第4話 未知との遭遇
週に一度の定休日の朝。この日ばかりは日が昇り、外が明るくなってから薄い布団から起きだすのだ。そしてゆっくりと朝食を摂る。メニューはベーコンという名の塩の塊でダシと味をとり、スライスした玉ねぎを入れて煮込んだスープ。塩を抜いたベーコンをフライパンで焼き、出てきた油で目玉焼きを作る。焼き加減はターンオーバー、両面しっかり火を通したのが好みである。そこに庭が産地の雑草という名の野菜で作ったサラダに、前日売れ残りのパン。
雑草はともかく、あとのものはそれなりの味だ。ベーコン出汁のスープは塩味の向こうに玉ねぎの甘味を感じる素朴な味だし。カリカリに焼いたベーコンと塩コショウを振った目玉焼きの相性は素晴らしい。売れ残りのパン、バゲットも、ほかならぬ俺が焼いたものだ。当然うまい。
充実した朝食に満足して、両手を合わせる。
「――――ごちそうさま」
豪華な食事だ。多額の借金があるとは思えない。野菜がちゃんとした野菜なら最高だった。にしても、香辛料や砂糖、塩などの調味料が普通に変える程度の価格で流通しているのは神に感謝だ。塩の残りに気を付けながら毎日を過ごすなんて我慢できないし、胡椒がなければ代り映えのない味にうんざりしながら飯を食うことになっていただろう。
食事の後を片付けて裏の井戸に向かう。
我が家たるこの店は、顧みればなかなかに恵まれていると思う。一軒家であり、一軒屋でもある。作業場、売場、事務所に私室。我が家専用の井戸までそろっている。一人で住むには大きな店であり、大きな家だ。この店の初代、祖父の代では地区の食を一手に引き受けていたというが、ならば大きくなるのも必然か。敷地の大きさは責任の大きさ。借金の返済を即時に迫らなかったのはそういうことだろうか……考えすぎか。パン屋の二代目、あいや三代目に期待することなどないだろう。
創業者の遺産を二代目が食いつぶし、三代目は借金を押し付けられて大いに苦労する。よく聞いたパターンで、前世では無能な二代目を笑い、三代目を哀れんだものだが、いざ自分の立場になると笑えない。
というかここしばらく接客以外で笑った記憶がない。鬱になりそうだ。鬱になっても誰も助けてくれないぞ。鬱になったら死ぬしかないぞ。死にたくなければもう少し気張れ。と、こうやって自分を追い込むほど鬱に近づくと俺は知っている。知っているのだが、追い込まれねば動かない面倒な性質を自覚しているから追い込まざるを得ないのだ。
パシャ。冷たい水で顔を洗い、スイッチを切り替える。これから債権者に会いに行こうというのに、暗い顔をしていてはいけない。虚勢でも堂々と自信を持って、うちの商売は安泰ですよと言い張る図太さも商売には必要だ。いや虚勢でもある程度根拠がないとダメだろうとツッコミを入れる。
正直にありのままを伝えれば「大変よろしくない状況ですが、徐々に回復傾向にあります」になる。V字回復を掲げて実際そうなった企業は数少ない。そいつは天才的な経営者が辣腕を振るい、類稀なる熱意と能力を兼ね備えた従業員の尽力があってはじめてなしえることだ。その夢を見て失敗し、最後の力を使い果たして倒れてしまうほう圧倒的に多い。
凡人たる己は堅実に、小さな一歩を積み重ねていくしかない。だが焦ることはない。十万文字の小説とて、一文字一文字の積み重ねでできているのだから……問題はそう言って理解してもらえるかどうかだが。
事務所に戻り、まだ仮の段階の返済計画を体裁を整えて提出用に清書する。身分が上の人に会いに行くのだからと冷たい井戸水で体を清めて、服も先祖譲りの正装に着替えて、護衛用に短剣……ではなくハンマーを持って、いざ参る。アポなし訪問だが門前払いされないといいな。されたら?
押しとおろう。
――ティルト氏の家までは徒歩でしばらくかかる。自動車、自転車のような工業技術の結晶はいまだ姿を見せず。と言いたいところだが、実は魔法で動く車はある。だが庶民の手には届かない代物なので、移動の手段は徒歩になる。異世界らしく馬やドラゴンは? ドラゴンはたまに空を飛んでいるが、あれには乗れるのだろうか。初めて見たときには飛行機と見間違えるほどでかかった、乗れるのなら乗ってみたいものだが。
そして馬を養えるほど稼ぎはない。レンタルもしているが、これも高いので庶民には借りられない。よって移動は徒歩だ。ただ、歩くだけで時間を浪費するのも勿体ないので移動しながら空を見上げて新商品の案やら返済計画の改善やらを考える。
しばらく歩くと、遠くから男女の怒鳴りあう声が聞こえてきた。思考を中断して道草を食いに行く。ろくに娯楽もない中では、他人の喧嘩ほど面白いものはない。男女の痴情のもつれときたらもう、腹ペコのところに差し出される焼き立てパンほどにあらがえない魅力を持っている。行くしかない。
見に行った先にいたのは、長く美しい金髪をポニーテールに纏めた、色白の身なりのいい美女。それと貧相な格好の男だ。男の顔は見えない。一目で身分に差があるとわかり、痴話喧嘩ではなさそうだ察した。身分違いの恋にしてはどうも色気がない。先に居た観客にどういう状況なのか聞いてみると。「女が男に何か頼みごとをして、失敗したから怒っている。男のほうは失敗してひどい目にあったから女に抗議している」ということらしい。どこかで聞いたような話だと思いながら、ありがとう、と礼を言って野次馬に混じる。みんな怒鳴りあいが殴り合いに発展するのを期待して見守っているのだ。そして、男に殴られ、地面におしたおされて辱められる女の姿が見たいのだ。わかるよ、身なりのいい女が貶められるのは興奮するもんだよな。
口では育ちのいいお嬢さんが圧しているが、実力行使となれば逆に勝ち目はない。今まだ殴られていないのはなぜか。公衆の前で女に言い負かされたから殴るのはさすがに恰好がつかないという不良の矜持か。それとも後の報復を恐れてか……
関係ない人間の争いで好き勝手妄想するのは楽しいねえ。と、ほくそ笑みつつ、そうなれば女性を助けてあわよくばお近づきになりたいなーとか……久々に「楽しい」という感情で脳を満たすことができ、大変気持ちのいい気分となった。よし、当初の目的を果たしに戻ろうか。
「ちょっとあなた!」
一人背中を向けて立ち去ろうとしたら、後ろから叫び声が。多分俺のことじゃないだろう。
「そこの黒服!」
俺以外にも黒い服の人は居るだろうとそのまま立ち去る。
「待ちなさい!」
「ぐぅっ」
襟首をつかんで止められた。野蛮ですわよお嬢様。
「通りすがりの紳士の方。わたくしを助ける栄誉を差し上げるわ。あの野蛮な野良犬を追い払いなさい」
人にものを頼む態度ではない。おとといきやがれ。
「お断りします」
「ありがとう。野良犬! こちらの方が相手よ」
さては人の話聞いてねえなコイツ。ということで、男の前に盾として押し出されてしまった。なんなんだコイツ。
さあどうしよう。まずは話し合いで解決できないだろうかと淡い期待を抱いて、相手の出方をうかがう。あちらも俺の顔を強面の形相でにらみつけて……すぐに顔色を青くしてズリ、と一歩下がった。そういえば見覚えのある顔だ。
「お前、昨日うちに来たやつじゃないか?」
「ひぃっ」
ハンマーを持ち出して一歩踏み出すと、情けない声をあげて一歩下がる。もう一歩進むと、もう一歩下がる。つい昨日のことだから、尋問の記憶も新鮮だろう。陸上でおぼれる経験も、呼吸のできない苦しみも。これは追い払わずに話を聞くべきだろうと、やじ馬から仕入れた事前情報から判断する。
「ちょうどいい。話を聞かせてもらおうか」
「っ!」
足を速めて詰め寄ると、残り数歩のところで走って逃げられてしまった。惜しい。では言い争いをしていた女の子のほうに、と思って振り返れば、もうそこには誰もいない。
一人だけ野次馬の中に残された俺である。楽しいショーの一番盛り上がるところで幕を下ろしてしまったわけであり、当然ブーイングの嵐。罵声をダース単位で投げつけられ、声が石に変わる前に走って逃げだした。
さて。野次馬の声も振り切ったところで、最初の目的に戻り、昼頃になってようやく目的地にたどり着いた。門だけでも自分の店ほどの大きさで、その奥にそびえる庭付きの豪邸ときたら見上げるほどの大きさである。THE 金持ちの家という感じ。
門番にあいさつして、自分の名と要件を伝えて護身用ハンマーを預けると、詰所から一人、屋敷の中へ小走りで入っていった。しばらく待たされるとようやく敷地内への立ち入りが許された。
案内役のメイドの後ろについていき、長い廊下を歩いて渡り、一つの部屋に案内された。
テーブルをはさんでソファが二つ置かれた、応接間である。
「どうぞお座りください。お茶もすぐに持ってまいります」
その後まもなくほかのメイドがやってきて、香りのいい鮮やかな色の茶を陶磁器の器に注いでくれた。
せっかくなのでありがたくいただくことに。一口。茶に関しては全くの素人なのでよくわからないが、たぶん上等な茶葉を使っているのだろう。味も香りも素晴らしいものだと思う。歓迎されていると思っていいのだろうか。
というか思い返せば、この世界でお茶なんて片手で数えるくらいにしか飲んだことがないので、きっと歓迎されているのだろう。
熱々の茶をゆっくり、半分ほど飲んだところで、屋敷の主人がやってきた。
「ようこそ。話があるそうだが、良い話と悪い話とどちらを持ってきてくれたのかな」
「受け取り方はそちらにお任せします」
のっそりと、ソファに腰かけたティルトさんが微笑みを浮かべて話を促す。応じてこちらも口を開き、懐から仮の返済計画書を差し出す。
「まず半月が経った現在の状態ですが、決して良いとは言えません」
「良いことではないが、現実がわかっていないよりはよほどいい。で、これから先は?」
「徐々に客足が戻ってきております。この調子で順調にいけば半年。そうでなくとも一年ほどで昔の……五年前の水準に戻るかと」
「そんなに早く?」
「実際、小細工のおかげで客は増えていますので」
「どんな手を使ったんだね」
やり方を説明すると、意外そうな顔をして、すぐに元のほほえみを顔に張り付けて二、三度頷いて。
「君はどうも、私の思うよりも賢いようだ。あの親からは考えられないほどに」
スゴイ・シツレイな発言だが、それだけ意外だったのだろう。そりゃそうだ。しゃべってないけど前世持ちで、高等教育を受けて、自分の店を経営していたのだ。そこら辺の農民とは知識量が違う。もっとも、それを活かせているかというと、パン屋以外では微妙なところだが。
まあ、感心してもらえたなら光栄なことだと受け止めておこう。
「それからもう一つ。フランジア・ティルトという方をご存じですか」
「私の娘だが。どうかしたかね」
「営業妨害をしてきたアホをしばいたら彼女に頼まれた、と吐いたんですよ。虚偽ならご家族の名誉を傷つける発言ですし、真実ならどうしたものかと」
こちらが本題である。親に止めるよう言ってもらって止まるならそれでよし。この件は終わり。慰謝料をもらえるほど立場は強くないので、話も終わり。
身内をかばうようなら……どうしたものか。
「わかった。聞いておこう。事実なら止めるように言っておく」
「否定なさらないのですね」
「あの子はヤンチャなところがあるからな」
ヤンチャで済んだら警察はいらねえんだよ。と声を大にして言いたいがしかし、相手は権力者で債権者だ、無礼な真似をして貸し剥がしにあっては餓死してしまう。ではこれで、と失礼しようとしたら、ノックが三回。
「お父様。入ります」
「今はお客さんの相手をしているんだが」
と言って入ってきたのは、先ほど見た金髪の娘。もしやこいつが例の。
「……まあいい。ついでに紹介しておこう。この子がフランジア・フォン・ティルト。件の、私の娘だ」
「あら、さっきの方」
「もう面識があるのか。いつの間に?」
「野良犬に絡まれていたところを見に行ったら押し付けられただけですよ。礼を言われることもなく逃げられたので、面識というほどのものでは」
「婦女子を助けるのは殿方の名誉でしょう」
「戦士、騎士の方なら喜ぶでしょうが、あいにく私は職人でして」
「お父様。この無礼な方はどこのどなた?」
「カニス・ブラウンさんだ」
見下していた表情が一瞬怒りの顔に変わる。整った顔だけに迫力があるが、にらまれた程度でひるんでいては接客業で生きていけない。へへへ、と卑屈に笑って軽く受け流すと、それが気に入らないのかさらに睨まれた。
「あなたの顔を見ると気分が悪くなるわ。今すぐ出て行ってくださる?」
「……」
肩をすくめてティルト氏のほうを見る。元々出ていくつもりではあったが、このまま黙って出ていくのも失礼ではあるまいか、と。
「やれやれ。せっかく来てくれて申し訳ないが、今日はお引き取り願おうか。本当は昼食でもどうかと思っていたのだがね」
「お気持ちだけありがたく頂戴いたします。また二週間後に、返済計画の清書と経営状態の報告に参ります」
「次はいい報告を期待しているよ。ではまた」
「……」
穏やかな声と、憤怒のこもった視線を同時に受けつつ退室する。
しかし、いったい俺が何をしたというのか。いや、何もしていない。あの金髪の小娘とはこれまで一切面識がない。にもかかわらず、あそこまで激しい怒りをぶつけられるのはなぜだろう。親父が俺の知らない間にまだなにかやらかしていたのだろうか……あの親父だし、ありえなくはないが。
……何にせよ、あの様子では親に言われた程度では止まりそうにない。警備員を雇いたいがその金もない。気を付けるしか対策が取れないか。金がないのはつらいなまったく。