6)マリオネット・チェンバー
朝食は、十人は座れるかという縦長のテーブルに並んでいた。コック帽を頭に乗せた兎が、カートを押してやってくる。
手鏡をテーブルに置き、クリフは女王の向かいに座って会釈した。女王は上機嫌で会釈を返す。
グレンからは女王のことを任されているが、正直なところクリフは、何から話したものかと思案に暮れていた。目を覚まさせろと言われても、まさか自分がされたように木の実を食わせるわけにもいかない。
ちらりと手鏡を見下ろすと、ロアルが何やら身振り手振りをしていた。しばらく横目でそれを眺めて、古い手話だと気付く。
『お名前は?』
名前を聞けということか。思えば、赤と黒の女王、としか言われていない。
「あの」
「ディーデリヒ様は、コーヒーとお紅茶どちらに?」
「紅茶で」
兎がティーポットを器用に傾け、紅色の紅茶をテーブルに乗せる。少しロアルに意識を向けている間に、テーブルの上には朝食の準備が整っていた。
「王子様、私に何か?」
ホットミルクのカップを受け取り、女王が首をかしげる。
「あ、はい。ええと。お名前をまだうかがっていなかったかと」
「ああ、そう。王子様はディーデリヒだものね」
女王の目から笑顔が消える。背筋に冷たいものが走り、クリフは「無理には」と付け足した。鏡の中から、ロアルが『へたれ』と手で言ってくる。
「名前……なまえ……? うぅん……私はみんなの女王様だもの。そんなものに名前があってはいけないわ。大丈夫。王子様ももうすぐ王子様になるもの」
次第にうつむき、女王の声がか細くなる。兎が女王に近づくと、女王はミルクを一口飲み、ぱっと顔を上げた。
「あなたのお好きにお呼びになって? だってそういうものだもの」
「名前が……ない、のか」
「さあそんなくだらないことより、いただきましょう? そうしたらお城をご案内するわ。いつか、ここは王子様のおうちにもなるんだもの」
女王は、年のころは十五、六歳程度だろうか。仕草は世間知らずな無垢の少女そのもののようだ。頭のてっぺんから足の爪先まで人形のように完璧に飾り立てられているというのに、目や吐息、体温は確かに人間のものだった。
飲め、と、兎が紅茶のカップを押し付けてくる。クリフが見下ろすと、兎は真っ赤な目でクリフを見上げていた。
「俺は」
紅茶のカップを受け取り、持ち手に指をかける。
「あんたの王子様にはならないよ」
クリフはゆっくりと右手を掲げた。重力に従って傾いたカップから、白い靄が零れ落ちる。空中でかき消えたそれに、兎は不機嫌そうに耳を折った。
「あら、まあ。どうして?」
「俺は、もうない国の夢は見られない」
笑顔のまま、女王はうんうんとうなずいた。
「彼とおんなじことを言うのね。でも大丈夫。あなたは王子様になれるわ」
「あんたも、幻想種のままごとの道具だ。この世界に永遠なんてない。人間なら、なおさら」
兎が耳を立て、速足で女王に駆け寄る。クリフが立ち上がると、倒れた椅子が軽い音を立てた。
「あんたもあの操り人形の兵士たちと同じ。エルトマーレの夢を見させられてるだけなんだよ。形だけの王都が地下にあって、国民は去った。エルトマーレっていう国は、もうどこにも」
息を吸って、クリフは視線を落とす。
残酷なことを言っている。そんな自覚が、次の言葉を飲み込ませた。
白い指先が、テーブルクロスの皺をなぞる。言葉は耳に届いているが、まるで響いていないような。着飾った少女は、形だけの相槌を打って、困ったように眉根を寄せた。
「もしかして、私を助けようと思っているの?」
「……その」
「ああそう、そう。そうだったの」
短い沈黙を、少女は肯定と受け取ったようだった。細く息を吐き、指先を頬に添わせる。
「余計なお世話」
苦笑いを浮かべる少女が一瞬、見下し切った視線をこちらに向けた。
背後の扉が、勢いよく開く。はっと振り返ったクリフの目に入ったのは、床から天井までを埋める、巨大な兎の顔だった。
グレンが去り、工房は、鏡越しの音だけが響いていた。壁に描かれた輪が鏡となり、クリフの手鏡につながっている。音はとぎれとぎれだが、どうやら説得が失敗したらしいことは伺い知れた。
「にいしゃ!」
「まずいな、逆鱗に触れちゃったか」
ぎろり、と。大きな目玉が、こちらを見る。赤い虹彩と尖った睫毛。その中で揺れる瞳孔が、確かに二人を映した。
「!」
先に反応したのは、それが見えたソルードだった。
鏡の向こうの目が、確かめるように瞬きをする。その瞼が落ちて上がるまでの間に、ソルードは体を反転させ、両手を広げてロアルに飛びつく。全体重と踏み切りの力を乗せた不意打ちを受け止め、ロアルはそのまま床に倒れる。両腕でソルードを抱え込み、ロアルの背が床についた、瞬間。
ぱん、という軽い破砕音に続いて、耳をつんざくような絶叫が響いた。ロアルは咄嗟にソルードの耳をふさぐ。甲高い悲鳴でもあり、重々しい咆哮でもあった。巨大な獣が、獲物を追い詰めた瞬間に発するような。
「撤退する!」
ロアルはソルードを抱え、工房から転がり出る。
白い町並みは一変していた。真昼のような明るい天井はどす黒く染まり、濁った鉱石から赤黒いしずくが垂れている。タールのように粘度の高いそれは、糸を引きながら落下し、そこに根を張った。粘菌のように石畳の隙間を埋めて広がり、壁を這い上がり、町を染める。
「お口閉じてね!」
ソルードを外套の中に背負い、ロアルは、減りゆく白い地面を蹴る。真っ黒になって襲い来るそれは、【大喰らいの幻影】にもよく似ていた。だが、狭い通路を埋めていたあれとは異なり、この赤いタールは集積しない。
さあ、どこに逃げようか。視線をさまよわせても、しずくは都市中に落ちている。堀の向こう、あの城だったらどうだろうか。いや、今まさにあの中でクリフが襲われている。そこに合流できるのならばしたいところだが。
「……やっぱりあそこ、だよなあ!」
屋根の上を飛び移りながら、ロアルは方向転換する。向かう先は、この都市の入り口、天井に空いた大穴だ。
(それでいいのか?)
自分の判断を疑い、しかしロアルは首を振る。
少なくとも、クリフはすぐに殺されることはない。本当の殺意というものは、何を間に挟んでも突き刺さってくるものだ。文字媒体であれ音声通信であれ。あの兎にも女王にも、それはなかった。
だが懸念は残る。花を手折るように、虫を踏み潰すように人の命を奪える存在も、確かにいるということだ。
(これでいいのか?)
神殿の屋根へよじ登り、岩壁を見上げる。手を伸ばしても届きようがない場所に、目標の穴はある。
遠い。クリフが、クリフさえいれば、少しもためらわない距離だというのに。
「ろぉ」
すとんと、背中からソルードが下りる音がする。ダメだと振り返ろうとして、ロアルは思い切り、胴を引っ張られた。
「だいじょぉぶ!」
そのまま、ロアルの足は宙に浮く。
「えっ?」
ばさりと、重々しい羽音がした。
躊躇したのは一瞬で、決断と同時にクリフは走り出していた。
「え」
椅子に座ったままの少女に駆け寄り、ひったくるように抱きかかえる。振り向けば、扉をふさぐ巨大な兎は、額をめり込ませながら部屋に入ってこようとしていた。
顔こそ兎だが、首から下は人間のような形をしている。ような、というのは、全身が見えないからだ。爪の長い指が、床を引っ掻きながら侵入してきていた。球で作られた関節と、テグスの操り糸が見える。
「貴様!」
女王の足元で、小さいほうの兎が吠えた。クリフは椅子をそちらへ蹴り飛ばし、壁に向かって走る。
「【術式起動】! 【層置換】、【重】!」
床を蹴ると同時に魔術が発動。クリフと少女は天井に向かって跳ね上げられた。迫る天井に、少女は手足を縮めて目を閉じる。
だが、二人は天井に激突することなく、そのまま上へとすり抜けた。上階の床の上に飛び出し、クリフは足を踏ん張って着地する。
「【精霊達よ】!」
宣言と同時に、ブレスレットの水晶の一つに亀裂が走る。
「【聴け、我が願いを】【それは希望】【それは光輝】【星の理を騙る人の傲慢を赦したまえ】! 【導きの燈火】!」
クリフの視線の先に、青白い小鳥が現れる。長い尾をクリフの首に一度絡めてから、小鳥は先導を始めた。探すものは当然、杖だ。
「ちょっと!」
「舌噛むぜ!」
抗議をする少女には有無を言わせず、クリフは小鳥に従って走り出す。振り落とされてはたまらないと、少女は両腕でクリフの首にしがみついた。
「余計な、お世話ってっ、言ったでしょう!」
「あァそうかよ!」
すでに息を切らせながらも、クリフは足を止めない。
轟音。数歩前にクリフが踏んでいた床を、巨大な手が突き破った。階下から、兎の頭が追いかけてくる。首だけをぬいぐるみに挿げ替えたような、薄気味悪い操り人形。小鳥の光を追いながらも、クリフは足元を確かめる。自分の全力疾走で、何秒逃げ切れるか。
「だが俺は俺の都合で勝手に助けるからな! それにきっと、」
ムッとした少女を見て、不機嫌なグレンの顔が思い出される。そうか、と今更、女王の既視感に納得した。グレンの顔だ。髪色や瞳の色、表情もまるで異なるが、双子のようによく似ている。
「あの人も、あんたを助けに来たんだろうし、俺じゃなくて!」
ああ、それなら。少々腹立たしいが、得心がいく。かの賢者が、自分のために危険を犯すとは、どうにも納得できなかったのだが。
「なっ、あうっ! 誰の、こと、きゃあっ!」
兎人形が腕を伸ばし、上体を床へと倒してきた。それを視界の端で捉え、クリフは戦慄した。遅いことだけが隙だったというのに。
崩れかけた床に足を取られ、クリフはつんのめる。
「くっそ、」
蹴ろうとした床は、落下を始めていた。床を破壊して追い縋る人形の指先が、クリフの背中に届こうとしている。
渾身の力で、クリフは少女を投げ上げた。日頃、大きな杖を振り回している腕だ。闘士ほどとは言わずとも、年相応以上の力はある。
「誰ってなあ、」
少女と反対に、クリフは背中から落下する。まだ手を伸ばせば届くだろうか。いいや、瓦礫に指をかけたところで、自分の力では這い上がれない。
「グレンだよ! グレン・リーデバルド!」
床に届いたらしい少女が、振り向いた。
クリフは眉間に皺を寄せ、痛みに備える。うまく受け身を取れれば、あと一発ならば、魔術で反撃ができるだろう。行け、と少女に手を振って。
その手首を、白い手が捕まえた。
落下の衝撃が、クリフの腕を伸ばさせる。肩が軋み、浮いた爪先が揺れた。
「あうっ!」
床に体を叩きつけられながら、少女は両手でしっかりと、クリフの右手をつかんでいた。瞳が小刻みに揺れ、滲んだ涙がクリフの手へと落ちる。
「……なんで」
一瞬それを見上げ、ハッとしてクリフは手を伸ばす。床の下端に指をかけ、少女の力も借りて体を持ち上げた。止まっている余裕も、休んでいる暇もない。
床と一緒に崩れ落ちた兎人形も、すでに頭を上げている。足をジタバタと動かしながら、クリフはなんとか上階によじ登った。少女はクリフの襟をつかみ、さらに引き上げようとする。
「も、大丈夫、首、首! しまっ、オエッ」
「グレン……。ああ、ああ、ああ! グレン! そう、グレンをご存じなのね!」
「わか、わかった、わかりましたから」
何とか立ち上がり、咳き込みながら少女の袖を引いて歩き出す。少女は頬を薔薇色に染め、こらえきれない笑みをこぼしていた。高いヒールの靴は脱ぎ捨て、軽い足取りでクリフに従っている。
「ああ、グレン、グレン! 何年ぶり、いいえ、何百年ぶりね! また思い出せるなんて! 約束を守るって素晴らしいわよね!」
踊り出しそうな少女とは対照的に、クリフは青白い顔で喉を押さえる。振り向けばそこに怪物がいるというのに、見えていないのだろうか、この少女には。
「……つーか」
(説明しねぇ奴と話聞かねえ奴と話が通じねえやつしかいねえのか、ここには!)
切実に、ロアルに会いたかった。
幻想種に関する資料は少ない。
こと、大戦前となるとほとんどの史料が失われている。名しか残っていない亡国とその守護神など、存在を確認できれば御の字だ。一流の学徒が集まるザマルですら、幻想種の資料は本棚一つ分しかなかった。
与えられたヒントは、兎という形状と、薔薇と、蔦のモチーフ。それを好む幻想種を探し、人間との契約の史料を求め、狭くない大陸を歩き回った。
稀代の黒魔術師。七賢人が一人。最悪の犯罪者。【人形師】。満月の死神。影を飲む者。尾鰭の付いた噂も、増えた二つ名も、グレンにとってはどうでもよかった。
全ては、あの日、救えなかった彼女のために。
「……三度目の正直だ」
薔薇の花の中心で、グレンは小さな棺の前にいた。
幻想種と人間の契約は、人間同士の契約とは根本的に異なる。種としてのあり方が違いすぎるのだ。富も名声も、武力も、人間が用意できるあらゆるモノは、幻想種にとって無意味である。
しかし、それでも幻想種は幾度も人と契約し、国の守護神として祀られた。
エルトマーレが求めたものは、永遠。あの兎の執事は、少女に永遠の夢を見せている。国民のいない都も、おもちゃの兵隊も、彼女の目には『生きて』映るように。
だとすれば、あの兎は代償に何を得た?
いくつもの仮説を立てた。立証のしようがない仮説だ。幻想種はすでに、人と生きる世界が異なっているのだから。
たとえば、女王そのものが対価となった場合。永遠を夢見る彼女の姿そのものを、娯楽として消費する。腹立たしいが、理解できる。
たとえば、王都以外の全てを差し出していた場合。王都の民だけでも守ろうとした彼女は、結果全てを失ったことになる。御伽話にありがちな悪役の滑稽さだ。
たとえば――。
「……この中に」
棺の蓋に手をかける。はやる気持ちに、手が震えていた。
仮説は今、立証される。この棺の中に、兎と女王を繋いだ秘密がある。それさえ明らかにできれば、きっと、彼女を救い出せるから。
重い音ととももに、蓋が滑り落ちた。冷気が白く立ち上る。胸に手を当て、グレンは棺を覗き込む。
「……え?」
グレンを見下ろす場所に、小さな人影が降り立った。ゆっくりと立つ影の頭には、長い兎の耳が揺れている。
棺の中に、ぽつんと小さな木箱が置かれていた。持ち上げると、しゃらりと金属が擦れる音がする。金具と宝石で装飾された小物入れ。鍵はかかっていない。
「……これは」
グレンの背後に、影が降り立った。
吊るされた鳥籠二つを前に、兎は何度も足を鳴らした。
「まったく! 侵入者が一人や二人ではないなんて」
鳥籠の鎖は、巨大な兎人形の手に繋がっている。片方には赤と黒の女王が、もう片方には、杖を取り戻したばかりのクリフが入っていた。
「ま、時間の問題だろう。さて、魔術師殿。朝食の続きですよ。この城には王子が必要です。この美しい国で、面白おかしく過ごしましょう」
ポケットから銀時計を取り出し、兎は針の位置を確かめる。針は三時過ぎを示していた。
「お伽噺のように、未来の心配などなぁんにもせずに、永遠に」
兎が目を細めると、カチリと針が一つ戻る。
「おーおー、本性隠さなくなったな幻想種さんよ」
狭い鳥籠の中で、クリフは窮屈そうに足を縮めていた。
「品のない。まずは王子様としての立ち振る舞いからでしょうか」
「やめて! ディーデリヒ様は悪くないわ。私がそちらに戻るから!」
少女が鳥籠をつかむ。きぃきぃと鎖が擦れる音がする。
「ね? あなたが欲しいのは私でしょう?」
「……女王。しかし」
「私、寂しくなんかないわ。千年でも二千年でも。あなたが望む限りずっとここにいるから。お人形さんのままでもいいから。だから」
「……ちょっと待て」
片手を挙げ、クリフは二人の会話に割って入った。
「あんたら、同意の上で?」
「余計な世話だと言っただろう!」
兎が床を蹴ると、ぐんっ、とその身体が大きくなる。見る間に、小さな兎は成人男子の姿を取り、毛皮はマントに、長い耳は白いフードの飾りへと変化した。深紅の瞳でクリフを睨みつけ、兎だった男は牙をむく。
「女王と僕は全て承知でここにいる。全て! 夢を見せていれば女王は寂しくないだろう。王子がいれば女王は寂しくないだろう。間違えているんだよ、お前は、ずっと!」
頬を平手で打たれたようだった。怒鳴り散らしながら、男はクリフの鳥籠を揺らす。後頭部を檻にぶつけながら、クリフは考え込むように言葉を飲み込んだ。
(……もしかして、とんでもない思い違いを)
グレンの言葉を思い出す。
『あの女王さえ正気に戻せば、契約を破棄させられる』
幻想種と契約し、永遠の夢を見ている女王。グレンが言うならばと、クリフは何の疑いもなくその言葉を信じていた。事実、彼女は女王としてふるまっており、彼女の傍には幻想種がいた。名を奪われ、女王という役割を与えられている人形。クリフにも、そう見えた。
だが、女王はクリフをかばい、契約を破棄しようとはしていない。女王は自分を人形扱いすることを是とし、幻想種はその孤独を減らそうと苦慮している。
この二人の関係は、何だ?
グレンの言うように、夢を見る女王と、夢を見せるバケモノ。確かにそう見える。そう考えるのが自然だ。
だが。
『女王の御前です』
『私とこの国の、七百九十六回目の誕生日? みたい』
何かを見落としている。いびつなこの二人を結び付けている、本当に解決すべき何かを。
『かの国の王はね。幻想種と取引したんだ』
「……あ」
王。そうだ、あの時ロアルは確かにそう言った。
「契約者は……」
クリフの目が、少女に向く。
この少女は誰なのか。名前もない少女が、幻想種とともに、ここで何をしているのか。
永遠を望んだはずの『王』は、どこへ行ってしまったのか。
男と目が合い、クリフは身を震わせる。だが、浮かんだ仮説を口に出さずにはいられなかった。
「お前の契約者って、エルトマーレの、最後の王だよな」
「そうだが。契約は正しく結ばれた。だからそれを阻むならば」
「わかった、分かったから一つだけ質問させてくれ!」
今にも噛みついてきそうな男に、クリフは指を立てて見せた。
そもそも、自分たちがここへ来たのはなぜか。グレンに頼まれたわけではない。むしろグレンが、自分たちに便乗した形だろう。であれば、一度グレンの目的は排除して考えるべきだ。
では望んで来たか。否。強制的な転移だった。誰に。風の精霊に。
何のために?
「人間が、精霊に変異することって、あり得るか?」
疑念と、かすかな確信を持って問う。赤い獣の目が丸く見開かれ、動揺を示すように揺れた。
短い沈黙ののち、男は視線を落とす。
「ある」
つぶやくような言葉に、クリフは自身の仮説が正解だったと確信する。
もう一度、男を見下ろす。白い布と赤い装飾、体の線が見えないマントと毛皮。大きな両足はまだ兎の形をしている。人間のように見えるが、確かに人間ではない。獣人であっても骨格は人間だ。だがこの男は、下半身がまるごと獣になっている。
(見つけた)
男の首元。白い布に紛れて、小さな首飾りがある。薄茶色の古ぼけた紐に繋がっているのは、獣の牙。
ハユ・エ・トゥラが示したものと同じだ。つまり、追い出すべき兎とは。
(……賭けるべきか)
「抵抗は終わりか。では」
「【牽引】!」
檻の間から術を飛ばす。不可視の縄は、男の首飾りに直撃した。
「よしっ!」
縄を引きながら、檻を斬る。着地したクリフの手の中に、首飾りが収まった。小さな肉食獣の牙。あとはこれを囮に、逃げ出せば。
クリフが蹴り飛ばされたのは、次の瞬間だった。
「がっ……」
腹にまともに蹴りを受け、壁まで吹き飛ばされる。
(あのデカさで兎の脚力かよ!)
受け身は取れなかった。床に崩れ落ちながらも、首飾りだけはしっかりとにぎる。怒ったということは、これが鍵だということだ。
「返せ!」
悲鳴のような声だった。クリフは周囲を見渡し、そこに転がっていたティーカップをつかむ。
どうして、と問われても答えられない。ただその瞬間、確かにクリフは、その行動が正解だと思った。理屈ではなく、魔術師の直感、あるいは本能で。
カップに首飾りを放り込み、蓋をする。誇れもしない生得魔法。確実に、隙間なく密封するだけの魔法。白磁のカップと同じ色の蓋が、首飾りを封じ込める。
クリフは知らなかった。自分のこの魔法が、ただの蓋ではないことを。
それはあらゆるものを外界から断絶させる、封緘の魔法。
「――あ」
景色に、亀裂が走った。
薄いガラス細工が砕かれるように、きらびやかな王城が、そこを埋めるおもちゃの兵隊が、ばらばらと崩れ落ちる。亀裂は足元にも及び、男の表面を顔まで這い上がった。顔の亀裂を押さえ、男はその場にうずくまった。
かしゃんと軽い音を立て、男の懐から銀時計が落ちる。文字盤の長針が、震えながら一つ戻った。かち、かち、かちかちかち、と針は瞬く間に時を逆巻く。
ひび割れた景色の向こう側から、真っ黒なものが噴き出してくる。
「やっ……」
あれはまずい、と肌で感じ取り、クリフは立ち上がろうとする。鳥籠の中の少女は、青白い顔で男を見下ろしていた。鎖をつかむ巨大な人形も、もうすぐ崩れそうだ。
受け止められるだろうか。壁に叩きつけられたせいで、全身が痛い。そうこうしているうちに、黒い影は迫ってくる。
落下直前で少女を引き寄せ、自分とともに浮遊させる。それが一番いいだろうか。浮遊魔術は対象の座標が遠いと発動しづらい。問題は、少女が落下を始めてからのほんの一瞬で、それを受け止められるかどうか。
めまいで揺れる視界に、真っ白な手が飛び込んできた。
「女王!」
影を突き破り――否、影をまとったまま、その女は現れる。黒い蔦に覆われた四肢と、深紅に染まった左目。そして、顔に刻まれた黒い薔薇。
「グレン」
かすかに呼ぶ少女の声は、震えていた。
積み上げた積み木の城。その土台を一本抜いたかのような、急速な崩壊だった。その隙間を縫うかのように魔術を編み、グレンは自分の通り道を確保する。
直後、鳥籠は崩れ、少女は落下する。グレンが伸ばした両腕に従って、影が巨大な手を形成した。その両腕と全身で少女を受け止め、背中から床に倒れこむ。
「つっ……クっ……ディーデリヒ! 何だこの事態は!」
「知らねえっすよ!」
「結界が崩壊し始めている。信じがたいが、契約が破棄されたのか、本当に」
少女が腕を伸ばし、グレンの顔を引き寄せる。
「グレン、ああ、ああ! グレンだわ。私と同じ顔。あなたね!」
「あ、うん、はい! 俺、」
少女の唇が、グレンの口を塞いだ。
突然のことに、一瞬、クリフと男も時間が止まっていた。思わずクリフは男を見る。顔のひび割れを押さえるのも忘れ、男は口を開けて二人を見上げていた。
「ずいぶん遅かったのね。待っていたんだから」
「……あ……、うん。ごめん、待たせちゃって」
眉尻を下げ、グレンは少女の前髪を払う。指先で髪を整え、改めて少女を抱きしめた。
「ようやく、君を助けられそうだ」
「あなたもね」
頬を撫でられ、グレンはきゅっと唇を引き結ぶ。手に手を重ね、今度はグレンが少女の顔を引き寄せた。
クリフは再び男を見る。床に膝をつき、男は茫然とした表情をしていた。だが、次第にその顔に血の気が戻り、くしゃり、と泣きそうに表情が崩れる。
景色がはぎとられた王城は、くすんだ色の床と、折れた柱が乱立する廃墟だった。割れた窓越しに、土がむき出しの庭が見える。その向こう側、堀を越えた先は、赤黒く染まっていた。
結界で閉ざされたこちらはきらびやかに、あちらは無機質に。そう引かれた境界が崩れ、湿気と土の匂いが混ざった風が吹き込んでくる。昼間のような明るさも、夜のような静謐さもない。
「……なあ、お前」
クリフが伸ばした手を、振り返らずに男は払った。立ち上がった瞬間に、男を中心に、空間がたわむ。その深紅の目はまっすぐに、女王だった少女に向いていた。
クリフは総毛だつ。
「グレンさん!」
すでに、グレンは杖を片手に少女の前に立っていた。グレンが従える影は、いくつかの人型になって地面に沈む。
ゆっくりと、兎の足が床を踏みしめる。全身を射貫かれるような感覚に、クリフは杖をにぎったまま動けないでいた。男がゆっくり、ゆっくりと右手を挙げる。差し出された手は、少女に向いていた。
「おいで」
ぞっとするほどに優しい声音だった。聞き分けのない子供に言い聞かせるように。周囲を押しつぶしかねない圧を全身から醸し出しておきながら、その声はあくまで穏やかだ。
ふらりと、少女は男に向かって足を踏み出す。目は焦点が合わず、見えない糸に引かれているようだった。グレンが片手でそれを止めようとすると、少女はその手首をつかみ、ねじり上げる。
「いっ……!?」
「グレンさん!」
「動くな、ディーデリヒ」
じろりと男がクリフを見る。クリフは息を飲み、片手で口を押さえた。
(【名従】……! マジかよ、こんなノーモーションで高等魔法を!?)
それはその名の通り、生物を名前によって支配する古代魔法だ。現代においては禁忌、黒魔術の一種である。
少女に名がないと知ったとき、クリフはこの魔術を警戒した。名を知って操るといっても万能ではない。しかし、相手から名を奪ってしまえば、その思考すら、時に意のままだ。
「お前も動くな、忌々しいグレン。この子の隣にいるべきは僕だけだ」
走り出そうとしたグレンは、その場に縫い付けられたように動けなくなる。口は半開きのまま、まばたきすら許されなかった。一瞬でも気を抜けば、思考すら止まってしまいそうだ。見上げた男の深紅の目が、いやに神々しく光っている。
畏怖。
押しつぶされそうな威圧感に、グレンの膝が折れる。かち、と歯が鳴り、自身の恐怖を自覚した。途端、全身ががたがたと震え、男に跪こうとする。
「お前はやはり、あの時消しておくべきだった」
男が地面を指で示す。グレンの額が、地面に擦り付けられた。両手は起き上がろうとしているが、押さえつけられたように体が動かない。
「妄執? 偏執? 愛? くだらない、くだらない、くだらない、くだらない! また僕から、すべてを奪おうだなんて。そんなもので。そんなもので!」
少女を優しく抱き寄せ、男は目を伏せる。
男を中心に、空間が悲鳴を上げて歪み始める。風景が一枚の布に描かれているかのごとく捩じられ、引き延ばされ、ぐしゃぐしゃとわだかまって、男の足元に収束する。
「ここは未だ、僕の世界だ。すべて僕が決める」
黒い薔薇が、男の足元で花開く。景色を飲み込み広がるそれは、瞬く間に数を増やし、いびつな風景を飾り立てた。
男の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「ああ、そう、そう、そうだ! 僕は神。崇め奉られたエルトマーレの守護神じゃないか。ならば一緒に夢を見よう。それがお前たちの幸福だ。永久に、永久に、終わらない幸せな今の夢を」
少女の額に唇を当て、男は目を開く。深紅にきらめく獣の瞳は、薔薇の色を吸い込んで赤黒く揺れた。宝玉よりも美しく、しかし滴る血のように毒々しい赤。
その目の中を、金色の光が横切った。
「グレンさん!」
足元の薔薇を蹴散らして、クリフはグレンに手を伸ばす。名を呼ばれた瞬間、グレンは顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。その襟首をつかみ、クリフは空中に飛び上がる。
「動くな!」
男が怒鳴る。クリフは構わず、景色の亀裂に目を向けた。
「くっ……、ロアル、ロアル!」
叫んだのは、ただ、絶望的なこの状況をどうにかして欲しかったからだ。本気で怒った幻想種を前に、一人の魔術師に何ができる? それは、荒れ狂う川の流れをバケツ一つで変えようとするような、どうしようもない愚行だ。
逃げるしかない。幸い、どうやら契約は破棄できたらしい。これが、あの幻想種と王の契約の証だったのだろう。詳しい事情は知らないが。
逃げる。どこに? 分からない。ここではない場所に。地上へ! 精霊がいる場所へ。精霊は幻想種より強いのか? 分からない。地上の人々も巻き込んでしまったら?
「はぁい、呼んだ?」
焦る思考を止めたのは、軽い調子の返事だった。
どん、と、腹に響くような音がした、直後。
「グァルルルルゥガァアアアアアアアアアアアアッ!」
鼓膜を突き破るような咆哮が、壁の亀裂を突き破ってきた。景色そのものを打ち砕き、真っ黒な塊が飛び込んでくる。
余波で吹き飛ばされながら、クリフはそれに目を奪われていた。
黒い。長い顔は鱗に覆われ、角が首との境界を覆い隠している。長い首は大きな胴へつながっていた。そして強靭な後ろ足と、巨大な二対の翼。
翼竜か。否――
「飛竜」
絵本でしか見たことのない怪物。
ロアルは、その背に乗っていた。




