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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第三章 薔薇と兎
22/61

4)地下の国の冒険

 ギルドのダンジョン帳に、【幻惑の森(ケイヴ・ファントーム)】は次のように記されている。

 人が踏み入ることを許されないまま千年。深い森は晴れない霧に包まれ、神代の奇跡がそこには息づいている。境界を越えれば精霊の領域。人の常識は捨てるべし。


「……とはいえ」


 岩の先端に立ち、ロアルは片手で庇を作る。吹き荒れる高濃度の魔力の嵐で、視界は常に明滅していた。もう片手には、クリフの足が握られている。


「ここまで、とはね」


 ロアルが踏む黒い岩は、空中に浮いていた。風もない乾いた空間を、何かに引っ張られるかのようにゆっくりと移動している。周囲を見渡せば、同じように浮いている岩や瓦礫が、まるで銀河のように渦を巻いていた。


「クリフ、生きてる?」

「いきてる……」

「あの中心が入り口っぽいんだ。案内して?」


 片手でクリフを上へと放り投げ、両手で受け止める。足が岩に乗ると、ようやくクリフは息を吐いた。杖を握りしめる手は白く、吐く息は震えている。

 二人がいる場所は、巨大な岩盤の内側(・・)だった。

 薄緑の光が、あたりをぼんやりと照らしている。球体に削り取られた大岩と、石造りの遺跡の残骸。それが、不可視の流れに従って浮き沈みしている。見上げれば、ひと二人分の穴があり、その上に白い光が見えていた。地上だ。

 地下を照らす光の根源は、空間の中心にあった。


「……太陽みたいだ」

「色は?」

「緑」


 緑色の球体は、目を凝らせば歪な形をしているのが見てとれた。クリフは視線を巡らせる。何もかもが出鱈目な空間だが、あの球体を中心に瓦礫が渦巻いているのは確かだ。瓦礫は白く、尖塔の屋根や行き先のないアーチ、削れたレリーフと形は様々であった。


「考古学者が見たら発狂しそうだ」

「分かったから、とりあえず下まで降ろして」

「はいはい。しっかりつかまってろ」


 外套の内側にロアルを入れ、落ちないように腰帯を結び合わせる。杖をくるりと回し、クリフは神経を集中した。


「【空中散歩(スカイウォーク)】」


 赤い光が、足を包む。大岩を蹴り、クリフは空中へと飛び出した。




 時間をやや遡り、明け方。剣の鍛錬に勤しむロアルを、精霊が呼び止めた。


「兎?」

「そうだ」


 ハユ・エ・トゥラは「続けろ」と手を振る。ロアルの剣は空間を割き、その余波でハユ・エ・トゥラの輪郭が揺らいだ。


「外の人間に聞いたことがある。お前たち、冒険者だろう」

「そうだよ」

「で、何やら古い場所に潜り込んで、過去のあれこれを運び出すのが好きだとか」

「語弊はあるけど、そうだね」


 軽い金属音が、ロアルの足元で鳴った。


「兎が巣を作って困っている。森の穴倉だ。連れ出してほしい」


 ロアルは音の正体を拾い上げる。小さな筒のようだった。凹凸のない、親指ほどの円筒だ。振ると、中で硬いものが揺れる音がする。


「それと同じものを持っている」

「報酬は?」

「四精霊の祝福」


 思わず、ロアルは精霊を振り返る。


「……それって、ほいと与えていいもの?」

「その兎一匹を連れ出すことに、それだけの価値があると思ってもらって構わない」

「そ。で、その穴倉ってどこ?」

「エルトマーレの王都」


 告げられた名前に、ロアルは一拍遅れて顔を上げる。


「それって、」

「では幸運を!」


 ロアルの承諾も聞かず、奔放な精霊は指を鳴らす。次の瞬間には、ロアルとクリフは揃って、大穴の上にいた。


「え」

「はっ!? おいこれなぁああああああ!」


 寝起きだったらしいクリフは、そのまま落下を始める。ロアルが咄嗟にできたことは、その足をつかむことと、穴の側面に指を立てて落下の速度を殺すことだけだった。




 そして今に至る。


「あの説明のしなさ、マジで人外なんだなって感じだよな」

「あんまり関係ないと思うけどなあ」

「ああ、お前も説明しないもんな」

「心外!」


 どこかも分からない地下空間に放り込まれ、二人はひとまず地底を目指していた。


「しかし、そうだね。そういえばボクたち、ダンジョンに来ていたんだった」


 いくつかの岩を経由し、クリフはようやく地面に降り立つ。魔術を解除してロアルを下ろし、探査魔術を起動した。

 見上げれば、緑の発光体はもう手の届かない高さにある。万が一あれが落下すれば、自分はノートの一冊より平たくなるだろう。周囲を取り巻く瓦礫の衛星もあの球体も、重力に縛られていない。それが自然なのか、誰かの手によるものなのかすら、クリフには分からなかった。


「マジに浮いてやがるな……」

「うわあ、魔力がびゅうびゅうだよ。クリフには見えない?」

「人間の肉体はオドに鈍感だからなあ。長居しない方がいいってことくらいは分かるが」

「そうか。じゃあ手短に共有しよう」


 ロアルが懐から取り出したのは、小さな銀色の筒だった。


「これの持ち主の兎を連れ出したら、精霊が祝福してくれるってさ」

「見せてみろ」


 銀色の円筒の上下は、不恰好に溶接された蓋がはまっていた。中で、カラカラと軽い何かが鳴っている。


「それを最低限の到達目標にしよう。まず情報収集。それから探索。異論は?」

「ねえな。ここにいても進めなそうだ。更に下に行こう」


 緑の太陽の直下、陥没した地面の中心には、また大穴があった。二人が落下してきたものよりも大きく、風の集落の家ならば一つ丸ごと飲み込めてしまいそうだ。

 再びロアルをくくりつけ、クリフは低速落下の魔術を起動する。

 ゴツゴツとした岩肌の中を、水の中に沈むようにゆっくりと落ちてゆく。


「とりあえず、なんで俺がここにすっ飛ばされたのかは説明してもらおうか?」

「精霊様の探し物はどこにあるのかって聞いたら、問答無用でね」

「じゃあこの場所の情報は」

「エルトマーレの王都、としか」

「エルトマーレ? 大戦前の国じゃねえか」


 大戦以前、帝国ヴェルグストート以外の国は少なかった。エルトマーレはその、数少ない国の一つだ。古代魔法の源泉であり、ルクソー語の魔術を生み出した、神秘の生きた国である。


「ちょっと語弊があるな。君たちが言う大戦の後まで存在したんだよ。ここに」

「まさか!」


 全てが破壊し尽くされた大戦は、アーク暦二五三〇年ごろ。今から約八百年前に勃発し、約十年後に終結した。ヴェルグストート帝国を筆頭とした連合国と、不夜の王国、とのみ記された謎の大国との壮絶な戦いだ。


「現代の歴史じゃあ、大戦後に残っていたのはヴェルグストートと不夜の王国、それからエルディンバルラだけだ。エルトマーレがあったとして、それが何の記録にも残ってないってのは……」

「そりゃ、国としての体裁はなくなっただろうさ。そのころにはもう、この森があったから」


 穴は次第に横幅が狭くなってきた。低速落下を重ねがけし、クリフは杖を体に寄せる。底から風が吹いているような気がするのは、落下のせいか、それとも。


「……俺ら生きて帰れるよな」

「さーね? 少なくとも、ボクには不可能だけど」

「言葉のあやってあるだろ」


 穴の終わりが見えてきた。すでに緑の光は届かず、穴の向こう側からのぼんやりとした明かりだけが頼りだ。


「じゃあ聞くが。大戦後まであったって国の都が、なんで千年の歴史がある森の底にあるんだよ」

「この森が八百年前にできたってことじゃない?」

「ンな適当な」


 穴の底を抜ける。片手でクリフにしがみついたまま、ロアルは剣に手をかけた。


「う……」


 眩しい。

 地の底で、まずクリフはそう思った。直前まで暗い穴にいたからか、空中だと言うのに目を閉じてしまう。まるで、寝起きに直射日光を見せられた気分だった。


「ほら、底に着くよ」

「う、おう」


 ひと足さきにロアルが飛び降り、クリフを受け止めた。クリフは目元を片手で覆う。光に目が慣れるように、ゆっくりと指をどかしてゆくと、まず白い石畳が目に入った。


「……白……」


 顔を上げられないクリフの隣で、ロアルはざっと辺りを見回す。

 白い、石造りの街並みが広がっていた。

 地面は隙間なく舗装され、道の端には側溝が設けられている。立方体の家々が等間隔に並び、路地が網の目のように張り巡らされている。そして広い通りは全て、中央の広場へと繋がっていた。その広場から更に奥へと目を向ければ、堀を境に城壁が見える。クリフとロアルが降り立ったのは、王城から広場を挟んだ真向かい、太い柱が立ち並ぶ神殿の前だった。

 美しき、白亜の都市。岩壁に囲まれたそれは、まるで実物大の情景模型(ジオラマ)だった。地下だというのに空気の澱みもなく、石畳はついさっき清掃が終わった後のようだ。


「すげぇ」


 顔を上げて、ようやくクリフはそう呟いた。

 まばゆい光の源は、天井に突き出した鉱石のようだ。そこから街へ落ちた光が、白い壁や地面に反射している。


「こんなことが……精霊がやったのか?」

「いいや、違うね」


 数歩進んで、ロアルはクリフを振り返る。


「さっき、エルトマーレは大戦後まであったと言ったよね」

「お、おう」

「正確には。この王都が地上にあったのは、大戦前まで。王は国と民を護るために、戦争から逃げたんだ。都市丸ごとね」


 そんなことは不可能だ、などと、誰が言えるだろう。紛れもなく今目の前に、その光景は広がっている。


「どうやって」

「取引だよ」


 ロアルの指が、クリフの背後を示す。そこにあるのは、古い神殿だ。左右対称(シンメトリー)に配置された円柱と、石を積み上げて作られた本殿。柱の上部には、屋根を支える小人のような彫刻がある。三角屋根の正面には、羅針盤の上に乗る兎のレリーフがあった。


「かの国の王はね。幻想種(かみさま)と取引したんだ」


 幻想種とは、かつて神と呼ばれた、世界の狭間に住まう存在だ。ダンジョンに潜む魔族(ベスティーガス)の遥かな先祖であり、肉体を持つ有機生命とは異なる次元に存在する。実在と不在を行き来でき、時空すら超越する、まさに幻想の存在だ。


「……人間が魔法を手に入れて、幻想種はいなくなったって」

「思い上がりじゃないかなあ。君、道端の羽虫が槍を持っていることを気にするかい?」

「お前は会ったことがあるのかよ、その口ぶり」


 ロアルはふいっと顔を背ける。


「さあ急ごうか! あんまり遅くなるとソルが心配する」

「ないならないって言えよな」


 神殿前の階段を降り、大通りをまっすぐ進む。円形の広場の中心には噴水があった。澄んだ水が上部から注ぎ、水しぶきがきらきらと舞っていた。広場のところどころには木が植わっているが、こちらは幹から葉まですべて漂白され、ガラス細工のように半透明になっている。爪で触れると、氷のように冷たかった。地面に落ちた葉は、粉々に砕けている。

 二人の足音は、広大な都市に否応なしに響いた。噴水の水音のほかは、何一つ、風が吹く音すらしない。

 神殿は都市の端、やや高い位置にあった。見下ろせていた町並みは、実際に歩くとはるかに広く、そして無機質であった。


「提案なんだけど、手分けしない?」


 噴水の縁に腰かけ、ロアルは精霊の筒を見せる。


「これの持ち主を探せ、と言われても、ボクにはこれが何だか分からない。だからまずそこをはっきりさせよう。ここまで歩いてきたけど、どうにも、敵影はないし」

「迷子になるに一票」

「二票じゃ多数決は機能しないよ。それに君、飛べるじゃない」


 家々の大きさはどれも似たり寄ったりで、クリフにはとても見分けはつかない。大通りを歩いている今はともかく、路地に入ったらどちらから来たかすら見失いそうだ。


「とりあえず、それ貸せ」


 ロアルから筒を受け取り、修復魔術で溶接を外す。中から転がり出てきたのは、小指の爪ほどの、白い塊だった。湾曲した円錐形。純白というよりは、やや黄色がかっている。先端はそれほど尖っていない。


「……牙……?」

「キバ? 動物の?」


 ロアルはクリフの手の中を覗き込み、首をひねる。


「ああ。かなり小さい動物の……猫とか犬とかがこんな感じだな」


 二人はそろって、白い都市を振り返る。目に痛いほどの純白。そして、手の中にあるのは、小石よりも小さな白い牙。


「……魔法使い君」

「わぁかってるよ」


 さすがに日が暮れるどころの話ではない。クリフは牙を握ると、杖を掲げた。


「【走査(スキャン)】!」




 白と黒の石を前に、ソルードは両手で足をつかみ、不機嫌な顔で尾を揺らしていた。日は既に高く昇っている。白い墓所と石畳がそれを反射し、目にまぶしかった。

 石畳のマス目に、ハユ・エ・トゥラが白い石を置く。


「お前の手番だ」

「ろぉとにいしゃ、どこ」

「お前が勝てば教える」


 むっ、と唇を曲げ、ソルードは黒い石を取った。

 二色の色でマス目を奪い合いながら、二人は時折鋭く視線を交わした。ソルードが口を開かない間は、ハユ・エ・トゥラも黙っている。無言の陣取り合戦を、茂みの向こうから数人が野次馬していた。

 同じ色で四方を囲まれれば、その陣地は奪われる。与えられた石は十一。限られた陣地をいかに効率的に我が物とするか。それだけの単純な遊戯(ゲーム)だ。


「……むぅ」


 陣地の九割を毟り取られ、ソルードは不満げに尾を揺らしていた。鱗が石畳を擦り、さりさりと音を立てる。反対にハユ・エ・トゥラは上機嫌に笑っていた。


「無茶だよお客人。精霊様はもう五百年、その遊びに夢中なんだ」


 長のエルへがやれやれと首を振る。


「我々も、最近ようやく勝てたんだ」

「しかし人間はどう引き延ばしても、三百年で死んでしまうのでな。己れは寂しい」


 はは、と乾いた笑いを返し、エルへはソルードに身を寄せる。ソルードが首を傾げると、そっと耳打ちした。


「勝とうとするんじゃなくて、負けないようにするといい。取り返すんじゃなくて、奪われないように」

「……んぅ」

「難しいか」


 しばらく、ソルードはエルへを横目で見上げていた。オーロラ色の瞳の中を、薄黄色の光がすっと横切る。凍てつく夜空を切り開く、流星のような光。幼い顔に似合わない冷たさに、エルへはどきりとした。

 首を横に振り、ソルードは石を取る。黒い石をひとつ握りこみ、じっとハユ・エ・トゥラを見た。にやりと笑い、精霊は再び石に手を伸ばす。


「よろしい。では」

「しない」


 黒い石が、からからと地面を滑る。それは、一つの石畳の中心で止まる。今まさに、ハユ・エ・トゥラが白い石を置こうとした場所だ。


「しない。百年はまてない」

「……ほう。せっかく交渉の席を用意してやったというのに」

「おまえは、おしえない。あそびたいだけ」


 ソルードは立ち上がると、黄色いフードを目深にかぶる。両手でフードを引っ張り、ぐ、と唇を噛んだ。


「ソルが……おれが、さがす」


 精霊の表情は見えない。怒っているだろうか。きっとそうだろう。しかし、そんなことは重要ではない。今ここに、クリフとロアルがいない。そして精霊は、行き先を教える気がない。ならば、自分がここにいる理由もない。

 踵を返し、地面に置いていた鞄を背負う。そのまま、引き止められる前にソルードは駆け出した。エルへの声が遠ざかり、石畳の道から離れた瞬間に聞こえなくなる。木の根を飛び越え、獣道をまっすぐ、霧の深いほうへ。

 人の踏み跡でできた道は、まもなく大木に行き当たった。右か、左か。鞄のストラップを握り、ソルードは地団太を踏む。だがすぐに鞄を下ろし、両手を地面について這いつくばった。


「にいしゃのにおい!」


 吸い込んだ土の匂いの中に、よく知ったものを感じ取る。鼻が地面をこするほど頭を下げ、何度も匂いを確かめた。そのまま、ジリジリと地面を這って進む。

 小さな影が、枝葉の間からソルードを見下ろしていた。白い球が葉の笠を被ったようなそれは、ソルードを追いながら数を増やしてゆく。

 両手で草の根を分け、膝を土で汚す。微かに残るクリフの匂いは断片的で、足跡ひとつを探すだけでも精一杯だった。尾に腰かけてくる何者かに構っている余裕などない。

 ずりずりと進むソルードは、額を何かにぶつけて顔を上げた。ソルードを取り囲んでいた白玉たちが、わー、と一斉に散る。


「何をやっているんだ、お前」


 グレンが、あきれ顔で腕を組んでいた。




 白亜の都市の王城は、大きな堀の向かい側にあった。堀の水はやはり澄んでいるが、魚も虫も、水草の一本すらなかった。跳ね上げ式の橋は左右の塔内部で操作でき、新品同然の歯車は軋むこともなく駆動する。ガラガラと鳴る鎖の音が、異様に大きく感じられた。

 まもなく橋が架かる。クリフは杖を軽く回し、繋がった道の先に走査の目を飛ばす。だが不可視の視線は、橋の中央部で弾かれた。


障壁(バリア)?」

「みたいだな。てめぇで来いってか」

「ふうん。じゃあここで一休みしよう」


 橋のたもとで、ロアルはどっかりと腰を下ろす。仮面を外して服の内部を探ったかと思うと、木の枝の束が取り出された。


「持っててよかったよ。精霊サマ、なぁんにも準備させないで飛ばすんだもん」

「ここ、焚火したら怒られねえかな」


 どれくらいの時間が経ったかは不明だが、この都市では今のところ、誰にも会っていない。しかし、誰かの手で管理されているのは明らかだった。その『誰か』が何者であれ、極度の潔癖であろうことも。


「まあまあ、怒られたら謝ろう。ほら、薪と、パンと、干し肉と林檎と」

「どこにどう入れてるんだよ」

「火ぃちょうだい。休まなきゃなのはクリフだろ?」


 薪を組み、削ぎ落した木の皮に火をつける。クリフが焚火を育てる間、ロアルは剣で林檎を剥いていた。


「クリフ、林檎好き?」

「ふつう」

「そう。好きな食べ物は?」

「紅茶」

「食べ物を聞いてるんだよ」


 焚火で炙ったパンと干し肉のサンドに、林檎が一つ。量は少ないが、圧縮食糧よりははるかにマシな昼食だった。


「お前の好きな食いもんは?」

「友人と食べられるなら何でも。フルーツは結構好きだったかも」


 林檎の皮を焚火に放り込み、ロアルはもう一度服の中を探る。木製のうす平べったい水筒が出てきた。


「あとコーヒー」

「酒は?」

「きらぁい」


 よほど嫌な思い出でもあるのか、ロアルは首を大げさに横に振った。

 水筒の中身は水だった。半分残し、クリフは跳ね橋の塔に寄り掛かる。


「【術式休眠(クローズ)】」


 体の緊張を解くと、どっと眠気が襲ってきた。ぎりぎりまで酷使していた脳が疲れを思い出し、瞼が重くなる。

 魔術を使うと、毒が溜まる。【亡霊(マッドラム)】のような、自他の境界を狂わせる毒だ。魔導鉱石の使用により、その蓄積量は格段に減っているが、それでもまったくゼロではない。可能ならば日光浴をしたいところだ。


「いいよ、ボク見てるから」

「ん……悪い」


 外套にくるまり、目を閉じる。焚火の熱と光が、わずかながら毒を浄化してくれた。眉間から力が抜け、ふっと意識が遠のく。

 懐かしい子守唄が、微かに聞こえた。

 遠い昔、自分に歌ってくれた人がいた。それが誰なのか、どんな顔をしていたのかは、どうしても思い出せないのだが。白くて柔らかな感触と、眩しさだけが、薄ぼんやりと思い浮かぶ。


『……おいで、二人とも』


 記憶の中の声に応えようとして、そのままクリフは夢へと落ちていった。




 薪がすっかり炭になる頃、降ってきた水の塊にクリフは叩き起こされた。はっと顔を上げ、あたりがすっかり夜になっていることに気付く。

 向かいに座っていたはずの連れはおらず、水に流された焚火の痕跡だけが残されていた。なんだよ、と口の中で文句を言い、杖を片手に立ち上がる。

 橋を渡り、王城の庭へ。大仰な門がひとりでに開き、見事な芝生の庭園がクリフを迎えた。庭園の向こう側に三階建ての豪奢な建物があった。六角形の尖塔が左右にそびえ、左右対称のその中央へ、白い道がまっすぐに伸びていた。

 綺麗な城だ。そう呟いて、道に沿って足を運ぶ。いつしか、空には星が瞬き始めていた。

 ゾッとする。


「……は?」


 ありえない。ここは地下。夜になるはずがない。そもそもロアルが自分を置いてどこかへ行くなど。万一その事態があったとして、あの場から一人離れるというのはどう考えても、異常な行動だ。

 踵を返し、門へと走る。だが巨大な門はすでに閉まり、閂がかけられていた。杖を振り、手のひらに火球を浮かべる。


「【爆炎(エグザフレイム)】!」


 放り投げられた火球は、門の寸前で炸裂する。鼓膜を揺らす轟音と爆風に、クリフは身を伏せた。辺りを真昼のように照らし、門を蝶番ごと吹き飛ばす勢いだった。

 だが、広がった爆炎は急速に収束し、やがて空中に吸い込まれるように消える。代わりに、甘い香りの混ざった風が吹いてきた。

 ぽふん、と白い煙が舞い上がる。魔術で発された黒煙ではない。妙に戯画的な――子供向けの絵本で見たような、白々しい煙だ。クリフは杖を構えたまま、その煙の向こうを睨みつける。

 一羽の兎が、煙を蹴散らして現れた。


「……なん……」


 それ以上の言葉が続けられず、クリフは兎を見下ろす。

 白い兎だった。大きさは普通の野兎より二回りほど大きい。派手な赤い襟巻きをして、金色の鎖を腰に巻いていた。


「ああいけない、いけない! そんなど真ん中でぼうっとして!」


 甲高い声で兎が叫び、足を踏み鳴らす。


「もうお待ちかねですよ。遅刻です! 全く、迷う道でもないのにウロウロと!」

「えっ、お、俺!?」

「誰がいるのです。他に?」


 やれやれと、人間臭い仕草で首を振り、兎はクリフを指差した。丸い目がきゅっと吊り上がると、それなりの迫力が出ていないこともない。


「忘れたのですか。いいえ忘れたとは言わせませんとも! 今日は赤と黒の女王陛下の誕生日。外つ国からあなたがはるばる祝福を授けにきたではありませんか!」

「赤、女王……と……いや、ちょっと待ってくれ。分かった、これ夢だな!」


 兎の飛び蹴りがクリフの顔を襲う。


「……夢じゃねえな」

「ともかくこちらにいらっしゃい。儀式の前にお召替えくらいはしてもらわないと!」


 兎がひょこひょこと先導し、クリフは渋々それに従った。蹴られた鼻はまだじんじんと痛む。

 正面にあるのは、豪奢な城。その前に広がる庭園の、右には赤の、左には黒の薔薇が咲き乱れていた。城の正面玄関前には大きなアーチが作られ、赤と黒の混ざった薔薇が咲いている。喉に張り付くような、甘い香りが辺りを覆っていた。


「……?」


 何かが頭の奥で引っ掛かる。こめかみに指を当て、クリフは片目を閉じた。


(……洗脳防壁(セーフティ)には引っ掛かってねえし……まあいいか)


 重厚な正面玄関には、扉を閉じる兎のレリーフがあった。扉がゆっくりと開き、奥から灯りが漏れてくる。

 促されるままに、クリフは王城へと踏み込んだ。

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