1)雲一つない蒼天の下で
雲海が広がっている。
月明かりの下で、それは銀色に波打つ水面のようだった。冷たい風が頬を切り、薄い空気に唇が震える。正方形のタイルの道を、一人の少女が走っていた。
吹き抜ける夜風に、歌声が混ざっている。静かな、優しい子守歌だ。
「やっぱりここにいた」
囁くような声で言う。菜園の端、空調の範囲外の浮島。ここは、立っているだけで凍えそうだ。元気のない草を踏み、少女は、己の身幅ほどの小川を飛び越える。探し人は歌を止め、こちらを見た。夜空よりも黒いフードが、顔の半分を隠している。
「こっちに来ちゃいけないったら」
少女はふるふると首を横に振った。二つの影が、月明かりに伸びる。
並んで空を見上げると、闇に慣れた瞳には、月は眩しいほどだった。目を見張るほどの、見事な満月。蒼銀の光で、天空の都市の影はくっきりと雲に落ちていた。
「綺麗」
少女はその場に座り、膝を抱える。
「綺麗ね」
「うん」
二人は身を寄せ合い、ゆっくりと空を渡っていく月を、そして刻一刻と姿を変える雲をその瞳に映す。
「泣いてるの?」
少女が問うと、短く息を吐く音がした。一瞬の沈黙。
「……さあ」
曖昧な答えは、しんと冷えた夜風にかき消されていった。
少女が伸ばした指先に、熱い雫が触れる。少女は指先に口を寄せ、息を吹きかけた。空中へと踊った雫は、ぱきり、と小さな結晶へ変化した。肯定されなかった涙は、二人から離れ、浮島の外側へ。
「優しいね、ロアルは」
結晶は分厚い雲に飲み込まれる。月光を受けた雲海は、黒々とした雨雲だった。結晶は雨粒に包み込まれ、やがて雲を抜ける。
地上は、その雲を照らすほどに一面、火の海だった。
頬を叩かれ、はっ、とクリフは息を飲む。
「起きたか、寝坊助」
蜂蜜色の瞳が、澄んだ昼下がりの蒼天を映した。
「……夢」
緋色の夢の残滓は、瞬く間に青空にかき消されていく。意味も分からず浮かんだ涙が、目尻にじわりと滲んだ。
「顔色わりぃな。ずいぶんグッスリだったじゃねえか」
頬を伝う汗を拭い、クリフは立ち上がる。背中を預けていた木の皮が、白い外套からぱらぱらと落ちた。丘陵を吹き抜ける風が、膝下までの外套を翻らせる。青く染められた装飾の少ない服が、その下から現れた。
ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。
休憩をとっていた木陰から出ると、秋の日差しがクリフを照らす。舗装もない道は、乾いた風で薄く砂ぼこりが立っていた。クリフはぐっと背を反らし、身の丈よりも大きな杖を担ぐ。顎下ほどの金髪が、日の光をきらきらと反射した。
「出立?」
魔術師の身分証代わりの杖には、大きな水晶がついている。青空を吸い込んだようなそれに、眠たげなクリフの顔が映った。
「あー、眠たそうなところ、申し訳ねえけども」
クリフを起こした剣士は、緋色の額当てを首元に下ろす。クリフはがりがりと頭を掻いて、欠伸をかみ殺した。
「クリフォード。お前、今日でクビ」
「ああ。……うん?」
惰性で返事をしてから、クリフは剣士に聞き返す。剣士は腕を組むと、さぞ面倒くさそうに繰り返した。
「だぁからクビだよ、解雇。このパーティのリーダーは俺で、その俺の決定だから、そういうことで」
「……あー……その、理由は?」
視線を巡らせるクリフに、剣士は鼻を鳴らす。剣士の背後で待つ三人は、既に荷物を持って出立の準備を終えていた。日暮れ前には冒険者組合に戻りたいパーティとしては、ここでそう長く立ち止まってはいたくない。
「言わなきゃ分からねえか。エキスパート魔術はナシ、強化魔術は普通、攻撃には参加できねえ。ダンジョン内で一番にバテんのはお前で、荷物を一番持てねえのもお前。せめてウリとして生得魔法が凄いとか、でもねえときた。こういうの何て言うか分かるか?」
剣士の指先が、クリフに突き付けられる。
「『役立たず』なんだよ。冒険者として。お分かりか?」
ぐ、とクリフは言葉に詰まった。だがすぐに顔を険しくして、剣士を睨み返す。クリフより頭半分背の高い剣士は、クリフを見下ろしたまま、小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「反論があるなら聞いてやるぜ」
「あァあるよ、あるともさ。だがどーせ、負け犬の遠吠えって言うんだろ?」
「よく分かってんじゃねーか」
剣士は腕輪を、クリフの胸元に放り投げた。クリフの胸に当たり、腕輪は地面に落ちる。剣士は「餞別」と言って踵を返し、クリフの足元で、銀色の輪が虚しく揺れた。
剣士が、三人の仲間を引き連れて遠ざかっていく。大きな盾を持った偉丈夫だけが、ちらりとクリフを見て頭を下げた。申し訳ない、と思っているのだろうか。
クリフは立ったまま、四人が十数歩離れるまで黙っていたが、
「……この」
ぎり、と歯を鳴らしたかと思うと、一歩踏み込んで大きく息を吸った。ざわりと金髪が逆立ち、額に青筋が浮く。
「イキってんじゃねーぞアルグレッド! てめー次のダンジョンで泣いたら笑ってやるから覚悟しやがれ!」
「あァ!? ンだとコラァお前こそ、とぼとぼ郷帰ること覚悟しとけってんだこのクソボケがぁ!」
「おーいいぜ、お前こそ五体満足で帰れるといいなぁ! ツァドルストルの鱗が斬れてたのは誰のおかげか、よーっく考えてからモノ言えこのバーカ!」
怒声を吐き出してから、クリフは肩を上下させて息を整える。四人の仲間は、あっという間に豆粒ほどになってしまった。丘の向こうにすっかり四人の姿が消えると、クリフは長々と息を吐き、肩を落とした。
のろのろとまた木の根元に座り込む。四人が進んだ道のずっと先には、冒険者御用達の宿場町がある。あそこまで行けば少なくとも、野盗に襲われる心配も、腹を空かせて動けなくなることもない。
クリフはそのまま視線を草原へと滑らせる。ぽつらぽつらと木の生えた草原は、なだらかな起伏があり、その合間に街道が通っていた。爪の先ほどに見える荷馬車が、のんびりゆったりとその街道を進んでいる。
「今日から無職か……」
剣士への剣幕はどこへやら、若い魔術師の顔には悲壮感が滲んでいた。
冒険者、というのは一応職業ではあるが、それは旅をする人を旅人と呼ぶようなものだ。トレジャーハンターの場合もあれば、商人の護衛を任されることもある。つまりは、定職についていない便利屋のことである。
腕輪を拾い、クリフはうなだれた。こうしていてもしょうがないとは分かっているのだが。
そんなクリフの顔を上げさせたのは、遠くからの悲鳴だった。
「ん?」
顔を上げ、耳を澄ます。悲鳴のような、風を切るような音が、もう一度。
「――――――っ!」
右か、左か。いや。クリフは弾かれたように立ち上がり、杖を構える。
上だ。
「【術式起動】!」
叫びに呼応して、杖の水晶が光る。クリフは杖を握り、走り出した。手の甲から杖の表面へ、青白い光の線が浮かび上がる。それは這うように水晶まで到達し、その中に赤い光を生じさせた。
「間に合えっ……」
走るクリフの視線の先には、黒い影があった。それはまるで翼を失った鳥のように、風に揉まれながら落ちてくる。
距離は。速度は。あれの重さは。大きさは。草を蹴散らして、クリフは思考を巡らせる。まず間違いなく、落下地点に先回りはできない。自分はそれほど足が速くない。受け止めるなど以ての外だ。あれが人間だったとすれば、自分の腕が間違いなくもげる。
では。足を止め、クリフは杖を突き出した。左手を杖に沿え、水晶の延長線上に落下物の軌跡が来るように構える。
チャンスは一瞬。
「【浮流】!」
詠唱に応え、凝縮された光が水晶から放たれた。空を切り裂く深紅の弾丸は、途中で八つに分かれ、玉を包むかのように広がる。光の膜で球を作りながら展開し、収縮したその中には、落下物がしっかりと包み込まれていた。
にぎった拳を横に振る。その拳に合わせ、赤い球は横へとぶれた。そのまま回転しながら落下速度を落とし、やがて草原に着陸した。クリフが拳を開くと、赤い光の球は空気に溶ける。完全に落下速度を殺しきれなかったが、まだ生きている程度にはなったはずだ。
「【緊急治療】……」
水晶の中に白い光を宿しながら、そろそろと落下地点に近付く。草原の中に、黒い布の塊のようなものが落ちている。
と、それが突然、立ち上がった。糸で吊り上げられたかのような動きに、クリフは悲鳴を上げて杖を振る。発された白い光が、黒い布を撃ち抜いた。
「ふぎゃあ!」
くぐもった悲鳴が返ってくる。一度地面に倒れ伏したそれは、震えながらゆっくりと起き上がった。黒い布は大きな外套だったようで、フードに包まれた後頭部をさすりながら、その人物は振り返る。
「ひどいな、いきなり攻撃するなんて」
「ヒッ」
目深にかぶったフードの奥には、仮面があった。薄灰色に青い線の模様、右目周辺には銀の蝶の装飾がある。微笑むような冷たい口元から下は、黒衣の高襟に覆われていた。
夜空をそのまま人型に切り取ったら、こうなるだろうか。濃紺の外套は膝下まであり、その奥に纏う服も黒。くすんだ銀色で縁取りされていなければ、継ぎ目も分からない。膝から下はロングブーツで、袖口から先は灰色の手袋で包まれている。仮面以外の彩りと言えば、外套を留めるブローチくらいのものだった。
「うん? ああでも、そうか。助けてもらったことになるんだね。これはお礼を言うのはボクだね?」
顎のあたりに手をやって、その人物は首を傾げる。
「い、いや、いい。礼とかいいから。無事ならいい、じゃーな!」
ぶんぶんと首を振り、クリフは後ずさる。そのまま少し離れると、踵を返して一目散に走り出した。
(絶対関わりたくねえ!)
見上げるほどの高さから落下して、数秒で立ち上がる相手はまずまともではない。いや、そもそもどこから落下してきたのか。空は憎らしいほどの蒼天、雲の一つも浮かんでいない。
考えるな。わけが分からないことなど、冒険者としてダンジョンに潜っていれば日常茶飯事ではないか。そう自分を納得させようとして、いやしかし、と思考がそれを遮る。少なくとも、何も見えないところから落ちてくる魔物はいない。
あっという間に走り去ったクリフの背中に、その人物はやはり首を傾げるだけだった。