中編
“お話ししませんか”と言われたものの、この国の仮面舞踏会では、ちょっとしたルールがある。
それは、初対面の相手の場合、一曲踊り終えたあと互いに了承して初めて素性を明かせるというもの。
となると、話せる内容はかなり絞られるわけで。
何を話したらいいのかしらと悩んでいると、遠くから聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「シリル殿下とウィルフレッド大尉を探して。どうしてもお目にかかりたいの」
ピクリと震えて顔を向けると、そこにいたのは予想通り、ニーナと取り巻きの令嬢たちだった。
ふわりとして庇護欲をそそるようなピンクのドレスで着飾ったニーナは、細身の仮面を身に着けているせいで正体が丸わかり。
あの娘は自分の顔に絶対の自信を持っているようだし、はじめから正体を隠す気がないのかもしれない。
そんな彼女も例に漏れず、他の令嬢たちと同じように王子殿下とウィルフレッド大尉の心を射止めようと必死になっているようだった。
取り巻きたちは、また散り散りになっていく。
きっと、目当ての二人を探しに向かったのでしょう。
そのままぼんやり眺めていると、今度はニーナのもとに一人の男性が現れた。
「ニーナ、今日の君も花のようで可愛らしいね。良ければ一曲いかがかな? もし良ければ、この後も」
獲物が見つからず不機嫌なニーナに、タレ目で背の高い男が声をかける。
その姿を見て愕然とした。
あれは、ダミアン……
しつこいくらいに私に愛を囁いてきていた男。
ニーナもすぐにダミアンだと気づいたようで、くすくすと笑った。
「あら、ダミアン様。共にクラリス嬢をお探ししましょうか? あんなにもアプローチしてらしたし」
ダミアンはからかうようなニーナの言葉に、苦々しい笑みを浮かべた。
「いや。クラリス嬢のことはもう良いよ。あんなおかしな女性だと思わなかったもんでね。身分の低い侍女に口づけして、死者を生き返らせたことも、その侍女を雇いいれて心酔させたことも、どこか魔女じみていて気味が悪いだろう?」
あまりの言い分に、がんと頭を強く殴られたような衝撃が走った。
誰かの命を救うことって、そんなにおかしいこと?
困っている人を助けたいと思う私のほうが、異常だったの?
立ち尽くしたまま、ぐるぐると頭の中に澱みのようなものがめぐる。
確かに過去の私なら、死にかけたヨソの侍女など見て見ぬ振り……というか、気にも留めなかっただろう。
身分の低い者がどうなろうと知ったことではないし、助けたところで何の得にもならない。
舗装されていない川べりに降りて自慢のドレスを汚すことなんてもってのほか。そう思ったに違いないわ。
だって、この国では公開処刑だって娯楽になっているくらいなのだから。
身分の低い者たちなど捨て置くというのが、高貴な者の考え方であり生き方で。
とはいえ、死への恐怖や痛みの苦しみ、回復する喜びを間近で見てきたぶん、苦しむ人をこれまでと同じように放置しておくなんてできっこない。
“見知らぬ人を救うなんて、優しい娘だ”と泣いて喜び、“いつかその親切が巡り巡ってクラリスを幸せにするよ”と言ってくれたのは、私を溺愛しているお父様だけ。
他の貴族はきっと私を“オカシイ女”と思っているだろう。
異端になってしまった私にはもう、貴族社会に居場所はなくなってしまったのかもしれない。
そんなことを思うと、ぎゅうと胸が苦しくなった。
うつむいて無言のまま下唇を噛み締めていると、上から微かに唸るような、苦笑いをするような声が降ってくる。
「またここでも、クラリス嬢か。大人気ですね」
しまった、完全にうっかりしていたわ。
ニーナのことで頭が一杯になって、すぐ隣に男性がいたことを失念していた。
「そんなに噂になっているのですか?」
恐る恐る尋ねると金髪の男性は私を見てきて、にこやかにうなずいてきた。
「至るところで聞いていますよ。おとぎ話のような可愛らしいものから、眉をひそめたくなるようなものまで」
やっぱりそうなのね。
思わずため息がこぼれると、男性は申し訳ない、と頭を下げてきた。
「……貴女という女性を前にして、他のご令嬢のことを話すなど、失礼でしたね」
「いえ、あの、そうじゃなくって! 申し訳ありません……私こそ、失礼を致しました。クラリスという娘のしたことを考えれば、嗤われて噂になるのも当然のことと思います。奇行ばかりで本当におかしな令嬢ですよね」
誤魔化すように笑い、自分を貶す。
自分で言ったことに自分で傷つくなんて、私は一体何をやっているんだろう。
だけど、金髪の男性は表情を真面目なものへと一変させて、考え込むような仕草を見せてきた。
「ううむ、奇行の一言で片付けていいものなんでしょうか?」
「え……?」
さぁっと血の気が引いていくのがわかる。
奇行の一言で済まないのなら、何と言われるの?
また、魔女みたいだと言われるのかしらと身体が強張る。
「確かに、皆の言うように方法だけ見れば奇抜です。溺水の対処は、逆さ吊り。蘇生としては鞭打ちによる気付けが基本ですから。しかし、どのような方法をとろうと、一人の命を救った事は確か。褒められこそすれ、嗤われるいわれはないでしょう?」
思いもよらぬ言葉に顔を上げると、金髪の男性は柔らかく目を細めて微笑んでいて。
「きっと、命の重みをよく知る、心優しく勇敢な女性なのだろうと思います」と、穏やかに語ってくれたことで、はじめてホールで息ができたような気持ちになったのだった。
――・――・――・――・――・――
そのあと私は、仮面舞踏会なのにも関わらず、誰とも踊らないまま隅っこで彼と『おすすめの紅茶』や『楽しかった旅行について』の話を続けていた。
ルール上身分を明かせないため当たり障りのない話ばかりになってしまったけれど、それでも本当に楽しかった。
互いに身分を伏せているからか、それとも元来の性格からか。
彼は自分をおごることもなく卑下することもなく、自然体で楽しげに話しかけてくれた。
それがとても心地よくて、嬉しくて。
少しだけお話をするつもりがあっという間に時間が過ぎており、気がついたらもう残された曲は最後の1曲、というところまできていた。
「もうこんな時間なのですね……もしよければ、ですが、ラストダンスのお相手願えますか?」
金髪の彼は、そっと手のひらを差し出してくる。
貴族のわりに骨ばって筋肉質な手で、ところどころに古傷がある。
お父様みたいに薪割りを自分でやるタイプの変わった人か、もしくは王国兵士なのかもしれない。
いえ、やっぱり兵士はないかも。
身のこなしが優雅だし、誘い方や話し方もスマートで女性慣れしているのがわかるから。
差し出された手をじっと見つめて考える。
格式高い舞踏会では、最後のダンスは『想い人と踊る』という特別な意味を持っていて。
見知らぬ人と踊るようなものでは到底ない。
けれど、今日のは仮面舞踏会で、誰が誰だかわからないぶん、ラストダンスの意味合いもかなり薄まってくる。
だからこそ、金髪の彼も私をダンスに誘ってきたのでしょう。
女性慣れしているからなおさら、そういうところには頓着しなさそうだし。
せっかくの舞踏会。踊らないのももったいない、よね?
おずおずと手をのせると彼はにこりと微笑み、日陰の草になっていた私をエスコートして、ダンスホールの中心にまで連れ出してくれた。
仮面の下の彼はどんな人なのだろう。
向き合った瞬間、じっと覗き込むように仮面の奥を見つめると、これまではあまりよく見えなかった瞳がよく見える。
キラキラと輝いて澄んだ、フォレストグリーンの瞳……
「あの……そのように見つめられると身の置き所がないのですが」
金髪の彼は、困ったように頬をかいていて、私は慌てて視線を外した。
「ごめんなさい。珍しい瞳なので、つい。グリーンにゴールドが混じっているんですね」
よく見ないとわからないけれど、フォレストグリーンの虹彩に、すっと輝く金色がところどころに混じり込んでいる。
この組み合わせは、あまり見ない気がする。
「……中途半端でおかしいでしょう?」
瞳のことを話した途端、彼はなぜか物悲しげでどこか誤魔化し笑いのような顔をしてきて。
確かに色の組み合わせは珍しいけれど、おかしくもなんともないし、悪目立ちしているわけでもない。
そんなふうに表情を曇らせる理由が全くと言っていいほどわからなかった。
「いいえ。おかしいどころか、木漏れ日の輝きのように思いました。とても優しい色合いかと」
感じたことをそのまま伝えると、彼はなぜか驚いたような顔をしたあとに、ふっと柔らかく笑った。
「ありがとうございます。私の瞳は、あまり好ましくないようでね。そのように言っていただけたのは、亡くなった母以来、貴女で二人目です」
彼の表情はずっと穏やかなままだったけれど、よく見ると両耳が赤く色づいている。
もしかして、照れているのかしら。
意識を失っていた時にリンクしていた看護師が、女性慣れしていてチャラついた男に貢いでいたこともあって、ほんの少し警戒していたけれど、この男性はあのクズ男とは違うのかもしれない。
そんなことを考えていたら音楽が始まってしまい、私達は慌てて手を取り合い、「ロマンチックな曲なのに格好がつきませんね」なんて言い合いながら踊り始めた。
彼はダンスも得意なようで、リードしながらも私を引き立てるような踊り方をしてくれる。
女性慣れしているわりに、触れ方にいやらしさがあるわけでもないし、そのくせ目が合うと微笑みかけてくるしで。
紳士的といえば聞こえはいいけれど、私に興味があるのかないのかよくわからない。
それに、身のこなしや振る舞いを見る限り上流貴族の方だとは思うのだけれど、特別着飾るわけでもなく、地位を鼻にかける感じもないし……
何か大切なことをいろいろ忘れている気もするけれど、もう考えるのはやめておきましょう。
心から楽しいと思える相手と踊れる時間はとっても貴重だから。
彼を見上げて微笑むと、肩を支えてくる指先がピクリと微かに動いた気がした。
――・――・――・――・――・――
楽しい時間は、あっという間に過ぎて行くもので。
ラストダンスを終えたというのに、まだまだ踊り足りない。
「ありがとうございます。とても素敵な時間でした」
腰を落として礼をすると、彼も右手を胸に「私も、こんなに楽しいダンスは久しぶりでした」と、お辞儀をしてくれる。
また次の舞踏会でお相手していただけないかしら、なんて思うけど、きっと無理ね。
たぶんだけど、伯爵よりも地位のあるお方。
子爵の娘なんて、その目に留まらない。
あ、そうよ! 地位があるといえば!
「あの……すずらんの刻印が入ったボタンつきのマントの持ち主を探しているのですが、ご存知ないですか?」
オリヴィアの蘇生を手伝ってくださった方のマントは、かなり質の良い物だった。
すずらんの刻印なんて珍しいし、この方なら持ち主のことを知っているかもしれない。
誰のものかはわからずとも、せめて見覚えくらいは……と、思ったけれど、彼はにこりと微笑んだ。
「すずらんのボタンは、私がよく知る人のものです。大切にしていたようなので、近いうちに受け取りに行かせましょう」
「お知り合いの方だったのですか! よかった……。その方にお世話になったので何かお礼をしなければ、と思っ」
『て』と言い切る前に、彼は遠くを見ながら不満げな様子で深いため息をついていて。
突然どうしたのかしらと顔を覗き込むと、彼はビクリと大きく震えた。
「あぁ! 申し訳ありません。主が早く来いと呼んでいまして。まったく、あの人はいつも間が悪い」
仮面で顔はよく見えないけれど、いかにも彼は不愉快といった様子で、主と呼ぶ人との信頼関係というか仲の良さがうかがえる。
それまでスマートだった人が、途端にわたわたとする様子がなんだか面白くて、ついつい笑ってしまう。
いけない。あまり笑ったら失礼だわ。
そう自分に言い聞かせても笑いが止まらなくなってしまって。
上がりっぱなしの口角を手で隠していると、突如としてその手がそっと掴まれ、前に差し出すようにさらわれた。
「え……?」
一瞬の出来事に声を失って、わけもわからずただただ見つめることしかできない。
やがて彼は上体をかがませて、そっと私の手に顔を近づけてきて。
手の甲へ柔らかいものが触れてきた途端、どくんと鼓動が跳ねた。
温かくてくすぐったい不思議な感触に、思わずぴくりと指先が震えてしまう。
唇はすぐに離れていったけれど、胸がどきどきと落ち着かず、キスをされた手の甲が気になって仕方ない。
血圧は確実に高血圧の域に達していて、脈拍も軽く120を超えていそうな気さえする。
手の甲へのキスは女性が手を差し出さない限り行わないのが通例で、そもそも唇はつけずに寄せるだけで終わらせるものなのに。
これまで非の打ち所がないエスコートをしてきた彼が、こんな初歩的なミスを侵すはずもなく。
何がどうしてこんな行動になったのか、混乱は増す一方だった。
そんな私の手を彼はそっと離し、静かに口を開いていく。
「名残惜しいですが、私はここで失礼します。ですが……」
ゴールド混じりのグリーンの瞳が真っ直ぐに私を見つめてきて、思わずきゅっと身をすくめる。
今度はあの穏やかな笑みはなく、張り詰めたような真剣な表情をしていた。
「ぜひまたお会いしたい。今度はこんな仮面など無しで」
その一言にまた、どくんと心臓が暴れた。