。スカーレットは紙束を一つ、小さく折りたたんだ紙を一枚持っていた。
「まずは感謝する。私の目的は達成された」
「こちらこそ。冒険はいつでも楽しいものだね」
ロアルが愛想よく返す。スカーレットは微笑を浮かべた。
「予定では、竪琴……賢人のライアーが入手できればと思っていたが、さすがにあれを取り上げる権利は私にはない」
「それはボクも同意する。大事なものだからね。けれど、それに関してはロップロップから、エルフの鎮魂歌を教えてもらったから問題ないよ」
「……そうか。ではもう一つ」
スカーレットは、紙包みをロアルに差し出す。
「……何?」
「中に種が入っている」
開けるな、とスカーレットはロアルを制した。
「ひ……ロップロップ殿からの伝言だ。『空がいっとう美しい日、ここぞというときに開くといい』と」
「……ふうん。もしかして『風に咲く花』?」
「さてな。私からは情報を」
ロアルは紙包みをクリフに渡す。クリフは表と裏から眺めた後、それをポーチの内ポケットに入れた。
「ユークリッド。お前が探している『風に咲く花』とは、アズリレイーアじゃないか?」
花の名前を聞き、クリフが片眉を上げる。
青天喇花は、魔法薬学を真面目に受けていた魔術師ならば聞いたことがある名前だ。クリフは腕を組み、頭の中で図鑑をめくる。
「……あー……あの、青と白の、ラッパみたいな形の? でしたっけ」
「そうだ」
スカーレットはクリフに頷く。ロアルはやや顔を伏せた。
「知っているんだね。現代にはないはずだけど」
「知っているも何も」
スカーレットはそこで一度言葉を切る。クリフはちらりとスカーレットを見た。スカーレットの長い睫毛が、諮詢するように震えていた。
「ユークリッド。アズリレイーアはそもそも実在しない」
瞼を開く。琥珀色の瞳に、ロアルが浮かんだ。
息を吸い、吐く音が嫌に大きかった。呼吸音すらしないロアルは、置物のようだった。遠いはずのソルードたちの声が、はっきりと耳に届く。
ロアルが身じろぎをして、その衣擦れの音が沈黙を破った。
「やっぱり?」
長い沈黙に反して、その声音はいつも通り、明るく軽薄だった。
「やっぱりってお前」
「あったら嬉しいなって思ってたんだけれど。実在していなかったかあ。そうかあ」
クリフはロアルを見る。うんうんと頷く仮面の表情は読めない。隠している、ということだけが感じ取れた。
ロアルは地上で、三つのものを探していた。しかし竪琴はエルフの手に、風に咲く花は実在せず。手に入れられたのは、『空を征く船』のみだ。しかし当のロアルは、残念には思っているようだが、特別落胆しているというほどでもない。
「……なあ」
クリフはロアルのフードをつかむ。
「お前、【不夜の王国跡】に行くのが目的なんだよな」
「うん。それは今も変わらないよ」
「だけど、竪琴も花も、なくていいのか?」
「あはは。ないものをねだってもしょうがないだろ?」
クリフは唇を曲げる。口調は明るいが、表情が読めないということは、気持ちを隠そうとしているということだ。
ロアルの目的は、三つの宝を探し、【不夜の王国跡】へ行くこと。
だが、そもそも。
『ボクには大切なものがある。やりたいことがある』
『地上に来た理由はあるよ。けれど、どうやってかは覚えてない』
ロアルはどうして地上へ降りたのか。
あるかどうかも定かでないものを探しに、帰る手段のない場所を離れたのか。思い入れがあると言っていたのに。そのくせ、目的のものが手に入らないと知っても、執着もしていない。
「お前、まだ隠し事してるだろ」
ロアルの言葉に嘘はない。少なくともそう信じたい。クリフも詮索されたくない側なので、極力詮索はしないできた。ロアルの目的も、正体も。
「それは、お互い様じゃないかい?」
じっ、と黒石の目がクリフを見る。
また、しばらくの沈黙があった。間に挟まれ、スカーレットは眉間にしわを寄せる。ロアルは腕を組んでクリフを見上げ、クリフは蜂蜜色の瞳を鋭くしている。
「……いいか?」
無言の睨みあいに、スカーレットが音を上げた。
「さーせん」
「続きをどうぞ」
ばさりと、紙束がクリフの膝に投げられる。
「お前への報酬だ」
「あざっす。これってなん……」
紙束を捲り、クリフはその先の言葉を失う。紙のふちをたどる指先が震え、目は忙しく文字を追った。
綴られているのは古い文字、古い言語だ。
「エヴの呪いの、写本……です、よね」
「お前なら役立てられるだろう」
「いや、でっ、でも! これ、こんなもの……解析すればそりゃ、これ一冊で禁書が作られるレベルですけど、は、八割がた黒魔術っていうか」
舌がもつれ、クリフは口を覆う。その右手の甲を、スカーレットは見つめていた。
「だからお前に共有する。現代を生き、現代の常識と良識を持っている黒魔術師である、お前に」
「……俺に、期待しすぎじゃないですか」
「嫌か?」
「嬉しいですけどぉ!」
足を縮め、クリフは紙束で顔を隠す。
「いや、でも、やっぱり俺にこれは荷が重いというか……黒魔術だってグレンさんの受け売りで……だから……」
もごもごと話すクリフをそのままに、スカーレットはロアルに視線を戻した。
「最後に、これはサービスだ」
「うん?」
「来月から、【鋼鴉の嘴】はとある遺跡の探索を開始する。これはザマルの議会、ひいてはエストラニウスの議院からの要請で、一部冒険者、考古学者、歴史学者および魔術師の招集が許可されている」
スカーレットは鞄から、一冊のノートを取り出す。
「その筆頭に、飛行する遺物を所有するお前たちと、渡来の史学者リ・アンキュウ殿の名前が並んでいる」
ノートの表紙には、『Altare』の文字があった。ロアルは文字にピントを合わせ、組んだ腕をほどく。
「協力を約束するなら、現時点での情報共有も可能だが」
「断る」
ぴしゃりとロアルは言い放つ。
「ボク、土足で踏み込まれるの嫌いなんだよね」
「留意しておこう」
スカーレットは、特に落胆した様子はなかった。
「では冒険者のルールに則って、早い者勝ちだな」
「ボクたちこれからエルディンバルラに行くんだけど。不利じゃない?」
「『空を征く船』を確保しておいて、何を今更しおらしい」
笑い声を漏らし、ロアルは壁から背をはがす。
「競争か。面白くなりそうだ。頑張ろうね、クリフ!」
「なんでお前は気安く敵を作るんだよ!」
「作ってない、作ってない。今は協力しないってだけさ」
手を振って、ロアルはスカーレットを見下ろす。
「ああでも。さすがにもらいすぎだから、ボクも一つ教えないとフェアじゃないね」
唇の意匠に指を当て、ロアルは考えるような仕草をした。
「スカーレットさん。かの王国は、常に雷雲の向こうにある」
灰色の指が、虚空を指し示した。天井の上、天蓋の向こう、そこに在らざる者の輪郭をたどるように。
「蒼天の下、鉄床雲の玉座の上。天帝はそこに座す。空の蒼がまったきものである限り」
宣誓のような言葉は、ニアルーク語で紡がれた。唯一魔術の力を持たない古代言語――不夜の王国の公用語だ。
スカーレットは仮面を目元に下ろす。じっと目を細めても、ロアルの正体は見えない。相変わらず、薄暗い靄のようなものが、人の殻の中を揺蕩っているだけだ。クリフのように、その表情や感情を感じ取ることはできない。
「聖レミエルの導に従い、嘘偽りじゃあない。今も積乱雲の向こう側で、あの国は待っている」
スカーレットの指が、分厚いノートを開く。紙を繰る音が、ロアルの言葉の余韻に重なった。仮面を押し上げ、スカーレットは微笑を浮かべる。
「聖レミエル……雷霆。そうか。お前は本当に、あのロアル・ユークリッドなんだな」
立ち上がり、スカーレットは握手の手を差し出す。ロアルは左手でそれを受けた。絡まる指をつかみ、スカーレットはロアルを引き寄せる。
「貴殿のいい返事を待っている」
それは冒険者スカーレットではなく、コーヴィスの長スカーレットの顔だった。ロアルは瞬きでもするように、ゆっくりと一つ、頷きを返す。
「いい条件を期待しているよ」
自分に協力してほしければ、相応の条件を出せ。言外の殴り合いに、クリフはそっと視線を外した。
結論を宙に浮かすことの利点は知っている。心変わりは万人にあり得ることで、クリフとて、手を出さないと決めていた黒魔術に、今ではすっかり頼っている。一方で発言は常に責任を伴うものである。スカーレットのように立場がある人間ならば、猶更。
嚙み合わない握手は、ゆっくりと解かれた。名残を惜しむように、スカーレットの手が空中に残される。クリフは紙束を膝で整え、スカーレットの横顔を見る。揺らぎのない目元の緊張が、少しだけ和らいだように見えた。
「スカーレットさん」
呼びかけてから、クリフは口の中の渇きを自覚する。琥珀色の目が振り返るまでの一秒が、とても長かった。
「あの、コーヴィスへの誘い……まだ有効ですか?」
「お前が冒険者である限りは」
ザマルに七年もいれば、コーヴィスの話は嫌でも耳に入る。クリフも、その探索部隊に志願する冒険者たちの列を見たことはある。志願者が百名いたとして、コーヴィスに入れるのはわずか五名程度。冒険者として日々を浪費する魔術師くずれなど、それこそお呼びでないような狭き門だ。
しかし一方で、魔術学院を卒業できるような実力者は、そこかしこに就職先が用意されている。それこそクリフのように、明確な強みがない者以外は、卒業の半年前には進路が決定している。わざわざコーヴィスに志願して命を懸けるような、向こう見ずな魔術師はそういない。
三十人近くいるコーヴィスでも、魔術師はスカーレット一人だ。そのスカーレットに目をかけられることが、どれほどのことなのか。今ならよく理解できる。
「じゃあ」
テーブルから降り、クリフは背筋を正した。
「前向きに検討しておきます」
スカーレットはクリフを見上げ、驚いたような顔になった。だが次の瞬間には、にいっと白い歯を見せる。
「では仮契約書を発行しよう。そのうちどうせ、ザマルに寄るだろう? ルビーに伝えておく」
「気が早いです」
「お前は古代言語が得意なようなので優先的に生きたダンジョンの魔法探査チームに振り分けたい」
「気が早いですって」
クリフは助けを求めるようにロアルを見る。ロアルは「いいんじゃない」と興味なさげな声を漏らしていた。ない爪をいじる仕草がわざとらしい。
「いじけんなよ」
「べぇつにぃ? 君がコーヴィスに浮気してもボクは一向にかまわないよ。そのほうが君の人生は確実にいい方向に行くからね。構わないとも!」
「めんどくせぇ女みたいなこと言いやがって」
「クリフ、絶対女性経験ないよね」
「関係ないだろ今それ!」
つん、と分かりやすくロアルはそっぽを向いた。
「関係ないことないさ。君はいつだって決断を下す時にボクを蚊帳の外にするからね。一人で完結できる人間は、他人をわざわざ求めないだろう?」
「う、んん、ん? 褒めてんのか貶してんのか分かんねえよ」
「ただの所感。そんな君に蚊帳の外にされて拗ねるのはボクの都合。君の隣にいたいと思うボクの情動を、面倒くさいと君が言うから、君は人づきあいに向かないねと言いたいわけ」
「貶してるじゃねえか」
「そう思う? 君ってば面倒くさいね」
「なっ……ん、お前この野郎」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の間から、スカーレットはこっそりと抜け出す。喧嘩するほど仲がいいとはよく言うが。それにしても、二人ともずいぶんと口が回る。
スカーレットがこの二人を認識したのは、四か月ほど前の【八重塔遺跡】の攻略からだ。死霊魔術を無自覚に操る魔術師と、明らかに肉体を持っていない剣士。ちぐはぐなようで妙に噛み合わせのいい二人だった。言動は不安定で、どことなく未熟。そのくせ力は一人前で、二人とも、何かを背後に隠していた。
(杞憂だったな)
たとえ対立することになったとしても、地に足のついたこの二人が相手ならば、望むところだ。
「……スカーレットさん?」
「うん?」
「なんすか、そんな微笑ましいもの見るような顔で」
ああ、自分はそんな顔をしていたか。口を片手で覆い、スカーレットは咳払いをする。
「まあ、なんだ。クリフォード、お前がコーヴィスを訪れる日を楽しみにしている」
「……どうも」
唇を尖らせ、クリフは頬を掻いた。
「さて、もうしばらく話していたいところだが、お前たちは、そうも言っていられないだろう?」
スカーレットが扉を開く。さっと吹き込んできた風は涼しく、火照ったクリフの首を心地よく撫でた。
「兄さん、ろぉ! お話おわった?」
洗濯物が入ったたらいを持って、ソルードが家の角から顔を出した。
「終わった、終わった。お前の準備は?」
「できたよ。今にゃーねぇが見てくれてる」
ソルードの頭に手を置き、トートが現れる。
「にゃーねぇじゃなくて、師匠って呼びなさい。方位磁石が入ってないわ」
「はい、ししょー!」
「うるさっ」
トートは顔をしかめて耳を伏せた。ソルードは明日から、アルグレッドたちに同行することになっている。昨晩は一時間ほどクリフに張り付いて抗議をしていたが、結局寝床は同じ【秘密箱】なのだから、となだめすかし、ようやく旅が楽しみになってきた様子である。
「トートが師匠なら、俺はリーダーだな」
「りぃだー?」
「よろしい。じゃコイツは?」
「フォルにい!」
元気よく指をさされ、フォレイルはまんざらでもない顔になる。
「クリフ、お兄さんの座奪われそう」
「あいつの世界が広がるのはいいことだ」
「本音は?」
「……子離れって寂しいな」
すでに日は高く上り、扉の向こうでは、青々とした草原が海風に揺れていた。冒険者たちは身支度を整え、仮宿を出る準備を終える。さあ、と誰ともなく背筋を正した。
「……ところで」
杖を片手に、クリフは口を開いた。
「誰か、レオナルドを起こしたか?」
アルグレッドたち四人が振り返り、互いの顔を見比べる。クリフとしては、ロアルとクリフ、そしてスカーレットが話をしている間に、誰かしらが起こしていると思っていたのだが。
数秒後、ソルード以外の全員が、気まずそうに視線を逸らした。全員が全員、誰かが起こすと思っていたか、それとも自分たちの身支度で手いっぱいだったか。まさかあれほどうるさくしていて、起きていないことはないだろうと高をくくっていたのか。
「だと思ったよ!」
杖を片手に、クリフは天幕へと駆け戻っていった。
あまりにも幸せそうに寝ていたから――と、アルグレッドはばつの悪そうな顔で目を泳がせていた。
* * *
外洋と異なり、波が穏やかな内海での移動には、もっぱら小型の船舶が用いられる。まさかカササギ村の漁船ほどではないが、ゼオルドが手配したのはそんな小型の船だった。三角形の帆に風を受けて進む、キャラベル船である。
「操舵は俺もできるけど、安全を期して船頭を雇った。クリフォードとロアルは指示に従うように」
レオナルドたち三人が港に着くころには、出航の準備はすっかり整っていた。桟橋から船に乗り込み、ゼオルドは三人を振り返る。
「……いいんだな」
「うん」
力強く、レオナルドは頷いた。外套をにぎりしめる手は震え、顔に浮かぶ笑みも、一目で虚勢だと分かる。
その背を押し、クリフは先に階段橋に足をかける。ロアルも、ぽんぽんとレオナルドの肩を叩いた。
海風が、レオナルドの外套を翻らせる。フードをつかみ、レオナルドは塩辛い風に目を細める。打ち寄せる波で、船はゆったりと上下した。
「うん」
船主付近に立ち、レオナルドは息を吸った。
「行きましょう、エルディンバルラへ」
帆が風を孕み、船が桟橋から離れる。支えを失った船が、一度大きく揺れた。
水平線の景色を射影で記録し、クリフは適当な箱に腰掛ける。その手元を、ロアルが覗き込んだ。
「森を出てから、よくやっているよね、それ。なんだい?」
「秘密」
六枚目の紙を木製の表紙で挟み、クリフはいたずらっぽく笑った。
「海風に飛ばされんなよ」
「あはは。そしたらまた君に見つけてもらわなくっちゃだ」
ロアルは軽い足取りでレオナルドに駆け寄った。レオナルドは両手でフードをにぎり、視線を落としている。
「やあ王子様。船酔い?」
「……いいえ。すみません、暗い顔しちゃってました?」
「大丈夫、ボクには見えないさ。一応宣言しておこうと思ってね」
レオナルドは首を傾げる。ロアルは右手を胸に、左手で外套を摘んで大きく広げた。そのまま左足を半歩引き、大仰な動作で頭を下げる。
「今この時より、私はクリフォード・セル・アータートン殿下のエスクード。並びに、レオナルド・イル・アータートン殿下の護衛となります。その御身に危うきがありませぬよう、影に日向にお守りする所存。この身は盾となり、矛となりましょう」
動作に似て芝居がかった、淀みのない口調だった。ロアルは体を起こし、軽く肩をすくめるような動作をする。
「上手に使ってくれよ? ご主人」
レオナルドはロアルを見下ろし、目を瞬かせた。ぽかんと開いた口が、ゆっくりと息を吐いて、それから弧を描く。
「ああ、期待しているよ、僕の手足」
目元は涼やかに、口元は企んでいるように。声音の起伏は乏しく、しかし本心に聞こえるように。
今度はロアルが黙る番だった。
「……君、やっぱり王族やってるだけはあるね」
「ふふん。上手でしょう? 王子様って言われたら、この顔をすればいいんです」
「それクリフにも教えてやってよ」
「いやですよ。こんな顔する兄上見たくありません」
いつも通りの笑顔に戻り、レオナルドは木箱にどさりと腰掛けた。
「三日ほど時間があります。今度はロアルさんたちの冒険のお話を、聞かせていただいても?」
クリフが、四人分のカップを持ってやってくる。ゼオルドは船頭に軽食を渡すと、折りたたみのテーブルを担いできた。
「別にいいけれど。お坊ちゃんが聞いても、面白いかなあ」
「ええ、きっと」
両手でカップを包み、レオナルドは顔を綻ばせる。
「その話が終わる頃には、僕たち、きっともっと仲良くなっていますから」
潮風はまだ肌寒く、椅子は硬い木箱。クリフの紅茶もレオナルドのコーヒーも、程よく湯気が立っている。自分の仕事に満足した顔で、ゼオルドは白湯を口に運んでいた。ロアルは空のカップを持ち、隣のクリフに顔を向ける。
「それじゃあ、何から話そうか。穴の底の亡霊の話? それとも土の中の牢獄かな。精霊たちと夢見せの神様の話もいいかもね」
「……まず、って言うならやっぱりあの日だろ」
紅茶で口を湿らせ、クリフはロアルを指差した。
「こいつな。空から降ってきたんだよ」
ええ、と驚く声に、乾いた笑いが重なった。
快晴、順風。小さな船はひた進む。水平線の向こう側、まだ影すら見えないその先にある、神秘が生きる国エルディンバルラへの道を。
大きな鉄床雲が、進む船を見送っていた。
(つづく)




