第8話 新従業員受け入れ
心が軽い。背負う荷の重さは変わらないが、遠くてもゴールが見えてくると気が楽になる。
借金の返済計画は受け入れてもらえることが決定しているし、仮提出したものに軽く修正を加えるだけで済むのでタスクにも精神にも余裕がある……かと思えば即消えた。
新従業員受け入れ。それに伴う教育……やることが増えたからだ。だが、ここで苦労しておけば後で楽ができる、やるべきだし、いずれする予定だったことが早まっただけ。少々驚きはしたが。
しかし、ここまで早くなるとは思っていなかったので教育マニュアルがまだ用意できていない。心の準備も。俺は人にものを教えることには慣れていないし得意でもない、効率よく仕事を、教育を進めるにはマニュアルが不可欠だが、それがない。なければ作ればいいのだが、そんな時間はない。ないない尽くしだ。結局行き当たりばったりだな。
……趣味とはいえ、経験者をよこしてくれたのは実際ありがたい話だ。ゼロから教える手間は惜しい。手は出させずに家事と接客だけしてもらっても、もちろん助かるが、製造の手が一人分増えればできることはもっと増える。
「ぬんぬんぬんぬん」
意味のないうなり声をあげながら、父の住んでいた部屋の片づけを進める。貴重品はことごとく持ち出されているので、残っているものは捨ててもいいものと持ち出せない家具だけ。捨てていいものは、せっせと台に乗せては家の裏に放り出す。あとで斧で砕いて火種に使おう。
不要品を運び出したら、次は桶と雑巾をもってきて隅から隅まで拭き掃除。半日かけて徹底的に掃除してピカピカにしてやったぜ。
そうして綺麗になったこの空き部屋は、新従業員の私室に充てる。部屋の主は借金を残してどこかへ消えたし、使っても文句はないだろう。戻ってきて「俺の部屋がない」と言っても知らん。いかなる理由があろうとも、父は店の所有権を捨てたのだ。文句を言う権利はない。
のたれ死んでいても、従業員に気持ちよく働いてもらうために使うなら本望だろう。
掃除が終わってもまだ新しい従業員は来ないので、ついでに歓迎の品を作成しておく。小麦粉と砂糖とバターと卵、塩を一つまみ、全部を容器に入れて、粉っぽさがなくなるまで混ぜる。生地をまとめて、伸ばして、均等な厚さに切って、鉄板に並べてオーブンにぶち込む。はい、クッキーの出来上がりです。材料をいちいち測ったりせずとも、適当に混ぜて作っておいしい。素晴らしいお菓子だ。
ちなみに粉と塩以外の材料は新商品に使うので、ストックがあったから、そこからちょろまかして作った。人の店なら問題だが、ここは俺の店である。何も問題はない。
夕方。日が傾き始めた時間に、道の向こうから大荷物を背負った美少女がとぼどぼ歩いてきたので店に入れる。朝に紹介されたときよりも元気がないように見えるのは、気のせいじゃない。慣れた勤め先からいきなり転勤を命じられたのだから、無理もない。だが明日からは精一杯働いてもらわねばならぬ。
ひとまず、荷物を彼女用にあけた部屋に置かせて、ここが君の部屋だ、と説明した。
「え、一人部屋なんていいんですか?」
いいもなにも。他に人がいないんだからそうなるしかないだろう。まさか俺と同じ部屋で寝起きするわけにもいかんし。彼女も嫌だろう。
「うわぁ、ありがとうございます」
「じゃあ詳しい話をするからこっちに」
「あっはい。その、どうかよろしくお願いします!」
「ああ……こっちこそよろしく」
顔を赤く、口を一文字に結んで。人見知りなんだろうか。にしては元気だが。と思いながら、彼女を応接室に案内する。白湯とクッキーを用意して、面接と、自己紹介とを済ませよう。
「どうぞ、座って」
「はい……優しくお願いします」
「……あー、と。ここに来る前、オスカーさんからどういう話を聞いてきた?」
純粋な好意、とオスカー氏は言ったが。そんなもの小麦粉の粒子一つ分も信じられない。親父を信じて裏切られたばかりだし、こいつは偏見だが、金貸しが無償のサービスを提供するとは全く思えない。何かしらの裏があると考えたほうが自然だろう。
聞いて教えてくれるなら助かるが。
「カニス様の命令によく従うように、とだけです」
もし本当なら、なんという雑な指示か。もし嘘なら、なんという雑な嘘か。こんな雑な嘘をつくようならとてもスパイなんて務まらないだろうが……案外油断させるための演技かもしれん。控えの書類を発見、破棄されては困る。それだけは気を付けておこう。
「うちの仕事がなにかは知っているかい」
「おいしいパンを作ることです!」
元気のいい返事だ。意欲は十分と。
「それが君の明日からの仕事だ」
「パン作り以外には?」
「パン作りが趣味と聞いているけど。ほかに何か?」
「家事が一通りできます。今日まではそれが本業でしたから」
「趣味のことを聞いたんだが。まあいい。じゃあ家事は毎日交代で……と。ああそうだ。年齢は?」
「今年で18になります」
「年下だね。最後に一つ、どうか気を悪くせずに答えてほしい。付き合っている相手、結婚する予定の相手は居るかな」
店も兼ねるとはいえ、男に家に住むのは外聞が悪いだろう。もし相手がいるのなら、しっかりと説明と説得をしなければならない。こちらは手を出すつもりがなくとも、他からどう見られるかはわかる。
「……いいえ、いません」
「じゃあ問題ないな」
この世界の女性としては行き遅れ一歩手前だが、仕事には問題ない。それに彼女は顔がいいし、家事もできる。その気になれば相手も見つかるだろう。頭の中に用意していた面接用質問集の解答欄を一つずつ埋めていく。
「希望する休日数は。特になければ基本週休一日、定休日。それに加えて自由に希望する日に休める、ということになるけど」
「休みを頂けるんですか!?」
「もちろん。家事についてはささやかだが報酬も出す」
労働基準法も労働基準監督署もないけど、休日はきちんと与えるし、残業も最低限。機械じゃないんだから、休みなしで働かせ続ければぶっ壊れる。大変貴重な貴重な貴重な労働力なのだ。こき使いすぎて逃げられたり倒れられたりなどもってのほかである。給料はオスカーさんが出してくれるのだから、なにかあった際に責任を問われても困るし。大事に使わせてもらう。
「でも休んでもすることもありませんから。とりあえず一日でいいです。希望すれば休ませてもらえるんですよね?」
「前日までに言ってもらえれば。あと病気やケガでも休ませる」
「な、なんて太っ腹なんですかご主人様」
「デブじゃあないが。まあ食べてくれ、君のために作ったんだから」
結局は自分のためだ。と、照れ隠しではない本音を伝えて、話を区切り。焼いておいたクッキーと茶を出す。茶は来客時の備えにと買っておいたものだが、さっそく役に立った。
二枚三枚とほおばり、おいしいおいしいと頬っぺたを膨らませて食べる姿は、妹(実在しない)を見ているようで大変ほほえましい。
「では。仕事の話に戻ろうか。君に求める役割は……最終的には製パンの全工程できるようになってもらうからそのつもりで。でもいきなり全部は無理だから、最初は補助から入って流れを理解してもらう。ここまではOK?」
「んぐっ、はい」
「指示に従うように、と言われたそうだが。改善案や疑問があれば遠慮なく言ってくれ。特に楽ができるような改善案はいつでも歓迎」
「わかりました! ……ところで、夜のお相手は……一応、覚悟はしてきたんですけど」
「あぁー…………うん。そんなことをしている暇は、ない」
若い独身の娘が一人で、若い独身の男の家に、住み込みで働く。きっと多くの人が「そういうこと」を連想するだろう。彼女もそう思って、今の言葉を口にしたのだ。
それともそのつもりで……骨抜きにするつもりで送られてきたのか? 骨抜きにして、書類のありかを暴いて、破棄して俺のことも処分する。そういうシナリオ。
どういうつもりであれ。今は忙しいし、これからも忙しい。暇があっても立場をかさに関係を迫るのは前世から引き継いだ倫理観が許さない。セクハラ、パワハラ、ダメ・絶対。
ハニートラップであっても困る。
「……ハッ、もしかしてご主人様童て「一人でも店は回せるんだが」ひぃ! ごめんなさいいぃぃぃ!」
……パワハラはいかんというに、さっそく怒ってしまった。ここは大人の余裕というものを見せつけてやるべきところだったというに!!
「スマンな。脅したりして」
「大丈夫ですう……! 私も経験はありませんから! あっでも見たことはあるのでどうすればいいかはわかってます!!」
「そういう問題じゃないんだよ!! 君に! そういうことは! しないから!! わかった!? それと俺のことは店長って呼ぶように!!」
「あわわわわ店長もしかして男色でいらっしゃいますかァ!?」
「違う!!! そういうのはお互いの合意とかがなあーーー! はぁー…………うん。いろいろと問題があるから手は出さない。安心して働いてくれ」
落ち着いて。落ち着いて。深呼吸だ、冷静にいこうじゃないか。熱くなるのはパンの窯だけでいい。
「早く寝ろ。パン屋の朝は早いぞ。日が昇るより前に起きてもらう」
自己紹介の予定は切り上げだ。お互いに頭を冷やすための時間が必要だ。このあとめちゃくちゃ……自室に引きこもった。弁解するのも疲れたし。仕事の詳しい説明もしたし。明日、作業の流れを見てもらうって話もした。必要なことは全部済ませたしいいよな。今日はもう何もしたくない。でもそういうわけにもいかないんだよな。