13)期待と希望
レオナルド・イル・アータートンは、期待というものと無縁な人生を送ってきた。
エルディンバルラの王家に求められるのは国家というシステムの維持であり、カリスマ性も天才的な頭脳も必要ない。王とは神輿であり、歯車であり、切り札だった。
齢四つにして、レオナルドは今後の人生をすべて定められた。
十四歳になった夏、レオナルドの部屋は離宮から王宮へと移された。これまで王都の端でひっそりと生きてきた少年は、突然、大人たちの中でいっぱしでいることを強要された。優しい乳母も、家庭教師たちも、女中も従僕もいない。貴族も大臣も自分に頭こそ下げているが、未だ魔法を扱えないでいる自分を見下し、嗤っているのが目に見えた。
いくら軽くとも、神輿としての役すら果たせなければ意味がない。誰もがそう思っているのを、知っていた。
「行くぞ!」
強く手を引かれ、レオナルドは弱々しい決意で返事をする。
夜空を裂き、彗星のように尾を引いて、エルフの一矢がエヴに届いていた。光輪は打ち砕かれ、エヴが墜落を始めている。
クリフに引っ張られながら、レオナルドは走った。嘘か真か、自分には魔法の才能があったらしい。魔術師である兄がそういうのだから、きっとそうなのだろう。
けれど、自分は。兄と別れて十四年、誰にも期待されてこなかった自分は、この期に及んでなお、自分の才を信じられていない。
『お前がここにいて良かった』
そう言ってくれたのに。期待してくれているのに。
自分は、自分に期待できない。
(失望されたくない)
レオナルドの背を押すのは、恐れだった。
エヴは足から墜落した。爪の削れた指先が、地面を引っ搔いていた。折れた矢は未だ左目に突き刺さり、体の表面で文字が蠢いている。
スカーレットの魔術。幻想種の時間稼ぎ。ロップロップの矢。そしてクリフの助力。ここまでお膳立てされて、いいえできませんと言えるレオナルドではない。
「【天稟の優越】【付加】」
クリフが杖を担ぎ、左手のひらをレオナルドの右手と重ねる。クリフを通じ、レオナルドに魔力が流れ込んだ。右手から心臓の裏を伝い、左手へ。腕を内側から押し広げられるような感触。それが、左手のひらに刻まれた円まで到達した。
咳とともに血を吐きながら、エヴは片腕で体を支える。既に光輪はほとんど消えていた。顔や首に、みみず腫れが生々しく残っている。片方だけの緑の瞳は、レオナルドを映して揺れていた。
「……にい、さん」
「……大丈夫」
自分に言い聞かせ、レオナルドはエヴの前に片膝をついた。
「エヴ」
迫る手に、エヴの目が鋭くなる。
「う、ああ、ああああああっ!」
エヴが叫ぶ。周囲の空気が弾ける音がした。
クリフがレオナルドの前に腕を出した。衝撃が正面から二人を襲う。足が浮き、レオナルドの顔が青ざめた。ぐるりと視界が回る。
背中から着地し、レオナルドの喉から息が漏れる。クリフに襟首をつかまれた。
「次が来る。起きろ!」
「ひっ、は、はい!」
体を起こそうとするが、足に力が入らない。触れた地面がいやに冷たい。
やらなければ。できるかどうかではない。やらなければいけない。今、ここで自分は、一歩を踏み出さなければいけない。できると言われているのだから。生まれて初めて、こんなにも期待されているのだから。失望させてはいけない。
なのに。
(――できない)
こびりついた劣等感が、自分の進歩を許さない。
「……っの、バカ!」
立ち上がれないレオナルドを、クリフが揺さぶった。エヴは既に、次の攻撃の準備を終えている。不完全な白い槍だ。やはり術式そのものを消さなければ、止められないか。
「目ぇ閉じるな! 立てなくていい、怖くていいから顔上げろ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい! やります、やりますから!」
両腕で頭を抱え込まれ、レオナルドは泣きそうになった。攻撃がきっと、すぐそこまで来ている。こんなに役立たずな自分をかばって、兄が怪我をしたら。
金属音とともに、二人の前にフォレイルが割り込んだ。
「下がれ、二人とも!」
アルグレッドがクリフの、ゼオルドがレオナルドの隣に来る。クリフはレオナルドの頭を放し、再び杖を取った。
「素人に無茶させんなこのバカ! ロアル!」
「はーい!」
アルグレッドの声に応え、ロアルが双子の間に飛び込む。右手でクリフを、左手でレオナルドを抱えると、ロアルはぐっと足に力を溜めた。
「十秒もたせる。勝ってこい!」
フォレイルが一歩前に出る。アルグレッドは剣を、ゼオルドは弓を構えた。
三人の護衛を、レオナルドは見上げる。
「……ふー……」
隣で、クリフが長々と息を吐いた。レオナルドは兄の緊張にようやく気付く。
「悪いな」
「いいえ」
フォレイルが前へ走り出した。攻撃の音が遠ざかり、ロアルが地面を蹴る。
再び、足が地面を離れた。クリフの左手が、レオナルドの右手をつかむ。地面がぐんと遠くなった。
「着地任せていいかい?」
「ああ」
「よぅし。いってらっしゃい!」
ロアルは空中で身をひねり、双子を放り投げる。落下しながら、クリフはぐっとレオナルドを引き寄せた。
「大丈夫」
「……はい」
「絶対大丈夫だ」
何の根拠もないだろうに。レオナルドは左手をぐっとにぎる。自分で言い聞かせるよりもよほど、大丈夫という気分になれる。
再びエヴに迫る。まだこちらには気づいていないようだ。レオナルドは熱を持つ左手を開いて、紫色の髪へ手を伸ばす。
「――――、」
生得魔法。それは、才あるものに与えられる天賦、人間が唯一扱える魔法である。術式を記憶し、効果を定め、呪文を唱えるといった過程はすべて省略される。
『名前を決めてみたらどうだ』
だからこそ時に、自覚なく魔法を使っている場合がある。クリフのように目に見える魔法ならともかく。
スカーレットのアドバイスはつまり、自分の魔法はこれと定義づけろということだったのだろう。魔術師が唱えるように、名を呼ぶことで魔法のオンオフを切り替える手掛かりにしろと。
祈るような気持ちで、レオナルドはエヴの頭に手を当てた。
エヴがぐるりと首を回す。レオナルドの左手首を、クリフがつかんだ。
「百五十六個だ。気張るぜ」
「はい!」
息を吸って、レオナルドはぎゅっと目を閉じる。滲んだ涙が目に染みた。
十四年前に定められた人生。その筋書きに、こんな冒険はなかった。
(僕は信じられている)
目を開き、エヴを見る。何かを言おうと、薄い唇が開かれていた。
「【弱虫のひと噛み】!」
レオナルドは宣言する。
真っ白な光がほとばしり、エヴを包み込んだ。
古代魔術の解呪とはさながら、複雑に絡み合った鎖をほどき、その奥の鍵穴に合う鍵を作り出すような作業である。全身に古代魔術が書き込まれたエヴは言わば、鉄鎖の底に埋まっているようなものだった。鉄鎖を固定する鍵の数は百五十六。古代魔術の研究者でさえも、やってられるかと匙を投げるだろう。
目を閉じ、クリフはエヴの魂を探る。ここから先は、魔力の世界。魔術師の領域だ。
膝が地面についているのに、落下する感覚があった。レオナルドの魂を離さないように、しっかりと引き付ける。
(ようやく、ここからが俺たちの勝負だ)
そこは知覚外の次元。人体には毒となる量の魔力が作り出す、一瞬の中の永遠である。ただの人間ならば夢幻として忘却するその一瞬にも、黒魔術師ならば触れられる。かつて【八重塔遺跡】で、アルグレッドの魂を【亡霊】たちから掬い上げたように。
鈍った感覚が再び蘇る。クリフは顔を上げ、目を開いた。
クリフは、巨大な竪穴を落下していた。隣にいるレオナルドの輪郭は不鮮明で、今にも風で千切れそうだ。
土色の壁面が蠢く。巨大な目玉が、ぎょろりと二人を睨みつけていた。
壁から壁へ、二人の進路を阻むように鎖が渡されている。レオナルドの影が手を伸ばし、その鎖を打ち砕いた。
「!」
穴の底から、何かが這い上がってくる。壁面に爪を立て、数多の鎖を引きずりながら登ってくる、赤黒い怪物。
(防衛機構!)
クリフの右手に杖が現れる。こればかりは、レオナルドに頼ってばかりもいられない。
レオナルドの生得魔法は強力だった。十重二十重と絡まった魔術の鎖は、レオナルドの手のひらが触れたとたんに霧散する。いっそ爽快でもあった。
不鮮明なレオナルドの影。これを最下層まで導かなければ。
生得魔法とて消耗する。百五十六の魔術を砕くならば、それ以外のすべての障害をクリフが引き受けるくらいでちょうどいい。スカーレットが防御を崩し、ロップロップが穴を開けた。この機を逃せば、次はない。
「【精霊たちに希う】!」
水晶の中に、黒い光が宿る。
「【黒騎士】【纏】」
落下するクリフの爪先に、黒い鉄靴が現れる。渦巻く黒い靄がクリフを包み、鎧を形作った。鉄靴、脛あて、籠手。全身鎧にはとても届かないが、これ以上身に着けると機動力に差し障る。胴体の分の魔力はマントへ変換し、首に巻き付けた。
クリフの武装完了と同時に、怪物は暗闇からぬうっと姿を現した。
まだら模様の卵のような胴体に、蝙蝠の翼と長い首が生えていた。四肢もひょろ長く、蜥蜴の鱗と獅子の肉、隼の爪を持っている。ぬるりとした首の先に、角のない頭部が繋がっていた。目は胎児のように丸く、ピタリと閉じて一文字になっている。口は縦長。平たい牙が上下から二本ずつ生えていた。鼠が禿げ上がったら、あんな顔になるだろうか。
「気っ色悪い!」
杖を放り投げ、クリフはこぶしを突き合わせた。
「【名を与う】【名を与う】【汝が名はジャバウォック、ヴォーパルが剣に死せるもの】!」
右のこぶしを振り上げる。ガントレットが形を変え、指の根元に鋭い棘を生やした。
「これが俺のヴォーパルナイフだ、喰らえ!」
空中で足を踏ん張り、クリフはこぶしを振り下ろした。
エヴと双子が接触し、五分が経過した。
「……七十五……七十六……七十七……」
左手をエヴの頭に乗せたまま、レオナルドはぶつぶつと数を数えている。目を閉じ、眉間にはしわが寄っていた。
一方で、隣に座るクリフの表情は静かだ。同じく膝をついているものの、呼吸はゆっくりと安定し、汗の一つもかいていない。だが、杖を握る右手は白く、水晶が忙しく明滅していた。
「体が冷たい」
クリフの首に触れ、フォレイルが心配そうに声を漏らす。アルグレッドは意見を求めるようにロアルを見た。
「エヴに刻まれた魔術と戦っているんだ。魂が少し遠出をしているんだよ」
「死なねぇよな、それ」
「大丈夫さ。彼だって引き際は弁えてるよ。……たぶん」
ゼオルドは、レオナルドが倒れないように隣で支えている。レオナルドの頬を汗が伝った。
エヴは凍ったように動かない。皮膚を這っていた文字は、ずいぶん少なくなっていた。紫の髪から色が抜け、頭頂部から白くなっている。光輪はすでに、その欠片も残さず消えていた。
「……九十……九十一……」
静かな戦いだった。いつ決着するかも分からない。もしこの二人が負けたとなれば、その瞬間にエヴの首を落とすことになっている。
アルグレッドはちらりとロアルを見た。エヴの前に立ち、ロアルは刀を抜いている。本当ならば今すぐにでも、エヴの首を落としたいだろう。
それをしないのは、レオナルドの意志である。
『彼ともう少しだけ、話をさせてください』
青ざめた顔で、まったく自信なさげにクリフに引っ張られているくせに、レオナルドはロアルたちにそう懇願した。
『彼の魂が悪いものだとは、僕は思えないんです』
矢面に立つレオナルドにそう言われては、頷かないわけにはいかない。
「……クリフもたいがいだけどさ」
踏み込めば踏み込んだだけ、この兄弟は相手に心を砕く。
「お優しい王子様だね」
レオナルドが言っているのは綺麗事だ。どんな理由を並べ立てようと、エヴの狼藉はなかったことにはならない。
どれほど悲惨な過去も、加害の理由にはならない。
それでもこの青年は、対話を望んだ。そのために力尽くで、あらゆる手段を使って、エヴを自分たちと同じ席まで引きずり降ろそうとしている。
「お前こそ、ずいぶんとお優しいことだ」
クリフの隣に、アルグレッドはどっかりと腰を下ろした。
「人殺しっていう責任を、自分だけで負おうとしてる」
「これはボクのエゴさ」
抜き身の刃を上下させ、ロアルは笑い声を漏らした。
「問題に直面した時、人間はいくつもの手札から最良だと思うものを選ぶ。それの繰り返しが人生だ。ボクは彼らの手札に、『殺人』を加えたくないだけなんだよ」
ゼオルドはロアルを見上げ、それからしばらく目を伏せた。
「王宮で生きるやつらは、そんな清廉潔白じゃない。追い詰められたら、こいつだって」
「おや。追い詰めたときの姿こそ本性、と思うタイプかな。気が合わないね」
むっと唇を曲げ、ゼオルドは視線を逸らす。
「窮鼠猫を嚙むと言うだろう。それにボクは、清廉潔白を保ちたいなんて言ってない。優先度の違いさ。壁に直面した時、迂回するか、破壊するか。人間、これまで成功率が高かったほうを選びたいだろう?」
「つまり、お前は殺人という成功体験を与えたくねえって言ってんだな」
「その通り!」
刀を握った手で、ロアルはアルグレッドを指さした。
「ボクは誰かと敵対した時、『殺せばいい』なんて思うクリフは嫌だからね。そうじゃないから彼のことが好きなんだ」
「我儘だな」
「言っただろう? ボクのエゴだって」
アルグレッドは薄く笑った。
冒険者という身分は、時に、金を積めば何でもする暴力装置となる。傭兵業をしていれば、戦う相手はたいてい山賊などの人間だ。殺す気で襲い掛かってくる山賊を、勢いあまって殺したとして、それを責める者もいない。襲い掛かってくるほうが悪いのだから。
アルグレッドからすれば、ロアルは『殺すことを厭わない』側の人間だ。どのような人生だったのか、ロアルの中で『殺人』という手札は非常に強い。
初めて話したのは、【八重塔遺跡】近くの修練場だった。ロアルの仮面の下を見て、自分は殺されかけた。あの時絞め殺されなかったのは、ただ、自分がクリフの知り合いだったからだ。
『ボクも人を殺すことは好きじゃない』
人殺しが好きではないことと、殺して事態を解決することは、ロアルの中では矛盾しない。これで人殺しが好きなんだと言われていれば、アルグレッドは刺し違えてでもロアルをクリフから引き剥がしていただろうが。
「……なあロアル。お前さ」
ロアルは首を傾げ、アルグレッドに仮面を向ける。
「なんだって、そんなにクリフが大切なんだ?」
「あれぇ、話してなかったっけ。彼、ボクの恩人なんだ」
思い出して、ロアルは笑う。
「信じられる? 空から降ってくる得体の知れないものめがけて走ってくる、あの無謀さったら! 全然間に合ってなかったし。ボクを怖がったくせに、割とすぐに平気な顔して話し出すし。ボクの正体にまで気付いておいて、何一つ態度を変えないし。ボクを高く評価してくれるのはいいけれど、自分を低く見積もるのはいただけないよね。それに、」
声が弾んでいる。冷徹な双剣士から一転、でれでれとした声音で話し始めると、ロアルは止まらなかった。
(やぶへび……)
頷きつつ、アルグレッドは適当に聞き流す態勢に入る。
レオナルドのカウントが、百三十を超えた。
竪穴の先に光が見えてくる。クリフはマントでレオナルドの影を包み込んだ。
泡の音。クリフが目を閉じると同時に、二人は水に包まれていた。凍るように冷たい水。クリフは目を開き、さらに深く、水の底へと向かう。
(もうすぐ、エヴの魂の底だ)
果たしてあの青年に、対話が可能な自我が残っているだろうか。
水の底を突き抜け、二人は再び落下を始めた。視界が開け、周囲を包んでいた壁面が消える。二人を吐き出した水は、数滴後を追ってきたほかは、そのまま頭上にとどまっていた。
漂白された床が二人を迎える。足から着地し、少し転がった先でクリフは地面に手をついた。
「……ここが」
クリフが息を吐き、立ち上がるまでの間に、景色がざあっと塗り替わった。
青い、青い空。絵本のような水色の空に、クレヨンをこすりつけたような雲が浮かんでいる。地面は草原。目に痛いほど鮮やかな黄緑の草が、膝の高さまで生えそろっていた。
「レオ、おいで」
影に手を突っ込み、レオナルドの魂を引っ張る。影が膨れ、レオナルドの姿を形作った。
「百五十五まで来ました」
「あと一つか……」
「おそらくですが、僕が触れられない……体の中に、あるんだと思います」
クリフは黒いマントを脱ぎ、レオナルドに羽織らせる。
「俺がダメだと思ったら即刻帰るからな」
「はい」
レオナルドは手のひらを見下ろし、ゆっくりと指を折る。
「大丈夫です」
まっすぐな瞳で、レオナルドは草原の先を見た。
「僕は、エヴを救う」
少し羨ましい気持ちで、クリフはその背を押した。
風のない草原は、のっぺりとした色のせいでなおのこと作り物のようだった。そもそもが現実に存在しない空間であり、レオナルドの意識はクリフによって保たれているのだが。
しばらく、二人は草原をあてもなく彷徨っていた。目印になるのは雲くらいで、それも本物のようにゆっくりと形を変えている。二人分の足跡が、草原にまっすぐな道を作った。
草原の終わりは、唐突に現れた。空が白み、地面から色が抜けている。草が刈り取られた空き地に、一人の青年が座っていた。
二人に背を向け、青年は素手で地面を掘り起こしていた。白い地面から石を退け、砂をかき分け、土に爪を立てる。そうしてできた小さな穴に、枯れた花を植えていた。
穴が埋められ、枯れた花は白く透き通る。そのまま、ボロボロと崩れて地面に折り重なった。
レオナルドは、青年の先の景色を見る。無機質だが鮮やかな草原とは一転、空との境界がわからないほど白く、平坦な地面がどこまでも続いていた。
「エヴ、ですね」
青年の背に声をかける。
青年は手を止め、ゆっくりと振り向いた。
地面に溶けるような白い髪と、白い肌。瞳の色だけは、見慣れたエヴと変わらないエメラルドグリーンだった。その表情は見た目相応に落ち着いて、品定めするようにレオナルドを見据えている。
「初めまして」
青年は薄く笑い、静かに立ち上がった。レオナルドは目を見張る。
「……エヴ、ですよね?」
「ああ。僕はエヴ。君たちがそう呼ぶ人間の中の、使い潰されなかったひとかけら」
片腕を広げ、青年は穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ、お客様。ここは僕の最後の楽園。僕に施された、一番目の呪いの最果てだ」
乾いた風が吹く。草原の終わりと平原の始まりで、三人は静かに向かい合った。
エヴが腰を下ろし、レオナルドもそれに倣う。クリフは一人、数歩離れた場所に立った。
「あのまま、僕ごと消してしまえばよかったのに。その気になれば、できるだろう」
「……そうかもしれません。でも僕は、君と話をしたかったんです」
エヴが微笑する。
「使い潰されなかった、と言いましたね。……あなたと、外で話したエヴは別人なのですか」
「どちらとも。記憶は共有しているけれど、外のエヴは僕を知らない。一番はじめ、呪術師たちに僕が捧げられたその時に、僕の未来はなくなった。だからこの庭をもらった時に、僕自身をひとかけら、ここに住まわせることにした」
「……呪い」
レオナルドの視界に広がるのは、白い世界。どこまでも広がっているような、脱色された死の世界だ。
「それで、レオナルド。君は僕と、何を話しに来たんだ」
「君の目的を。君を縛る村はもう存在しない。けれど君は生きている。君は何のために人を集め、神様の真似事をしていたのか」
飾らない、鋭い言葉だった。エヴは少し驚いたように目を丸くして、それから笑う。
「そう望まれたんだ」
レオナルドは目を閉じ、ゆっくりとその言葉を嚙み砕く。
「誰に、ですか?」
「さあ。顔も名前も知らないけれど。それって大事なことなのかな」
エヴは石を拾い、レオナルドとの間に一つ置いた。白く平べったい石は、かちりと硬い音を響かせる。
「望まれたんだから、叶えないと。カササギ村の人間に僕を見せたい。人造の神の降臨を見たい。死にたくない。生きたくない。壊したい。壊されたい。そう望まれたら叶える。それが僕の役割だ」
一つ、二つと石を積み、エヴはその先端を指で押さえつけた。
エメラルドグリーンの瞳に、金色が映る。レオナルドは、不格好な積み石を見下ろしていた。エヴが指を放すと、石はばらばらと崩れる。
「だから、それがすべて叶うまで、止まれない」
「それは義務ですか?」
「うん」
崩れた石をもう一度積む。
「じゃあ、エヴ」
レオナルドの指が、一つの石を取る。
「君の願いは、なんだった?」
視線が重なる。
朝日が染める稜線のような金色。エヴはその光に目を細めた。手を伸ばせば届きそうな距離だが、触れることは躊躇われる。
「僕の、願い」
エヴは神として造られた。幻想種のような存在になれと願われた。
無法で、でたらめで、世界すら意のままに書き換えうる全知全能。それでいて人に執着する、人のための神。人にとって都合のいい神。
そうあれと願われた。
そうあれと造られた。
(……あのひとは、どんな顔だっけ)
自分を産んだ女の顔。自分の髪が白かったために、結局、手を繋いで歩くことすらしなかった女だ。必要だから乳を与え、麦がゆを与え、服を与えてきた。それを『母』と呼ぶのだと、ずいぶん後になって気がついた。
故郷――イワサザイ村は小規模な集落だった。赤子から老人まで合わせて二十数人。全員が仲間であり、隣人であり、家族だった。
幻想種の中という居場所は、迫害されてきた祖先には都合がよかった。一人の吟遊詩人により道は開かれ、土を耕し、石を積み上げ、森を切り開いて村を作り上げた。
しかし、やがてカササギ村は神へ至る秘術を忘れ、ただ海の恵みを享受し、貨幣経済に阿る凡百ばかりになった。そしてイワサザイ村も、神が不在でも平穏無事なら、それでいいだろうと恥ずかしげもなく言う者が現れた。
象徴が必要だった。
老人のような白い髪。母にも父にも似ない目。エヴは、たいそう都合のいい子供として生まれ落ちた。
お前は奇跡の子だと、背中からずっと誰かが語りかけてきていた。
十一年、母親の背中を追いかけて、しがみつくように生きた。
十二回目の春、自分は今後二度と、空を見上げることを許されなくなった。
そこからは、苦痛の記憶しかない。両手のひらに太い杭が貫通して、両脚は曲げたまま動かせない。そして暑さ。背中をじりじりと焼く光が、憎くてたまらなかった。どうして自分は死ねないのかと、静かな夜に何度も問うた。邪魔だからと声は取り上げられて、叫ぶこともままならなかった。
母は、どうして助けてくれないのだろう。
三日三晩経ってから、母は祭壇を訪れた。
『お前が神様になったら、ようやくお前を、産んでよかったと思えるよ』
氷のような声でそう言って、母はそれきり、二度と来なかった。
自分は、生まれてきてはいけなかった。そう言われたことは理解できた。
そこから幾年も、呪術師の声だけを聞いて、引きずられるように生き延びた。痛みはいつしか慣れた。暑さも寒さも感じなくなった。どうして、と問う心もかじかんだ。
『君は神様になるんだよ。この村のための』
けれど、そう。神になれと望まれたのなら。
神になれば、自分はこの村に、生まれてきて良かったのだと思えるだろうか。
知らない先祖の恨み節も。カササギ村への執着も。叶えてやればいい。それが神なのならば。
叶えよう。全て。永遠に生きたいなら永遠を。苦しまず死にたいなら死を。叶えればいい。全て。全て。全て。
『もうすぐ、お前が完成したら』
全て叶えて、満足したら、
『初めに、お前の母を殺しなさい』
きっと、愛してくれるはずだから。




