三話 ユリと蓮
ずっとずっと覚えている。あの日誓った約束を。あの日願った祈りの囁きを。遠く遠く忘れるより遥か遠くに。
貴方がいた日々がかけがえのない大切なものだった。貴方が包んでくれた温もりが私の心だった。
だから、今もこれからも忘れない。
傷ついても、苦しんでも、悲しんでも、死にたくなっても忘れない。
貴方との軌跡を言葉を気持ちを——
この気持ちを言葉にするならば——
「——————————————————————」
*
白銀に青を纏った銀水の髪は天の川のように長く清らかに流れる。
瑠璃色の瞳はリゲルのようでどこまでも綺麗の一言で青に染まっていた。
紺のローブから絹のような艶やかな白肌が覗く。
そんな神秘的な少女がそこにいた。
正確には現れた。
星蓮は少女に眼を奪われている。
可憐を絵に描いたような十六歳くらいの麗しき少女だった。美しかった。目移りしない星蓮が眼を奪われる程に、それはまるで今宵の月のように。
お互いを見つめ合うこと数秒。しかし、それは永遠にも思える一瞬だった。
驚きによる硬直が先に溶けたのは少女の方だった。
「――貴方はだれ?」
強い警戒心が声と眼に宿らせ膝を少しだけ曲げ、視線は周りを漂わせている。逃げる準備に他ならない。
そんな少女の姿を見て、星蓮も少しの警戒と平静さを装う。
何がなんだかわからない。
先ほどまで星蓮だけだった山頂に不思議な現象が起きて、目の前に少女が現れたのだから、頭が痛くなるし混乱もする。
だから、自分の声とは思えない小高い声音が出た。
「……あ、うん、俺は星蓮……君は?」
「セレン?知らない名前ね。……私はユリス」
それはまるで違う世界の言葉のように感じた。
ユリスと名乗る少女はセレンをじ——と穴が開くほど凝視し始める。
(え……?なに?なんなの?)
困惑するセレンににべもくれずユリスは曲げていた膝を元に戻す。
「危ない人では、なさそうね」
「危ない人?」
「そう。偶にいるのよ。人襲う蛮人が」
それはまるで、経験談のように聞こえて戦慄く。
そんな中、またユリスがセレンをキッ—と睨んだ。びくっと肩を震わす。
猫と見るには些か見るに足りなく、狐と見る方が表現的に等しい。
狐……じゃなくてユリスは周りを見渡して眉間を細める。
「で、ここはどこなの?貴方は私に何をしたの?」
戒めるように威圧する声音に声が喉に引っかえる。
「な、なにって?」
なんのことだかさっぱりわからない。
あの光の現象のことだろうか?それとももっと別の事だろうか?恐る恐る聞き返す。
「とぼけても無駄よ。ここ、私がいた所と違うもの。貴方が私に何かしなきゃこんな一瞬で私を移動させるなんて無理よ!さあ白状しなさい!そして、私を中立国へ返すのよ!」
彼女はセレンに指を刺した。
ユリスは冷静にこの現象を捉えていた。
見たことのない容姿、もといい黒の髪と闇夜の瞳。
ユリスはこれまでの人生でそんな容姿を持ち合わした人に出会ったことがない。
出会ったことのある人は白とか赤とか緑とか紫色の髪であり、黒の髪を持つ種族がいるだなんて見たことも聞いたこともない。言い伝えに在るくらいだ。
そしてなにより、ユリスのいた場所と違う場所。
(確かに霊園で祈りを捧げていたはずなのに……。気づいたら彼が目の前にいて……で、知らない場所で……意味わからないわ。……けど)
この時ユリスの頭は限界に達するほどの混乱に陥っていなかった。この不可思議と不可解な出来事は彼が起こしたに違いない。
それがユリスが辿り着いた答えだったのだ。
(際詰め、魔法でも使ったのでしょう。私も気づかなかったなんてバカね)
自らの失態を受け入れ、今この場所でどう動くべきか頭を巡らせる。
(彼を見る限り悪事ではなさそうだし……悪人でもなさそうね。魔法の失敗かしら?)
ユリスから見るセレンは凡人を色づけたように認識する人だった。
(顔も悪くないし、身長は私より少し上かな。見たこともない服を着ているけど武器はなにも持っていなさそうね。……ちょっと細いけど体格はいいわね……ってそれは違うわ!!)
乙女を発揮するユリスは違うことを考えながらも、魔法の失敗と思われる異常事態により、知らない場所で知らない彼が敵なのか、目ざとく観察していた。
自分に危害をもたらすのか、否か。
相手の真意はなんなのか。
その答えが魔法による失態の巻き込まれである。
ユリスの考えはここで完結した。
そこまで深く考えずに結論導く。ユリスは冷静だった。傍から見ても己で見ても冷静沈着。加えて頭もよかった。
しかし、自分にもわかりえない心の深くにそれはあった。混乱が少しの恐怖が胸のずっとずっと奥深くで疼いていた。
それはほんの少しの傷みたいに。
だから、ユリスは判断力、思考力が知らず知らずに落ちていたのだ。でも、そのことに気付かない。それが良くなかった。
世界はいつだって不思議で不明瞭なのだから。
彼女も彼も世界を知らなかった。
ただそれだけ。
セレンと名乗った彼が恐る恐る口を開く。
(やっと白状する気になったのね。良いことよ)
ユリスは顔には出さないよう不敵な笑みを内で零した。しかし、ユリスの想像とは違うことがセレンの口から吐き出された。
「……ここは、日本だ」
(……日本?聞かない国ね)
「それはどの方角にある国なのよ?」
「えっえぇーっ……と……」
セレンはどう答えたらよいのか分からないといって風に気まずげに髪をいじる。
「どうしたのよ?はっきり言いなさいよ」
「非常に言いにくいいだけど……」
彼は一度そこで口を閉ざし、眼を彷徨わせた後、意を決してユリスの眼のずっと奥を見据えた。そして言い張った。
「多分だけど……この世界に中立国っていう国はない」
(…………え?……ない?なにが……?私の住んでいた国が……?)
「ふぇ?……え?」
混乱が限界に達したユリスの語彙力は力も何もない捻りだした呟きだけ。
「俺も全くわからないけど……君はどこから来たんだ?」
どこからって、あなたが魔法の失敗で――
そんな言葉が出かけたその時。
彼の一言が混乱というあらゆる混乱になりユリスの脳を停止させた。
「君がどこから来たのかは、俺は知らない」
彼は、セレンは申し訳なさそうに頬をかく。
「え、えぇえええええええ——っ⁉」
後に残るのは、悲鳴にも似たユリスの断末魔が月夜に響き渡った。
ユリスと名乗る少女の驚愕の叫び声が山の麓を轟かせていた。
「えっ⁉︎嘘でしょ⁉︎嘘よねっ⁉︎私をだまそうとしているのでしょっ⁉︎」
「してないし嘘も言ってない」
セレンに詰め寄ってくるユリスからに全力をもって身体を逸らす。
ユリスの顔がすぐ目の前にきて、興奮した息遣いが鼻に当たる。瑠璃色の瞳が懇願よりも睨む猫の勢い。
(近いって!近い近いぃぃ――⁉︎)
理性を保つのも難しくなるくらいの甘い匂い。
(なんで、こんないい匂いすんだよ⁉︎)
嘆いたところで意味はない。
「ううう、嘘に決まってるわ⁉︎そうなんでしょ!嘘なんでしょ!……嘘って言って⁉︎お願いっ!」
「ちょっと、落ち着いて」
ユリスは面白いくらいにテンパる。
クールな印象の時よりも今の方が本当なんだろうか。
ユリスの肩を掴んで距離を離す。
「ちょっと落ち着いて!ねぇ!」
再度落ち着くように促すが、ユリスは落ち着く様子が一向に見えない。
「お、おお落ち着けるわけないわよ!こんな状況意味わからないわ!」
「それは俺も同じだから!だから、一旦落ち着けって!」
「だからー落ち着いてる場合じゃないのよ⁉それとも貴方が何とかしてくれるの⁉」
「い、いや……」
言い淀むセレンにユリスは睨みのギアを上げる。
「うっ……」
言い返す言葉が出てこない。慌てて効率重視で確実な結果を示せる答えを提示しなければ。
などと思考を回してい間に、ユリスが歩き始めた。
「えっ?ちょ、ちょっとどこに?」
慌てて追いかける。騎士のような堂々とした歩みは止まることを知らない。
「ここが本当に私の住んでいる国じゃないのか、この目で確かめるのよ!」
そう言ってユリスが向かう先はこの山の麓の出口。
「ちょっと待てって!」
手を伸ばして止めようとしたが、それよりも先にユリスが階段を降りようと足を踏み出した。
その時、鏡のように光が反射した。
それと同時に幾何学的な模様が薄く浮かび上がったのが見え……次の瞬間、足を踏み込んだはずのユリスが吹き飛ばされていた。
「…………ぇっ……?」
何が起こったのかわからないユリスはなされるままに後ろへ跳ね返る。反動によって身体は半反転してセレンと目が合った。
意味もわからず立ち尽くすセレンに向かって跳んでくるユリスの流れが時間が止まった錯覚すら与える。
「……え」
突然迫りくるユリスにセレンは唖然と何もできない。
セレンとユリスがぶつかるその一瞬、しかし、セレンは反射的に腕を広げて受け止めようと一歩踏み出した。
それは奇跡に近い行いであった。
突然の反撃に対する反射は時に全てを救う力でもある。だとすれば、そんな凄い力をこの土壇場で披露して見せるセレンに救えないものなどない‥‥‥はずだった。
けれど、セレンはただの人間であり、思考も受け止める準備を出来ていない。
それはただのまぐれ。ならばこの先の結果などおのずと見えてくる。
セレンは華奢なユリスを両腕いっぱいに抱きしめて、そして後ろの盛大に倒れ込んだ。
「うわあっ!」
「きゃっ!」
何とかユリスを地面に付かないように懸命に上向きになる。それは誇るべきことであり男としての使命でもあった。
「いたたーっ」
背中全体の打撲が骨と肉をきしませる。痛みに耐えて顔を起こそうとして意識を全身に巡らせる。
胸の中に温かさが巡回する。
鼓膜を震わす吐息が燻り、柔らかな肢体はなめまわしく、柔らかな双丘が胸板に押し付けられる。その全ての色気たる美体を抱きしめていることに。甘く澄んだ色づく匂いが全身を駆け巡る。
セレンの頭脳は今までにないほどの混乱ののち思考が停止した。頭の中が真っ白になっていく。
(……これは‥‥‥ぇ……?なに……?へっ……?)
そして次の瞬間全てが覚醒した。
それは意味もわからず右手に力を入れたことが原因。右手を身体を掴むように優しくでも少し力を入れて握り閉めようとした。それは柔らかな感触だった。今までに感じたことのない柔らかさにもう一度揉んだ。
「ひゃっっ⁉」
身体の中に包んでいた人物から少しなまなましい女の子の声が漏れた。
恐る恐る胸の中のユリスを覗くと顔を真っ赤にした銀鱗の硝子、ユリスがセレンを猛烈に睨んでいた。そしてぎこちなく右手がなにに触れているのかを確認する。
それは‥‥‥下半身にある至高の球体であった。
すなわちお尻である。引き締まった丸く清らかなお尻をスカートの上から無遠慮にセレンの手が接触して掴んでいる。
「あっ‥‥‥」
瞬時に手を退けるが、冷汗が全身に流れ、先ほどまで暖かかった温度が一気に冷感に襲われる。
セレンの胸もとで恥ずかしさに顔を赤らめわなわなと震えながら睨み続けるユリス。
彼女はゆっくりと体を起こして座り込むセレンを見下す。
その険相は忘れることはないだろう。怒りが噴火直前のように膨れ上がっていた。
「いや、ちょっ、待ってくれ!こ、これは事故だ!俺は無罪だ⁉」
必死に弁解するセレンに無慈悲な笑顔が向けられた。
「ダメよ」ニコリ。
次の瞬間、セレンは死を覚悟して体を起こして逃げようと走る姿勢になる。しかし、逃げれることなどなく立ち上がって足を踏み出したその一瞬、ユリスは右手を開けセレンに向ける。そして詠唱が絶望を招えた。
「【エアリエル】——ッ⁉」
次の瞬間爆風が起こった。全てを消し飛ばすような風の怒りがユリスの周り一面を吹き飛ばす。
例に違わずセレンも吹き飛ばされていく。
「うわぁああああああああああああ——っ⁉」
絶叫が夜空に響き渡った。
暴風によって天高く打ち上げられたセレンは視界の反転前転回転後転によって見れも見れぬほどのブレが襲う。
そのままある一定の宙場で身体が一瞬時を止めた。刹那、セレンはまたしても絶叫を上げて落下。
「ぎゃぁああああああああああああ——っ⁉」
ただの人間であるセレンがこのまま地面に叩きつけられたら死は免れない。
しかし、風によって身体の位置は木々が生える茂みへと変わり、急降下するセレンは枝木に次々と引っかかりながら勢いを殺して茂みに背中から激突した。
「ぐえぇっ……」
衝撃が身体全体に轟いてセレンの意識は白昼へと消えていった。