2)【八重塔遺跡】
落下するフォレイルの体に、クリフとトートはしがみつく。フォレイルは表情こそ変えていないが、顔は蒼白になっていた。
「【浮遊】っ!」
第六階層の上端と同じ高さに、赤い円が現れる。それをフォレイルが通過した瞬間、その体は一瞬浮きあがり、それからゆるゆると降りて行った。杖を下に向け、クリフは引きつった笑みを浮かべる。
閉じたシャッターの上に立ち、ロアルが三人を待っていた。
「わはー! すっごいね! さっすが魔法使い君!」
「おまえっ……お前ほんとふざけんなよ!」
「てっきり昇降機で来ると思ったのに」
「お前が飛び降りるからだろうが!」
着地したフォレイルの背から降り、クリフは杖の先端でロアルの頭を小突く。「あうっ」と声を出して、ロアルは頭をさすった。
「なんでお前は無事なんだよ、あの高さからで!」
「着地方法を知ってるのさ。さあ入ろう。北東だっけ?」
フォレイルに支えられたまま、トートは「うん」と言って左手の甲を引っ掻いた。トートの左手は、黒い皮手袋が指先から手首までをすっぽりと覆っている。サイズが合っていないのか、手首に紐を巻きつけて留められていた。トートは首を振り、「ありがと」とフォレイルから離れる。
「方角の記録とマッピングはあたしがやるわ」
手袋を脱ぐと、細い左手にはこまごまとした刺青が入っていた。トートは左手を上に向け、中指の先端を太陽に重ねる。ロアルはクリフの袖を引いた。
「あれなに?」
「羅針の刺青。助士の装備みたいなもんだな」
第六階層の内廊下は、シャッターから一段高くなっている。その四方に、アーチ形の扉があった。トートが指差した扉を引き開けると、その向こうに穴が現れる。その更に向こうには、無機質な灰色の廊下が見えた。
ロアルはひょいとその空間を飛び越える。その空間は、扉を境に、上下左右にそれなりの広さになっていた。クリフは穴から上を見て、昇降機が来ないことを確認する。段差は、内廊下とシャッターほどの高低差があった。最後にトートがフォレイルに引っ張り上げられた直後、耳障りな音を立て、扉がひとりでに閉まる。
「遠隔操作か。回路、生きてるのかな」
ロアルは腰に手を当て、ぐるりとあたりを見回す。しっ、とそれを諫め、トートは先頭に立って腰を落とした。クリフが杖にランタンを引っ掛ける。ぼんやりとした橙色の明かりが、廊下を照らした。それほど広くない、横に三人も並べば塞がってしまうほどの通路だ。
トートは廊下の先まで行くと、両手の指先を床に当て、耳を忙しく動かした。ダンジョン内は静かで、息遣いがやたらと大きく感じられる。つるりとした床も壁も、確かに人工物に違いないが、どこか引っかかる違和感がクリフにはあった。
短い廊下は、広い通路と直角に交わっていた。通路は緩やかなカーブを描いており、内廊下側に一定間隔で部屋の痕跡がある。扉が残っている場合もあれば、蝶番が外れていることもあった。トートは最初の角を右に曲がり、暗闇へと続く道にぶるりと体を震わせる。
「怖いのかい?」
「こっ……怖くないわ。全っ然!」
トートは太ももを叩き、首を振って歩き出した。
通路はところどころで横道があったが、ほとんど一本道だった。廃墟独特の空気の淀みや黴臭さもなく、床はつい先ほど磨き上げられたかのようだ。耳が痛いほどの静寂と暗闇だけが、あたりを支配している。
「……地図もいらないくらいじゃねえか?」
「軍事基地であって要塞じゃないんだ。迷うような構造にする理由がない」
「でも帰ってこないパーティがいるのよ」
「そうだね」
やがて、通路の先に突き当りが見える。その少し手前には内廊下側に横道があった。トートはその曲がり角で足を止め、口元に手をやって考え込む。ロアルは横道を覗き込み、「なるほど」と頷いた。
「右に曲がったから、ボク達、時計回りに四分の一進んできたんだね」
「結構でかいな」
「ちゃんと探索するならもっと時間かかるだろうね。全部の部屋を検めるわけだし。我らが助士には、何か考えがあるみたいだけど」
トートは鞄をひっくり返すと、出てきた紙に何かを書きつけていた。黒鉛に布を巻いただけの鉛筆が、がりがりと削れていく。クリフはそちらに明かりを差し出しながら、暗い通路をゆっくりと見返した。
「何かいるね」
「ああ」
ロアルは剣の柄を握り、クリフに身を寄せた。
光の届かない暗がりには、何が潜んでいても分からない。だがクリフの視線の先で、確かに、闇そのものがわずかに蠢いた。
「見てこようか」
「いや。今は離れないほうがいい」
「ふーん? じゃあ君の勘を信用する」
鉛筆を床に叩きつけるように置いて、トートが立ち上がる。
「クリフォード!」
「うぇっ? あ、おう」
「あんたコンパスの魔術あったでしょ。あれ貸して」
クリフは手のひらの上に水の球を浮かべると、そこに針を一本突っ込む。針は一度回転してから、やや上方の一点を差して停止した。
「あっちが北だとさ」
「だったらやっぱり間違ってない……」
「ヤマネコ娘、問題でも?」
「問題しかないわ。これ見て!」
「君すぐ怒るなあ」
ロアルは、突き出された二枚の紙を受け取る。二枚ともに、似たような地図が書かれていた。円を切り取ったような、見事な扇形である。
「上手いね」
「またバカにして。半円に近いほうが前回。第五階層から降りてそのまま入ったから、出口から逆算して書いたわ」
「ふうん? にしては」
「ええ、地形が変わってる」
二枚の地図を重ねても、一致するのは太い通路のみだった。枝分かれした細い廊下や扉の場所は異なっており、一枚目の地図には、今目の前にある突き当りの壁が存在しない。
「……方角の勘違いとか?」
「ふざけないで! あたしは仕事をしくじったりしない」
「でも、前回は反対回りだったんだろう?」
「だとしても、よ。あたしは助士の仕事に誇りを持ってるの。勘違いの隙もないくらい完璧にするに決まってるじゃない」
「だから喧嘩はあとにしろっての」
ロアルの手から地図を取り、クリフは壁に地図を貼り付ける。一枚目の地図は円の三分の一ほどが書かれ、上部に北東の突入口、右側に南東の突入口があった。だがその間の通路は、今しがた通ってきたはずであるのに、確かに一致しない。
道が組み変わるダンジョンは、実際のところ存在する。だが【八重塔遺跡】にはそんな情報はなかった。だからこそ、トートも頭を悩ませているのだろうが。
「ねえヤマネコ娘」
ロアルは地図を眺め、腰から小刀を取る。
「何よ」
「ボクの仮説、言っていい?」
ロアルは地図を丸く切り抜くと、角度を変えて重ね合わせた。中心に針を刺し、ルーレットのように回して見せる。
「こうすれば、地形が変わらず方角だけ変えられるね」
「……バッカじゃない? 床が揺れてたり回ってたりして、気付かないあたしじゃない」
「今は感覚より事実を信じるときさ。ヤマネコ娘、君が自分自身の仕事を信じるならね」
指を差され、トートは口をつぐむ。
「反論は?」
「でっけぇダンジョンが回ってるなんて信じたくねえな、俺も」
クリフはロアルから針を受け取り、銀色の先端に視線を滑らせる。細い金属の表面は、ランプの光を金色にして反射していた。目を伏せ、クリフは息を吐く。
「だがロアルに賛成だ。【八重搭遺跡】は地面の下にある。つまり、動いていても外からは見えない。『かもしれない』を排除しきれないなら、仮説として採用するには十分だ」
「そう言ってくれると思った。タンク君は?」
黙っていたフォレイルは、異論ない、と首を横に振った。
「よろしい。で、問題はどうしてそんなに、君が苛立っているかなんだけど」
トートの耳が跳ねる。ほぼ同時に、フォレイルも盾を取って身構えた。
「仕事がうまくいかなかったら、イライラするのはしょうがないじゃない」
「でも、それは今解決した。仮説でも。しかしどうやら君は、未だに焦れている」
猫の尾が、不機嫌に揺れる。ロアルは腕を組み、数秒、黙った。トートは口を開き、しかし言葉を飲み込む。
「黙秘、ね」
フォレイルが不安げにクリフを見る。クリフはそちらを見返すが、口は開かなかった。
「言ったはずだ。リーダーはボクだ。第六階層までは指示通りにする約束だったよね。なら、行き先を決めるのはボク。優先すべきは君の苛立ちの解消じゃない」
「……でも」
「ということで、ボクは引き返して、別の通路から一周しようと思う」
ざわり、とトートの髪が逆立った。
「第六階層の攻略のカギは間違いなく、その地図の空白地点にあるから。もう何もないと分かっている場所に、用なんか」
クリフの杖が、鋭く、ロアルの前に突き出される。トートは視線を遮られ、怒りの矛先をクリフへ向けた。鋭い歯が覗き、尾が膨らんでいる。だがクリフは無表情にそれを見下ろした。自分より二回り背の高いクリフに、トートはひるんだように口を閉じる。
「ダンジョンから撤退したパーティの四割は、仲間割れが原因だ」
「……だから何。喧嘩売ってるのはその仮面でしょ」
「そうだな。だから二人に言ってる。あとにしろ」
クリフはロアルを一瞥もせず、杖を引いた。トートに地図を突っ返し、行け、と顎をしゃくる。トートはむっとしたままだったが、ランプを持って歩き出した。
「……君、恨みとかないの?」
大人しくトートのあとを追いながら、ロアルはいかにも不満といった声で問いかける。
「別に」
「乾いてるなあ」
「今じゃねえんだよ、だから」
会話を切り上げ、クリフは外套のフードで顔を隠す。ロアルは「ふーん」とだけ返した。気まずさをごまかすように、トートの足が速くなる。
トートが足を止めたのは、一つの扉の前だった。灰色の扉は半開きで、表面に小さな手形が無数についている。ドアノブは、握りつぶされたかのようにひしゃげていた。
「開いてる……」
トートは息を飲む。人ひとりが通れるか否かといった隙間の向こう側は、黒く塗りつぶされていた。ロアルはざっとあたりを見回す。部屋の入口はいくつかあるが、扉が無事なのはこの部屋だけのようだった。
「仮面」
「なにさ?」
「……ううん。なんでもない。開けるわ。罠はなさそう」
トートがドアノブを握る。きぃ、と、何の抵抗もなく、扉は押し開けられた。
扉の向こうは、立方体の狭い部屋だった。使い捨ての天幕や割れたランプ、圧縮食糧の包み紙などが散らばっている。床に残る黒いシミは、血の跡だろう。だが痕跡ばかりで、誰もいなかった。
どっ、と心臓が跳ね、トートは部屋に踏み込む。息を吸うと、よく知っている匂いがまだ残っていた。ほんの少し前まで、まだここにいた。それは分かる。なのに姿はない。嫌な汗が、背中を伝う。
「……遅かった?」
トートの膝から力が抜ける。
「ヤマネコ娘」
その腕を、ロアルがつかんだ。片膝を床について、トートは目だけでロアルを見た。大きな目は揺れ、顔は蒼白になっている。浅い呼吸で、肩が上下していた。
「……仮面」
じっ、と、見下ろしてくる石の瞳に、トートが映る。クリフは腕を組み、フォレイルの足を軽く蹴った。
「ボクもクリフも、手を貸さない、なんて一回も言ってない」
手を放し、ロアルはクリフの肩に腕を乗せて寄りかかる。フォレイルはぐっと唇を引き結ぶと、トートに手を差し出した。
「君たちそろって、結局ボクたち……というより、クリフを見下してるんじゃないか。ボクはそれが気に入らないね。思い通りにボクたちを利用して主導権握って、自分たちの願いだけさっくり叶えようなんて、さ」
クリフはロアルの顔を押しのけ、「つまり」と二人を指差す。
「ちゃんと口で言え。……って言ってんだようちのリーダーは」
フォレイルに助け起こされ、トートはキッと二人を睨む。だが、への字に曲がった唇はすぐに震え、両目に大粒の涙が浮かんだ。
「分かってたなら……」
トートは目元を押さえる。フォレイルはトートをなだめるように背に手を当て、膝を折った。
「お願いします」
両手の拳を床に当て、フォレイルは深々と頭を下げる。鼻をすすり、トートもそれに準じた。
「俺たちの仲間を、助けてくれ」
「リーダーが待ってるの。力を貸して」
クリフは横目でロアルを見る。黙っていると余計に、何を考えているかわからない。だが、怒っているわけではなさそうだ。
「そう」
ロアルは二人の前にしゃがむ。
「いいよ。助けよう」
そして、あっさりと頷いた。
息を吐いて、ゆっくりと吸って、また吐く。その音で自分がまだ生きていることを確認し、痛む傷で、夢でも幻覚でもないことを直視する。腹部をさすると、脇腹の包帯がじわりと生温かくなっていた。
「……クソッタレが……」
アルグレッドは歯を食いしばり、剣の柄を握る。皮の手袋が、軋むような音を立てた。既に両足には力が入らず、剣を握っているといっても、地面に突き立てたそれに右腕がぶら下がっているようなものだ。硬い石の床に座り込む自分は、どれほど無様だろうか。
目を開いても閉じても、変わらない闇がそこにある。自分の手も見えない、完全な暗闇。自分以外の二人分の呼吸を聞いて、アルグレッドは何度目かも分からない安堵に目を閉じた。
まだ生きている。そのことを確かめては、束の間の安息にまどろんで、気を休める。そしてわずかな物音で目を覚まし、気を張りなおす。ひたすら、それの繰り返しだった。
時間の感覚などあるわけがない。この狭い部屋に閉じこもって何日になるかなど、考えたくもない。
「……?」
聞きなれない音に、アルグレッドは目を開く。呼吸音と、心臓の音と、身動ぎの音。それ以外に聞こえるものといえば、閉じた扉の向こうを何かが這い回るような、粘着質な音くらいだった。
(金属音……トート……違う。あいつなら鍵を開ける……ドアノブを回してる? こじ開け……よう……と)
正気を保とうとしている足場を、指先でじりじりと削られていくような不安感。暗闇の向こうからの音は、その不安を『恐怖』へ変貌させるには十分だった。
かたかた、かちゃかちゃと繰り返す音は、次第に大きくなる。中にいるアルグレッド達に声をかけるでもなく、扉を叩くでもなく。扉の前を這い回っていた何かの音が、扉に張り付いたまま、ゆっくりと上へと移動する。やがて金属音はくぐもって、粘つく何かがドアノブに到達したことが分かった。暗闇の向こうで、その『何か』は着実に、ドアを開くための手順を進めている。
震えで歯が鳴る。アルグレッドは床の上を探り、そこにあった柔らかいものをつかむ。革製の水筒だ。歯で栓を抜いて、少ない中身で口を潤す。
足を叩き、アルグレッドは剣を杖に腰を浮かせる。ただ立ち上がるだけでも、両腕が悲鳴を上げていた。両足の裏が床をつかんで、膝を伸ばして、ようやく剣先が持ち上がる。
ゆっくりと目を閉じて、アルグレッドは息を吸った。来るなら来い、と、己を奮い立たせ、その気持ちだけで剣を構える。
かしゃん、と鍵の開く音がした。
赤毛の三角耳が跳ねる。通路の真ん中で、トートは立ち上がった。フォレイルも灯りを持ったまま、トートの視線を追う。クリフは床に座り、コンテで床に魔法陣を描いていた。二重の円と五芒星のほか、円と縁の間に細かい字が並んでいる。短い線と点で構成された、古代の文字である。
「ヤマネコ娘?」
「今、声が……ううん」
五芒星の頂点を直線で結び、クリフはコンテをしまう。
「アルグレッドの持ち物、何かないか」
トートとフォレイルは顔を見合わせる。フォレイルは苦い顔で首を横に振った。トートは、左手の手袋を差し出す。
「これ、使える?」
「できれば半月以内がいい」
「ごめん。それだったらあたしは持ってないわ」
クリフは胡坐をかき、片手で前髪をかき上げた。目を伏せて記憶を辿り――
『クリフォード。お前、今日でクビ』
「……あ」
荷物の中から、一回り小さい鞄を取り出す。ひっくり返すと、布やら皮の袋やらが落ちてきた。その底から、銀色の輪が転がり出てくる。
「怪我の功名、ってやつだな」
クリフはその輪を拾い、魔法陣の中央に据えた。立ち上がり、片手で杖を垂直に立てる。
「どれ、それじゃあ……あのバカを迎えに行きますか」
杖の下端が、魔法陣の中央を突いた。トートの耳が上下し、尾が膨らむ。
魔術とは、世界に漂う魔力と元素を意のままに操る技である。熱のない場所に炎を生み出し、鉄の刃をダイヤモンドより強固にし、果ては、川の水さえ遡らせる。こう、と定められた自然の理を、魔術は塗り替える。トートが感じ取ったのは、クリフの周囲を揺蕩う、そんな『不自然』だった。
「【精霊達よ】!」
魔法陣を中心に、ゆらりと空気が動く。陣の中心から外側へ、描かれた線の上を光が走った。銀の輪が、杖に従って浮き上がる。
「【聴け、我が願いを】【それは希望】【それは光輝】【星の理を騙る人の傲慢を赦したまえ】」
杖の水晶に青い光が宿る。クリフは杖を水平に倒した。渦巻く風が、銀の輪を杖の高さまで持ち上げた。青白い光が銀の輪を取り巻き、小鳥の形へ変化する。
「【導きの燈火】、行けっ!」
小鳥の羽ばたきに従って、光が弾けた。小鳥はその場で一度旋回すると、四人が歩いてきた通路を滑るように戻っていく。長い尾が、暗い通路に光の筋を残していった。
「あっちね!」
トートが即座に小鳥を追う。フォレイルがそれに続き、クリフが走り出すのを待ってからロアルがしんがりになる。小鳥は途中、内廊下とは反対側の横道へ入った。暗闇を照らす光が、あっという間に遠くなっていく。トートが横道へ入ると同時に、ロアルは剣を抜いた。
横道の先には同じようなカーブがあるが、こちらは内側にしか扉がない。外側は、飾り気のない壁がずっと続いていた。小鳥は左に折れ、先の見えない廊下を照らしていった。
その光の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
「アル!」
歓喜の声で、トートが人影の背に呼び掛けた。人影はゆらりと振り返る。ほっと息を吐いて、フォレイルも表情を緩めた。
が。
「よかった、無事」
「トート!」
声を遮って、クリフが叫んだ。と同時に、風がクリフの横を駆け抜ける。
鈍い衝撃音。フォレイルがトートの襟を引っ張る。青白い光が尾を引いて、トートのいた空間に割り込んだ。ロアルの剣だ。
「きゃうっ!」
尻もちをついたトートの前に、フォレイルが立って盾を構える。小鳥の光が、その光景をはっきりと照らした。
ロアルの剣は、アルグレッドの剣と交わっていた。ロアルが止めなければトートの額を直撃していただろう。
正確には、剣は抜かれていない。乱雑に巻きつけられた紐が、鞘を固定していた。だがアルグレッドの振り下ろした勢いは、間違いなく、殺す気だった。
「……アル……?」
呆然としたトートの声に、ぎりっとアルグレッドの歯が鳴った。剣が、勢いよく振り上げられる。
「クリフ、釘っ!」
「ねえよ!」
突然の指示に怒鳴り返しながら杖を振る。水晶に青い光が宿り、光の線がクリフの皮膚を走る。再び振り下ろされた剣は、ロアルの剣を押し返した。
「馬鹿力っ……」
踏ん張った足が後ろに滑り、ロアルは咄嗟に後方に跳んだ。受け流された剣は、そのままの勢いで床を叩く。アルグレッドはそのまま、ぐんとロアルと距離を詰めてきた。
「拘束するから釘よこせってば! クリフ、速くっ!」
「どいてろ!」
ロアルの横から杖を突き出し、クリフは短く息を吐く。
「【磔】!」
赤い光が、アルグレッドの胸を直撃する。枝分かれした光は蛇のように絡みつき、アルグレッドの両腕を開かせる。クリフが胸元を蹴り、アルグレッドの体は床へ倒された。光はそのまま、両腕と胴、首を床に縫い付ける。かひゅっ、とアルグレッドの喉から息が漏れた。
「よっしゃ、このまま……」
べちゃり。
粘着質な音が、廊下の向こうからやってきた。ほとんど同時に、ロアルが飛び出す。アルグレッドがやってきた廊下の暗がり、闇が凝っていながら、しかし、何かが蠢いている気配がする場所。
「動くなっ!」
まるで銃口のように、剣先が暗闇を睨みつける。フォレイルはロアルの隣に立ち、後ろの三人を守るように盾を構えた。
暗闇の向こうから、何かが近付いてくる。トートは胸の前で手を握り、不安げに尾を揺らした。
通路の奥。確かにそこに何かはいるのだが、暗闇に溶けてその輪郭がつかめない。クリフは指で示し、トートを退かせた。床の上のアルグレッドは、ぎりぎりと歯を鳴らし、立ち上がろうとしている。
「クリフ、照明弾!」
「【閃光】!」
赤く光った杖の水晶から、巨大な火花のようなものが飛び出す。それはロアルを追い越し、大きく弾けてあたりを照らした。真夏の日差しのごとき明るさに、否が応でも『それ』は姿をあらわにする。
「……あれは」
ロアルの声にも、緊張が滲んでいた。
闇に溶けているかに思えた輪郭は、その怪物の黒さと巨大さゆえだった。暗いから見えないのではない。漆黒の化け物が、通路を丸ごと塞ぎながら、進んできていたのだ。まるで、嵐の夜に濁流が、川を覆いつくすかのように。
不定形なそれの先頭からは、骨を抜いて伸ばしたような人間の手が無数に生えていた。それが床を、壁を、天井をつかんで、こちらへと進んでくる。光にひるんだように縮んだ手も、次の瞬間にはまた伸びていた。
人間をどろどろに溶かして、一つの型に流し込んだ。そんな外見だった。
「……まさか、アイツ」
ぞわりとクリフの背が粟立つ。顔から血の気が引き、指先が震えた。だが即座に、杖を握って奥歯を鳴らす。自分の背後には、立っているのもやっとのトートがいる。自分の足元には、意識があるかも定かではないアルグレッドがいる。逃げ出すことは許されない。
「【質量のある幻影】だ」
つぶやいたのは、ロアルだった。それが合図になったかのように、怪物の表面が波打ち、二本の腕が伸びる。風を切る音を伴って、黒い指先がクリフへと向かった。
ロアルは身をひねると、腕がクリフとトートに到達する前に切り刻んだ。本体から離れた手首や腕の欠片は、べしゃりと床に落ちてシミになる。
「悪趣味だなあ!」
剣を振り、ロアルは怪物へと走り出す。ぞっ、とクリフは顔色を失った。ただでさえ黒いロアルが、そのまま化け物に飲み込まれる姿が、容易に想像できる。
「【亡霊】だって? ふざけんな!」
杖を地面に突き立てると、その上端と下端が光の糸でつながる。クリフが糸をつかんで引くと、白い矢がそこに現れた。
「【治癒】【弓矢形態】!」
発射された矢は空中で無数に分裂し、ロアルごと、怪物に襲い掛かった。
「ぎゃああああっ!」
両手でフードをつかみ、ロアルは悲鳴を上げる。怪物の表面に矢が直撃すると、その周辺が灰色に変色し、大きな穴となった。ロアルは一歩でクリフの目の前に戻ってくる。
「なんてことするんだ! サイコパスかなあ!?」
「いや、お前……、むやみに突っ込むお前が悪いんだろうが!」
最初に飛ばした照明弾が、ゆっくりと床に落ちて消えた。瞬間、闇に溶けた怪物が、こちらへやってくる音がする。ねばつくものを引きずり、這いずるような音。
「ぎ。い、ぎ、ああ、あああ」
がちがちと歯を鳴らして、アルグレッドが呻く、無理に拘束から抜け出そうと、骨をきしませていた。
「クリフ! 黙らせて、そいつが呼んでる!」
「光をくれ、クリフォード!」
「クリフォード、前、前っ!」
三人から同時に叫ばれる。杖の水晶が、不規則に光った。
「だぁ、クソ! 【閃光】、【防御壁】【付加】【落睡】!」
立て続けに魔術を発動しながら、片手をアルグレッドの口に突っ込む。 赤、青、白と水晶の光は忙しく切り替わった。
「トートお前こいつの世話! テキトーに相手したら逃げるからな!」
外套を脱ぎ捨て、クリフは震えるフォレイルの背を叩いた。
「どこにさ」
「俺だって結界くらいできらぁな。五秒稼いでくれ」
「りょーかい。信用する」
ロアルは再度、怪物に近づく。二度目の閃光にはさほどひるまず、怪物は五人の目と鼻の先ほどまで迫っていた。ロアルは壁や天井をつかむ手を切り落とし、怪物をその場に押しとどめようとする。
「【追加詠唱】……」
フォレイルに守られながら、クリフは杖を両手で掲げた。紅い光が、クリフの皮膚から水晶へ移動する。
「【魔力集積】【座標固定】【エルゥ・シャルル・エス・ベルル】」
杖を怪物へと向ける。その先端から景色が歪み、深紅の光が凝集して球を形作った。
「【滅却線】!」
過度に圧縮された、魔力の銃弾。五秒の時間稼ぎを終えたロアルと入れ替わるように、鋭い可視光線が発射された。迫りくる怪物を焼き、その中心に風穴を開ける。
「……ひゅー」
間一髪でレーザービームの直撃を避け、ロアルは掠れた口笛のような音を出す。
「【封鎖】、こっち来んな!」
赤いブロックが積み上がり、怪物との間に壁が生成される。
「こっち!」
やや戻った先でトートが手を挙げ、四人を呼んだ。アルグレッドをロアルが担ぎ、一行はその部屋に飛び込む。全員が部屋に入ると、トートは即座に鍵をかける。
甲高い、悲鳴のような音がした。トートは両手で耳を伏せ、その場にへたり込む。
「……強いな、あいつ」
「クリフ、その手」
アルグレッドを床に寝かせ、ロアルはクリフを振り返る。クリフの両手には、小さな裂傷が無数にできていた。その手を背後に回し、クリフはトートに顔を向ける。
「お前ら、あれで」
「言わないで!」
顔を青白くして、トートはその場にうずくまる。細い肩が、小刻みに震えていた。
「また……また、やっちゃった……あいつが……」
「ヤマネコ娘」
「分かってるわよ! でもどうしようもないでしょ、あんなの! 隠れるくらいしかできないじゃない!」
「まだ何も言ってないよ」
ロアルは剣をおさめ、床にどっかりと座る。
「さて、どうしようかな。幸い、ボクもクリフもタンク君もケガをしていない。今度は、全員で脱出できるだろうね。叶うなら」
「バカ言え。あれにうっかり遭遇したら次はおしまいだ」
「あはは、確かに。ボクの剣もまるで応えてなかったな」
アルグレッドを仰向けに転がして、クリフはその首に手を乗せる。じわりと、白い光が手のひらに浮かんだ。
「……我らが魔術師は忙しそうだ。タンク君とヤマネコ娘。経験者の意見を改めて聞きたいんだけど」
「あと二人、いる」
フォレイルは足を縮め、沈痛な面持ちでつぶやいた。
「ナタリーと、ヤンが、まだ」
「……ふーん。あの部屋には誰もいなくて、剣士君だけ元気に襲い掛かってきて、あと二人は行方不明。……ふうん」
「脱出するってんなら、あたしは従う」
力の抜けた足を抱えて、トートは膝に額を当てる。
「勝てるわけがないもの。アルが回収できただけで十分。あんたらを責めやしないわ」
「いいや、助けるよ。君たちがそうお願いして、ボクは受けた。任務は必ず遂行するとも」
けれど、とロアルは立ち上がる。
「アレはいけないな。【質量のある幻影】は生物特攻。触れれば、良くて大ケガ、悪ければ廃人。正気に戻れれば御の字だ」
「あんた、あれが何か知ってるの?」
「あー……うーん、そうだね、うん。知っている。クリフも知ったような反応していたじゃない。ボクちょっと哨戒してくるから、説明しておいてよ」
気負いのない動作で、ロアルは扉を開く。ひゅんっ、とトートが息を詰まらせた。
「いなくなってる。ラッキーだね」
「……、ちょっと!」
「あはは、君にもちゃんと年相応のところがあったんだね。怖がることはないよお姫様。扉の向こうにあるのはいつも、絶望だけじゃないんだぜ」
軽い足音が遠ざかっていく。扉を閉めて、トートは再びその前に座り込んだ。
クリフが口の中でつぶやく声だけが、部屋に残る。フォレイルは盾を下ろし、長々と息を吐いた。床の冷たさが、ことさら、気持ちを沈ませる。
「……クリフォード、今、大丈夫?」
クリフの声が途切れてから、トートはその背に声をかける。クリフはアルグレッドに外套をかけ、「ああ」とだけ答えた。眠っているのか、アルグレッドは穏やかに呼吸をしている。
「あの仮面……」
震える声で、トートはクリフの背中に問いかける。
「あいつ、人間じゃないの?」
フォレイルも、恐る恐るクリフに目を向けた。
そうと思うきっかけはいくらでもあった。地上から第六階層まで無傷で飛び降り、触れれば終わりと知っている相手に正面から突っ込んでいく。普通の人間だと言われ、納得するほうが無茶というものだ。
「お前はどう思うんだよ」
問い返され、トートはむっと唇を曲げる。何かを知ったうえで、探っているような口ぶりだ。
「そうね。旧時代の機械人形とかなら、説明がつくかも。魔術機工学の遺産とか」
本気で言っているわけではない。そんなもの、ダンジョン内でもまれにしか見つからないのだから。それが人と同じ大きさで、人と同じ動きをしているなど想像もできない。
だからせいぜい、頑丈な亜人種か、獣人の類だろう。亜人種の中には、人間から大きく逸脱した骨格や器官を持つものもいるという。
「……あいつは人間だよ」
だが、独り言のように、クリフは言った。
「そう。あんたがそう思うなら。別にあたしの仲間じゃないし」
「でも、だとしたら……危険、だ」
フォレイルはクリフの顔色をうかがう。
「一人で、行ってしまった」
「そうだな。過信なんだか自棄なんだか」
トートは尾の先をいじる。からっとしたクリフの返事は、彼女には不満らしかった。
パーティの関係性というものは多種多様であり、一度限りで解散することもあれば、何年もともに活動することもある。だが、ひとたびダンジョンに入れば、出るまで互いが命綱となる。独断専行のロアルも、それを流すクリフも決して褒められた態度ではない。まして、未知の強敵が相手ならば。
「止めても無駄だ。アイツは」
床に魔法陣を書きつけ、そこに折り畳みの五徳と鍋を重ねる。小さな鍋には、油の欠片が入っていた。クリフが魔法陣を叩くと、青白い炎が鍋の底を撫でた。
「ということで」
クリフは木の玉杓子をトートに差し出す。
「連れ戻してくる。ここは任せた」
「あんたも独断専行?」
「食い終わっても帰ってこなかったら、ほっといて脱出しろ。できるだろ?」
トートは鞄から取り出した干し肉をちぎり、鍋に放り込む。フォレイルはしかめっ面で「分かった」とだけ返した。