悪魔と司教の悪巧み。
悪魔ファルネアは、這いつくばったままのグレゴリー大司教に言う。
「ラニエロ。お前を呼び出した要件よ。辺境の争いは知っているわね?」
バーレティン王国の北西方面には、セルマン帝国という大国がある。
隣り合う国同士は大体険悪になるものであるが、このニ国も御多分に洩れず仲が悪い。
王国と帝国を比較した場合、経済面での豊かさはバーレティン王国が上だが、保有する軍の規模はセルマン帝国の方が上だ。
総合的に勘案して国力は拮抗していた。
二国は湿地帯を挟んで隣接しており、国土の接する辺境付近では小競り合いが絶えない。
特にここ数年はその争いが激しさを増し、両国に多数の死者が出ている、という状況である。
ファルネアが言った『辺境の争い』とは、この小競り合いのことを指している。
グレゴリー大司教は素早く返事をする。
「はい。存じておりま――ッ」
喋ると口内が酷く痛んだ。
大司教は全身傷だらけだ。
けれどもそんなことは気にしていられない。
なにせ対応を誤れば殺されるのである。
グレゴリー大司教は思い出す。
ファルネアの機嫌を損ねて縊り殺された前任者の死に顔――
苦悶に満ちながらも、どこか解放されたような安らかさを漂わせていたそれ。
あんな風に殺されたくはない。
大司教は続く言葉を一言も聞き漏らさぬよう、耳を傾ける。
ファルネアが言う。
「じゃあ、その争いが鎮まりかけているのも知っているわね?」
「聞き及んでおります。なんでも近々、休戦に向けての交渉が行われる向きなのだとか」
たしかに辺境の小競り合いは長く続いている。
しかし直近数ヶ月で状況が変わってきた。
長く争い過ぎて疲弊仕切った両者に、厭戦ムードが漂い出しているのだ。
「……はぁ。もし休戦なんてことになっちゃったら、つまらないわ。きっと聖母マスティマは更なる争いをお望みになっているのに……。ねえラニエロ、お前もそう思うでしょう?」
「は、はい」
「じゃあどうすれば良いの?」
◆
悪魔ファルネアがグレゴリー大司教を見つめる。
何かしらの回答を求めている。
大司教は恐怖に震えた。
ここで返答を間違えれば、待っているのは『死』である。
それも安楽死とは程遠い苦痛に満ちた死。
大司教は必死になって頭を回転させる。
先の言葉から察するに悪魔は辺境の平和など求めていない。
血を求めている。
であるなら、とにかく休戦協定を結ばせるのは不味い。
なんとしても邪魔をしなければ。
いや邪魔するだけでは足りない。
辺境の争いが今よりもっと激化して、更に大勢の人間が死ぬように仕向けないと――
グレゴリー大司教は高速で思考を巡らせる。
考え抜き、なんとか答えを捻り出した。
言葉にして伝える。
「ファルネア様! わ、私に良い考えがあります! ミズドリュク辺境伯には娘がおります!」
ミズドリュク辺境伯。
それは辺境の争いにおける王国側の指揮者だ。
「娘? それが?」
ファルネアがあごをくいっと上げた。
続きを促す。
大司教は必死に思いつきを話す。
「そうです! まだ成人前の可憐な娘です! 辺境伯は質実剛健な軍人ですが、この娘にだけは大層甘い。蝶よ花よと大切に育てております! 最愛だった亡き奥方の忘れ形見らしく、それはもう目に入れても痛くないほどの可愛がりようでして――」
「……ふぅん」
ファルネアが興味を示した。
「で?」
「教会の信者を使って、その娘を攫います!」
「攫ってどうするの?」
「帝国に引き渡します。いえ、正確に言うなら辺境で指揮を取っている、セルマン帝国第五軍アレキサンド将軍旗下に潜り込ませてある、我ら六合正教会の信者にです!」
六合正教会の説くマスティマ教は世界宗教だ。
その総本山は独立した小国家であるし、信者は王国にも帝国にも、世界中のどこにでもいる。
「……それで? その娘を帝国側の信者に引き渡してどうするの?」
「殺します! こ、殺してしまいましょう! いや殺すだけでは足りない。そうだ、犯しましょう! そうだ、それがいい! 帝国兵に紛れた幾人もの信者に代わる代わる犯させ、最期には殺させるのでございます! その場面を公開して娘思いな辺境伯に見せつけます! そうすれば争いは激化こそすれ、休戦話などなくなるに違いございません……!」
瞳に狂気を宿したグレゴリー大司教は、口から泡を飛ばしながら絶叫した。
自らの保身しか考えていない。
聖職にありながら、他者を辱める提案を一切の躊躇なく叫ぶ。
その形相はまさに悪鬼である。
「ぷっ」
ファルネアが噴き出した。
かと思うと腹を抱えて無邪気に笑いだす。
「――きゃは、きゃははははははははははははっ! いいわね、それ! 最っ高! きゃはははははははははははははははははははっ!」
グレゴリー大司教は笑い転げるファルネアを眺めて思う。
助かった。
この悪魔は今の提案をお気に召したらしい。
「……あー、おっかしい。良いわよラニエロ。今の話、すぐに進めなさい。きっと聖母マスティマもお喜びになるわ」
グレゴリー大司教は自分の命が助かったことに心底安堵し、ほっと息をついた。