9)変わらずの祝福
グレン・リーデバルドは、魔法とは無縁の狩人の息子だった。
魔術に触れることも、文字を覚えることすらなく、獲物を狩り、それを捌いて売る人生を歩むと思っていた。きっとそのことに、不満はなかっただろう。四、五十年の人生を謳歌して、満足して死んでいく。父や祖父のように。
そう思っていた。
(……昔の俺が聞いたら、鼻で笑うだろうな)
休みなく走り回った足は重く、魔導鉱石で処理しきれない反動で頭痛がする。道を塞ぐ瓦礫を杖の一振りでどかし、グレンは再び、玉座の間の扉を開いた。
「……できる」
幻想種は三日で、八百年停滞するこの地下都市を作り上げた。
かつて神は七日で、万年続くこの世界を作り上げたという。
「あいつらが、脱出するまで」
クリフがいるのだから、安定した空間まで逃げられればいい。今一番の問題は、ユゥロの支配から外れ、魔力の制御が効かなくなったこの空間だ。
ほんの数分。ほんの数分だけ、あの幻想都市を再構築すればいい。万一岩盤の落下に脱出が間に合わなくとも、クリフとユゥロがいるのならば、生き埋め直後に死にはしないだろう。あとは精霊が見つけるはずだ。
目を閉じて、息を吸う。思い浮かべるのは、あの巨大な薔薇の迷路。幻想種が描いた夢幻の礎。それを、人の業で再現する。
「……【精霊たちに希う】」
まずは魔術を受け止める基盤を。グレンの足元に、二重の円と正方形が刻まれる。
「【エブラ・ウラ・アフ・ソルド】」
(範囲固定、魔力集積、回路接続……神経系、血管、脊髄、変異固定)
「【ユグ・ロトス・トゥリアン・スロノス・ヴァシリオ】……」
一分一秒、詠唱の時間が惜しい。短縮不可な詠唱は口で、それ以外は脳内で。いくつもの魔術を、同時並行で処理していく。
一言ごとに、新たな円が空中に現れる。見えざる指でなぞった跡が残るように、円は重なり、方形と文字が重ねられ、魔法陣として完成する。グレンを中心に、十三個の陣が完成した。
掲げた右手の甲に、十四番目の陣が浮かぶ。
「っ……」
一瞬の逡巡。
「――【顕現せよ】!」
全ての魔法陣が、同時に起動する。
それは目の奥が焼けるほどの、痛い光だった。
地響きでバランスを崩される。堀の橋を渡り、王城前の広場へ。クリフは杖とユゥロの瓶を、ロアルはソルードとリアの瓶を抱えている。
「あとは直線だ。クリフ、飛べる?」
「十秒くれ!」
崩落はますます進んでいた。砂粒や小石をともなって、人の頭ほどの石も落下し始めている。純白の都市は薄茶色に染まり、天井を照らしていた鉱石が抜け落ち、舗装を貫いて突き刺さっていた。
十秒。足を止めるにはあまりに長い。
「分かった」
だが、ロアルは即座に了承した。
クリフは足を止め、杖を両手で構える。結界によって閉ざされていた空間は、魔力も気味が悪いほどに管理されていた。その結界が破壊された今、一気に流入した魔力が激しく渦巻いている。魔力の奔流の中で、自分の魔術の精度をどこまで上げられるか。
それはさながら、嵐の夜の畑に、目隠しで放り出されたかのような心細さ。しかし自分がどうにかしなければいけないのだ。一分一秒、まごついている時間が惜しい。少しでも安全なところへ。
(――――あ)
閉じた目の奥で、光が弾ける。自分の右手に、誰かの手が重なるさまを幻視した。瞬間、その手に導かれ、飛行魔術が編まれる。こう、とクリフが思うままに、杖が天翔ける箒へと姿を変えた。
見上げれば、落ちてくるはずの石や岩が、空中で静止していた。ロアルも上を見て黙っている。
周囲には、たった今ロアルが払いのけた石が、ふわりと浮かんでいた。地面に落ちるでもなく、どこへ飛んでいくでもなく。
「……不変の」
「乗れ!」
状況を察せないクリフではない。乗れと言いながらロアルの襟首をつかみ、一気に上昇した。浮遊する岩の間を縫い、家々の屋根の上を通過して、神殿の上へ。幸い、穴はまだそこにあった。
「ロアル!」
「ああ、大丈夫!」
両手で杖をにぎりしめ、クリフは垂直に上昇する。その先の空間は暗く、突入時に見た緑の光はどこにもなかった。まだ地上は遠い。
(このまま、)
間に合うかなど考えないほうがいい。間に合わせるのだ。必ず。すでに疲労で両手がしびれている。術式を長時間起動しっぱなしにしたせいだ。心臓が痛い。魔力炉が熱い。またこんな無茶をと、知られたら怒られるだろう。誰に? それは、分からないが。
(俺の無茶で済むなら安い!)
垂直の穴を抜けると、瓦礫の雨の真下だった。あの緑色の太陽の衛星だ。間一髪でそれをかわし、クリフはさらに上を目指す。
「あった!」
小さな光。ハユ・エ・トゥラによって放り込まれた、地上へとつながる穴だ。まだ遠いが、このままならば。
ガラ、と、嫌な音が降ってきた。
「!」
再び、轟音とともに空間が揺れる。数分の沈黙を破って再開した崩落は、絶望的な速度で進んでいた。クリフ達がいるのは、巨大な洞のほぼ中心。天井すべてが落ちるとすれば、逃げ場など。
距離は。障害物は。杖の飛ぶ速度は。視界は。
杖を握る手が震える。穴は遠い。目の前のロアルは、三人を抱えている。今から魔術を切り替えるか。飛行魔術の解除。次の魔術の起動。発動までの時間差。
――――無理だ。
(ひとり)
死の予感に痺れる頭が、一つの結論を出す。
(一人なら、間に合う)
同じ出力なら、軽い方が速く、遠くまで飛べる。当然の道理だ。
「【防御壁】【付加】」
迷うまでもなかった。
杖から手を離す。垂直に上昇していた杖は、あっさりとクリフを置き去りにした。はっと振り返ったロアルに、微笑する。
落ちるのは自分一人。抱えるのはソルードと瓶の二人の三人。ロアルは、その三人を放り出せない。知っている。冷徹なふりをしたお人好しのサガを。
バカ、と叫ばれた気がした。
目の前の岩を打ち砕きながら、杖はまっすぐに地上へ向かう。あの速度ならば間に合うだろう。あるいはロアルならば、数メートルくらいなら、岩盤を足場に駆け上がれるかもしれない。
きっとあとで、たっぷり怒られる。
(……それは、ちょっと嫌だな)
背中に衝撃があった。開いた口から、かふ、と息が漏れる。声は出なかった。痛みが来るより先に、どろんとした眠気に襲われる。足を折られた時ほどは、痛くなかった。
急速に意識が遠ざかり、目の前に迫る岩盤に目を閉じる。
「――馬鹿者」
耳元で、風の音がした。
夕焼けが空を赤く染めている。もうじき夜だというのに、森は騒がしかった。それもそのはず、森の中心部に、都市丸ごとひとつの廃墟が現れたのだから。崩落の地響きは森全体に伝わっており、風、水、土の集落の人々は、ルル・リ・テハウの張った結界の中に集められていた。
抉り取られたかのような大穴の縁に、ロアルは立っていた。
「埋めるのは忍びなかったんで、ひっくり返したんだってさ。すごいね精霊って」
おずおずと、クリフはロアルに近づく。普段よりもぶっきらぼうな声色と頑なな背中は、それだけで近寄りがたかった。
「あ、ああ、うん。そうだな」
振り返らないロアルに、頭を掻いて視線を彷徨わせる。黒魔術師の血がなくても分かる。怒っている。
「悪い」
「何が?」
首を縮めて、クリフは口を閉じた。
「自己犠牲に走ったこと? それとも、相談しなかったこと?」
振り向いて、やれやれとロアルは首を振る。
「グレン、だっけ。王子様もそうだしさあ。魔術師ってみんなそうなの? 自分を勘定に入れないことをよしとする教育でもされてる?」
「別に……、あれが最善だと思ったってだけで」
「最善っていうのはさあ」
ロアルはクリフの胸元に指を当て、じっ、と見上げてくる。
「全員、犠牲なく脱出。そうじゃない? 今回は運良く、精霊たちの救出が間に合ったけど。それだって王子様の時間稼ぎでようやくだ。誰かの犠牲の上に成り立つ最善なんて、まっぴらごめんだね」
普段の軽薄さはどこへやら、ロアルはぴしゃりと言い切る。冷たく突き放すような声色に、クリフは眉根を寄せた。
「俺だって、進んで犠牲になるわけじゃねえよ。でも……その。俺は、間違った判断をしたつもりはない。勝手に動いたことは、謝るよ」
「……はぁーあ。もう、しょうがないなあ」
穴の縁に座り、ロアルは頬杖をついた。クリフは隣にしゃがみ、ロアルの顔を覗き込む。親の顔色を伺う子供のような表情だ。ロアルはその顔に手を伸ばし、鼻をつまんだ。
「君のそういうどうしようもないところ、嫌いじゃないけど。嫌いだなあやっぱり」
「どっちだよ」
「あはは」
ひょいと立ち上がり、ロアルは踵を返す。
「さ、復興の手伝いしなきゃ。風の集落がひどいんだって。それとも君は、仲直りのお手伝いでもする?」
「できれば復興で」
「ああごめんごめん。ご指名あったんだよ、兎君から。忘れてた」
「くっそ」
クリフの背中を軽くさすり、「怒ってないよ」と冗談めかして言う。そうは言っても、許したわけでもないだろう。事実、当分魔術は禁止だと、杖を取り上げられている。
大穴から、即席の道沿いに南下すると避難所がある。ルル・リ・テハウが張った結界は、薄い水の膜でできていた。内部は木々の少ない広場のようになっており、三つの集落から百人程度の人々がキャンプを張っていた。
クリフが避難所に入ったと見るや、一人の少年がものすごい勢いで駆け寄ってきた。年はソルードと同じくらいだろうか。目が覚めるほどの白い肌に銀髪、赤い瞳を持っている。
「匿え、クリフォード!」
クリフの返事の前に、少年はクリフの外套に飛び込み、背後に回って胴をつかむ。
「わっ!? えっ……、お前ユゥロか!?」
「いいから匿え! まだ覚悟ができない!」
「覚悟って何の……」
強風が、クリフに向かって吹き下ろしてくる。思わず目を閉じて、開くとそこに薄荷色の青年がいた。
ハユ・エ・トゥラはずかずかと近付いてきたかと思うと、ようやくそこでクリフに気付き、足を止めた。
「お前か。……リア・ユワレとグレンは生きている。ルルに任せた。時間はかかるが必ず呪いは解く」
「お、おう」
「礼を言う、金色の魔術師。ようやく、時計の針を進められた。お前も体を休めるといい。疲れているだろう」
「そうしたいのはやまやまなんだが」
少年の指先が、クリフの脇腹に食い込んだ。「痛えって」とクリフは外套をめくる。少年はクリフ越しにハユ・エ・トゥラを見上げるが、すぐにさっと顔を隠した。
「あー……、あー、もう。精霊。あんた、ユゥロって名前、覚えてるか」
「ユゥロ……」
ハユ・エ・トゥラは目を細める。覚えていないか、とクリフは苦々しい顔になった。
この精霊が、かつてのエルトマーレの王だったのは間違いないだろう。ユゥロの態度がそれを示している。ユゥロが精霊を拒んでいたことも、精霊が、わざわざ人間を送り込んでまで契約を終わらせようとした理由も察せる。
だが、人間の魂が精霊に変異したとして。人間の魂とは蝋燭に灯された火のようなもので、精霊とは海から掬い上げた水の一杯のようなものだ。それほどまでに、違う理屈の中で存在している。
たとえ人間の記憶が残っていたとして、それをどこまで自分のものと認識できているだろうか。時間の経過で、不要なものだと忘却されていてもおかしくはない。
兎を巣穴から連れ出せ。真意はどうあれ、それをこの精霊は依頼し、今こうして、追い出された兎は無事でいる。そこに、我が子と愛しんだ相手への気持ちが、なかったとは思えないのだが。
ぐるぐるとクリフが考えを巡らせていると、その肩に、半透明の手が置かれた。
「仲良くしてやってくれ。自慢の息子なんだ」
脇腹に食い込む指から、少しだけ力が抜けた。クリフは外套を持ち上げ、ユゥロの顔を覗き込む。ユゥロはきゅっと唇を噛み、ハユ・エ・トゥラを見上げていた。眉根を寄せ、ハユ・エ・トゥラは困ったように笑う。
「覚えているのは、もう、それだけだ」
嘘だ。そう感じたのは、黒魔術師の血か直感か。ハユ・エ・トゥラの目は一度も、ユゥロに向いていなかった。見えているだろうに。
息を吐き、クリフはユゥロの襟首をつかんだ。
「父親ならさあ」
外套から引っ張り出し、ユゥロの背中を押す。
「あんたが先に勇気出せよ」
つんのめったユゥロは、ハユ・エ・トゥラに受け止められる。ユゥロの手は熱く、反対にハユ・エ・トゥラの手は冷たかった。生物の熱さと、冬の風の冷たさだ。
「あ……」
咄嗟に離れようとしたユゥロを、ハユ・エ・トゥラが引き止める。少年の姿となっているユゥロの顔は、ハユ・エ・トゥラの胸元にうずめられた。
「……冷たい」
「冬だからな」
文句を言いつつも、ユゥロは目を伏せた。
そそくさとその場を離れ、クリフはロアルを探す。結界は一緒に通ったはずだ。ソルードもどこかで寝かせられていると聞いている。
「…………」
少し離れて振り返ると、精霊と幻想種は、静かに互いを抱きしめていた。目を伏せ、クリフはその光景に背を向ける。頑なに唇が引き結ばれ、自然と大股になっていた。
「うらやましい?」
少し先で待っていたロアルが、片手を挙げる。クリフは不機嫌そうに首を横に振った。
「別に」
「そう。今日の夜はお祭りだって」
「呑気かよ」
確かにあたりを見ると、子供たちが集まって何かを編んでいたり、急ごしらえの炊事場に女たちが集っていたりする。違う集落に住む血縁者もいるのか、そこかしこで立ち話に花を咲かせていた。
「元来お祭りって儀式だろう。今日ほどふさわしい日もないと思うけどね。よかったじゃない。お酒もあるかもよ」
「……飲めねえっつっちまったんだよな……」
「残念だったね!」
「嬉しそうに言いやがって」
穏やかな風が、木々を揺らす。その音に顔をあげてみれば、周囲を覆う結界はいつの間にやら消えていた。藍色に染まる空に、星が瞬き始めている。
「やあやあ立役者。解放の騎士のお出ましだ!」
広場の中心から、火の精霊、ギル・リ・キルが二人を呼んだ。快活な少女の姿は、濃い闇の中でこそ明瞭になる。広場の中心には、クリフの背丈ほどの薪が組み上げられていた。
「感謝するよ」
組木の上から飛び降りて、少女はクリフとロアルを抱き寄せる。ぎゅ、と一度だけ強く引き寄せると、熱そのものの少女はさっと離れていった。
「さあ、歌は好きかい? 踊りは? 下手でも好きなら構わない。祝おうじゃないか、この善き日をさ!」
橙色の指先が空を指す。火の粉が舞い上がり、その中から光の球が飛び出した。垂直に飛び上がった球は木々の上で爆ぜ、夜空に大輪の花を咲かせる。
色とりどりの火の粉を見上げ、クリフは言葉を失っていた。育った村やザマルでも、新年の祝いに花火を上げる。だが、これほど色鮮やかなものは初めてだ。
「綺麗?」
ロアルの問いにうなずいて、少し経ってから「ああ」と付け足す。
「ソル、起きられるかな。そんなに綺麗なら、見せてあげなきゃ」
「お前も見ろよ。目玉貸してやるから」
「やだよ、そんな危ないこと。ちょっと待ってて」
肩に手を乗せ、ロアルはクリフを座らせた。
見上げた夜空では、鮮やかな光の花が咲いては消えている。人々は大きな火を囲み、手拍子と杖の音を響かせていた。組木の炎の中で、ギル・リ・キルが踊っている。
ぽつねんと座っているクリフに気づき、風の村長が隣に来た。
「酒は?」
「……遠慮しときます」
甘ったるい香りの中に、アルコールのつんとする匂いが混ざっていた。果実水の器はありがたく受け取り、喉を潤す。
「精霊殿は四人で、昔一人の王だったと聞いている」
「んぐっ」
唐突な言葉に、クリフは思わずエルヘを見る。まだ若く見える村長は、目に憧憬を浮かべて微笑していた。
「不思議なものだ。我々には計り知れない遠い過去の遺恨を、我々からすれば未来に生きる君たちが晴らしてくれた。感謝する」
「……別に」
「魔術師殿」
ぐい、と盃を押し付けられる。
「謙遜は美徳だ。しかし感謝は、受け取ったほうがいい」
「……、……どう、いたしまして……?」
満足したように、エルへは大きくうなずいた。
エルトマーレ最後の王、ツィリルから生じた精霊は四体。ルル・リ・テハウは、彼の知的好奇心を色濃く引き継いだと言われている。悠久の時を生きる精霊にとって、人間の好奇心は満たされない渇きにも似ていた。
たとえ宇宙の真理を理解したとしても、その外側に思いを馳せるだろう。そんなルル・リ・テハウにかかれば、グレンの命をつなぐことなど朝飯前だった。
「そういう意味では感謝すべきかもしれないけど、ボクはやっぱりあの精霊嫌い」
工房の前にしゃがみ、不機嫌な声でロアルは言う。ルル・リ・テハウの工房は、避難所からほど近い大木の上に作られていた。枝で包まれた水の球の中で何が行われているのか、外からは伺い知れない。
「精霊のサガってやつだろ。嫌ったってしょうがない」
「でもソルが過呼吸になったんだよ」
「それは……うん」
クリフの足の間に収まって、ソルードは体を丸くしている。検査をすると明け方に呼び出され、もう一時間も待ちぼうけを食らっていた。ソルードの体温に眠気を誘われ、クリフも何度も欠伸をしている。
「寝てていいよ。呼ばれたら起こすから」
「ん……いや、大丈夫だ。お前こそ、手伝いがあるならそっち優先に」
「君たちの検査結果は、リーダーとして把握しておかないとね」
ち、と舌打ちをひとつ、クリフはソルードの頭に顎を乗せて目を閉じた。
「にいしゃ、しっぽ、いたいいたいじゃない?」
「別に。お前こそどっか……なんか角伸びてねえか?」
「つの?」
指先で角をなでると、ソルードは「うひぃ」と声を漏らす。首の後ろで、数枚の鱗が逆立った。
「結局あれは何だったんだ……獣人の生得魔法か、それとも……」
「にぃしゃ、おなやみ?」
「んー? うりうりうり」
「ふえっ……きゃーははっ! あひひ、えひひっひひひひひ!」
脇をくすぐられ、ソルードは転げまわる。長い尾が何度も床を叩き、枝を揺らした。手足をバタバタとさせながらクリフの腕を逃れ、ロアルの胸に飛び込む。
「はあーっ、はあーっ……にいしゃ!」
「あはは、悪い悪い。ほらお前の特等席。おいで」
「んうーっ、おれ、あかちゃんじゃない!」
言いながら、ソルードは両手でロアルの腕を引き寄せる。ロアルとクリフは顔を見合わせた。
「それはそれは。じゃあソルはもうお兄ちゃんなんだね。一人で寝られるね?」
「うぇっ、う、うう」
「そうだなあ。ダンジョンに潜るってなると、一人で留守番もできないとなあ」
「ん、んう……ううん」
ぶんぶんと首を横に振り、ソルードは膝を縮めて丸くなった。クリフは苦笑を浮かべ、自分の膝を叩く。
「でもそーだなあ。ソルがあんまり早く立派になると、それはちょっと兄ちゃんが寂しいなあ。あーあ、もうここに座ってくれねーのかなー」
「……ふひひ」
しょうがないなあ、と言わんばかりに、ソルードはクリフの膝に乗る。得意げにふふんと鼻を鳴らし、両手でクリフの外套を引き寄せた。
「おやおや、まるで玉座だね」
「にいしゃ、ぎゅー!」
「はいはい、ぎゅー」
満足げに尾の先端を上下させ、ソルードは後頭部をクリフの胸元にこすりつける。
「……何の話してたんだっけ?」
「あー、まあ、そんなに大切じゃねえことだよ」
ソルードの頭を撫で、クリフは顔をほころばせた。
集落の復興に三日、森全体の魔力の調整には、精霊総出でさらに四日かかった。
地下崩落から八日目の朝、クリフたちは王都跡地に呼び出された。解散になった避難所の片付けもそこそこに、眠たげに目をこするソルードの手を引いて、大穴へと向かう。
大穴の縁に、銀髪の少年が立っていた。クリフが呼びかけると、頭の上で兎の耳が立ち上がる。
「お前、結局その姿で安定したのか」
「別に。今日は子供の気分ってだけだ」
ユゥロ・ユワレは腕を組んで反論し、それから笑う。
「お前たち、雪解けまでいるんだろう? いいものをやるから、おいで」
「いいもの?」
「魔術師のお前なら、きっと喜ぶ」
ユゥロが手を振ると、空中に透明な板が現れる。ユゥロがそれを踏むと、鉄琴のような音が鳴った。
音を響かせながら、四人は空中の階段を降りていく。
朝霧が薄れると、白いエルトマーレの王都があらわになる。廃墟と化してなおその荘厳さは衰えず、朝日に凛として、かつての栄華を誇示していた。
魔法国家エルトマーレ。アークリヴァルティ大陸において、島国エルディンバルラと双璧を成す、神秘の生きる国だった。魔法の体系化にいち早く着手し、公用語であったルクソー語は、現代においても古代魔法の呪文として用いられている。
いずれ、この王都は廃墟ではなく遺跡となる。エルトマーレの民は去り、国の名は歴史の一部となり、わずかな子孫は精霊の庇護下での生き方しか知らない。
永遠を願われて、永遠を夢見た。そんな王子と王女だけを残して、全ては過去になってしまった。
「僕たちの夢は終わった」
崩れ落ちた王城の前に降り立ち、ユゥロはクリフを手招きする。背中を押され、クリフは足を踏み出した。
「なのに生きている。不思議だ。こんな未来が来るなんて」
「……そうか」
ユゥロが、小さな手を差し出した。
「ありがとう」
握手を交わし、クリフは不器用に笑う。
「どう、いたしまして」
ぐい、とユゥロはクリフの手を引き寄せた。
「で、な? お父様と話したんだ。やっぱりお前たちには、とびきりの礼をしないとって」
「ん?」
手を離し、ユゥロは踵を返して走り出した。その先には、王城と町をつなぐ大橋がある。まだ瓦礫の残るそこに踏み込んだ瞬間、ユゥロは両手を広げ、にっ、と笑った。
「さあ」
小さな足跡から、奇跡が芽吹く。
「さあ」
白い光の粒が舞い上がる。ユゥロの歩に合わせ、くすんだ橋が純白に塗り替えられる。欠けた欄干に光の蔦が這い、白い薔薇が花開いた。
手に従い、光は王城へと進む。ユゥロが両手を振り上げると、光が空へと立ち上った。
「さあ!」
朝霧が吹き飛ばされる。
痛いほどの光が去ると、そこには、堅牢な城壁と大門が現れていた。扉の前に立ち、ユゥロは片足を引いて礼をする。
「今度こそ本当に、歓迎しよう。エルトマーレ最後の国賓として」
扉が開く。え、と思わずクリフは声を漏らした。
見覚えのある、芝生の庭園があった。道を縁取るのは白い薔薇。道の先には王城の正門ではなく、八角形の東屋があった。白い柱に柵、ドーム型の屋根が乗っている。
庭園へと目を向けると、芝生の間に小さな花々が咲いている。空のような青い、星を持つ花。寄り集まった桃色の花。四季折々の野の花が、風に揺れながら、現れては消えていた。
朝日に照らされたこの美しい庭園も、まぎれもなく夢の産物である。クリフがユゥロを見ると、ユゥロは少しだけ得意げな顔をした。
「さあ、話をしよう。太陽の魔術師。夜色の騎士。そして幼き雷霆。ハニーアップルティーはお好きかな?」
ガゼボでは、ハユ・エ・トゥラとリアが待っていた。




