3)旅は道連れ
ザマルで少しいい食事をするなら、南のレイニー通りがいい。と言っても、身なりが整っていない冒険者に後払いをさせてくれる店は多くない。そしてそんな店はたいてい、ギルドのカフェに負けず劣らず安く、量が多く、味が今ひとつである。
「……まあ、腹にたまりゃいいんだよ」
ちょうど昼飯時である。混み合ってまともに動けないギルドよりはマシだが、うず高く積まれたマッシュポテトは、『熱い』以外の感想が出ない代物だった。円卓を囲むのは、主従五人にソルードを加えた六人である。トートはソルードを引き渡すと、そそくさとギルドへ帰っていった。
「はあ……側近にも秘密にしてきたのに」
「お前の部屋に隠し本棚あるのは知ってたけどな」
パサつくパンにバターを塗りつけて、レオナルドは憔悴した顔をゼオルドへ向ける。
「そーいうのは言わない方が優しいんじゃないかなあ!」
「別に、禁止された趣味でもなし。魔術機工学は、レガリアにも使われているんだろ?」
「そうだけどさあ」
ロアルの膝に座り、ソルードは忙しく双子の顔を見比べていた。
「兄さんが二人、みたい」
「双子っていうんだよ。そんなに似てるんなら一卵性双生児かな?」
「ソーセージ?」
ソルードはウィンナーを掲げる。その向かいで、アルグレッドが小さく吹き出した。
「環境が違うとはいえ、双子は似るんだねえ。何歳で別れたの?」
「四歳です。……といっても、兄上は覚えていらっしゃらないと思いますが。仲良しだったんですよ、僕たち」
両手を合わせ、レオナルドは目を細めた。割ったパンにぎちぎちにポテトを詰め、クリフはそれをソルードに差し出す。ソルードはクリフの手から直接かぶりついた。
「……記憶は確かに、なかったよ。心臓に結び目を作る、古い魔術。ま、今更どうでもいいけどな。十四年も離れてたんなら他人も同じだ」
ぐぐ、とまたゼオルドの顔が険しくなる。ブラックコーヒーを啜りながら、レオナルドは「そうですねえ」と苦笑いをしていた。
「でも僕は、兄上に会えて嬉しいですよ」
「……そちらさんも?」
クリフに見られ、ゼオルドは顔を背ける。頭に巻きつけたターバンが緩み、筋張った手がそれを押さえつけていた。
「……まあ、喜んでないこともない。これでこのバカの無謀な旅も終わるんだ」
「王族の側近にしては、口の悪い従者だね。ちょっとご主人が優しすぎるんじゃない?」
「ゼオ、お城では結構ちゃんとしてるんですけど……」
頬を掻き、レオナルドは困ったように笑った。
「ロアルさんはその口ぶりだと、身分のある方に会ったことがおありなんですか?」
「あはは、まあね。こう見えて宮廷仕えだった時代もあるんだよ。雑用だったけど」
胸に手を当て、ロアルはふふんと得意になる。
「あれ、お前護衛騎士っつってなかったか」
「俺は王女様のお付きって聞いた」
アルグレッドとクリフに、ロアルは「全部ほんと」と答える。
「なにしろ長生きしたからねえ。見習いから雑用、下働き、側仕えから護衛まで何でもやったとも」
「長生き、ですか。国のお名前をお聞きしても?」
「ああ、アルターレだよ」
さらりと告げられた国名に、レオナルドの表情が凍る。
知っている、という顔だった。クリフは紅茶を置き、慎重に表情を伺う。
「……どこだ?」
アルグレッドが小声で問うてきた。
「【不夜の王国跡】」
「ああ……ああ!?」
声が跳ね上がり、クリフは片手で耳を塞ぐ。国名は確かに失われているが、冒険者ならば、そのダンジョン名は聞いたことがあるだろう。
険しかったレオナルドの表情が、ぱあっと明るくなる。
「お空の遺跡ですねっ! えっ、あれアルターレなんですか!? 世界で一番の魔術機工学国家で、レガリアを作ったのもあそこだって。王宮にも研究者が……す、すみません」
「君は本当に魔術機工学が好きなんだねえ」
うんうん、と頷くロアルは、クリフには微笑んで見える。クリフが全く興味を示さなかったぶん、ロアルも嬉しいのだろうか。
「小難しい話の前にさ、君たちの旅の話を聞かせてくれるかい。そのポテトの山が消える頃には、ボクたち、今よりちょっと仲良くなっているだろうから」
ロアルに脇腹をつつかれ、クリフは眉間のシワを深める。お前も努力しろ、と言われているような気がした。満腹になったらしいソルードが、クリフの膝に移動する。
「僕たちの旅、ですか。冒険者の皆さんには大したものではないかと思いますが……」
記憶を辿るように、レオナルドは視線を空に向けた。
ギルドに戻ると、クリフに来客があった。満腹で眠ったソルードをロアルに預け、クリフは窓際の席へ向かう。
「久しぶりだな、魔法使い」
仮面を頭に乗せた赤毛の女――スカーレットが座っていた。
「……俺をご指名ですか? マジに?」
「まじだ。少し時間をもらえるか」
スカーレットが立ち上がる。クリフは頷いて、レオナルドたちに軽く頭を下げた。レオナルドはスカーレットに会釈してから、宿の部屋へ向かう。
スカーレットの向かいには、椅子が二つ用意されていた。クリフとロアルが腰かけると、スカーレットは古びた巻物を取り出す。
「【どこにもない国】の伝承を知っているか」
「絵本レベルなら」
「同行を願いたい」
「えっ!?」
大きめの声が出る。ロアルの上で寝ていたソルードが、「ふがっ」と顔を上げた。片手でソルードを撫でながら、クリフは改めてスカーレットの顔を見る。
「えっと……俺【鋼鴉の嘴】じゃないっすけど」
「知っている。コーヴィスの仕事ではなく、私の個人的な探索だ」
コーヴィスは、ザマル直属の探索部隊である。小さい国ながら学術的分野の成果のみで地位を築いたザマルにとって、ダンジョンを攻略できる冒険者は重要な存在だ。
信頼ができる冒険者を集め、国家直属として雇い入れたのがコーヴィスの始まりだった。スカーレットは二代目の隊長である。ザマル出身ではないながらも、優れた魔術師として名を知られている。
「コーヴィスは冬の間に新人を採用して、春先にかけて教育する。もちろんいくつかの依頼はこなすが、休みくらいはあるんだ」
「はあ。でもなんで俺……」
「【どこにもない国】なんて、探せるのは魔術師だけだろう」
それはそうかも知れないが。
「場所とか時期って決まってます?」
「来月頭から一週間、場所は春寄谷だ。南方の海岸沿い」
クリフは頭の中でアークリヴァルティの地図を広げる。聞いたことがなくもない地名だ。南の海沿いということは、内海に面した場所だろうか。内海と言っても広く、陸からは見えない距離に島がいくつもある。
(エルディンバルラの近くだな……)
その内海にある群島が、エルディンバルラである。ザマルから普通に進めば、徒歩と馬で十五日はかかる。頭の中の地図に『春寄谷』を見つけ、クリフは首を傾げた。
「今月あと四日しかないですけど」
「グリッツェラーに行けば汽車がある。明日出立すれば間に合う計算だ」
「明日ぁ……」
幸か不幸か、エルディンバルラと同じ方角である。あの王子はさぞ喜ぶだろう。
「【どこにもない国】って、妖精が住む国だった気がするんすけど、何をしに?」
「探し物だ」
スカーレットは腰に手をやった。翼を象った金具に、鎖に繋がれた装飾が連なっている。飾りの数は七つ。そこから、古びたペンダントトップが外された。銀色で楕円形、ロケットのようだ。
「この男を探している」
ペンダントに入っていたのは、古びた写真だった。小さく、色もすっかり褪せているが、少女と子供が並んでいるのが見て取れた。少女の年齢は十代後半、子供はその半分ほどの背丈で、フード付きのマントを羽織っている。異国風の袖のない服と、そこから覗く細い腕。顔は口元しか見えないが、少年だろうか。スカーレットが『男』と言っているのなら。
「汽車代は二人分なら私が出す。危険があると判断したら撤退してもらって構わない。あくまで私の個人的な依頼だ」
「それ、ボクたちに何かメリットは?」
ロアルが口を挟む。ペンダントを腰に戻し、スカーレットは頷いた。
「私があたりを付けた、【どこにもない国】の入口がこれだ」
地図の上に、開かれた手帳が乗った。こまごまと書き込まれた中に、小さな水鳥の図がある。
「【周遊する異界】……」
年に一度だけ姿を現す生体ダンジョンの名前だ。生体ダンジョンは大抵、姿すら不明瞭な幻想種だが、この鳥は定期的に現れるため姿が知られている。そうか、とクリフは納得する。毎年【周遊する異界】が現れる場所が、確か春寄谷だ。
「近年、春寄谷に七賢人の伝承が残っているのが分かった。谷を襲った怪物を音楽でもって鎮め、心通わせたと言われている」
「はあ。ザマルの七賢人が?」
「そうだ。【絡繰師】イェル。フルネームは、イェルハルド・ユークリッド」
一瞬ロアルに視線を向けてから、スカーレットは頷いた。
青魔術の祖、【絡繰師】。七賢人の一人であり、その功績は現代にも色濃く残っている。その最大の偉業と言えば、魔術を一般人の手の届く『道具』としたことだろう。
「そして【絡繰師】の遺産といえば、かの有名な賢人のライアー……『歌う竪琴』だ」
椅子を蹴り、ロアルが立ち上がった。
「それは、ひとたびつま弾けばあらゆる創を癒す、治癒の竪琴で間違いないかい」
「ああ。正確に言うなら、複数の魔術を組み込んだ高度魔術増幅具だな」
「スカーレットさん、なぜそれを?」
ロアルが探しているのは『風に咲く花』と『歌う竪琴』、そして『空を征く船』である。うち船は【八重塔遺跡】で入手し、『風に咲く花』は未だ見つかっていない。竪琴に至ってはそれらしい情報すらなかったのだが。
「コーヴィスにはいろいろな情報網があってな。お前たちのことを調べれば、ギルドでどんな会話を誰としていたかも分かる」
「おっそろし。じゃ、ボクをそれで釣れると踏んだわけだ」
「そうだ。そうまでしても、私はクリフォードの助力が欲しい」
口元を緩め、クリフは首筋を撫でる。じわじわと、顔が熱くなってきた。
「そ……ういうことなら、受けますけど。いいよな?」
「もちろん。また君に借りができちゃうね」
では、とスカーレットが立ち上がる。
「明日の昼、南の城門前で会おう。同行者は何人でも構わないが、お荷物にならないこと、汽車代をまかなえることが条件だ」
「分かりました」
また長旅になる。先に相談だろうか、と、二人の冒険者は頷き合った。
最終的に同行者は八人、【精霊の秘密箱】を旅の間の宿とすることに決まり、ザマルからは二頭の馬を借りて出立した。
「ユークリッドは馬に乗らないんだな」
「あいつ、動物全般苦手らしくて」
スカーレットが先導し、クリフがそれに続く。旅慣れた馬は、街道に沿って軽快に駆けた。クリフの膝の間で、ソルードが目を輝かせている。
「お前たちが精霊の祝福を持っていて助かった。しかし、驚いたな。【幻惑の森】に踏み入って、まったく無事で戻ってくるとは」
「運が良かったっていうか、そう、あの……すごく強い魔術師の人がいたんすよ。そこに。そのおかげさまで」
クリフは視線を泳がせる。スカーレットは仮面を押さえ、「そうか」と短く頷いた。
ザマルから南下すると、半日ほどで次の町が見えてくる。馬宿を中心にした、小さな宿場町だ。馬宿で馬を返し、スカーレットとクリフは人気のない路地へ移動した。
クリフが懐から、太陽の装飾のある鍵を取る。空中に鍵を突き出すと、がちゃりと不可視の鍵穴に差し込まれる感触があった。鍵を回すと同時に、白い光の粒が鍵穴を形成する。鍵を引き抜くと、光を伴い、その場に扉が現れた。
ほの温かいドアノブをひねる。快適な気温の庭は、今日も快晴だった。星明りの下、玄関先のランプが橙の光を落としている。
扉一枚で繋がった異空間。三人用の家に九人となると流石に手狭で、有り余る土地に天幕が張られていた。焚き火を囲み、すでに夕食の準備ができている。鍋をかき回していたトートが、クリフたちに気づいて立ち上がった。
「あんたら毎日ここで寝てんの? 羨ましい」
「そりゃどうも。美味そうじゃん」
「ふふん。ザマルでスパイスが手に入ったからね」
天幕は二つ。片方がアルグレッドたちのもので、もう片方がレオナルドたちのものだった。レオナルドたちの天幕はほとんど新品である。折り畳みの支柱とロープで支えられた五角錐の中に、板と布で寝床が作られていた。
「トートとスカーレットさんでうちの寝室使えよ。俺は外でいいから、ソルード頼む」
「別にあたしも外でもいいけど、まあそう言うならお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「兄上、あとで工房を見せていただいても?」
「いいけど、大して面白くねぇぞ」
「クリフォードの工房か。私も興味がある」
九人が焚火を囲み、ロアルを除く全員の手に料理が行きわたった。ロアルは代わりに、ソルードを抱えている。
「大人数。賑やかでいいねえ。乾杯でもする?」
空の器をロアルが掲げる。
「気分じゃねえ」「祝い事でもなし」「座って食べなさいよ」「スープで乾杯する文化があるんですか?」
「……うん、いいや」
一斉に返ってきたすげない言葉に、ロアルはそっと手を下ろした。
焚火の火が小さくなり、薄暗くなったキャンプに家からの光が落ちる。洗い物を終えたフォレイルが、空の鍋を抱えて戻ってきた。アルグレッドとゼオルドは、それぞれの天幕で寝床を整えている。幸い、【精霊の秘密箱】内は気温が一定で、雨も降らず、風もほとんどない。粗末な寝床でも、普段よりは快適に過ごせるだろう。
ぱちん。木が爆ぜ、火の粉が散る。満腹になったソルードは、クリフの上で涎を垂らして眠っていた。
「クリフ、夜の間にボクが距離稼ぐから、ちょっといい?」
「ん? おう」
クリフはソルードを下ろす。
庭の中心には、白土の道がある。玄関へとつながる道の反対側には、木製の門があった。門といっても枠だけで、その左右からは低い柵が伸びている。形ばかりのこの境界が、【精霊の秘密箱】と外の世界とを繋いでいた。
クリフが木製の枠に手を伸ばすと、そこから宿場町へ繋がる扉が現れる。二人が門をくぐり、すぐにロアルが自分の鍵で扉を作った。
「なるほど、物理依存空間転移術か」
庭に戻った二人を、スカーレットが出迎える。
「さすがっすね」
「実物を見たのは、私も初めてだ」
この庭を含む細かな魔術については、実のところクリフも把握しきれているわけではない。こと転移魔術は難易度が高く種類も多い。まして行き先が異空間となれば、安定させるのは並大抵の技術ではない。
精霊から受け取った鍵は三つ。それぞれの鍵が外の世界で扉を作り、庭に繋げることができる。そして同じ鍵を使って外の世界に戻る際、必ず同じ扉に繋がる。
「異空間への転移で最も難しいのは存在証明だ。我々という自我が我々たり得るのは如何に、という魔術の基本を揺らがせる。だが物理依存、すなわち我々が生きる世界の魔素とその鍵を結びつけることによって、この空間を『ある』と世界に勘違いさせていて……」
焚き火の隣で、クリフはメモを片手に頷いている。つらつらと続くスカーレットの講釈に、レオナルドは舟をこいでいた。他の冒険者たちはすでに寝る準備を終えている。
「さて、じゃあボクは夜の散歩に」
ランタンを片手に、ロアルはそそくさとその場を離れた。
同じ扉に繋がる。それはつまり、ロアルが移動した先で扉を作れば、クリフたちは眠っている間に半日分の移動ができるということだ。
睡眠も休息も必要のないロアルにとって、ただ待つ夜は痛いほどに静かで、長い。
扉をくぐると、宿場町はしんと静まり返っていた。町外れの方へ行けば、まだ開いている店もあるだろう。だがそこから先は夜の街道。旅人どころか、犬猫すらいるか怪しい。
(静かな夜は慣れたと思ってたけど)
引き返して、魔術談義の聴講をするのも悪くない。あの二人は嬉々として、夜更けまで語ってくれるだろう。知識を語るのは楽しいと、ロアルもよく知っている。
最近寝言を言うようになったソルードを、のんびり観察するのも悪くない。尾が邪魔で仰向けになれないソルードは、ころんころんといつも落ち着きがない。一晩に何度寝返りを打つだろうかと数えていたこともある。
「…………」
生きている生物には睡眠が必要だ。それは当たり前のことで、成長期のソルードと魔術師のクリフには尚更、可能な限り寝ていてほしい。
今回も長旅だ。その後には大物ダンジョンが控えている。ならば、体力はいくら温存してもしすぎることはない。いっそ移動は全て自分に任せてくれてもいいくらいだ。ロアル一人なら、走るだけで馬よりも速く目的地に着く。
「……流石に汽車には敵わないけどさ」
「そりゃよかった、常識的で」
「君は早く寝に行きなさい」
扉を後ろ手で閉め、アルグレッドがロアルの隣に並んだ。
「散歩、なんだろ?」
「そう、散歩」
「じゃあ付き合っても問題ねえな」
腰の剣に腕を乗せ、アルグレッドは挑発的に笑った。
「ついてこられるなら、ご自由にどうぞ」
どうせ、一時間も走れば倒れるだろう。そうしたら庭に放り込んでおけばいい。生身であるアルグレッドが、限界のない自分にどこまで追いすがるか見るのも悪くない。
軽い足取りで、ロアルは走り始める。アルグレッドの早歩き程度の速さだった。小さな宿場町は、あっという間に端が見えてくる。
街道へ出た瞬間、ぐん、とロアルは速度を上げた。硬い靴で地面を蹴ると、軽い体は飛ぶように進んだ。
アルグレッドもまた、それに合わせてペースを上げる。一歩一歩、足跡を刻み込むような蹴りで体を前へと押し出していく。
黒衣を翻らせるロアルは、月下で舞う蝶のようだ。軽やかなその動きが、アルグレッドには羨ましく、憎々しい。まだ冷たい夜の空気が、もう心地よくなっている。体温に合わせて息も上がり、まもなく心臓の拍動が耳の内側でこだました。
夜の町は遠ざかり、やがて街道は、起伏のない田園地帯へ入る。まだ青草も生えそろわない黒土の畑は、月明かりの下では一層黒々として見えた。
前を走るロアルが、くるりと振り返る。
「そら、がんばれ、がんばれ。まだ三キロしか走ってないぜ?」
「うっせ、え!」
煽りながらも、ロアルは速度を緩めない。いっそ優雅にすら見えるその後姿が、アルグレッドに拍車をかけた。
呼吸が浅くなる。普段は自分の思うとおりに動く体が、どんどん重くなってくる。自分の足首に、鉄鎖が巻きつけられているような。
(ああ、くそ)
無謀な挑戦をしたものだと、少し前の自分を憎む。
この双剣士は、決して優しくない。アルグレッドは生身だからと、散歩を本当に散歩にしてくれるような、そんな気遣いも持ち合わせていない。
利己的で、無神経で、挑発的。そのうえ秘密主義で排他的だ。そんな双剣士が、なぜあれほどクリフに入れ込んでいるのか。自分と別れ、ギルドに戻るまでのほんの一時間で、いったい何があったのか。聞いたところで、クリフは目を逸らすだけだった。
もちろんロアルとて、まったくの人でなしというわけではない。会話の中では気を遣っていると分かることもなくもない。むしろ、人の心の機微を分かったうえで、あえてそれを無視し、逆撫でするタイプだ。非常にタチが悪い。義弟も義弟でややこしい性格をしているものだから、変に折り合いがいいのかもしれない。
クリフとは、アルグレッドが八歳の時に義兄弟になった。事情は知っていたし、そういうものだと自分を納得させるしかなかった。何も知らずにちょこちょことついてくるクリフは可愛いもので、大事な弟になるのに時間はさしてかからなかった。
大切だった。どんな事情があっても。それだけは譲れない感情だった。
だからこそ、冒険者になったときは血の気が引いた。
育った郷に帰ってくれればそれでいい。通用しなかったと気を落として。懐かしい村に戻って、気心の知れた連中と、のんびり羊でも追いかけて。
だというのに。
『ヤだよ。そんなに俺のやることなすこと気に入らねぇならやめさせてみろ』
(あンのクソガキ!)
短気は損気とは言うが、善意を真正面から蹴飛ばされて苛立たないほど、アルグレッドも人間ができてはいなかった。
先を走るロアルが、また振り返っている。
久しぶりに会った義弟は、眉間のしわが消えていた。
あの双剣士は、言葉を間違えなかったのだろう。それが羨ましく、妬ましく。そんな自分が嫌になる。
息が続かなくなり、アルグレッドは俯いた。流れた汗が目に入る。いつのまに、こんなに疲れ切っていたのだろう。
「限界?」
少し先で、ロアルが待っている。まだ足は動く。動くのだが。
「痛ってぇ……」
「すごいすごい。結構走ったね。冒険者とはいえ、アスリートってわけでもないのに」
「うるせ……」
数歩進んで、アルグレッドはしゃがみ込む。一度止まってしまうと、無視していた疲労がどっと来た。いくら吸っても、空気が胸に入っている気がしない。
たった数歩先で、悠然とロアルは立っている。上がる息もない。痛む腹も胸もない。眠らなくていい。休まなくていい。
「……お前はずるい」
喘ぐように吐き出した。
八つ当たりだ。分かっている。クリフはもう自分の道を見つけて、それを押し通す強さを持っている。勝手に心配して、勝手に悶々としている自分が悪い。
「……ほんと、君たちってば似たもの兄弟」
穏やかな声音で言い、ロアルは片手を差し出した。
「ボクは君のほうが羨ましいけどね」
「あ?」
「ボクってば所詮、この時代の『お客さん』だから」
アルグレッドを立ち上がらせ、ロアルは鍵を取る。
「さ、水浴びでもしてお眠りよ。一人で走るのなんか、ボクにとっては苦じゃないもの」
「別にお前を気遣っちゃいねえよ」
「あはは! そういうところまでそっくり」
足元がおぼつかず、アルグレッドはどさりとその場に座り込む。手袋に包まれた右手が、蒸れて気持ちが悪かった。
「ボクもそういう家にいたから分かるよ。王家もそうだけど、その側近の家って面倒くさいんだよねえ。教育方針もガッチガチだし」
「……そうか、お前も、側近の家の……」
「養子。というか間借りしててね」
左手の指先で外套をつまみ、ロアルは片足を引いて礼をする。大仰な芝居がかった動作はしかし、指先の角度まで完璧な騎士の敬礼だ。
「賜りし名はロアル・ユークリッド。名誉あるアルターレ王家に魂を捧げ、地の果て、時の果てまでその名声を届けんがために空を駆ける。これがボクの存在理由」
すっと姿勢を正し、両手で仮面を支える。
「……だった。君は?」
「……あー」
重たい体を、よっこらせと持ち上げる。
この仮面の双剣士が何を考えているのか。相変わらず、よく分からない。
だがこういう時、どう応えればいいのかは教えられている。
「父より受けた名はアルグレッド、賜った名はエスクード。神話を繋ぐ国エルディンバルラの王家アータートンに仕え、唯一、その御身御心を護るために在る」
手のひらにこぶしを当てる。片目で様子をうかがうと、ロアルは腕を組んでいた。
「……が、最近、少しばかり気疲れしている」
「ボクが『エスクード』を引き継いだんだから、気楽にしてればいいのに」
「そうは言っても、体は動くもんだろが」
それに、と目を伏せ、アルグレッドはゼオルドを思い出す。ターバンから覗く黒髪も、銀色の瞳も、昔と相変わらずだ。
「『血』の責任は、クリフ一人のもんじゃない」
「古い考え方だね。否定はしないけど」
さて、とロアルはアルグレッドの背後に回る。そこに作った扉を開くと、アルグレッドの襟首をつかんだ。
庭に放り出され、アルグレッドはそのまま仰向けに倒れる。
「おやすみ、勇者君」
扉が閉じると、しん、と静寂がのしかかってきた。
しばらく走ったとはいえ、夜はまだまだこれからが長い。日の出を朝として、ロアルはどこまで進むだろうか。
(…………)
水浴びをして、服を着替えて、寝床に行きたい。
そんな気持ちを抱えたまま、アルグレッドは眠りに落ちた。
近年、グリッツェラーは工業の発展が目覚ましいが、それを支えているのがゲラルディ鉄道だ。熱結石を利用した蒸気機関車は、東西、南北それぞれの主要都市を繋いでいる。
「春寄谷は湧水で作られた峡湾だ。起伏が激しく複雑な地形だが、グリッツェラーにとっては大事な海路の玄関口でもある」
「西方の海岸は、エストラニウスがほぼほぼ独占しちゃってるそうだもんねえ」
汽車の二等車両は、四人がけの個室になっていた。席に着くのはスカーレット、ロアル、クリフ、そしてアルグレッドだ。それ以外の面々は、スカーレットが用意した手鏡を通して会議を聞いていた。
「我々が目指すのはここ。比較的内海に向かって開けた場所にある海辺の集落、カササギ村だ」
発展目覚ましいとはいえ、それは主要都市だけの話である。その恩恵が届かない村落では、出稼ぎに行く若者が増えた程度の変化だ。
多くの村がそうであるように、辺境の集落は往々にして、閉鎖的で人の出入りを嫌う。それを偏屈な田舎者と称する冒険者も少なくない。
クリフとアルグレッドが育ったエンデの村は、そういう意味では寛容であった。どこから来たか、どんな不幸を運んできたかも分からない旅人の逗留を許し、村民として受け入れたのだから。
病、諍い、真っ当ではない商売に、果ては麻薬。『外』からもたらされる不幸は、小さな村程度なら容易く潰してしまう。その村の跡地を見た旅人が話を運び、小さな村ほどより閉鎖的になっていく。
カササギ村も、そんな閉じた村の一つだった。
「私の母の故郷だ」
スカーレットにとっては、口伝でしか知らない場所である。




