八話 中立国アウトクラシアン
息が苦しかった。
水の中に沈んで行くかのようなどこにも行けない息苦しさ。
足掻くのが辛かった。
来たる未来があった。
でも、それは私が、みんなが望む未来ではなかった。
火が猛り、形が途切れ、仄かな灯が散っていく。
私は弱かった。志す者が少なかった。
水面を目指すことがこんなに辛いんだって初めて知った。でも、屈するのが何よりも恐かった。
意味があった。
意地と意志が光を途切れさせなかった。水中から見る水面の上に、白く輝く月がずっとずっと私を待っていた。
それは鏡。全てを写す今の姿。
それは確かな残滓。
過去を咎め、支え、照し導く光の道。
過去を振り返るな。後悔を力に。残滓はずっと私を見ている。
あるいは、希望。未来への奏で。手を差し伸ばすように、私を導くように歌はずっと奏でられる。
息を息を。手を伸ばさなくては、脚を動かし足掻かなければ。口から透明な泡が漏れた。光を反射して水面へ泳ぐ。青に染まり、白に光、ずっとずっと遠く遠くへ。
嗚呼、いつか、全てが終りますように。
*
——忘れないで
私はいつまでも貴女を見守っています。
——手を伸ばして
辛い時、悲しい時、誰かが貴女をきっと助けてくれる。貴女の手を握ってくれる人は必ず現れるから。だから、独りにならないで。
——泣きなさい
我慢なんてしないで。泣きたい時は泣きなさい。悲しみを苦しみを痛みを後悔を寂しさを、その涙で洗いなさい。それはきっと貴女の希望になるから。
——だから、涙で全てを包みなさい
いつかの悲願の為に。明日の笑顔の為に。透明で彩って、貴女を満たして。
いつか、いつか。逢えるその人の為に。
幼い頃の夢を見た。
母親が私をあやす夢を見た。何が原因で泣いていたのかわからないが、私の頭を撫でる柔らかな温もりが包んでくれていたことを今も覚えている。
「いい子いい子。だから、泣かないで。」
「うっあぅぅ……」
それでも泣き止まない私に母はにっこりと微笑み。
「ならいっぱいいっぱい泣きなさい。泣いて泣いて、泣きなさい」
優しい声音がすっと私を抱きしめて、母は私を抱きしめた。感情が昂り、高揚する目元から熱い熱い雫がぼろぼろと、また溢れ出した。
「大丈夫、大丈夫」
私は泣く。泣き続ける。全てが溢れ果てるまで。母の優しい優しい子守唄と共に。
そして、私は温かな母に抱きしめられながら濡れた瞼をゆっくりと、ゆっくりと下ろす。
いっ時も離れない温もりに身を任せて。
*
「ここは……アウトクラシアン?」
瞼を開けたその前には、お墓があった。どの墓よりも大きなお墓。お墓の前には花束がいくつも置かれ、墓石にはこう綴られていた。
――異端の少女
それを見てユリスは確信した。
(ここは……私の生きてきた国。あの場所じゃなくて、ここは中立国アウトクラシアン……)
墓地から見える街並みは夜の光に照らされていた。
「今、何時かしら?」
辺りを見渡す限り月の光は青から白に変わり、星の数が多くなっている気もする。
気がするだけで実際に多くなったのかはわからない。いつもと変わらない風景が妙に懐かしく思える。
きっと、知らない世界でまだ知らない彼と話したから、非日常が色濃く残っていたから。彼と約束をしたから私はこの光景を懐かしく感じているのだ。
ささやかな楽しみとたった一つの温かな光の種が私の心を満たしていた。
ただの光の種が一粒、自国の祖先のお墓にぽつりと落ちた。
墓地を出た私は学校の寮に向けて街中を歩いていた。色々なお店が活気を放っている道中はとてもこの国自体がいきいきしているかのよう。
「おっ!ユリスちゃん!帰りかい?」
そんな中、気前の良い野菜屋のおじさんが私に手を振ってくる。
「はい」
「そうかい。じゃあ、このトマト持っていきな」
おじさんはそう言って私にトマトがいくつか入った袋を私に掲げる。
「え?いいのですか?」
「いいってことよ!前のお礼と思って!」
そう言っておじさんは豪快に笑った。この前、野菜の収穫の際に護衛として付き添ったのだ。その時に何匹かの魔物からユリスはおじさん達を守った。その時にも野菜をこれでもかと貰い受けたのだが、私は少々押されながらも素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます」
「ああ、いいってことよ」
ニカッと笑った。
「あ、おじさん今何時かわかります?」
「今かい?えーっとな……」
そう言って壁に掛かっている時表軸に魔力を通すと、囲いの中に文字あるいは数字が浮かび上がった。
時表軸とは十字架の真ん中に囲いを収めた時間表記魔道具のことだ。魔力を通すことによって時力石に力を与え、現在の時間並び曜日を教えてくれる人々にとって大切なもの。十字架が青く光れば朝であり、黒に光れば夜を表す。
時表軸の十字架は黒く光、囲いの中の数字と文字は。
「黒の月曜日、七時三十分だ」
読み上げた時間に僅かながらの驚愕を表してすぐに冷静に戻る。
「ありがとうございます、おじさん」
「ああ、気お付けて帰れよ」
軽く頭を下げてこの場を後にした。
結果から言うと、私がセレンの世界に飛んで帰ってくるのに十分と経っていなかった。
前回、初めてセレンと出会った日は、戻ったなりしばらく唖然と放心状態になってしまい、次第に混乱が思考を支配して時間を確認するほどの余裕がなかった。
でも、今回はそれほどの混乱もなく、九日間で抱いていた疑問の確認を一つ出来たことを喜ばしく思う。
多分、こちらの世界よりあちらの世界の方が時間の進みが速いのだという事が判明した。
向うで過ごした時間は一時間近くであった感覚があり、十分とはあわりに噛み合わない。向こうでどれだけ時間が進んでようが、私の感覚として成り立たない。一つの疑問が消えて新たな疑問が生まれた。
「次に会った時にセレンに伝えないとね」
私はそんなことを考えながら帰路を進めた。
「あ!ユリスーおっ帰りいいいいいーっ!」
ユリスが通っている学校の寮に着くや否やショートカットの赤髪の少女がユリスに飛び掛かってきた。
「きゃぁっ⁉」
激しい抱擁に思わず声が出た。
赤髪の少女はそのままユリスの胸に顔をすりすりする。
「ユリスの胸以外に大きいね!あといい匂いもする!」
「ちょ、ちょっとクーラ!やめてよね!」
「いいじゃない。減るもんじゃないんだーかーらー、えい!」
「きゃっ!」
クーラの手がユリスの胸をギュッと鷲掴みにする。
「ど、どこ触ってるのよ⁉」
「ぬぬ~。また大きくなったんじゃ」
クーラの手がもみもみとユリスの胸を遊ぶ。少し小ぶりな形のいい双丘がクーラの手によって服の上からも強調される。嫌らしい手の動きが身体中に響く。
「っっッ!やっあっ⁉そ、そこは⁉ぅぅ~~は、放しなさい!」
手に魔力を込めて放とうとしたその時。クーラ背後からロープが現れた。
「ふぇ?」
間抜けな声を出すクーラを他所にロープはクーラの手足に巻き付き縛り付ける。
「うわっし、しまった⁉」
クーラは顔から床に倒れ落ちてゴンと鈍い音がする。
「いったぁぁーいぃぃぃ……っ」
涙目になる。
うわーっと少し同情しながらロープが飛んできた方向に眼を向ける。
「ありがとね、ビオレッタ」
ビオレッタと呼ばれた女の子は紫の髪をいじりながら首を横に振る。
「別に。いつものことだし。あとうるさくてみんな見てたし」
ビオレッタに言われた通り周りを見渡すと何人かがこちらを見てくすくす笑っている。
ここは中立国が誇る唯一の学校の女子寮であり、私たちがいるのは自分の部屋ではなく女子寮のロビーであることに今更気づいた。ユリスの耳と顔はどんどん羞恥に赤くなっていく。
「もー最悪っ……」
クーラによる被害者は多く、学校が終わったこの時間帯だけクーラによるセクハラが一日一人を襲うのでみんな寮に戻る時だけは嫌に神経質になっている。
「何回も言ってるのに聞かない。ユリスやティアに迷惑かけるのダメ」
鼻息を荒くして、仁王立ちでクーラを見下ろす。ギロリと睨む眼差しにクーラが怖気づく。
「今度したら駄目だから!わかった?」
「うっ。……うん」
覇気のない肯首にビオレッタはため息を吐く。ユリスは苦笑いするしかない。続けてお説教をしようとしたビオレッタの頭を優しく撫でる。何故か無償に愛おしく感じてしまった。
ピタっと動きを止めたビオレッタはすぐに顔がにやけていく。嬉しかったようだ。
「あーずるい!あたしも撫でてほしいー!」
「ダーメ。これは私の特権。クーラ、悪いことした。だから、ダメ。ふふふ」
胸を張ってのドヤ顔。さすがのクーラもむきーっと唸りだした。
そう。これが私の日常。クーラがいて、ビオレッタがいる。はしゃいで喚いて楽しむのが私の日常。今改めてその全てを実感した。そんな感情に浸っていると雷の如く、怒声が寮を揺るがした。
「騒いでるのはだれだぁああああああ――ッ!」
「不味い鬼姫だわ」
ユリスの声に二人とも顔が青くなっていく。
鬼姫とは、私たち生徒が付けたある先生のあだ名。姫のような美しさに鬼のような厳しさをもつ女性教師。通称鬼姫。
鬼姫に捕まったものは皆魂が抜け落ちて帰ってくると言われている。
魔力がビンビンと肌を突く。魔法使いとしても優秀であり、魔法を使っても逃げ切れるかわからない。しかし、僥倖。私たちはまだ見つかっておらず、今なら隠蔽魔法で逃げることが出来る。
ユリスはビオレッタと眼を合わせて、頷く。
考えていることは同じなようだ。鬼姫はもうすぐここに現れる。もう時間はない。
「「【ハイド】」」
二人の声音が小さく鳴った。次の瞬間、ビオレッタとユリスの身体が透けるように透明になっていき、ロープに縛られているクーラの眼から完全に除外した。
「ふ、二人ともどこ⁉」
きょろきょろ辺りを見渡すクーラを見て、ユリスたちは自分の姿が消えている事に確信をもつ。そして、足音を消して鬼姫が来る方向の逆へ逃げ出した。僅かな風がクーラの鼻を掠めていく。
「時間ない。ごめんクーラ」
ビオレッタは端的に残してユリスが去ったと思われる方向へ走っていった。
「え?ちょっ!ふぇぇぇぇぇぇぇっ――⁉まってぇぇぇぇぇぇぇぇ――っ⁉」
クーラの泣き声が寮中に響いた。
「はあはあ……」
肩で息をしながら自分の住んでいる部屋のドアを開けて中に入る。魔法を解除し、靴を玄関で脱ぐ。
「た、ただいま」
そのまま明かりがあるリビングへ向かう。リビングからはコーヒーの香りが漂ってきた。
「あら、おかえり」
コーヒーをお上品に味わい、椅子に腰を下ろして優雅なひと時を過ごしている女性が微笑んでいた。
薄い緑色の髪を後ろで一つに結び、学校の制服から部屋着へと着替えた美少女は読みかけの本に栞を挟んで立ちあがる。
「今日は遅かったわね」
「クーラに捕まってね」
「ふふっ、それは災難ね」
ティア・アルヴは台所に向かう。
「すぐにご飯作るわ」
「ありがとう。着替えてくる。あっこれ野菜屋のおじさんから貰ったトマト」
「わぁー嬉しい!今度お礼言わなくちゃね」
ふふふ、と微笑むティアを横目にユリスは寝室へ向かった。
寮生活は基本二人一部屋であり、ユリスはティアと同部屋である。
もちろん寝室はユリスとティアの共同であり、ベットと机、クローゼットが二つずつあるので、そこまでの広さはない。それが嫌だとかはなく、むしろティアと近くにいられることに安心感をもつ。
また一つ日常がユリスの中に浸った。
リビングへ戻り食卓に付く。
ユリスに気付いたティアは「もうちょっと待ってね」といそいそと手を動かす。
その手際の良さは料理の全く出来ないユリスから見れば圧巻。
まるで母親のような背中は頼りがいがあり、佳麗であり十七歳にしては豊満な双丘は異性を釘付けにする。美の化身と言われれば頷きたくなるような女性。薄い緑色の髪は陽に当たればたちまち金色と見え、それすらも天使のよう。同性のユリスさへも惚れ惚れとしてしまう。
それが、ティア・アルヴ、ユリスの幼馴染だ。
「そんなに見られてたら恥ずかしいんだけど……」
頬を桜色に染めるティアにユリスは自分がまじまじ見ていたことに気付いた。
「ごめん。あまりにも綺麗だったから」
「なにそれ」
口に手を当てて薄く笑う姿にユリスも自ずと口元が綻んだ。
多分あまりにも非日常感がユリス自身を乖離していたのだ。
あの世界のユリスとこちらの世界のユリスを。
セレンと話したり笑ったりしたことは勿論楽しかった。
どこにもない変わりものだった。
知らない景色に知らない物に知らない彼。知らないものが新鮮で神秘的で心を弾ませた。
それ以上にあの世界では私でない私でいられた。もちろん、二重人格なんかじゃない。
苦しみを知らない私。後悔が湧き出ない私。未来に怯えない私。
この国は、世界は私の過去同然。街の景観が、崩れ去っていく家々が、私を知っている貴女たちが私を私でいさせくれていた。
間違っていない。私が私でいられたことを誇りに思う。私を引き留めてくれている、みんなを愛している。でも、ずっと心だけは彷徨っている。だから、あの世界は私が私を少し忘れることが出来た特殊な癒しだった。
過去を思い出すよりも考えたり知ったりすることが多かった。気がまぎれた。
でも、やっぱり弱くて思い出してしまった。そんな私にセレンは頭を撫でて伝えてくれた。
その一瞬、母親を幻視した。まるで母が私に言いつけてるかのように思えて震えて震えて———
彼が教えてくれた。
後悔は礎になると。苦しくても辛くても強くあろうとすれば後悔は自分の力になるのだと。だから、自分を責めないで‥‥‥と。
だから、私は私に問いかけた。すると簡単、答えがすんなりと出てきた。私が私でいられるなら、私が違う私でもいられるんだってそう思えたから。
だから、今こんなにも日常が恋しく、温まるものだと初めて知りえた。
ティアの背中は思ったよりも華奢なその背中にどれだけ頼り甘えてきたのだろう。
だから、今度は私が守るんだと強く強く誓う。
「ありがとう」
思わぬ感謝に眼をまんまるに開いたティアはくすっと笑って胸を張った。
「こちらこそね!」