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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第三章 薔薇と兎
23/61

5)おもちゃ箱の女王様

 ロアルが違和感に気付いた瞬間には、手遅れになっていた。

 伸ばした手が、クリフの幻影をすり抜ける。クリフは起き上がったかと思うと、怪訝な顔をして王城へと歩いて行った。橋を渡り、閉じたままの扉に吸い込まれるその背を追うが、不可視の壁に拒絶される。鈍い音を響かせ、ロアルは橋の継ぎ目で立ち往生させられた。


「クリフ! だめだ、起きて!」


 すでに届いていないであろう声を投げ、壁を殴りつける。ない心臓が早鐘を打つような、焦燥感に手が震えた。


「ああ、う~……ええと、幻惑、誘い手、取り替え子(チェンジリング)、対処法は……」


 古今東西、異界や幻想の世界に迷い込む子供の話はあるものだ。その多くは口減らしの悪習であるが、まれに、幻想種が本当に手を引いている場合がある。こと有名なのは、森に迷い込んだ子供が別人となって帰ってくる、取り替え子の伝承だろう。人間に育てられた幻想種が、成人したとたんまた人間と入れ替わって去ってゆく、そんな御伽噺も世界中にある。

 文明が進み、魔法が発見され、人々と幻想の距離は遠くなった。御伽噺は警告ではなく娯楽となり、伝承は歴史に隠された因習として再分析された。

 しかしそれは、人間が幻想種に勝ったというわけではない。


「クリフ、クリフォード! ダメか。ストック、フェッチ……トム・ティット・トットか、ルンペルシティ……まさか。いいや、落ち着け」


 幻想種がその気になってしまえば、人間はそうと気付く暇もなく思い通りに動かされる。精霊が姿を持ち、古代の都市がそのままの姿であるこの場所で、自分たちが弄ばれない保証などどこにもない。

 だが、自分はここに残された。どうやら意識もはっきりしている。


「……規則(ルール)があるはずだ」


 クリフのみを連れ去った。そこに、意味があるはず。指折り、自分とクリフの差異を数え、一致するものがまるでないことに気付く。唯一、冒険者という社会的身分は共通だろうか。魔術師と双剣士であり、生者と死者である。自分の好きなこととなると理屈っぽく話してしまうのは似ているかもしれないが、そんなことを襲撃者が気にするだろうか。まさか。

 人間の視点で重視されるものを取り除き、まっさらな自分とクリフであれば。やはり大きな違いは、肉体の有無、生死だろう。


「……いや、条件が足りない」


 懐から、銀の筒を取り出す。精霊は自分達を雇い、兎を穴倉から追い出せと言った。その穴倉が、ここだと考えていいだろう。

 だが、二人を直ちに移動させたハユ・エ・トゥラが、この場所に来られないとは考えられない。物理的な障壁はない。魔術的な障壁は、今目の前にあるこの壁だけだった。強敵もおらず、上層のように環境の魔力が荒れ狂っているわけでもない。これならば、外の森のほうがロアルには過ごしにくいほどだ。

 だが、精霊はここにいない。


「……ああくそ、魔術的なものはクリフにいて欲しいなあ!」


 障壁から離れ、橋のたもとに戻る。乾いた焚火跡は、小さな足で踏み荒らされていた。

 剣を軽く上下させながら、思考をもう一度整理する。つのる焦りと苛立ちに任せて足を動かし、橋の前を何度も行き来した。


(精霊がここに来られないと仮定する。ボクと精霊は不可能で、クリフは可能。つまり、あの障壁を通れるのは『生きた人間』のみ。なら、精霊が追い出したい『兎』とやらも、生きた人間だけがたどり着ける場所にいる……筋は通る)


 仕組みはまるで想像できないが、そういう理屈があるのだと納得はできる。文字と音で奇跡を描く魔術は、ロアルにとってはまさに『なんでもあり』だ。しかし、たびたび頭を悩ませる相方を見ていれば、魔術にも科学に似た規則があるのだとは推察できる。

 では、生きた人間だけが入れる空間に、死者たる自分はどうやって干渉する?


「……わっかんない!」


 魔術に限らず、専門知識というのはたいていがブラックボックスだ。内部機構を知らないものに干渉するなど、無謀もいいところである。

 落ち着け、ともう一度自分に言い聞かせる。考えてわからないのならば、今結論を出す必要はない。


「できることを探そう」


 振り向けば、白い無人都市がある。清廉な水と澄んだ空気。石造りの町並みは美しく、しかし無機質だ。


「……死」


 そうだ、この都市の雰囲気を、自分は知っている。

 人のいない都市の荒廃は速い。踏まれなくなった道は草が茂り、巡らなくなった水は濁る。剪定されなくなった木々が生い茂り、選別されなくなった動物たちが巣を作る。人々が住んだ家は雨風をしのげる洞となり、境界を示す柵は無意味な障害物となる。そうして自然の中に飲み込まれた都市を、人は『死んでいる』という。

 だが、ロアルにとっては、この都市こそ。美しく、清潔で、ひとつの欠けもないまま保たれているこの場所こそ、死んでいる。


「……死体には」


 頭を振って感傷を払う。思い出に足を引っ張られている暇はない。


「『情報』がある」


 王城に背を向け、ロアルは走り出した。




 緑の太陽を追い越し、岩壁を、縄一本で下る。グレンの背に全身でしがみつき、ソルードは小さく震えていた。


「恐れているのか」

「お……?」

「怖いのか」

「こわいじゃない!」


 噛みつくように言い返す。だが尾はグレンの腹にしっかりと巻きついていた。首を振り、グレンは縄を手の中で滑らせる。


「お前の家族は、精霊と話してからいなくなったんだな」

「ん、そう、ゆってた」

「なら、あいつの依頼を受けたに決まっている。男のくせにぴいぴい泣くんじゃない」

「ないてない」


 穴の底から白い光が漏れてくる。石畳に着地し、グレンはソルードを下ろした。ソルードは地面に両手をつき、ふんふんと鼻を鳴らす。


「にいしゃと、ろぉのにおい」

「やはりか。工房を作るから五分待て」

「こぉ……?」

「キャンプだ」

「かんぷ!」


 白い階段を下り、手近な家に入る。立方体をくりぬいたような、簡素な住居だった。扉と窓をすべて閉じ、グレンは床の中心に円を描く。ソル―ドを隅に座らせて、円の中に立った。


「【精霊たちよ】【我、ここに在り】【エゴ・ディクレ・ハル】【簡易工房(グロット)】」


 グレンの髪がざわめき、ソル―ドは両手で足を引き寄せる。ぱん、と乾いた破裂音が、天井から降ってきた。


「これでここは安全だ。何かあったらここに逃げ込むように」

「うい」

「返事は『はい』」

「あい!」

「はい」

「は、ぁい!」

「いい年して舌ったらずだな。さっさと探しに行け」


 顎で示され、ソルードは大きく頷いて家を出る。玄関口で数秒立ち止まり、尾の先で木戸を擦った。

 ソルードが出ていくと、グレンは中央の輪に魔法陣を重ねて書く。赤茶色のコンテの感触は、涙が滲むほど懐かしかった。


「……全く」


 目元を拭い、古代文字を幾重にも書き重ねる。複数の魔術の文字が重なり、新たな魔術としての意味を持つ。


「世話が焼ける後輩だよ」


 擦り切れたコンテを放り投げ、腰帯から取ったナイフを手のひらに当てる。血の滲んだ手を魔法陣の中央に押し当てると、鋭い痛みが肩までを貫いた。

 息を吐いて、吸って、目を閉じる。


「まだ、間に合うか、俺は」


 四肢に絡む蔦の痣が、じわりと熱を持った。




 金と銀で飾り立てられた廊下の先に、両開きの扉がある。兎に先導され、クリフは重い裾を引きずって歩く。銀糸で蔦と薔薇の刺繍が施されたマントは分厚く、一歩ごとにその重さが両肩にのしかかってきた。


「客人ってんならもっと丁重に扱えよな……」

「何か?」

「いえ何も」


 両手で杖を握り、視線を逸らす。服をひん剥かれることは辛うじて避けたものの、それでは謁見させられないと散々怒鳴られた。クリフとしては、謁見などしなくていいのでとっとと帰りたいのだが。


(ここが夢、あるいは誰かが作った異空間だとして)


 廊下の片側には、大きさがバラバラの額縁がかけられていた。抽象画なのか、何が描かれているのか定かではない。プレートの文字は黒いインクで塗りつぶされていた。


(この規模からして幻想種……あるいは賢者の集団。だとすれば、むやみに対抗するのは得策じゃねえ。ロアルが言うところの『情報で武装する』ために……)


 安っぽいファンファーレとともに、扉が開く。高い帽子を被った衛兵が、ピッタリ同じ動きで扉の向こうに控えていた。


「女王の御前です。杖をこちらに」

「…………」


 大人しく杖を兵士に引き渡す。ぎくしゃくと動く兵士は、糸で吊られた人形だった。満足げに頷いて、兎は赤い絨毯の上を前へと進む。

 玉座の間には、大きなステンドグラスがあった。鮮やかな薔薇を抱えた少女と、その足元に戯れる兎の絵。その光が落ちる場所に、椅子が二つ並んでいる。その片方に、真っ赤な布の塊が乗っていた。

 いや、よく見れば布の間から足が見えている。白磁のような、人間味のない細い足だ。椅子の前には、花弁を集めて形作られた白いハイヒール。扉が閉まる音と共に、足が床へ降り、靴を探った。

 光が落ちた床には、銀色の時計の文字盤が描かれている。爪先がハイヒールの中に滑り込むと、カチリ、と文字盤の長針がひとつ進んだ。


「ふわ〜あ……」


 布の向こう側から、少女が現れる。溺れそうな真紅のシルク全てが、少女のドレスだった。薔薇の花を伏せたようなスカートの上に、細く絞られた腰が乗っている。胸から肩にかけては、ぐるりと黒いフリルで飾られていた。細い腕が、気だるげに前髪をかきあげる。赤みの強い黒髪。磁気人形(ビスクドール)がそのまま動いているかのようだったが、その黒瞳は確かに、生き物の光を宿していた。


「ええっと……初めましてぇ?」


 唇を指でなぞり、少女は首を傾げた。眠たげな目がクリフを捉え、ゆっくりと一度、まばたきする。

 その顔に見覚えがある気がして、クリフは眉間に皺を寄せた。


「初めまして……?」

「うん、うん、初めまして……そう、初めまして。あらいやだ、私ったら、お客様の前ではしたない」


 ぱっと目を開き、少女は椅子から立ち上がった。ふわり、と甘い香りが漂ってくる。指先でスカートをつまみ、少女はうやうやしく礼をした。


「私、この国の女王ですの。歓迎いたしますわ。今日は、そう、私とこの国の、七百九十六回目の誕生日? みたい。ああ、久しぶりのお客様。とっても嬉しい」


 指先をそろえ、少女は夢見るように天井を仰ぐ。


「……あの」

「そうだ! 今日はダンスパーティーにしましょう? みんなを集めてちょうだい。お客様、お名前をいただける?」


 爪先でターンをして、少女はクリフに手を差し出す。周囲にいた衛兵はさっとクリフの視界から消え、窓を覆うカーテンの向こうから楽団が現れた。子供の背丈の人形たちが音楽を奏で、ステンドグラス越しの月明かりが舞台を彩る。


「……ディーデリヒと申します」


 白い手を取る。冷たいが、柔らかい人間の手だ。重たいマントが落ち、クリフは少女に引き寄せられる。


「では、夜が明けるまで踊りましょう? 王子様(ルイス)


 幼い少女の顔に、妖艶な微笑が浮かぶ。重なった手のひらに、汗が浮かぶのが分かった。




 二つの足音が工房に戻ってくる。


「ぐーにぃ! ろぉいた!」


 木戸を開け、上機嫌のソルードが顔を出した。ソルードに手を引かれ、ロアルも中を覗く。壁に文字を書いていたグレンは、「そうか」とそっけなく返した。


「君が出てくるなんて」

「こちらの事情だ。あの金髪はどうした」

「それなんだけど」


 手短に、仮眠後の出来事を説明する。グレンは壁に向いたまま、相槌だけを返した。


「ということで、この都市をざっと調べたけど、収穫はナシ。お手上げかもしれないな、ボクには」

「いや、お前には武力がある。できることはある」

「ふうん?」


 魔法陣を挟み、ロアルとグレンは向かい合って座る。ロアルに身を寄せ、ソルードもちょこんと座った。


「じゃ、君が知っていることを話してくれる?」

「お前ほど多くはない」

「量じゃなくて質さ。ボクはエルトマーレという国の歴史しか知らない」


 む、と口を曲げ、グレンは胡坐をかく。ロアルは片手を剣柄に当てていた。


「分かるだろ。君が大事にしたい何かと同じくらい、ボクはクリフが大事だ。それに、協力できると思うけどね」

「……そうだな。協力は可能だ」


 グレンは懐に手を突っ込み、取り出したものを魔法陣に置く。それは小さな手鏡だった。


「では端的に言うのならば。この都市は、幻想種に支配されている」

「ああ、やっぱり。この国の最後の王と契約したやつだろう?」

「そうだ。幻想種は王……女王の願いを叶え、現在もその契約は続いている。端的に言えば、この周辺の都市は、あの王城の形を保つための術式のようなものだ」


 人に神と仰がれる幻想種も、まったく全知全能ではない。行為には反動があり、強大な力を行使するにも代償がある。


「あくまで俺の推察、と前置きさせてもらう。エルトマーレの王と契約した幻想種は、王に『永遠』を約束した。しかし、戦乱の中、都市に永遠を与えるには、まず都市をまるごと避難させなければいけなかった。そして、人間の寿命は幻想種の想像よりはるかに短く、それでは永遠を与えられないと、幻想種は焦った」

「うん」

「幻想種が選んだ手段は、契約者である女王以外を切り捨てることだった」


 片手のひらにもう片手を当て、グレンは一度目を伏せる。


「都市を王城とそれ以外に分け、生の概念と死の概念に分割した。そして、女王に全ての命を注ぎ込み、女王から死を奪い去った。……不死、不変の呪いだ」

「……なんか、どこの国も似たようなことやってるなあ」


 軍事基地の亡霊たちを思い出し、ロアルは頬杖をつく。


「終末に永遠を夢見るのは、人間のサガなのかな」

「……話を続ける。お前達は精霊からの依頼でここに来たな。精霊の目的は、あの幻想種と女王の契約を反故にすることだ。この空間には精霊が介入できないため、地上に連れ出すことを依頼している」


 話が難しかったのか、ソルードは舟をこいでいた。ロアルはソルードを引き寄せる。ソルードははっと顔を上げて目をこすった。


「どうして?」

「……今は黙秘する。目的は一致するはずだ」

「そうかもね。でもまだヒントが少ない」


 銀の筒を振ってみせると、グレンの眉間に皴が寄った。筒を懐にしまい、ロアルは両手を合わせて立ち上がる。


「で。ボクは何をすればいいのさ。呪われた賢者様?」


 ロアルを見上げ、グレンは舌打ちを漏らした。




 気が付くとクリフは眠っていた。体が沈み込むベッドは慣れなかったが、なるほど、快適であることはこういうことなのかと思った。たっぷり寝て起きたというのに、体のどこも痛まない。天蓋付きのベッドの存在は知っていたが、まさか自分がそこで寝ることになるとは。

 サイドテーブルに、清潔な着替えが用意されていた。窓の外は相変わらず夜だ。


「……何だこの服」


 色こそ元の服に似ているが、どこもかしこもきらきらと飾り立てられている。そもそも腕を入れる場所が見つからない。

 服をいじっていると、扉を開いて兎が入ってきた。


「おや、お召替えをお手伝いいたしましょうか?」

「え、ああ、えっと。俺の服は?」

「ひどく汚れていたので捨てました。必要ないでしょう?」


 鼻を上げ、兎は「さあ」と持っていたものを掲げる。蔦を象った輪が、クッションの上に乗っていた。クリフは言葉に詰まるが、すぐに顔に怒りを浮かべる。


「人のモン勝手に捨てたのかよ。大体、何のために俺を」

「ああ、ああ! 怒りは空腹のせい。すぐに朝食をお持ちしますので。これはこう、足首にどうぞ」


 兎はクッションを床に置き、クリフのほうへと押しやる。


「それで、何にお怒りですか?」

「何って、お前っ……、えっ……と……」


 握った服を見下ろし、クリフは次の言葉を探す。怒っていた、という感覚は残っているが、思考に靄がかかったようで、うまく言葉にできない。


「お召替えが終わりましたら、そちらのベルでお呼びくださいね」


 扉が閉まり、クリフはベッドに腰を落とす。だらだらと、嫌な汗が額から頬へと流れていた。

 何か、取り返しのつかないことをしているような気がする。だがそれが何か考えようとすると、思考が散ってしまう。脳に干渉されているとすれば、洗脳防壁(セーフティ)が働くはずだ。だが警告はない。あるいは自分がおかしくなっていることにすら、気付けなくされているのだろうか。


(……いや、そもそも)

「俺は……どうして、ここに……?」


 ボタンを掛け違えたような気持ち悪さに、めまいがする。何か、目的があってここに来た。それが果たせていないことは分かる。だが、その目的とは何だったか。少なくとも、あの女王に会うことではない。


(……まあいいか(・・・・・)

「ダメだ!」


 止まりそうになった思考に怒鳴り返す。手早く着替えを済ませ、壁際の鏡に近付いた。甘ったるい香りのする造花が鏡を縁取っている。鏡を覆う薄布を剥がし、寝ぐせの目立つ髪に手をやる。


「何か変なんだ、何か……」


 思考がまとまらない。身支度をしよう、と呑気に考えている自分と、それを拒絶する自分がいる。にぎった両手を鏡に当て、息を吐く。


『クリフ』

「…………」

『クリフォード』

「……んだよ」

『聞こえているのか。顔を上げろ』


 ついに空耳か、と顔を上げ、深紅の瞳と目が合った。


『よし、繋がったな』


 鏡の中に、グレンがいた。片手をクリフの手と重ね合わせ、切れ長の目でこちらを見据えている。


「……な、」

『手遅れになる前にそちらに行く。名を呼べ』

「何、」

『俺の名前を呼べと言っている。死の世界(こちら)から生の世界(そちら)へ行くために』


 扉の向こうに、鋭い足音が近付いてきた。はっと顔を上げ、クリフは鏡を布で隠す。数秒もせず、扉が勢いよく開かれた。


「ごきげんよう王子様(ルイス)! ゆっくりお眠りになれたかしら?」


 踏み込んできた女王は、満面の笑みでクリフに駆け寄る。鏡を背に、クリフは頬を引きつらせた。軽く首を振り、胸に手を当てて礼をする。


「おはようございます女王陛下。おかげさまで。何か御用ですか?」

「ディーデリヒはここの王子様(ルイス)ですもの。王子様は女王に、おはようのキスをしてくれないのかしら?」


 ひゅっ、とクリフは息を飲む。体を寄せ、背伸びをした少女からは、甘い香りが漂ってくる。片手が腰に、片手が頭へと回された。


「あ、ああそうでしたね? はい。それでは目を閉じていただけますか? 照れくさいものですから」


 つい早口になる。視界の端にロアルが見えた気がした。布に隠された鏡の向こうで、笑っているのだろうか。

 素直に目を閉じた少女の頬に手を当て、揃えた指の背を唇に押し当てる。ぞくぞくするほど柔らかな唇は、指を少しだけ押し返してきた。吐息を感じて指を離し、片手で口元を隠す。目を開いた少女は、黒曜石(オブシディアン)のような瞳でクリフを見上げてきた。


「優しい人」


 囁いて、少女はひらりと身を翻す。少女らしいフリルにあふれたドレスが、ゆったりと弧を描いた。


「朝ごはんはもうすぐご用意ができるわ。バターと卵に、お砂糖とミルクをたっぷり使ったフレンチトーストをリクエストしたの。蜂蜜はお好き? きっとお好きよね。それから、ベーコンをカリカリに焼いてね。ああ! 私ったら、お腹がくうって鳴ってしまったわ、恥ずかしい! お先に失礼するわね。待っているから!」

「……はい」


 クリフにウインクをして、少女はぱたぱたと部屋から出て行った。あの高いヒールの靴で、よくあそこまで走れるものだと感心する。

 扉をしっかりと閉めなおし、改めて鏡の布を外した。鏡の中のグレンは、何やら不満げに腕を組んでいる。眉間に皺が寄り、指は何度も苛立たしげに肘を叩いていた。


「グレンさん?」

『妬いてなどいない』

「誰に……えっ、俺に?」


 鏡から伸びてきた手をつかみ、グレンを引っ張り出す。続いてロアルを呼ぼうとすると、グレンの手がクリフの口をふさいだ。


「あの二人は来られない。外のことを任せてきた」

「はあ、うん。えっと」

「食え」


 手ににぎられていたものが、クリフの口にねじ込まれる。口の中に、覚えのある苦みが広がった。


「うっ……げ、えっ……」

「吐くな。飲め」


 小さな丸薬か、木の実か。噛み砕かれた瞬間に、強烈な匂いが鼻へと抜ける。両手で口を押さえ、クリフは膝を折った。


「んぐっ……は、あ、はあっ……はあ……」

「これで、幻想種はお前の魂に触れられない」

「ど……も」


 ぱち、ぱちと頭の中で木が爆ぜるような音がする。一度長く息を吐くと、すっと思考がクリアになった。


「正気に戻ったな」

「……わりと正気だったと思うんだが」

「ああそうだな、ディーデリヒ(・・・・・・)。素晴らしい。百点満点中七十点といったところだ」


 グレンは小さなブレスレットをクリフに渡す。木の皮を編んで作られ、親指の爪ほどの水晶が二つ連なっている。


「杖を取り返すまでの気休めだ。状況を説明する。一度で頭に入れろ」

「はい」


 ブレスレットをにぎり、クリフは表情を引き締めた。




 無人の廊下を、クリフが先に立って走る。


「つまり、幻想種は女王と契約して、あの女王サマはひとりぼっちで長生きしてて、精霊はそれを終わらせたいってことか? 何で精霊がそこで出てくるんだよ」

「黙秘する。お前はとにかく女王の目を覚まさせろ。エルトマーレは滅んだしあの兎はバケモノだ。あの女王さえ正気になれば、契約を破棄させられる」

「あんたは」

「バケモノ退治の仕込みをする」


 クリフをそのまま進ませ、グレンはやや細い廊下に入る。明かりのない、使用人用の通路だ。橙色の明かりが届かない場所まで来ると、その先は壁に装飾もない、白く単調な空間へと繋がっていた。白い紙を折って作ったかのような廊下に、人形の兵隊が転がっている。ちょうど子供が、おもちゃ箱に放り込むように。

 つるんとした天井を、兎の従者が歩いていた。ご機嫌に体を揺らし、丸い尾が跳ねるように動いている。グレンは様子をうかがいながら、積みあがった兵隊の後ろへ隠れた。兎は今しがたグレンが出てきた通路に入ると、床へ飛び下り、小さな前足で耳の毛づくろいをする。最後に尻を振って、廊下のほうへと跳ねていった。

 足音が聞こえなくなってから、グレンは白い道を左へ進む。兵隊たちがいなくなると、道は次第に細く、曲がりくねり、幾本にも分岐し始めた。

 グレンは手元に視線を落とす。小さく折りたたまれた紙に、細い線で図形が描かれていた。一見すれば魔法陣のようだがそうではない。同心円の代わりに薔薇の花の輪郭が、図形の代わりに茨の線が描かれ、古代文字ではなく木の葉が散りばめられている。その線をたどり、グレンは天井を仰ぐ。


「よっ……と」


 低い天井は、触れるとぱらぱらと崩れ落ちた。壁の上によじ登り、グレンはゆっくりと立ち上がる。


「……これが、きらびやかな王城の正体か」


 灰色の、もやがかかったような空間が広がっていた。濃い魔力が風に混ざり、ねっとりとグレンに絡みついてくる。壁で挟まれた狭い道は、グレンが持つ図面と同じ形をしていた。直径は一、二キロはあるだろうか。風の精霊のあの集落も、これくらいの大きさはありそうだ。


「……よし」


 頬を叩き、グレンは歩き始める。


『ダメよ』


 かつて、女王はグレンの手を握り返さず、哀しげに笑っていた。


『私は、夢を見ていなければいけないの』


 何故とも、誰のためとも言わず。すり抜けた手の温度を、まだ覚えている。


「……必ず」


 前回までは一人だった。精霊の助力もなく、まともな魔術も扱えないこの空間では、人間にできることは皆無に等しい。

 だが今回は違う。賢明な助手が三人。願ったり叶ったりだ。

 細い壁の上から別の壁へと飛び移り、複雑な道を無視して進む。迷路のように入り組んだ通路の上を、一直線に。


「助ける」


 決意を込めた足音が、灰色の空間に反響した。

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