聖母もどきの御使は御無体です。
洗礼の儀の視察を終えたラニエロ・グレゴリー大司教は、大聖堂にある私室に戻った。
大司教の部屋には小さな祭壇が設けられている。
その祭壇で聖母像がぼんやりと輝いていた。
聖母像。
それは偶像崇拝を大いに良しとする六合正教会が、信徒に崇めさせる偶像だ。
聖母像は閉じた目からさめざめと血を流す聖母マスティマを象っている。
◇
偶像が光を放っている。
それは呼び出しの合図である。
大司教の顔色が変わった。
柔和だった表情はうって変わり、頬が強張って顔全体がみるみる青褪めていく。
大司教は慌てて部屋を出た。
早足で歩く。
向かう先は『神託の間』である。
グレゴリー大司教は周囲に人目がないことを確認すると、肩で息をしながら神託の間に転がり込む。
入った途端、叱責が飛んできた。
「ラニエロ。遅かったじゃない。聖母マスティマの御使たるこの私を待たせるなんて、どういう了見かしら? まさか貴方、母なるマスティマ様を軽んじているの?」
神託の間で待っていたのは、冷酷な目をした年若い女だった。
大司教は即座にひれ伏す。
亀のように縮こまりながら必死に叫ぶ。
「た、大変申し訳ございません! せ、洗礼の儀を視察していたため、お呼び出しに気付くのが遅れてしまいました! 決してマスティマ様を軽視している訳ではございません!」
グレゴリー大司教は額から滝のような汗をかいている。
歯の根をガチガチ鳴らして恐怖している。
「言い訳はいいわ」
女は壇上の椅子に腰掛けたまま、グレゴリー大司教を指差した。
そのままくいっと指を持ち上げる。
すると土下座をしていた大司教の身体が、ふわりと宙に浮いた。
大司教は虚空に手足をバタつかせながら懇願する。
「お、お許しください! どうか! どうかお慈悲を!」
「……ダメね。私を待たせた罰を受けなさい」
女が指を下に向けた。
それと同時にグレゴリー大司教の老体が硬い床に叩きつけられる。
「ぎゃあ!」
女は指を上下左右に動かす。
するとまた大司教の身体は女の指に操られ、振り回された玩具の人形のように神託の間を飛び回る。
壁に、床に、天井に――
何度も繰り返し、老いた身体が強かに打ち付けられる。
「ぎゃああ! な、何卒! 何卒ご慈悲を!」
女はグレゴリー大司教の懇願など聞かない。
最初から存在しないかのように無視する。
大司教の法衣が血に染まり、全身に隈なく打撲跡がついた頃になって、ようやく女は指を動かすのをやめた。
床に崩れ落ちた大司教は、息も絶え絶えだ。
半殺しである。
女は椅子から立ち上がった。
磨き抜かれた石材の床を、靴の踵でカツカツ鳴らしながら歩く。
這いつくばって意識朦朧なグレゴリー大司教の前で立ち止まると、つま先で彼の顎を持ち上げた。
さして興味もなさげな平坦な声色で聞く。
「ねぇラニエロ。これで反省したかしら?」
「……は、……ぃ……。猛省、いたし……ました……」
「そう。じゃあ罰はこの程度にしてあげる。感謝なさい」
「……ぁ、りがとぅ……ござぃ……ま、す……」
◆
グレゴリー大司教を散々痛めつけて、何とも思っていないこの女。
名前をファルネアという。
その正体は万魔殿より使わされた男爵階級にある悪魔貴族である。
悪魔には階級がある。
それは上から順に、
『悪魔公爵』
『悪魔侯爵』
『悪魔伯爵』
『悪魔子爵』
『悪魔男爵』
と連なる少数の特権支配階級があり、
その下に
『上級悪魔』
『中級悪魔』
『下級悪魔』
と連なる被支配階級の無数の悪魔が蠢いている。
そして全ての悪魔の頂点に君臨するもの。
それが七大罪を負いし地獄の絶対君主たち『七大悪魔王』であった。