六話 またとない再開へ
彼女が抱いた感情はどんなものだっただろうか。
寂しさだろうか、憂いだろうか。それもと流れる一日の他ならぬ一ページに過ぎなかっただろうか。
今となれば解る術は何もない。遠い空に消えて、無象の夢が残った。虚無の渦がずっと掻き乱している。心を願望を後悔を。
この気持ちがなんなのかわからない。
わかるはずない。約束はなく、奇跡もない。本当にわからない。どうしてここまで執着して懇願しているのか心は何も答えてくれない。
でも、あの瞬間、何かが変わる気がした。
停滞していた時間が動き出す予感がした。
期待が高まり、未知に焦がれ、退屈な日常が彩る、そんな気がしていた。
巡る巡る時の流れが彼女の存在を消していくかのよう。淡い光が空へ還っていく。弔いにも似た光景が胸を締め付ける。
この日、出会いと別れが夜空へ還って行った。
*
あの日から三日が経った。
一日目はあの光景と彼女との出会いが夢のように思えて、リフレインを繰り返してばかり。
風が頬をかすめる感触が、彼女の透明感のある声音が今も思い出せる。
龍也と仄華に心配されながら、気づいたら一日が終わっていた。龍也は特に心配そうにしていたことに気付けず、昨日の今日だから仕方ないと自分でも思って言い訳する。
(今度しっかりと説明しとかなきゃな)
勿論、あの山の丘にも行った。もしかしたらと期待をしたけど、彼女はいくら待っても現れなかった。
寂しげな草原があるばかり。
あの涙を笑顔を手を幻視してうんざりする。
月は満月から少し欠けて白く光る。味気も美しくもない。そこは悲し気に広がっていた。
まるで、白だけの何も物を置いていない部屋のようにも見えた。
「はあー」
ため息ばかりが出た。
二日目はあの現象について考えて見た。
もしあの現象が分かれば彼女ともう一度出会うことが出来るのでは、なんて甘い妄想を少し入れ込みながら謎を彼女との思い出を補佐するように考えた。
しかし、自然現象についての本を何冊か読んだけどなんの手掛かりもなく、龍也と仄華にまた心配された。説明が面倒だったので適当に興味が湧いたとか、暇つぶしだとか、とにかく言いくるめたが、本人たちは納得していなかった。
そのうちそのうちね、と自分に暗示して視線を逸らした。
超現象に怪奇現象に自然現象。あらゆる現象が名を遺す中、あの日の現象に触れた記述は一切発見できなかった。
まだ一日、手あたり次第本を漁り考えたところで解き明かすことができるはずなく、あの現象は雲の中。
この日も山へ行ったが、あるのは雲に覆われた闇と灰の空。そこは寂れていた。
「はあー……」
やっぱり夢だったんじゃないだろうか。
夢想感が星蓮をまさぐりまわる。霧が姿を消し去るようにあの日が薄れていく気がした。
異国の少女。
あの日の月みたいな美しい女の子。
白銀に青を纏った髪に自然豊かな空を彷彿させる瑠璃色の瞳。
どれもが人間離れした美貌である。これほどの色を持ち合わせた者がこの世界、日本然り外国にいるだろうか。
否である。
――異端の美。
彼女ほどの人を星蓮は知らない。
そして何より言葉が通じた。音が同じだった。でも、日本も携帯もインターネットも知らない。日本語を話せるのに日本を知らないなんて、果たしてそんな人はいるだろうか。これも否である。
だから、不思議で不思議で仕方がない。でも、これが夢だと言われれば納得もいく。淡い妄想であったのか、幻想を目視していたのか。
星蓮にはそれすらもわからない。
ただ、あの涙がそれを許さない。
誓いを示した。手を握りしめた。彼女を助けると言い張った。
なら、その全てを自らが否定してどうする。
そんなこと絶対に、何より星蓮自身が許さない。
だから、もう一度だけ会いたかった。
彼女の存在を認識したい。夢じゃないと証明したい。
だって、楽しかったから。笑い合い、交わし合い、繋ぎ合った。
だから、忘れぬようずっと思い出して刻み込んでいた。
胸に願いに記憶に。
「お前大丈夫か?最近変だぞ」
「え?あ、ああ。大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
龍也の声音が案外優しかったことに大分と心配をかけていることがわかる。
あれから三日が経ち、三日間の星蓮は酷いものだった。
集中は全くできておらず意識がずっとここに在らずの状態。龍也が話しかけても空返事ばかり。授業のノートも碌に取っておらず、その事にも気づいていない始末。会話という会話が成立できないほど星蓮の心はどこか遠くにあった。
次の日には突然自然現象の本を読み漁りだして思わず救急車を呼ぶべきか仄華と話し合ったりもした。
でも、星蓮が何か必死になっているのが手に取るようにわかり、龍也と仄華は見守る事にした。それが吉と出るか凶と出るか今日までわからずじまい。
そして、今日。星蓮の様子が一段とおかしいことに長年一緒にいる龍也には手に取るようにわかる。星蓮の顔に曇りが増していることに。悲しみや悲壮、後悔といったネガティブな思想が取りついているようにも見えて、気が気じゃない。
何でもない日ならこんなに心配にならないけれど、星蓮に変化が現れた日があの日‥‥‥星蓮の姉……柚木桜良がいなくなった日の次の日であったからだ。
「この後ちょっといいか?」
龍也の声が真剣であることに星蓮は気づいて思わず頷いてしまう。
「じゃあ、放課後あそこで」
それだけ言い残して自分の席へ戻っていった。その背中がやけに大人びえて見えた。
龍也との待ち合わせ場所に行くと彼はポケットに左手を突っ込みながら右手でコーヒーを啜っていた。
その人はモデルのようなイケメン、当然のことながら彼、龍也である。もともと顔も整っており、スタイルもいいので、喋らなければイケメンの一言に限る。数多の女子からの告白を蹴り飛ばした男。
本人曰く「好きは純真であるべき」だそうだ。
つまるところ、龍也が好きじゃなかったそれ以外にないわけである。
星蓮がここに呼ばれた理由も、自分が来た意味もわかっている。
星蓮は寒い空の下、龍也のもとへ歩いていく。龍也は星蓮に気付き左ポケットから缶コーヒーを取り出してそれをほり投げた。慌ててキャッチする星蓮に龍也は笑う。
「早かったな」
「なんで置いていくんだよ」
「青春って言えば待ち合わせだろ」
「男とやっても意味ねえよ」
「違いねー」
龍也はけらけら笑ってコーヒーを一口。星蓮もつられるように口を付けた。暖かな苦みが口全身を覆う。星蓮は龍也が腰かけているブランコの塀の前で立ち止まる。
「ここ、覚えてるか?」
ふと、龍也が零した。
「……忘れるわけ、ない」
彼らがいるこことは小さな公園である。遊具はブランコと鉄棒しかないなんとも変哲な公園。
そして、ここは星蓮と龍也が初めて出会ったところでもあり、柚木桜良と最後に言葉を交わした場所でもある。
最後の言葉にはあわりにそぐわなく、しかし、今思えば確かな遺言にも似た言葉だった。
それを知っているのは、その場にいた実の弟の星蓮ともう一人、同じくその場にいた彼、龍也だ。
ここは出会いと別れが入れ混じった過去。
だから、ここに来るという事はそう言うことなのだ。
「さて、話を聞かせてくれ」
真剣な眼差しが逃がさないと暗に言っている。星蓮は一つ息を吐いて彼を見た。深く深く彼を視た。
だから、わかる。それ以上に気付いている。彼の優しさが尊い、と。
「わかった。……今から話すよ」
これから語るのはあの夜の不思議な物語。
本当は話したくない。星蓮だけの秘密であり、初めての新しい出会いであったから。
バラの下でずっといたかった。
でも、バラの棘には敵わなかった。
悩んで考えて悲しくなって恋しくなって。そんな棘を彼が抜いてくれようとしてくれている。痛くないように日常を取り戻せるように。
でも、対価としてバラの下から出ろ、と。陽を浴びろ。空を見ろと言ってきたのだ。
本当に敵わないし、誇りに思う。
今も昔も頼ってばかりで気づいてもらって、手を差し伸べてくれるのはいつも彼で。
だから、星蓮は龍也を信じる。
龍也は星蓮を助ける。
対等でもなんでもない。今ばかりの気持ちと信頼の果ての友情に。
手を伸ばした。手を取った。それだけに過ぎないのかもしれない。それでも、彼らの手は温もりに染まっていた。
龍也は静かに耳を澄ませる。星蓮はあの日を思い浮かべては言葉を探す。
彼の声を気持ちを聞き逃さないように。彼にありのままを正しく伝えるように。
静寂を美しい物語の一ページが象る。
月が白銀に少しの青を纏っていた。
そこにいたのは伸ばしっぱなしにした長い髪の男の子だった。
小学四年生くらいで多分俺と同じくらいで、公園のブランコに座っている。
この公園には遊具がほとんどなく、ブランコと鉄棒だけで小さな砂場がポツンとある。
遊んでいないのにブランコに座ってるから不思議で仕方なく、「お前、なにしてんの?」たまらず声をかけた。
顔を上げて俺を見る眼が鋭くて無感情に感じた。そいつは俺の顔をまじまじ見てそっぽを向く。
「……別に」
素っ気なかった。
このときの第一印象は暗そうな奴。
笑わなそうでいつもつまんない顔をしてる、そんな風に見えた。
だから、「暇なら俺と遊ぼうぜ」ってにこっと笑いかける。でも、そいつは表情をなに一つ変えない。
それどころか、「お前誰だ?」と訝しむ。
子供ながら人を寄せつけようとしない姿勢に戸惑った。
それは獰猛な野生の猫みたく、爪を常に隠しているかのようにも見える。
「……俺は龍也!」
名前を名乗って笑いかける。大体の人はこちらが笑えば不愛想にでも笑い返してくれるものだ。
それを俺は常識だと思っていた。だから、びっくりした。仰天とまではいかずとも、それに近い感情を抱いた。
俺を見てそいつは笑いもせず、「そう……、」と空を仰いだのだ。どうでもいい、無感情がひしひしと伝わってくる。
たまらず「お前は?」と少し威圧的に聞いた。
そいつはぼんやりと俺を見て、ため息を吐いた。
俺の険しい表情に諦めを成したのか、少年は何も言わずそっと息を白くする。春の終わりを告げる夕風は少し白い息を連れ去る。
「…………星蓮」
少年は星蓮と名乗ってそのまま帰っていった。
外国人みたいな名前に俺はかっこいいと心底憧れた。後に聞けば嫌で仕方がなかったと言う。
その日、星蓮と龍也は出会った。
偶然の出会いだった。
次の日から星蓮に会いに毎日公園に行った。それはちょっとした気まぐれだったけど、不愛想だったり、自由だったりと見たことのない人間味に俺は興味をそそられていたのだ。
星蓮を見つけて手を振ると露骨に嫌そうな顔する。
「よっす。お前毎日ここにいるのか?」
「…………なんで来んだよ」
「いいだろ。それでいつもいるのか?」
星蓮渋々といった風に頷く。
「学校は?」
「…………行ってない」
「なんだ不登校か?」
「ちげえーよ、ばか」
「お前口悪いな」
俺はへらへら笑って見せるが、そんな俺を星蓮はイラつきの眼差しを向けてきた。
「嫌ならここに来るな。帰れ」
「俺は心配してるだけー」
「……心配?」
「そう。口が悪いとみんなから虐められるし友達もできないだろ。だから、お前の将来を心配してあげてるってわけ」
善意とか見返りとか高尚だからとかそんなんじゃない。
ただ、星蓮が心配だった。それ以外に何もない。子供ながらに学校に行っていない境遇にいたたまりを覚えた。だから、善意とかでもあったかもしれない。でも、やっぱりこれはただ手を伸ばしただけに過ぎないものだった。
星蓮は俺をしばらく見た後視線を前に戻してこう言った。
「馬鹿みたい」
真顔だけど口元がほんの少し目を凝らさないと見逃すような微々に綻んでいた。俺は見逃さなかった。
だって、俺は友達になりたかったから。
それから毎日毎日星蓮に話しかけた。
「よう。今日も暇そうだな」
「うるせー」
「学校いつ行くんだ?」
「…………明後日から」
「楽しいといいな」
「どっちでもいい」
「友達つくれよ!」
「別にいらねー……」
雨の日——
「雨でもいんだな」
「雨は好きだ」
「なんで?」
「……嫌な気持ちを洗い流してくれるから」
「ふーん」
雪の日——
「雪だるま作ろっぜ」
「嫌。寒い」
「お前、ほんと子供らしくないな」
「どうでもいい。雪なんて冷たいだけ。見る方が好き」
「えー!楽しいのに!雪合戦とか雪だるまとか鎌倉とか」
「お前は子供だな」
へっ馬鹿にするように笑う。
「俺はまだ子供だからいいんだよ!」
俺の叫びに星蓮は馬鹿にするようにまた笑った。
星蓮が笑うことが多くなってきていた。
学校の日——
「学校どうだった?」
「……別に。退屈だった」
「友達はできたか?」
星蓮は無言で首を横に振る。
「別に友達とか、いらない。ただ……」
空を仰いで目を細める。
まるで、ここではないどこかを見つめているかのよう。
静かな呼吸が風に乗る。長い髪が揺れて、眼を隠した。だから、わからなかった。表情が感情が悲愴感も少しの懇願も。
「————でいて、ほしかった」
蛍のような今にも消えそうな灯火の呟きは蒼に吸い込まれた。
それでも、俺には聴こえた。
曖昧でも確かな呟きが鼓膜を震わせた。幻視でも幻聴でも幻想でもない。儚く脆い、でま確かな希望と叶わぬ焦がれがあった。
俺には見えた。聞こえた。でも、何もできなかった。言葉が見つからず、接し方がわからず、触れ合い方もわからない。
この時の俺はあまりに幼く、力も知力もなかった。伝えるべき言葉も手の握り方も馬鹿に気を紛らわすことも、何もできない。
だから、この日誓った。
彼の助けになりたいと。彼を支えたいと。
困っていたら手を差し伸ばし、悩んでいたら耳を傾けたい。
友達に俺を真っ先に思い浮かべて欲しい。
願うは友。祈るは繋がり。
俺は眼を瞑って懇願した。
そういうものが、確かなものが欲しい、と。
彼の親友になりたいと。
長い長い沈黙が夜の始まりを告げていた。