第9話 新従業員と朝
新従業員の受け入れから一夜明け……てない。まだ日が昇っていないので。だが仕事の時間はやってくる。まったく無慈悲なことだ。
人間の都合に関係なく時間は進むし、日が昇ったら客は来る。うちのパンを目当てに。パンがなければ客は失望して帰ってしまう。まずいパンを出しても失望され、そして二度とこない。
女性の部屋を暗いうちから訪ねるのは、一般的にどういう意味があるのか。一応理解はしている。だがそんなものは知らん、そんな色っぽい理由じゃあない。仕事だ仕事。
コンコン、返事はない。コンコン、返事はない。息を吸って、大きな声で。
「おはよう! 仕事の時間だぞお嬢さん!」
少し待つ。中から慌てて動く音。乙女の部屋に踏み込んでたたき起こす羽目にならなくて、本当に良かった。暴漢と間違えられて殴られたくはないし、心象も悪くなるだろう。
昨日殴られたばっかりだし。二日も続けて殴られたら神を恨むぞ。殴られて喜ぶ趣味はない。
少し待つ。部屋の扉が開かれて、眠たそうにまぶたをこすり、あくびをしながら美少女が出てきた。寝巻である。
「おはよう」
「おふぁよおございまふ……本当にはやいんですね。まだ日が昇ってませんよ……」
「昨日言っただろう。日が昇る前に、って。それともまだ眠いか?」
「いいえ。すぐ準備します」
キリ、と擬音が背景に表示されそうなほど、瞬きの間に表情が切り替わった。なんと素晴らしい職業意識だろう、俺なんて早朝の仕事中は半分寝ながら仕事してるぞ。いや、それはそれでいいか。きちんと仕事はしているわけだし。
サンドイッチと卵のスープ、そんな軽めの朝食を用意して。食べながら仕事の話をする。
「趣味でやる製パンと、仕事でやる製パンの一番の違いは、作る量だ。趣味なら自分一人分あれば十分だが、仕事では他人、お客様に食わせるために大量に作る必要がある。一人分だけならうまく作れても、六十人分となるとどうだ」
「経験がないのでなんとも……」
「いきなり全部一人でやれ、とは言わんから安心してくれ」
「では、いずれ?」
「……病気で俺が倒れた時とかには、たのむかも」
「あまり考えたくないですね。雇い主が倒れるなんて」
俺もだよ、と返事をして目玉焼きと野菜(雑草)を挟んだパンをかじる。体調管理も仕事のうちなので、気を付けてはいるが。それでも病気になることはある。幸いにして、これまで大病を患ったことはないが、風邪くらいなら年に一度はかかる。たかが風邪、されど風邪。一度かかるとなかなか治らないし長引くし、咳がひどくて苦しいし。
うっかりすると肺炎になってそのまま死ぬ。この世界、技術はぼちぼち発展しているが医療はそうでもないようで、風邪の一つでも油断できない。
「ああそうだ。君が病気で倒れたとしても、解雇はしないから安心してくれ」
「はえー。至れり尽くせりですね」
「労働者は大事にする方針なんで」
生かさず殺さず、業務時間中はしっかりコキ使うつもりだが、無理をして死なれては貴重な労働力がパーなのでそこらへんは配慮する。時間と労力を割いて教育を行った従業員が、独立・引き抜き・転職で居なくなるならともかく、過労死ではあきらめがつかない。
大体オスカーさんから借りてきた労働力なのだから、人から借りたものを壊すなんて最低な真似はできない。
「よい心がけかと」
胸に秘めた熱い思いを、今の一言でどれだけ理解してもらえたかはわからない。今の返事からして、少しは理解してもらえた、と期待してもいいだろうか。
うむ。と相槌を打って、最後の一口を口に放り込んで、よく噛んで飲み込む。さあ仕事だ仕事、と元気よく立ち上がる。今日はどれくらいお客さんが来るだろう。