7)愛は哀より出でて哀よりも
頭痛がして、クリフは目を覚ます。気を失っていたらしい。息を吸うと、埃っぽい空気が鼻に入ってきた。
「げほっ、オエッ」
「おはよう」
目の前にロアルがしゃがんでいた。暗い中に、仮面が浮かび上がっている。数度咳き込んでから、クリフはのそのそと起き上がった。
「どうなった?」
「幻想種って怒ると怖いんだねえ」
クリフの隣には、グレンが倒れていた。呼吸と脈拍を指先で確認してから、クリフは改めてあたりを見回す。
きらびやかな王城でも白い都市でもない、奇妙な風景が広がっていた。地面はタイル張りの床のようだが、壁は板にチョークを擦り付けたようなまだらな白、柱の代わりに円形の積み木が置かれている。横倒しになっているのは、大きなクレヨンだろうか。それで描かれたと思しき絵が、壁に乱雑に張り付けられていた。
子供部屋の床に、豆粒ほどになった自分たちが放り出されているような。上を見ると、黒い幕が自分たちを覆い隠していた。
「……どういう状況だ?」
「何とか、あの怒った兎君からは逃げおおせたみたい。ソルが隠してくれたんだね。でも脱出口がふさがれちゃったんだよ」
「ソル?」
黒い幕が揺れ、ぐうっと長い首をもたげて飛竜が顔を出す。オーロラ色の大きな目が、ぱちくりと瞬きをした。
「……ソル?」
指をさすと、飛竜は肯定するように頷いて見せた。
「クルルゥン」
飛竜の喉から、甘えたような声がする。硬い鼻先をクリフに擦り付け、飛竜は身を伏せた。
「……うん。いい、ちょっとこれは、あの、後回しにしよう」
「そうだね。目下の問題は、あの兎君の攻略だ」
クリフの膝に頭を乗せ、飛竜は目を閉じる。片翼で三人を包んだまま、ゆっくりと呼吸する。熱い息は、数秒もすると寝息に変わった。
「クリフには謝らないといけないんだけど」
両手を膝に当て、ロアルは頭を下げる。
「実はもう少しだけ、エルトマーレ王家のことを知っていた」
「……は?」
「本当にごめん。でも、伝えなかったのは意地悪をしてじゃないんだ」
うめき声を漏らし、グレンが目を覚ます。片手でグレンを支え、クリフはロアルを睨む。
「お前の秘密主義は、今に始まったことじゃねえ。理由があるなら先に聞くが、場合によっては」
「ごめん。でも、所詮ボクが知っているのは、他国から見た事情。不確定な情報で、君を惑わせたくなかった」
「……つってもな」
幻想種のこともあの少女のことも、知っていれば対処法の一つや二つくらいは考えていただろうに。
「今からすべて話すよ。……言わなかった理由はね、クリフ。君が優しすぎるからなんだ」
怪訝な顔になり、クリフは隣のグレンを見る。グレンはうつむいたまま黙っていた。
「相手のことを知ったら、君は同情しちゃうだろう」
「そんなの聞いてみなきゃ……分からねえ、じゃん」
クリフの声は尻すぼみになった。あまり自信はないらしい。
反対に身を乗り出したのは、グレンだった。ロアルの胸ぐらをつかみ、乱暴に引き寄せる。
「何を知っている。話せ!」
「気が立っているのは分かるけど、落ち着きなよ王子様。まだ、何一つ手遅れにはなっていないんだから」
グレンをなだめながら、クリフはロアルに「女性だぞ」と耳打ちする。ロアルは首をひねった。
「男性だろう。……ああ、そうか。クリフには肉体が見えるんだもんね」
「……あん?」
「呪われた王子様。あの女王様と同じ色の呪い。献身的だね。それも愛の力ってやつ?」
不機嫌な顔になり、グレンはロアルを放してあぐらをかいた。
「俺のことはいい。話せ。俺も知っていることを話す」
「よろしい。まず前提として、エルトマーレ最後の王、ツィリル・ユワレには、子どもが二人いて――――」
少女を抱きかかえ、男はロッキングチェアを揺らしていた。うつろな表情の少女の目には、天井を覆う茨が映っている。蔦の間から垂れ下がる黒薔薇が、時折花びらを落とす。タイルの床に落ちた花弁は、瞬く間に潤いを失い、塵となって風にさらわれた。
「幸せか?」
少女に囁く。耳元に口を寄せても、すでに少女の心はそこにない。
「……ああ、そうか。寂しいな。寂しいよなあ。すぐに、いっぱいお人形持っていくからな。寂しくなんかさせない」
きいきいと椅子が軋む。指先からぶら下がった銀時計が、それに合わせて揺れている。時計の針は、零時三分で止まっていた。
張りぼてと化した王城は、随所に黒い薔薇が咲いていた。その薔薇の蔓が床や天井を這い、男の領域を広げてゆく。
あの竜さえ。憎々しげに舌打ちを漏らす。あの竜の乱入さえなければ、ディーデリヒもグレンも自分の手に落ちていた。終わらない夢の中で、女王の幸福な夢を飾る材料にできたのに。
「欲しいものは、何だって」
華やかなドレスに宝石、理想の王子と空気の読める楽団。忠実な騎士におせっかいな召使、異国の本とベッドを埋めるぬいぐるみ。そろって動く兵士たちと、無邪気に称える蒙昧な国民。美しい都市。眩しい空。欲しいと願われれば、何だって用意する。
たとえその結果、肉が腐り、骨が朽ちても、女王の魂に安寧があるように。
「兄ちゃんが、何だって……」
少女を抱きしめたまま、男は足を縮める。
ぎぃ、と椅子が軋んだ。
三度の角笛は、緊急招集の合図だ。
霧の中を駆け抜け、水の精霊は風の集落に入る。石碑の前では、すでにハユ・エ・トゥラが待っていた。薄荷色の青年の隣に降り立ち、ルル・リ・テハウはふくれっ面で腕を組む。
「何だ、こんな真っ昼間に呼びつけて」
「いつ呼びつけても文句を言うだろう。お前は」
晴れた空から、まばゆい光が塊となって落ちてくる。橙と金色の光は、着地と同時に人型になった。薄荷色と瑠璃色の隣に、鮮やかなファイアーレッドが並ぶ。
「やあやあやあ半世紀ぶり! 相変わらずルルもハユも仲良しね!」
橙色の髪を揺らし、焔色の少女は笑顔を見せた。炎の精霊、ギル・リ・キルである。ちりちりと舞う火の粉に、ハユ・エ・トゥラが不快そうに距離を取った。
「なんの御用だい、ハユ。君が緊急の角笛なんて、明日は天地がひっくり返るよ」
「あとひとり来たら」
「もう来てる」
ギル・リ・キルの指に従って振り向けば、石碑の影に一人の男が立っていた。
朽葉色の髪と浅黒い肌、目は雲母のような黒と金。土の精霊ノルド・エ・レハンは、横目で三体の精霊を見やった。
「遅い」
「卑怯だ。大地はどこにでもある」
「風ほどじゃなかろう。風は海にも吹く」
石碑の前に、四種の精霊が集合した。ゆっくりと全員の顔をあらためてから、ノルド・エ・レハンが手を差し出す。
「議題は?」
「あいつとの契約が断ち切られた。金の魔法使いがやったらしい」
ハユ・エ・トゥラの報告に、三人がざわめく。
「……森が荒れる。儂は喜ばない」
「だよねぇ。あたしは里持ってないからいいけどさ。ノルドもルルも、大急ぎで里に結界張らなくちゃ」
渋い顔をするノルド・エ・レハンに、ギル・リ・キルが同調した。
「あたしらはもう、あの子への思い入れなくなっちゃったし」
「……で、ハユ。我らに何を求める」
ルル・リ・テハウは表情を改める。
「助力を。連中を死なせたくない」
「グレン? あの男、あたしはまだ認めてないかんね」
「グレンと竜の子は勝手に行った。どうでもいい。だが金の魔法使いと黒の剣士は己れが依頼した」
薄荷色の目を細める。その奥に、懐古するような色が浮かんだ。
「協力してもらおう」
有無を言わせない声とともに、熱い風が吹き下ろしてきた。
王城に、ねっとりと絡みつくような気配が充満していた。タイルの隙間を蔦が這い、ぽつぽつと黒薔薇が咲いている。
眠るソルードを背に、クリフは曲がりくねった廊下を歩いていた。重力も部分的におかしくなっているのか、支えのない螺旋階段が床を突き破って続いている。
グレンとロアルと別れ、クリフに与えられた任務はあの幻想種の行動原理を探すことだった。実際問題、正面突破できる相手でも、生半可な説得が通じる相手でもない。強烈な執着と排他を見せたあの兎を、理解しなければ始まらない。
『ボクたちにできることは、交渉だ。その前段階として、どんな手を使ってでも、彼を交渉のテーブルにつかせたい』
つまり、弱みを握れということである。
「ほんと簡単に無茶言ってくれやがる」
階段の手すりを滑り降り、階下へ。薄暗い空間は埃っぽかった。黒薔薇がなく、崩れた壁の残骸が床に散乱している。片手の甲を口元に当て、杖に明かりを灯す。
ここまでの探索で、一つ分かったことはある。この空間は全てが幻覚ではなく、実在の空間と幻覚が重なっているということだ。幻覚に質量を持たせる魔術は現代にも存在する。最も、この規模でとなれば魔術師が百人は必要だろうが。
恐るべきはその幻覚の精度である。想像上の景色を現実に投影し、実在のものと重ね合わせたうえで、第三者に問題なく知覚させている。それが魔術による幻覚であると気付かない人間も多いだろう。それほど、無秩序の中に『本物らしさ』があった。
暗い廊下を進むと、壁が崩れた部屋があった。扉は蝶番が外れ、部屋の中はいっそう荒れている。ここまでの廃墟とはまた違う、何かがそこで暴れた痕跡だ。
中を照らしながら、クリフは壁を踏み越える。さほど広くはない部屋だった。少なくとも、クリフが通された客間ほどは。背の高い本棚が一つと、執務机が一つ。壁には地図の残骸があった。本棚も机も椅子も、飴色のコーティングがされていたようだ。アンティーク調の質のよさそうな家具だが、その全てに、巨大な獣の爪跡が残されていた。
背中のソルードがくしゃみをして、クリフは外套を羽織りなおす。やはり埃っぽいだろうか。それとも黴か。本棚の下部に残る本は、どれも紙が真っ黒に変色している。机も、コーティングが剝がれた部分は腐り、足が一本折れていた。
「……これは」
その机の上に、朽ちた羽ペンと一冊の本が乗っていた。本は金具で閉じられている。クリフが触れると、金具はバチンと音を立てて外れた。
「……ゆ……ユゥ……ユゥロ……?」
表紙の下部に書き込まれた文字をなぞり、クリフはゆっくりと、本を開く。
『三月一日 晴れ 良い日
誕生日にかかさまに本をもらった。十になったので、今日から日録をつける』
まだ白さの残るページに、子供の字が書かれていた。
走るグレンの後を、ロアルは無言で追っていた。グレンはロアルを気にもせず、ただ一刻も早く、あの少女のもとに行きたいといった様子だ。
進むにつれ、黒い薔薇の数が増える。中庭の見える廊下に出ると、壁一面が漆黒に染まっていた。
「ねえ、王子様。突入前に聞きたいんだけどさ」
薔薇を蹴散らすグレンの背に、ロアルが問いかける。
「君、あのお姫様が好きなの?」
まったく無視していた背中が、急につんのめった。ロアルはその襟をつかんで立て直させる。勢いよく振り向き、「はあ!?」と怒鳴るグレンの顔は、動揺のためかやや赤くなっていた。
「何だ、関係あるのかそんなこと、今」
「あるよ。それが君の動機なら。ただの好奇心ととらえてくれても構わないけれど」
「下世話な奴め。……ああもう、じっと見るな! お察しの通りだよ。笑え笑え。たった一度の一目惚れに、三百年を捧げる凡才の姿をな」
ひらひらと手を振って、グレンは視線を明後日の方向へ向ける。
「笑わないよ。恋や愛は、運命を変える人間の動機として最も美しいものの一つだからね」
「笑ってくれたほうが気が楽だ。そう高尚なものにされたくない」
「誤解があるな。ボクは運命を変えることが高尚だとは思わないよ」
仮面で見えないロアルが、笑っている気配がした。けれどそれは朗らかなものではなく、自嘲気味で、退廃的なくたびれた笑いだ。グレンの黒魔術師として研ぎ澄まされた感覚は、ロアルの笑みに隠された本音を暴き出す。
「……俺は、高尚なものだと思う」
「そ。じゃあこの議論はここでおしまい。約束通り、ボクは王子様の護衛役に徹するよ」
舌打ちで会話を切り上げ、グレンは杖を抜いた。
グレンの杖は小ぶりで、取り回しの良さに重きを置いている。長さは手首から肘までと同じ程度、漆黒の魔導鉱石は根元にはめ込まれている。教師が使う指示棒を切り詰めたような形状だった。水晶の大きさは、親指の爪ほどしかない。
廊下の突き当り、玉座の間には、ぽつんと椅子が一つだけ残されていた。黒く染まったドレスにうずもれて、少女が寝かされている。四肢と首に、薔薇の蔓が絡みついていた。天井へと繋がるそれは、刺はなく、染み入るような漆黒をしている。
息を吸って、吐いて、一歩。グレンは玉座の間に踏み込んだ。
「平伏しろ」
瞬間。すべてをねじ伏せんばかりの圧力が、たった一言に乗せられて降ってくる。常人ならば地に伏せ、心臓の鼓動一つ、呼吸一つすら忘れてしまいそうな、絶対的上位者からの命令。生物としての本能が、言葉を理解するより先に屈しようとする。
事実、部屋に入ったグレンの体半分は、膝を折り、跪こうとしていた。
まだ自由な右腕を振り上げ、杖を掲げる。
「【傀儡】」
黒い光が、グレン自身のうなじに突き刺さった。魔力が、頸椎から前頭葉までを貫いていく。脳を押さえつける不可視の力をはじき出し、自らの魂を絡めとる魔術。それはグレンの意志通りに、グレン自身を支配下に置いた。
前に出たもう片足が、しっかりと床を踏みしめた。
天井の蔦の間から、半人半獣の男が降ってくる。赤い目を光らせ、男はグレンの目を指さした。
「グレン、跪け!」
名前越しに、魂を鷲づかみにしての命令。
「断る」
微笑すら浮かべて、グレンはそれを却下した。
苛立たし気に足を鳴らし、男はグレンに近づいてくる。
「話をしよう」
両手を広げ、グレンは呼びかけた。一瞬、男の顔に動揺が浮かぶ。杖を握りしめ、しかしその先は床に向けて、グレンはまっすぐに男を見た。
「俺とお前の願いは同じはずだ」
「だから、跪けと言っている。そうすれば願いは叶う」
「分かっているだろう。それが彼女の幸せではないことを」
つとめて冷静に、へりくだらず、しかし見下さず。相手と対等でないように振舞うのは、臆していると示すようなものだ。
「仲良くしよう。お前も俺も、彼女が大切なんだから」
「お前は信用できない」
グレンが一歩近づくと、反対に男が一歩退いた。ひっそりと部屋に入り、ロアルは両腕を背後に回す。それを目の端にとらえると、男は一度目を伏せ、長く息を吐いた。
「……契約は破棄された。許そう。安寧は奪われた。許そう。しかし彼女は僕のものだ。契約も安寧も僕にとってはもはや大切じゃない。だが、彼女を奪うことだけは許さない。話すことはない」
「俺たちはある」
「僕がないと言ったらない!」
うなりを上げて、室内で風が渦巻く。散った花弁が、男を黒く取り巻いた。ロアルが駆け寄るが、グレンは片手でそれを制す。
「俺は彼女がこのままの永遠を望んでいるとは思わない!」
声を荒げる。眠る少女と同じ顔で、細い声を精一杯に張り上げる。
「だって三百年前、彼女は俺に」
目と目が合った。紅い獣の瞳と、紅い呪われた瞳。まっすぐに見据えるグレンに対して、男の瞳は揺れていた。
「蒼空を見たいって言ったんだ!」
あの日。まだ無鉄砲で無知だった自分を想起する。
自分が伸ばした手は、彼女に届かなかった。力不足の自分を逃がすために、彼女は自ら、永遠の夢に戻っていった。
力が欲しい。本当は泣き出しそうな彼女を、ここから連れ出す力が。
稀代の黒魔術師。七賢人が一人。最悪の犯罪者。【人形師】。満月の死神。影を飲む者。良くも悪くも自分は有名になった。それだけの力を得た。言葉一つで、千人の魂を意のままにするような力を。
それでも足りなかった。
『忘れろ!』
命じられ、自分の名前すら失った。今だって本当は、息をすることも忘れそうだ。精霊の庇護下になければ、直ぐに、自分が誰だか見失ってしまう。
それでも、諦めてたまるものか。
「この姿を見ろ。彼女が俺によこした不変の呪いの半分だ。彼女は不変を棄てたかったんだ。分かってるだろう。本当は、お前だって」
何もかも忘れて、空っぽになっていた自分の中にただ一つ残っていた、生きる理由。引き受けた呪いに生かされ、生まれ育った肉体の形も忘れて、三百年。しつこくしがみついた果てに、好機は訪れた。
蒼天を見たい。たった一度、無力だった自分に零した、少女の願い。
「俺は、その願いを叶えに来たんだ。今度こそ、あの人の魔法使いになるために!」
グレン・リーデバルドと名乗る自分は、ただ、そのために生きてきた。
「……お前は」
一触即発の空気の中、ロアルの剣が、二人の間に差し出された。
「まあまあ落ち着きなよ、双方。ケンカしに来たんじゃないだろう?」
噛みつきそうな男に顔を、グレンに剣の刃を向ける。
「古今東西、戦いというのは正当化されてきた手段だ。人間、譲れないことの一つや二つあるものね。けれど、だからこそ、ボクたちは対話を尊ぶべきだ。そう思わない?」
「譲らない者と話すことなんかない」
ぴしゃりと男が言う。ロアルは「そぉかあ」と何度も頷いた。
「対話っていうのは、どちらかの主張を一方的に押し通すことじゃあない。落としどころを見つけるためのもの。譲歩は必須さ。ボクに言わせれば、対話の相手は敵じゃない。いい結論を出すための」
男の腕が、ロアルの頭部を薙ぎ払う。ひゅんっ、とグレンが息をのむ音がした。仮面が吹っ飛び、扉の前に落下する。
「暴力はいただけないな」
フードが落ちると、ロアルの何もない中身が二人の前に晒された。首がないどころではない。服が人の形をしているだけだ。それが、人のように動いて、話している。
ロアルは怒ったように片手を腰に当てて胸を反らす。男は、丸い目をさらに丸くした。男の目がグレンを向き、グレンは思わず首を横に振る。
数秒の沈黙を破ったのは、扉を開く音だった。どたばたとした足音の主が、勢いよく部屋に転がり込んでくる。
「ヘイ頑固爺ども! 話は進んでっかなあ!」
息を弾ませたクリフは、キッチンワゴンを引き連れていた。二台のキッチンワゴンが部屋に滑り込み、ブレーキ音を響かせて停車する。
「ここらで一服どうでしょう!」
ワゴンの上にはティーカップが五つ、湯気の立つポットが一つ乗っていた。下段には、どこで調達したのか、瑞々しい果物の詰め合わせが入れられている。
もう一つのワゴンにはソルードと、古びた本が三冊乗っていた。一番上の本をつかみ、それを男へ突きつける。
「林檎と蜂蜜の紅茶が好きと伺ってるぜ。ユゥロ・ユワレお兄様」
クリフは勝気に口の端を上げる。心臓が痛いほどに脈打っているのは、疲労のためではない。冷静になれば負けるとでもいうかのような、勢い任せの割り込み。本を掲げた手が震えていると、一拍遅れて自覚する。それでもクリフは、幻想種から目を離さなかった。
今が、一番の好機。まだ聞く耳は残っている。まだ断絶していない。まだ双方、刃を収められる位置にいる。
祈るような気持ちで、クリフは男の返事を待った。
* * *
銃声が長く尾を引いて、体をビリビリと痺れさせる。
王領の草原で、ひと筋の煙が天に登った。猟銃を構える少年は、父に背を支えられた状態で、ほとんど腰を抜かしている。銀色の髪の間から、白い獣の耳がはみ出していた。
父親はそっと頭を撫でて、その耳をしまいこむ。少年は父親を見上げ、まだ驚きに言葉を失っていた。父親は黒檀色の目を細め、微笑する。
「どうだい?」
「すごい音だったよ。当たったかなあ」
ややあって、二人が見つめる先で、黄金色の獣がひょいと姿を現した。
「おや、はずれだ」
「うーん。やっぱり難しいよ。とっても重いんだ」
父親が立ち上がり、振り返る。そこには十二人の侍従が控えていた。馬を宥める者、休憩の席と日除をせっせと整える者。そのうちの一人、大人向けの猟銃を抱えた青年が、すっと父親に近付く。
「見ていなさい」
父親は猟銃を持ちあげる。銃床をぴたりと肩に当て、銃身は水平に。危機は去ったかと顔を出した狐の頭に、覗き込んだ十字を重ねる。
銃声が一発轟いた。ぱたりと狐が倒れる。わ、と立ち上がった少年の口を、父親が塞いだ。
「……お父様?」
歓声を引っ込めて、少年は首を傾げる。父親はナイフを片手に、狐に近付いていった。
「欲しいものはあるかい。内臓は還してしまうから、穴を掘りなさい」
少年はシャベルを片手に父を追う。草を分けた先で、狐はだらんと全身を伸ばして転がっていた。半開きの口から舌がはみ出し、全身が毛羽立っている。
両手でシャベルを握り、少年は体を緊張させた。父親は狐の前に片膝をつき、ナイフを置く。
父親が振り返ってようやく、少年はハッとして口を開いた。
「僕、えっと。牙が欲しい」
「牙? 小さいけれど」
「いい。牙が欲しい。お父様と揃いの首飾りにしたいんだ」
父親は少年の顔をしばらく見つめ、ゆっくりと瞬きを一つした。
「そうか。ではそうしよう」
父親は少年に後ろを向かせ、ナイフを手に取った。
魔法と神秘が生きた国、エルトマーレの最期は悲惨なものだった。
年若い王の治める平和な国だった。自然豊かな土地にあり、戦争にいそしむ隣国など我知らずといった顔で平穏を謳歌していた。兎の姿をした神を仰ぎ、聡明な王子と可憐な王女は国民皆から愛されていた。
王子の名はユゥロ・ユワレ。白雪のような肌に深紅の瞳を持ち、透き通るような銀髪を持っていた。幼いころからぞっとするほど賢しく、端麗な容姿は国王、王妃のどちらにも似ていなかった。
王女の名はリア・ユワレ。燃えるような赤髪は母のそれにそっくりで、深い茶の瞳は父のそれと瓜二つだった。お転婆で好奇心が強く、蝶よ花よと愛でられて育った。齢八つで婚約者が名を連ね、少しのわがままも愛嬌と微笑まれるのが常だった。
兄のユゥロ一番の自慢は、この愛らしい妹だった。妹のリア一番の自慢は、この優しい兄だった。
兄が十二になった日、国王は、一つの事実を兄に告げる。
歯車が狂い始めたのは、その日からだった




