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第5話 宣戦布告

 パン屋の朝は早い。鶏が日の出を告げるよりも少し前、まだ世界が暗い時間に薄い布団から出て、裏の井戸で顔を洗い、簡単な朝食を済ませて作業衣に着替えて、エプロンと帽子をつけて、手を洗って仕事にかかる。

 朝一番にこねるのはバゲット(フランスパンの種類)の生地だ。粉と、塩と、イーストと、水、それから前日にこねた生地の残りだけで捏ねるシンプルなパンだ。それだけにごまかしが効かない。生地も繊細で、ほかのパンよりも味が職人の技術に大きく左右される。


 前日にふるっておいた粉に指を突っ込んで温度を見る。粉の温度と室温を測り、生地ごとの係数に合わせて水温を求める。係数とは大雑把に言えば、捏ね上げたい温度に捏ねる時間を足したもの。これから室温と粉の温度を引いたものが水温となるのだ……が、温度計がないので感覚で決めている。幸い長年の仕事で鍛えた温度感覚は正確で、今のところ大きく誤ったことはない。

大雑把と言うが、これは店の条件ごとに変わるものだから、何度という決まったものはない。


 材料をミキサーに入れてスイッチを入れ、あとは捏ねあがるまで放置する。この間20分。この工程が手作業だと一番しんどいのだが、これは機械式。魔法、魔力という電気の代わりの、よくわからない力で動く機械なので、その間にほかの作業に取り掛かれるのが素晴らしい。今は亡き祖父が導入したもので、父に唯一感謝するとしたら、これを売り払わなかったこと。これがなければパンの量産はかなわず、借金返済の目途も立たなかっただろう。その借金も父が残したものなので、プラスマイナスゼロどころか巨大なマイナスだ。


 生地をこねている間にオーブンに火を入れる。これに使うのもまた発火石という火打石と似たような魔法の石で、強い衝撃を与えると10分間ほど火を纏う便利な石だ。火の中に入れておけば熱を吸収して石の中に蓄えて、再利用もできる便利なもの。ただし取り扱いには注意が必要だ。うっかり落としてそれが薪の下に転がり込めば大変なことになる。

 石の床の上においてハンマーで叩く。ボウ、と火が出てくるので火箸で掴んでオーブンの下の窯に入れて、その上に薪を重ねる。バゲットは高温で焼くものだから、早くから火を入れておかないと熱が上がりきらずきれいに焼けないのだ。いつもの感覚に従ってほいほい薪を投げ込んでいく。まだそう暑くない季節だからいいが、夏になればうんざりする気温になる。パン屋をやめてサウナ店を開けるくらいだ。その時期は全裸で仕事したくなる。汗やら髪の毛やらが入るからできないが。


 こねこね。こねこね。換気のため、日に当たるために店の戸を開いたら、ネズミを求めて入ってこようとするネコと格闘する。猫の毛は細くて軽い、ちょっとした空気の動きで舞い上がるから、生地の中に入ったら大変なのでなでたりはできないが、撫でなければよいだけなので、紐と石で作った簡単なおもちゃで遊んでやるのが日々の楽しみだ。でもうちにネズミはいないから入ってくるな。


 猫が満足するまで遊んだら、少し水を飲んでのんびりする。本番前の小休止だ。

 ミキサーが止まったので捏ねあがった生地を見る。張りがあり、つやつやとしていて美しい状態で、温度もちょうどよければ生地を少しちぎって伸ばし、薄い膜が張れば捏ねあがり。グルテンがしっかりできている証拠で、そうでなくぶちぶちとちぎれるようならもう少し捏ねる必要がある。追加するなら一分ずつ。

 ミキサーの釜と生地が触れている部分に粉を振り、丈夫な木を薄く、丸く削って作ったカードで釜をなぞって生地との間に粉を入れ隙間を作って引きはがす。はがした生地を持ち上げて、油を塗った箱に入れて蓋をする。そのまま一時間放置して一次発酵を待つ。


 ……薪を追加して……さらに一時間待つ。その間は足りない睡眠時間を少しでも取り戻すために、椅子に座って、薪の爆ぜる音を聞きながら腕組をして寝る。もちろん寝坊はしない。何年も働き続けてきた間に、焼き付けるように設定された体内時計は正確で、これまで一度も寝過ごしたことはない。必ず一時間ぴったりで目が覚める。


 ……この日もそうだ。体内時計に従って目を開き、立ち上がって、固まった体を伸ばす。背中、肩、腕、足。パキパキと関節が鳴っている。手を握って開いて、ストレッチ。さて本番だ。作業台の巨大まな板の上に粉を振って、その上に発酵した生地を乗せて軽く押さえて四角く広げる。秤と番重(浅い箱)も用意して分割の準備が完了する。最初にとるのは一本当たり250グラムの、バゲットとかバタールとか呼ばれる、一番メジャーな形の長いフランスパン。フランスパンといえばこれ、というパンの生地をとる。

 ヘラで一片から大きい生地の塊を切り出して、そこからさらに小さい生地を切り出していく。誤差の許容範囲はプラスマイナス3グラム。秤の針の振れ幅で重さを確かめる。

一発取りが理想で、微調整は多くて三回まで。目分量で切り出しても8割くらいはこの範囲に収まるのが、自分に設けた調子の基準。生地は触れば触るほど痛むものだから、できるだけ触らずに済ませるために、調整は少なければ少ないほど良い。切り出した生地に粉をつけて軽く楕円形に整えて、優しく番重に乗せる。

 これを70本。タン、タン、タン、タンとリズムよく取っては番重に入れていく。精度も大事だが、作業速度も同じくらいに大事だ。パンは生き物で、時間をかければ発酵が進みどんどん膨らんでくる。すると目分量が効かなくなり、作業速度が低下して、さらに発酵が進んで大きくなる、という悪循環に陥る。発酵しすぎた生地は焼きにくいし見た目も味も悪いので最悪である。

バゲットを取ったあとの残りは100グラムの小さいフランスパンにする。こちらも同じようにパパっと素早く済ませてしまう。小さい生地は扱いやすいので早く終わった。

かかった時間はだいたい2,30分くらい。分割が終わったらまた待機時間だ。この間にまた薪の追加をしておく。どんどん燃やすぜ。石窯は保温性能が高いが、熱が回るのも時間がかかる。薪を足すのは面倒だし、火の調節も難しいし、電気窯ならぬ魔法窯というものはないのだろうか。あったとしても、そんな機械はべらぼうに高価だろうな。貧乏人どころか借金まみれのド底辺に手の届く代物ではない。借金を返し終えたら考えよう。


椅子に座って少し待つ。分割をした生地は成型する前に一度寝かせる。この時間をベンチタイムといい、これなくして成形を行うと、あまり膨らまず、ふわっとした食感にもならない。逆に膨らまず、ざっくりした食感を求めるなら、それでもいい。うちは大きく、柔らかなパンが好みで売りなので時間をとっているだけで、取らない店もあるだろう。


一休みしたので、もう一度仕事にかかる。今はまだ客が戻り切っていないからこうして休む時間があるが、戻り切れば一人では手が足りなくなりそうだ。しかし人を雇うほどの資金はない……工夫してどうにかなるだろうか。なればいいんだが。と、番重の中で膨らんだ生地を見ながら未来に思いをはせる。捕らぬ狸の皮算用にならなければいいけれど。


分割に重要なのがスピードなら、成形に必要なのは優しさだろう。触れるほど生地は傷むが、触れなければ成形はできない。できるかぎり生地にダメージを与えないように、優しく形を整えてやるのがコツだ。番重から出して粉を軽くつけてまな板の上に移して、ササっと成型してしまう。半分に巻いて半分に巻いて半分に巻いて。生地を軽く締めて、成形した端から鉄板に乗せて醗酵室へIN。成形が終わるのがだいたい朝の七時くらいなので、もうそろそろ開店の準備だ。箒と布巾で売り場をきれいに掃除して回る。塵も積もれば山となる。面倒だからと毎日の掃除を欠かせばことわざの通りに塵が山になってしまう。食物を扱う仕事だ、衛生的によろしくない。そうでなくとも汚い店というのはよろしくない。掃除は丁寧に行うべし。猫は丁重に扱うべし。店の中を清潔にしたら、今度は表の掃除をする。入口回りと近く。ネコが箒にじゃれてくるので、箒の先でちょいちょいとつついてやると腹を見せて喜んだ。猫はかわいいなぁ。しばらく猫との触れ合いを楽しんで、顔を上げれば遠くに見えるのは畑仕事を始めている農民の皆さんと、牛や馬といった家畜たち。店の近くでなければいくらでも糞をまき散らしてくれてもかまわないが、店の周りはやめてくれ。


発酵室から成形済みのパンを出してきて、よく研いだ包丁で切込み《クープ》を入れる。ただ切るだけではいけない。コツは刃先を使って皮一枚を削ぐように、縦に浅く横に深く。切込みは斜めに四本、端が重なるように、しかし繋がらないように隙間を開けるのが美しい焼き上がりにするために重要なポイント。切り込みを入れたら窯に放り込んで、コップの水を窯の中にぶちまけて扉を閉じる。ジュワァァァ、と扉の隙間から勢いよく蒸気が噴出する。

 火力の高い窯で、たっぷりスチームをかけることにより、表面がつやつやとした美しい焼き上がりとなるのだ。スチームをかけないと生地が乾燥してしまい貧相というかマズそうな見た目になってしまう。慣れていてもたまに忘れて反省して殴られていた。忘れたころにやらかすのが失敗というものだから、仕方ない。だいたい怒鳴られても殴られても汚いパンがきれいになるわけじゃなし、ただ殴られた側の気分が悪くなるだけじゃないか。人に散々偉そうに説教してきておいて、自分は借金残して蒸発しやがって……まったく許せん。とイライラしてきたところで、第二弾、第三弾を窯に突っ込んで焼いていく。スチームのせいで作業場の湿度と温度が急上昇。冬はいいんだが夏は換気をしないと熱中症で死ぬ。換気してても歯を食いしばってないとぶっ倒れる。春・秋だとちょっと暑いかな、くらいだけど。

 バゲットは1窯最大12本まで焼けるので、窯三段で一度に36本、それを2セットで焼きあがる。焼いている間にも発酵が上がってくるので、醗酵室から出してクープを入れて、手作り木工多段ラックに差し込んですぐに焼けるように準備しておく。全部の準備ができたところで、第一弾が焼きあがる。ささっと引っ張り出して、焼き立てのパンを編み籠に突っ込んで、用意してあった第二弾を窯に投入。次々と出てくるバゲットを籠に次々突っ込んで、売り場に並べて、小物にも切り込みを一本いれてラックに差して……朝の八時、開店時間がやってくる。

 店の前の看板を「準備中」から「営業中」に切り替える。すでにご近所様が焼き立てのパンを求めて店の前で待っていたので、笑顔で挨拶。アイサツは大事。古事記にもそう書いてある。


「やあカニスちゃん、おはよう。今日もパンのいい香りがするねぇ」

「ドーモ。おはようございます。さあさあ、たった今焼きあがったばかりですよ、中へどうぞ」


 このおばあさんは何年も前から。俺が子供の時からずっと、朝一番に来てくれる常連だ。親父が蒸発してからも欠かさず来てくれている。お得意様の中でも最上級であり、最大の感謝と礼をもって持て成すべき常連であり、「お客様」である。

 もてなしといっても、できることは最高の品質のパンを提供する、それだけだ。


「今日は何をお求めで?」

「いつものを三本もらおうかな」

「はいよ。一本400マルク、三本で1200ですよ」

「高いねえ」

「これ以上安くすると店がつぶれちまいますよ」

「うん。潰れられちゃ困る。ここがなければ、おいしいパンが食べられないからね」


 いつものやり取り。ちょうどの金額を預かってパンを渡すと、ホカホカのパンに勢いよく噛り付き、食いちぎった。固い皮がバリバリと音を立てながらおばあさんに食われていく。丈夫なあごだな。年を食ってもこうありたいものだ。


「うん。うん、今日のもおいしく焼けてるじゃないか」

「そいつは当たり前だよ。俺が焼いてるんだから」

「あんたのお父さんも、昔はおいしいパンを作ってたんだけどねぇ。どうしちまったんだか」

「俺も知りたいね。なんかわかれば教えてほしいくらいだ。どっかで見かけただとか、帰ってきたとか」

「ああ。なんか聞いたら言いに来るよ。そんときはオマケしてくれるかい?」

「もちろん」


 二、三言葉を交わして見送る。そのあとはぽつぽつやってくるお客様の相手をしつつ、商品の加工もしつつ……昔にはいまだ遠く及ばない客数に、人には見られないようひっそりと嘆息する。仕事も客も落ち着いたし、ベーコンと卵のサンドイッチで早めの昼食をとろうかという十一時頃。

 ドカッ、と乱暴に店の入り口ドアを開けて入ってきた客を見て、パンを置いて笑顔で出迎える。


「いらっしゃいませ」

「小さな店にお似合いの、貧相な店主ね」


 いらっしゃったのは白磁のような肌を持ち、純金で織られたような髪を後ろに一本で束ね、白と赤の二色の服を着た、大変豊満な肉体を持つ美しい女だった。完璧とは彼女のことをさす言葉なのかと思うほどに、完成された肉体・美貌の持ち主だった。前世含め、彼女ほど美しい女性を目にしたことはこれで二度目となる。開口一番に喧嘩を売られていなければ一目ぼれして求婚していたかもしれない。

開口一番いきなり罵倒されたのはむしろありがたいことだ。熱で浮かれていたところに冷水をぶっかけて冷静にしてくれたのだから……

という冗談はさておいて。


「……どのようなご用件で?」

「なんだと思う?」


 ナイフとフォークより重いものが持てそうにないほど細い指が意地悪く、赤い唇に当てられる。大変絵になる仕草だ。


「昨日のお礼でしたら結構ですよ」

「外れよ。敵情視察と宣戦布告に来たの」

「恩を売った覚えはあるが、敵と呼ばれるほどの恨みを買った覚えはないんだが」

「商売敵と言ったほうがわかりやすいかしら。それじゃあ改めて。私はパン・ド・フランジアの店長、フランジア・フォン・ティルトよ」

「どうも。名もない小さなパン屋の店長、カニス・ブラウンだ。よろしく」


 握手を求めて手を差し出したが、その手は空を握り、代わりに冷笑が返ってきた……しかしこんなこぎれいなお嬢様が店長とは。作っているパンはどれほどのものだろう。顔の良さでパンの良し悪しが決まるならミシュラン三ツ星確定だろうが、そうじゃない。


「汚い手ね」


 汚いか。衛生的に、ではないだろう。昼飯を食う前に手はきれいに洗ってある。粉も埃もついていない。つまり、見た目が汚いと。


「……そちらは美しい手をしている」

「あら。ありがとう。褒めたところで手は緩めないから」

「緩めたら店がつぶれそうだな。もちろんあんたの店が、だが」


 昨日の意趣返しと、敵と扱われている礼と、侮辱を受けた報復、諸々込めてちょっとした嫌味を口にする。


「馬鹿にしているの?」

「もちろん。この手を見ろ」


 両掌を彼女のほうへ向けて開く。腕にはヤケドのあとがいくつも。よく見えるように。彼女は形のいい眉をひそめて、不快さを隠そうともせずに次のように述べた。


「その皮の分厚い汚い手を見てどうしろと言うの」

「この手を侮辱したな?」

「侮辱したからなに?」

「十年以上製品に向き合い続けた職人の手だ。あんたの手は何年向き合ってきた?」

「貴族たる私がなぜ働かなくてはいけないのかしら。職人を雇っているにきまっているじゃない」

「職人には、重ねた月日の分だけ誇りがある」

「だからなに! ちっぽけな誇りが何の関係があるっていうの!」

「誇りを蔑ろにする輩に手を尽くすやつがどこに居る!!」


 甲高いヒステリックな声に、倍の声量で怒鳴り返す。そこまで言ってようやく気付いたか、それとも声量に気圧されたのか。激情はひとまず鳴りを潜め、それ以上の反論はなかった。理解してもらえたところで、今朝焼いたバゲットを掴んで、手渡す。いくら軽蔑する相手でも大事な商品を投げて渡したりはしない。


「代金はいらん。持って帰って参考にしな。違いが分かれば……」


 最後まで言う前に、長い髪を翻し、入ってきたとき同様大きな音を立てて店を出て行った。


「……違いが分かれば、せめて自分のとこの職人には態度を改めるといい」


 もう聞こえないとわかっているが。聞いてほしいと思って最後まで口にした。

 さて。邪魔は入ったがお待ちかねのランチタイムだ。


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