11)蛮勇の背中
あっという間に夕暮れがやってきた。エヴが眠っていることを確認して、ロップロップは近場の木に登る。
「見張りの交代がそろそろ来そうだ。ユークリッド、お前、飯は?」
「ありがとう。要らない」
木の実を抱え、ロップロップが降りてくる。
「俺もあんまり減ってないな。あの竪琴のせいかもしれない」
「ふうん?」
「あの竪琴は、いろんな傷を癒す力がある。空腹もまあ、体の傷ってことだろう」
林檎のような色のぽってりとした果実の皮を、ロップロップはオレンジのように剥く。クリーム色の中身は、甘酸っぱい香りがした。
ロップロップが果肉を頬張る。しゃく、しゃくと小気味いい音が、夕暮れの静かな廃村にはよく響いた。風が木々を揺らし、人頭果がそれに合わせて呻いている。
「……すっげぇ食欲なくなる」
「あはは、死体の山よりはマシじゃない?」
それに、とロアルはロップロップを見た。ロップロップは視線に気づき、振り返る。
「君が、あの林を作ったんだろう? だったら呻き声くらい、謹んで受け取らなきゃ」
夕暮れの風が、冷たく吹いた。
二つ目の果実を口に入れて、咀嚼する。仮面越しのはずのロアルが、ずっとこっちを見ている気がした。これは質問ではなく確認だ、と主張するように。
指の間から、果汁が地面に落ちた。
「どうしてそう思う?」
「君の奥さんが、琥珀色の目だったって聞いてね。エヴをあの穴に封印したのも、『琥珀色の目の占い師』だって聞いた」
人頭果の林には、林檎と枇杷を合わせたような果実がずらりと並んでいる。目と口のような切れ込みがあるばかりで、人間だったころの容姿は伺い知れない。
「君、約束を守るために、その竪琴を欲しがったんだろう」
ロップロップの手が、林檎色の果実を握りつぶした。
折れた皮から、ぼたぼたと果汁が落ちる。地面に落ちた果実に、蟻がたかった。
風が止むまでのしばらく、双方口を開かなかった。
「……軽蔑するか」
「さあ。評価をできるほど、ボクは君の人となりを知らないね」
「はっ。お優しいことだ」
ロップロップは、手に残った汁に舌を這わせる。苦い。
「気に入った。百年後くらいになら、竪琴を譲ってやってもいい」
「あはは。期待しないで待ってるよ」
木々の向こうに夕焼けが隠れ、空が藍色に染まりだす。
「………………」
エメラルド色の瞳が、暮れなずむ空を写していた。
魔術師が幻想種を「でたらめ」と呼ぶのは、その無法さゆえだ。
例えばユゥロ・ユワレと名乗っていた兎の姿の幻想種。彼は研究者の間では【停滞する永遠】あるいは【夢想する王国】と呼ばれている。願ったものに理想の夢を見せ、その夢と現実を重ね合わせてしまう世界の編纂者だ。魔術師が言葉と魔力と術式をもってようやく一時的に可能にする理の書き換えを、指先一つで何千年と維持させてしまう。人間が夢を見るのは、かの幻想種が人の願望を覗き見るためだと言う識者もいる。
人の言葉を解し、人の理屈に寄り添っていようとも、幻想種と人はそもそも存在する軸が異なるのだ。
魔術師は、全ての生物は『時間』の大河に沿って生きていると考える。遡ることのない絶対の世界の主軸である。原素子の姿を変え、概念を操ったとしても手が届かない場所に、時間の理はある。
一方で幻想種は、その時間からすら自由になれる存在だ。そもそも因果を遡っていなかったことになれる種である。生物という枠にはめることすら不可能な、しかし不可思議なほどに人の側に在ろうとする彼らを、古代の人々は神と呼んだ。
エヴは、そんな『神』として造られた。
(……あのひとはどんな顔だっけ)
久しぶりの痛みと微睡の中で、エヴは想起する。あの夜、鎖を引きちぎった夜より前のことは、全て、まどろみの中で見た夢のようで、不確かだ。
けれど、そう。神になれと望まれた。ならば神になろう。信徒を用意し、自分を仰がせ、欲しいものを与えてやればいい。
(……誰に?)
神になれと、言ってきたのは誰だったか。
記憶を手繰ろうとしても、どうしても、その先が思い出せなかった。
幻想種【周遊する異界】は群体である。毎年新しい個体が生まれ、内包する箱庭、【どこにもない国】と呼ばれている異空間の管理を一年任せられる。
しかし新しい個体が生まれたとしても、過去の個体が箱庭を手放すわけではない。箱庭は常に【周遊する異界】の内側にある。すなわち、五千の【周遊する異界】がいれば、五千の箱庭がそれぞれの時間とともに存在する。
木の実に魔術を書き込みながら、スカーレットはつらつらと講義をしていた。
「数千存在する【周遊する異界】は別個に同一の箱庭を内包している。だから、五年前に生まれた個体に接触しその箱庭に移動すれば、五年前のこの場所に移動することが可能ということだ」
「あー……あー? うん、ええっと、納得できないけどそういう理屈の生物……生物? なんですよね」
同じく木の実に魔術を施しながら、クリフは曖昧に返事をする。
場所は湖畔。少し離れた場所では、いまだレオナルドがスライムと格闘していた。もう日が暮れる。そろそろ、他の戦士と交代したロップロップが戻ってくるだろうか。
「それを利用し、私は五年前、エヴが神として覚醒した瞬間を見に行った」
「……は、い」
「理由を言うなら、今後のためだ。古代の魔法や呪術の資料は、いくらあっても足りるということはない」
完成した木の実爆弾を置き、スカーレットは次の実を手に取った。
「いつかの未来で、備えがあって良かったと誰かが胸を撫で下ろすために、研究というものはあるんだろう」
「……俺は冒険者だから、そういう論文とかの世界はわかんないっすけど」
「お前も書いてみろ。結構楽しい」
「嫌っす。絶対」
卒業論文で散々苦労した記憶があるクリフにとっては、論文、というだけで若干の拒絶反応が出る。スカーレットは探索部隊として忙しいだろうに、研究に割く時間はあるのだろうか。研究者の道から早々に逃げた自分とスカーレットでは、論文の捉え方も違うだろうが。
「話を戻す。先ほどお前たちに見せた本は、その時に入手したものだ。五年前のあの村で、私は三日間、異邦の占い師として受け入れられた」
「……占い師……」
何か引っ掛かる物があり、クリフは思考を巡らせる。だが、クリフが答えにたどり着くより先に、スカーレットが言葉を続けた。
「エヴを封じたあの結界。あれを作ったのは私だ」
クリフのペンが止まる。そのままゆっくりと上を見て、クリフは大きく頷いた。
「……思い出した。族長の爺さんが言ってた、琥珀色の目の占い師!」
「ああ、私だろうな」
スカーレットは仮面を持ち上げる。凛とした琥珀色の目が、クリフを見て微笑した。
「変な話だ。私は私が、五年前に残した足跡を辿りに行ったらしい」
「でも、納得もしました。あの結界が緩んだのは、スカーレットさんが仮眠していたっていう時間と重なります。……ん?」
とすれば、スカーレットはここで五年を過ごしたことになる。その五年間、まさか一度も眠らなかったわけもなかろうに。
「お前の疑問はもっともだ」
何もかも見透かしたように、スカーレットは頷いた。
スカーレットの襟から、一人の少年が顔を出す。クリフの肩が跳ねた。少年はひらひらとクリフに手を振って、スカーレットの肩に飛び移った。
「白い……ってことは幻想種?」
「エストレーラと呼べ、人間!」
仁王立ちし、少年はクリフを指さす。
「北極星」
「庭師に貰った名前だ。いいだろう。俺様たちはみんなツァッド神で俺様たちだから、個体名がある俺様はそれだけでちょっと特別というわけだ。ふふん。この先千年、俺様たちに自慢ができる!」
うるさい、とクリフは眉間にしわを寄せる。小さい体格に似合う高い声で、こうまくしたてられてはたまらない。
「こいつと五年っすか」
「ああ」
「スカーレットさんの忍耐力、俺も見習わなきゃなって思うんですよ」
「そう大変なことでもない。……もう一度話を戻そう。彼の権能で、五年ばかり私の肉体の時を止めてもらっていた。仮眠はその術を解くための時間だった」
肉体の時を止める。魔術でも魔法でもなく、奇跡の範疇の御業だ。こんな小さな少年でも、さすがの幻想種というわけか。
(ユゥロが施してた『不変の呪い』に似た術か?)
クリフは、人懐っこく笑う幻想種を思い出す。彼もまた、寿命や時間の概念に手をかけうる存在だった。
「結局探し物は見つからなかったがなぁ。今朝がたから腹も痛いし、俺様たちの苦悩は続くわけだ。あーあ」
肩の上でくつろぐ幻想種を、スカーレットはそっとポケットに移動させた。
「クリフォード、手が止まっている」
「あっ、すみません。……これ何個作るんですか?」
「族長殿から貰った実は五十個だ」
五十発も爆弾を作る必要はあるのだろうか。若干疑問がよぎりつつも、クリフは次の木の実に手を付けた。
「さっきのレオの話なんですけど」
五つ目の完成品を点検し、クリフはちらりと隣を見る。
「エヴの事情は分かりましたし、あいつがカササギ村の人たちを攫った理由……というか、まあ、動機の一端みたいなのも分かった気がします。でもやっぱり、俺たち含めてカササギ村に全員帰ることの必要条件に、エヴの打倒は並びませんよね」
「そうだな」
先刻ははぐらかした問いに、スカーレットはあっさり頷いた。
エストレーラはポケットから這い出し、かごに入った木の実を眺めていた。スカーレットのかごから一つ木の実を取り出すと、指先でちょいちょいと文字を書く。
「エヴはあの廃村が生んだ怪物で、私も、カササギ村の人間も、エルフたちも被害者だ。本来は関係ない。エヴから逃げおおせればいい」
「でも、それじゃスカーレットさんは納得しないんすよね」
「そういう感情の話じゃない」
ぴしゃりと言われ、クリフは首を縮めた。
「レオナルドもお前も、ユークリッドもいる。今を逃したら、誰がエヴに引導を渡せる? 逃げるというのは、先延ばしにするということだ。いつか、誰かが向き合わなければいけない。あの怪物と」
「……そうっすか」
口元を緩め、スカーレットはクリフを見る。
「私は反対に、お前が羨ましい。お前のように、助けたいという気持ちだけで動けるのならどんなにいいか」
「いや、別に俺だって、助ける義理ねえなって思ったら助けないっすよ」
「嘘つけ」
鼻で笑われ、クリフは唇を曲げた。
ザマルという国が背後にいるスカーレットは、必然、理性的であることを常に求められる。危険を冒すというのは最終手段であるべきだ。理屈をこねくり回し、メモと図面と資料を前に腕組みをして次の行動を決める。常に、大局を見て動かなければいけない。
対してクリフは冒険者である。目の前にいる怪我人を助けるか否かは、瞬きの間に本人が決められる。例えば魔物の口に仲間が捕らえられていたとして、自分もその口に飛び込んでしまえるのが冒険者だ。
そして、気難しいふうをしているくせに、いざとなれば真っ先に走っていくのが、クリフォードという男である。
「ともあれ、方針は決まったな。あとはレオナルドをエヴに確実に届ける方法か」
「あいつがさっさと感覚をつかんでくれれば、今すぐ連れて行くんすけどね」
麻酔はしばらく効いているはずだが、それはクリフの体感である。実際のところ、エヴが今すぐ目覚めない保証はない。
「……ますますこんな内職みたいなことしてる場合じゃない気がしてきたんすけど」
「使わなかったら花火にでもしよう」
スカーレットが木の実を置く。完成した爆弾は二十個になっていた。エストレーラが両手で木の実を掲げ、几帳面に並べている。
「レオナルドは切り札だ。最良のタイミングでそれを切るために、手札は溢れるくらい用意しておきたい」
クリフは顔を上げ、レオナルドのほうを見る。肝心の切り札はというと、うつぶせで湖畔に転がっていた。隣に立つゼオルドが、こちらの視線に気付いて振り返る。ゼオルドが声を掛けると、レオナルドは足だけをじたばたさせた。
「……頼りねぇー……」
「信じてやれ。兄だろう」
「それとこれとは違くないですか?」
クリフが八つ目の完成品を置く。
角笛が響いたのは、次の瞬間だった。
「……!」
「【術式起動】!」
クリフが杖を握って立ち上がるまでの間に、スカーレットはすでに術式の起動を終え、一歩を踏み出していた。
二人の魔術師は斜面を駆け上がり、エルフの集落へと向かう。湖を取り囲む森の木々のさらに向こう、むき出しの地肌が浮いている。廃村のある浮島だ。
角笛と同時に、エルフたちはいっせいに大木に駆け込んだ。脱出してきた人間たちは、ヨナーシュが大木の陰へと誘導している。
「私が前に出る。アルグレッドとフォレイルを守護に。レオナルドはまだ出すな」
「はい!」
スカーレットは浮遊魔術を起動。地面を蹴った力をそのまま、上空への推進力に変える。
じきに夜が来る。一度影が落ちると、湖畔からエルフの集落まで、あっという間に暗闇が広がった。鮮やかな緑から深い鉄色へ、森の木々も表情を変える。その向こうに浮かぶ島は未だ、夕焼けの橙色に染まっていた。
(どこだ)
角笛が鳴らされたということは、エヴが覚醒したということだ。丸一日すらもたなかったか。しかし、誰がそれを責められようか。
森から、いっせいに鳥が飛び立った。羽ばたきと枝葉のざわめきが、風と共にスカーレットに迫る。
「!」
千里眼を解除する。眼前に、銀色の光輪があった。
「占い師!」
吠えるエヴの顔も、すぐそこに。右手に振りかぶっているのは、鉈だ。スカーレットは盾を纏った左腕でそれを受ける。
(魔力迷彩とは恐れ入る)
千里眼とは通常、見えないものを視る術だ。だがエヴは今、その千里眼すらも騙して接近していた。本人がそれを意図していたかは分からないが。
「あああ、見つけた。見つけた見つけた見つけた! やっぱりお前だったんだ!」
エヴの左手が、スカーレットの仮面を弾き飛ばした。頬を打たれ、スカーレットは後方に飛ぶ。
銀色の光輪が回転し、エヴは左胸に手を当てた。息とともに、数滴、血が吐き出される。
「……そうだ、最初から」
右手から鉈が滑る。エヴの目が、エルフたちの大木をとらえた。
「みんな、そこにいたのに……は、あは、あっはははははははははっははははは! なんだそうか、そうか! そこにいたんだ! 僕が、かみさまが、いなくたって」
げらげらと笑った数秒後に、凍ったような無表情が顔に凝る。
「じゃあ殺そうか。うん。そうしよう」
鉈が地面に突き刺さる。その僅かな音すら、頭痛を呼んだ。
空中にとどまりながら、スカーレットは次の魔術を準備する。地上を見下ろすと、クリフと数人のエルフが追い付いたところだった。
エヴの目が下を向く。スカーレットは木の実をつかみ、エヴに迫った。ばらまかれた木の実爆弾は、不可視の障壁の外側で炸裂する。
(こっちを見ろ)
スカーレットは上へ飛んだ。エヴはすぐに興味が移り変わる。今しがた害そうと思った人間よりも、目の前を飛ぶスカーレットのほうが気になるはずだ。
浮き沈みが激しく傍若無人。人への攻撃にもためらいがない。だがそれは、幼子が羽虫の羽をもぐようなものだ。結果羽虫が苦しもうが死のうが関係ない。
攻撃をしのぐことはできる。ならば、時間は稼げる。エヴを地面に降ろせさえすれば、可能性は――
「……!」
スカーレットは自分の誤算を悟る。エヴの目に、嫌な見覚えがあった。
(殺す気だ)
攻撃魔術を中断し、防御魔術に切り替える。頭、首、胸、腹。急所の前に防御壁を展開しながら、白魔術を準備する。
「スカーレットさんっ!」
クリフが悲鳴のような声をあげた。
エヴがこぶしを振る。光輪が光を増し、エヴの顔に影を落とす。空が藍色に染まる中、銀色の光は目に痛いほどだった。
「ああああああああああああああっ!」
叫んだのはエヴだった。背中を押されているような悲鳴に、必殺の攻撃が乗っている。
こぶしと防御壁が激突する。ぐにゃりと、半透明の障壁がたわんだ。
時間にすれば、障壁が稼いだのは一秒もなかっただろう。ほんの一瞬、文字通り、目を閉じて開く程度の時間。何をしようにも、あまりに短すぎる猶予だった。
「【痛覚遮断】!」
攻撃が届くと同時に、スカーレットの詠唱が完了する。エヴの攻撃は、スカーレットのみぞおちに直撃していた。重ねていた防御魔術が、あっという間に打ち砕かれる。
腹筋が悲鳴を上げ、内臓が圧迫される感覚。だがそれらはすぐに遠ざかり、代わりにどろりとした眠気に襲われた。腹部を見ないようにエヴを睨みつけ、スカーレットは右手を伸ばす。
近接戦闘を選んでくれたのは幸いだった。痺れ始めた右手は、まだかろうじて、エヴの首に届く。
「【術式干渉】」
指の腹が、エヴの首を下から上へと撫でる。青白い閃光が、スカーレットの指先からエヴの首へと迸った。
「……い」
スカーレットの手を払いのけ、エヴは首を引っかいた。薄い皮膚が削れ、血が滲む。
「う、ああ、ああっ! あああああああああああああああっ!」
青白い光が皮膚を這い、そこに文字を刻み込む。エヴはその文字を引っかきながら、スカーレットを睨みつけた。
「いぃ、痛い、かゆい、いいい! 嫌いだ、やっぱりお前大っ嫌いだ!」
赤いこぶしが振り上げられる。今度は避けなければ。それが無理なら、何とか致命傷で済ませられないだろうか。エヴが降下してくる一秒が、スカーレットには嫌に長かった。
「失礼!」
こぶしが届く寸前、黒い影が割り込んできた。
降下していたスカーレットは、その乱入者によって横へと引っ張られる。間一髪、エヴのこぶしは乱入者の外套をかすめただけだった。
「ひゃー! 怒ってる!」
「……ユークリッド……?」
両腕でスカーレットを抱え、ロアルは「おひさ!」と返事をした。
「お前も、空を……飛べたの、か」
「まぁさか! 落ちてるだけさ! 余裕ぶってね!」
ロアルの背には、ロップロップがしがみついていた。
目の前から消えたスカーレットを、エヴは目だけで追いかける。その皮膚に、赤黒い文字が浮かび上がっていた。
まるで魔術師の刺青のように、文字はエヴの皮膚を埋め尽くす密度で刻まれていた。スカーレットが撃ち込んだ閃光はその隙間を縫い、新たな文字を重ねる。
視界が明滅し、エヴの光輪の輪郭が揺らぐ。体を折り曲げ、エヴは両手で顔を覆った。
「あ、あああ、ああああああああ」
血の臭いがする。湧き上がった感情が沸騰したかと思えば、言葉になる前に消えてしまう。怒りと殺意だけがぐるぐると渦巻いている。
『お前は神だ』
知らない男の声が、耳の奥を這いずる。不快感のままに耳を引っ掻き、また傷を増やす。傷の痛みは一瞬で過ぎ去り、不快感だけがこびりつく。
夢現に思い出すのは、いつも、身勝手なこの誰かの声だ。
「うああああああああああ! うるさい、うるさいうるさいうるさいいぃいいい!」
幻聴に怒鳴り、エヴは両手を掲げる。
光輪よりも眩い火球が、その先に現れた。
状況は見る間に悪化していた。空中で弾けた赤に、クリフは顔を蒼白にする。
「【浮流】!」
落下してきた三人を受け止める。
「スカーレットさん! 腹、腹の肉まだありますか!」
「無事、だ」
ロアルが空中で巻いたのだろうか、濡羽色の外套で腹部が覆われている。だが受け止めた瞬間に、その外套から血が滴っていたのをクリフは見逃していない。
「無事って言わねえっすよこれ!」
エルフの戦士が二人、担架を担いで走ってくる。
「湖へ! あの湖には治癒の力がある。命があれば助かる!」
「了解。ボク一人でいいから、しっぽ君はクリフ助けてあげて」
担架の中央を持ち、ロアルが走り去る。杖を両手でにぎり、クリフはゆっくりと息を吐いた。
「……どう撃ち落とす。弩砲なんかねえぞ」
「エルフって結界張れるか」
ロップロップはクリフを見上げる。蜂蜜色の双眸は、空中のエヴから少しも目を逸らさない。
「今すぐ走って行けば、里を覆うくらいなら」
「時間は稼ぐ」
水晶が緋色に光る。クリフはロップロップを振り返り、片手で口の端を持ち上げた。
「頼むぜ、妖精様」
おう、と応えるように、ロップロップはこぶしを突き出した。
見上げた先では、エヴが巨大な火球を掲げていた。渦巻きながら成長するそれは、高温のためか白く、輪郭が不確かだ。
草原にただ一人残り、クリフは歯を食いしばる。
(さぁて、何秒稼げるか)
スカーレットですら、近づいた途端に腹を抉られた。クリフに勝機があるとすれば、この距離しかない。
「【精霊たちよ】」
杖の先端を、旋風が覆う。
見上げる火球は、地面に熱が届くほどになっていた。
「【其は根源より来たる喘鳴】【万物避けられぬ絶対の理】【疎み、恐れ、嘆き、慄き】【さりとて救いはかくありき】!」
唱えながら、クリフは己を叱咤する。今更何を恐れることがあるのか。
危機なら何度もあった。【八重塔遺跡】で体を乗っ取られた時も。サデュラ支援会の地下で足を折られた時も。【幻惑の森】の地下で、巨大な人形に追いかけ回された時だって。
同じ命の危機だろうに、どうして。
(……そうか)
目を焼くような火球が撃ち下ろされる。その軌道の先にあるのは、エルフたちの集落だ。
アルグレッドも、レオナルドも、トートも、フォレイルも、ゼオルドも、まだあそこにいる。エルフたちもいる。ヨナーシュたちもいる。
自分が止めなければ、きっと。
(ああ、クソッタレ)
恐怖を振り払うように、クリフは笑った。地面を蹴り、火球の軌道に割り込むように飛び上がる。
迫る膨大な熱の塊は、生半可な術では飲み込まれておしまいだろう。
だから、クリフは賭ける。火球が自分に到達するまでの一秒に。
「【天翔ける湮滅】、食らい尽くせ!」
杖を振り下ろす。空中に残った軌跡は左右に開き、巨大な目を描き出した。
太陽喰いの術である。




